(序)信仰を崩そうとするサタンとの戦いの人生
* ダビデの信仰の特徴は、彼の霊の目が開かれていたから、神からの働きかけを受けとめることができるものであったのです。その信仰体験を基にした信仰によって、神の偉大さ、あわれみ深さ、恵み深さを味わった者としての告白信仰に立ったものであったと見てきました。
* しかし、それでダビデの信仰が完璧であったというのではなく、自分の愚かさや不信仰さを見せつけられたりした時に心が揺らいだり、落ち込んだりしたこともあったと考えられますが、すぐに信仰に立ち帰るように導かれており、信仰生涯全体として、神の目には、主に対する信仰が揺るがなかった人であったと言えます。
* そのことから考えますと、信仰者は、神との深い結びつきが与えられて、神を喜び、神と共に歩く信仰人生の素晴らしさを味わいながら、主に従う道を歩き続けたいと考えて歩むのですが、この地上に置かれているが故に、その歩みを妨げ、踏みつけようとする勢力が地上にあって、あらゆる働きかけをなし、信仰の歩みをつぶそうと仕掛けてくる中にあるという事実に、戦いを覚えさせられるのです。
* ダビデにとっての戦いは、命を奪い取り、陰府に引き落とそうとする強力な敵がたえず現れ、信仰を持って歩む姿をあざ笑うかのように迫ってきていたのです。それは、「お前を守り助ける神など、何の援助にもならない」と思わせてこようとする信仰の戦いであったのです。
* 自分の人生を整え、育て,養い、導いて下さるお方がいて下さるという信仰に立った人の人生は、その生き方において、思い通りに行かないように働きかけ、失望させ、落胆させて、押しつぶそうとしてくるサタンとの戦いの人生であると言えます。
* パウロもこう言っています。「わたしたちの戦いは、血肉(人間)に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者(サタン)、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12 新307)と。
* 見える形においての戦いは、人間であったり、悪い状況であったり、病気であったりするのですが、その背後でサタンや悪霊が、それらを用いて迫っているので、サタンとの戦いの人生であることを認識していなさいと言っているのです。
* ダビデが、どこまでサタンの存在を認識していたか定かではありませんが、主を信頼して歩もうとする私の生き方を妨害したり、崩そうとしたりする様々な敵との戦いは、信仰の戦いだと受けとめていたと考えられます。
* 主が、私の叫びを聞いて下さったと確信して歩んでいたダビデは、主は、私の信仰人生を大事に思い、責任を持って導いて下さると信じていたので、すぐに結果が見えなくても、主が助けて下さらないはずがないと信じて向かい続けたのです。
* 前回の所では、神による直接介入の働きかけがあったことを、特異な自然現象を用いて比喩的に言い表し、大事に思ってくれる自分のために、どのように臨んで下さったかを歌ってきました。
* 今日の所では、神から見れば、それがどのような介入となるのかを、神の御心を受けとめて歌っています。その内容をご一緒に見ていくことにしましょう。
(1)大水から助け出して下さる神の働きかけ
* 16節では、主は高い所から御手を伸べてわたしを捉え、大水から私を引き上げて下さったと言っています。御手という言葉は、翻訳上で補足された言葉であって原文にはありませんが、あってもなくても同じ意味になります。それは大水のような激しく襲い掛かる強力な勢力の前に、全く抵抗できない状態にある私を見て、主は高い所から私を引き上げ、捉えて、救い出して下さったと歌っているのです。
* 17節も同様の内容を、別の表現で繰り返しています。ここでは、強力な勢力というだけではなく、私を憎む者の手から助け出して下さったということで、それは国同士の戦いにおける危険について記しているのではなく、ダビデ個人に対して憎しみ、あるいは妬みを覚え、強力な力をもって襲い掛かっていた集団があったことを指しているのだと考えられます。
* このことが、ダビデが王となる前のことか、後のことか、これだけでは全く判断できませんが、神の祝福を受けて歩んでいるダビデを見て、憎み、妬んでいた人たちがいたのでしょう。
* 信仰者は、信仰を持っていない人の目から見ればどのように映っているかと言えば、目に見えない、頼りにならないと見える神を本気で信じて、いかにも本当の助けと守りを頂いているかのように平安を得て歩んでいる姿を見る時、彼らの目には異様に映るだけではなく、信用し難く、そう思いたいと思っているだけではないかと見ているのです。そうでなければその人も信じるはずです。
* それ故、信仰者に対して敵視し、襲いかかろうとしている人たちは、そのような信仰者が腹立たしく思え、神などいないことを認めさせてやろうと仕掛けてくる人たちがいるのです。
* そのように敵視している人たちは、信仰者に敵対しようとしているのではなく、神を敵視し、彼らの信じる神など、何の助けにもならないことを思い知らせてやろうとするのです。力ある神が本当におられて、彼らの味方としてついていると思ったら、敵視することなどできません。
* 他方、信仰を持っていない国々の人たちの中にも、神の偉大さを認める人たちもいたことが記されていますが、神によって、自分たちが滅ぼされないように、イスラエルの人々を騙して、殺さないと誓約させたという記事がヨシュア記9章(旧312)に記されています。
* この時の、ダビデに敵対する人々は、ダビデに神が味方しておられるということを認めようとせず、数の力、戦力を誇って、力によって押さえ込もうとし、滅ぼそうと襲いかかってきたのです。
* ダビデにとっては、それは最悪の状況に追い込まれており、災いの日と呼ぶしかない形勢不利な状態に追い込まれ、お手上げ状態でありましたが、主は驚くべき御力をもってそこから取り出し、広い所、すなわちここでは、安全な所を意味するのでしょう。そこに連れ出して助け出し、私の支えとなって下さったお方であることを歌っています。
* それは、具体的にどのような働きかけを指しているのか、この表現だけでは明確ではありません。ここでも他の事例を見てみますと、ロトとその家族に襲いかかろうとしていたソドムの人たちに対して、天使たちが一時的に彼らの目を打ってくらませ、逃れることができるようにされたという事例が記されていますが、(創世記19:11 旧21)このようなことをダビデも経験したのでしょう。
* 今日の私たちの信仰者を支えられるために、神が人々の目や思いをくらまされ、襲い掛かろうとする働きかけから逃れさせて頂き、このようにして守られたのだと思わされることがあります。これらは、すべて安全な所に逃れさせて下さる神の直接介入だと考えて差し支えないでしょう。もちろん、それを見る霊の目が開かれていないなら、その働きかけに気づかないで終わってしまうのですが…。
(2)義なる者に、休息をもって報いられる
* ダビデは、主がこのような形で私を救い出し、私の支えとなって下さったのは、私が正しく、きよい生き方をし、主の前に欠けた所がなく、罪を犯さなかったから、その褒美として私に報い返して下さったのだと言って、いかにも自分の正しさを誇り、主張している傲慢な律法学者のような言い分に感じるのですが、ダビデは、そのような思いで歌ったとは考えられません。
* なぜなら、自分が罪を犯さない完璧な人間であったと思っていたわけではなく、自分は全く欠けのないきよい人間だと思っていたとは考えられません。それではどうして、このような誤解されやすい表現を使って歌ったのか考えて見なければならないでしょう。
* ここでダビデが示そうとしてきたことは、敵が「お前が信じる神など全く頼りにならない、神が守ってくれると信じているお前を、私の力をもって押しつぶしてやる」と襲い掛かっていた状況の中にあって、私は厳しい現状にあっても、あなたを疑わず、失望せず、救い出して下さると信じ切っていたから、そんな私を、主は喜びとされ、その働きかけを惜しまれなかったという19節の後半の言葉が、ダビデの信仰として示されているのです。
* 20節からの内容は、その説明だと言っていいでしょう。主が、私を見て喜びとされたというのは、戦いつつも主によりすがり、叫びつつも主を離さなかった。そんなこの私の姿を見て、神は義と認めて下さったと言っているのです。
* それはあたかも、アブラハムが、跡継ぎがない状態が長く続く中で、主は一体どのようにして下さるのかと先行き不安を覚え、思いの中で戦いつつも、何の確証も与えられないまま「天の星を示し、あなたの子孫はあのようになる」(創世記15:5)と言われたお言葉をそのまま信じたことを、彼の義と認められたと言われたようなものです。
* それ故、ここで歌っている「正しい」という表現は、倫理的、道徳的な意味ではなく、神との深い結びつきを何よりも大事にしたという正しさ、それを神は義と認定して下さったと言うのです。
* すなわち、神との関係における表現として見ると、ダビデが、決して自らの正しさを誇示したのではなく、自分にとっては、神との結びつきよりも大事なものを持たなかったとの確信から出た告白だったのです。
* 同様に「手のきよさ」という表現も、神との関係における表現だと見ると、言動において罪を犯したことのないきよさのことを言っているのではなく、神以外のものに頼ろうとしないという信仰的節操を保ったという確信から出た告白だったと言えます。
* 人は、見えない神とその働きかけに思いが満たされないと、見える偶像や自分に頼ろうとする肉の心が湧き出てこようとします。ダビデにとっては、神以外に力ある存在はないと信じていたし、頼るべきお方は神だけであるという、他の偶像に心を向けない信仰的節操を大事にしていたのです。
* それを21節、22節では、神から離れず、神に背くことはなかった。更に神の戒め、定め、すなわち御言葉を何よりも重んじて歩んできたとの確信がありました。これがダビデのきよさでありました。
* そのような、ご自身の前に立つ義なる者のために、主は必ず報いて下さるとダビデは信じてきたのです。このことが重要だと思っていたダビデは、24節でも繰り返して歌っています。
* 現に困難や、災いの中から救い上げ、助け出して下さったことを体験してきた事実を思い浮かべ、主の報いが、信じる者にとって、この地上において歩むためには、なくてはならない唯一の拠り所だと受けとめてきたのです。更に25節からの所でも、そのことが詳しく歌われるのですが、それは次回に見ていくことにしましょう。
* パウロは、「あなたがたを悩ます者には、患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、私たちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいこと」だと言いました。
* 不義なる者には悪をもって報い、義なる者には善をもって報い、真の休息を与えて下さると言っているのです。(Uテサロニケ1:6 新324)なぜなら神は、人のそれぞれのしわざに応じて報いられるお方だからです。(黙示22:12)
(3)導き入れられた主の道を守ること
* このようにしてダビデは、主が報いて下さるという信仰を揺るがさなかったので、即座に救いの手、助けの手が見えなくても、信じて待つことができたのです。そんな彼が、大事にし続けてきたことは、導き入れられた主の道に歩むことを、守り続けることが、自分に与えられたわざであることを理解したのです。
* 彼が受けとめていた主の道とはどんなものだったのでしょうか。21節の後半の表現から考えて見ますと、悪意をもって神から離れない歩みであることが分かります。新共同訳ではこれを「わたしの神に背かない」と訳しています。
* 原文では、「神に対して悪を行なわない」とありますから、神から心が離れたり、他の方に向いて、神に背いたりすることが、神に悪を行なうことですから、主の道を守るとは、主を見上げ、主によりすがり、主が共にして下さることを信じて、与えられた人生に主がすべてかかわって下さり、責任をもって導いて下さっていることを信じて歩む道であることが分かります。
* けれども、主との深い結びつきを頂いて歩む道だというだけではなく、主によって強くされていく道であることを知っていなければなりません。
* 敵を恐れず、状況を恐れず、困難を恐れず、人を恐れず、主が、この弱い私の味方となって、私を強くして下さっていると信じて歩む道、この2つの面が主の道にとって大事なことなのです。
* ここでも、パウロは、次のように言っています。「わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、自分の弱さを知り抜いていたパウロが、(Uコリント12:5)主はこの私を強くして下さったと信じて前進していたのです。
* この強さとは、自分を拠り所としたものではなく、最強の神を拠り所としたものですから、崩れることは決してありません。ダビデも、主の道から逸れない歩みをしたことによって、どんな困難や、どんな敵に対しても恐れることなく、強くされて歩んだ人であったのです。
* 22節の表現をよく観察しますと、主の道を歩いたとか、主の道を逸れなかったと言わず、主の道を守ったと言っています。ここに大事なポイントがあると感じるのです。
* 主の道は、この道さえ歩けば、主との深い結びつきを頂くことができ、主の力によって強くされながら歩んでいくことができる道だと言っているのですが、その道は、肉の心を持った人間にとっては歩きやすい道ではないのです。
* サタンがうごめいているこの地上において生きるように示された主の道は、あらゆる障害、妨害、困難が待ち構えていると予想される道であり、ともすれば、避けたくなるようなことも起きてくるのです。
* その主の道を守るとは、何が襲い掛かってこようと、その道を貫く強い意志を表していくことが守るという言葉で表現されているのです。
* ダビデは、どのようにして主の道を守ったか、ここには何も記されてはいませんから、神から離れることのない歩みを大事にしたのだと推測するしかできません。神を前に置き、御言葉を前に置いた向かい方をするという信仰的努力をしていくことによって守ったのでしょう。
(結び)サタンとの戦いに負けない者
* ダビデの信仰人生は、戦いの連続でありました。この地上に置かれている私たちの信仰人生も、サタンとの戦いの連続であると言えるでしょう。それ故必要なのは、主の道を守り通そうとする信仰的意志と、それを崩して引き落とそうとしてくるサタンとその勢力に対する戦いに向かうことであり、それが信仰に生きることなのです。
* 一人一人にとって、大水のように激しく襲い掛かる強力な勢力と感じるものは、すべて異なっているでしょう。ある人にとっては軽いと感じることでも、ある人にとっては重く感じることがあります。他の人との比較によって測るものではなく、自分にとって厳しいと思うものが大水だと言っていいでしょう。
* 信仰者の周りにいる人々が、信仰者の生き方を必ずしも温かく見守ってくれるわけではありません。ある時には嫌がられ、ある時には反発を感じられ、ある時は避けられます。主の道を守り通すためには、あらゆる障害、妨害、困難は避けられないと言えるでしょう。
* それでも、自分の人生にとって、神から心が離れ、神の御思いに逆らう生き方は、自ら自分の人生を滅びへと追いやっているようなものですから、それは、人間をやめることに等しいことです。
* 主の道を守るということが、人間として生きるためになくてはならない事柄だと知った私たち信仰者は、たとえそれを崩そうとしてくるサタンがいて、そのサタンと戦わなければならないとしても、それを甘んじて受け入れていかなければなりません。
* それを乗り越えていく方法は、神との深い結びつきを重んじているという一点によって、神は義人だと認定して下さり、神以外のものに頼ろうとしない信仰的節操を大事にしようとする一点によって、神は、手のきよい者だと認定して下さっていることを確信し、神は、そのような者に必ず報いて下さると信じる信仰によるしかないのです。
* 神は、時と場を判断して、必要な助けと守りと導きとを与えて下さる報いの神であることを信じていれば、その信仰によって、私たちを強くして下さり、サタンとの戦いに負けない者として下さるのです。