(序)自分の信仰に反映させていく読み方
* 前回、黙示録22:12の「神は人のそれぞれのしわざに応じて報いられるお方である」との言葉を引用しましたが、信仰者は、この真理をしっかりと心に刻んでおく必要があります。
* 信仰とか、信じるという言葉を使っても、人によっては異なっているという事実を知っていなければなりません。信仰とは、神と、この私との1対1の事柄でありますから、すべて諸条件が異なる一人一人の信仰形態は異なってくるのです。
* このことを理解していると、御言葉の読み方は変わってきます。聖書は、その時代に生きる人間と向き合って下さる神が描かれており、すべて、環境や状況や向かい方の違いだけではなく、性格も考え方も生き方も異なっています。その異なった人々と、神がどのように向き合われたかが、神のお言葉として伝えられているのです。
* 今回の所では、ダビデという、その時代の、特殊な状況下にあって神と向き合い、その時代に生きる一人の信仰者として、どのような信仰を表したのかを学んでいますが、このことを学ぶのは、決してダビデのような信仰を持つようにと、神が示しておられるからではありません。
* 分かりやすく言えば、ダビデであるから、ダビデとしての信仰を持って神と向き合ったのです。それでは、そこから私たちは何を学ぶ必要があるのでしょうか。何度も言いますが、ダビデの信仰ではなく、神がこの私に持つようにと導かれている信仰を学び取っていくことなのです。
* 時代も環境も状況も年齢も、あらゆる条件の違う中で、この私として神と向き合い、どのような信仰を表していくべきかを知るために、各時代に生きる人間と向き合って下さった神のお姿、御思い、その働きかけなどを正しく学び取って、変わることのない神に対する、この私の信仰へと書き換えることが必要なのです。
* この信仰的作業を手抜きする人は、聖書知識を持ってはいても、それがその人の信仰に反映されず、頭だけの信仰経験を望むのですが、それがかなえられず、神様は、私には働いて下さらないのかと思ったりするのです。
* 今日の箇所などは、この信仰的作業を手抜きすると、「戦い方を教えて下さり」とか、「戦いの武器を用いることができるようにして下さる」などというダビデの信仰から出た歌が、私たちには何の意味も持たず、敵の手から助けて下さった主と歌われていても、何にも感じる所がないのです。
* それでは、今も生きておられる神が、この私にどのように向き合って下さっているのか、この私としての信仰を持って神の御前に生きるために、ダビデの信仰から何を学び取り、自分の信仰に反映させていく必要があるのか、共に考えてみることにしましょう。
(1)信仰の分量を量られる神の量り
* 主の道を守り続けた信仰人生を歌った前回の箇所において、主の道を保持する者のためには、主は報いて下さるお方であることを確信して、主の助けと導きとを待ち望んだダビデの信仰を学びました。
* 報いて下さるというのは、何でも応えて下さるというのとは違います。人間の側の信仰に応じて、それにふさわしい応え方をして下さるという意味であります。これが分かっているようでいて分かっていないのです。
* 「神様、どうして応えて下さらないのですか」と叫んだとしましょう。今の状態が、今の私の信仰にふさわしい応え方をして下さっていることだとは、なかなか思えないのが信仰の難しさです。
* ともすれば、私を早く助けて下さることがあなたの責任ですと言わんばかりに要求することによって、私の信仰に応じて報いて下さる主を、どこかに追いやってしまっていることに気がついていないのです。
* このことがよく分かる事例を、イエス様の記事から見てみることにしましょう。マタイ9:27〜の所に、ふたりの盲人がイエス様の下にやってきて、「ダビデの子よ。わたしたちをあわれんで下さい」と信仰を持ってお願いしたのです。するとイエス様は、彼らに言われたのです。「わたしにそれができると信じるか」と。すると彼らは「信じます」と言いました。彼らの信仰がどれほどの報いを受けることができる信仰であるか、量られたのです。
* そこでイエス様は、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と目を触って言われたのです。すると盲人たちの目が、一瞬の内に開かれて見えるようになったと言うのです。
* しかし、彼らの信仰の分量はそこまでで、主のお言葉を何よりも重んじるという信仰ではなく、誰にも言わないようにと言われたのに、人々に言い広めたと記されています。
* 一人一人のその時の信仰の分量を見られ、それに応じて報いて下さるというのは、すべてのことをご存知であるお方だけがなし得ることなのです。
* ダビデは歌いました。真実な心で向かおうとする者に対しては、真実な者として対応され、何一つ欠けたところのない者に対しては、完全な者として対応され、自分をきよく保とうとする者に対しては、きよいお方として対応され、心が捻じ曲がった者に対しては、ひねくれた者のように対応されると。
* ダビデは、神は信仰者の信仰を映し出す鏡となられると受けとめたのです。鏡に対して、自分以上の良いものが映し出されることを求めても、無理な話です。その人の信仰のまましか鏡には写し出されないのです。
* 「あなたの信仰どおり、あなたの身になるように」。これはなんという厳しい対応でしょうか。私たちは、自分の信仰を自分でも信用しておらず、いい加減な、手抜きがあるものであることをよく知っています。そんな私たちの信仰に応じて報いられるのが主であるということは、気持ちがピリッとさせられます。
* 信仰の分量を量られる最も明確な神の基準は27節で歌われています。「苦しんでいる者を救い、高ぶる目を低くされる」と言うものです。苦しんでいるという言葉は、「悩んでいる」、「へりくだっている」、「弱い」という意味を持った言葉で、ここでは自分の弱さを認める者、神の前にへりくだる者のことを指していると考えられます。
* 一方、高ぶる目と言うのは、自分の力を過信し、傲慢な思いになっている者のことです。神の御前に傲慢な者は、信仰の分量がゼロで、神の最も嫌われる者のことであり、弱さを認めることが、神にすがることにつながり、あわれみに満ちた神は、飢え渇いている者として、その信仰を見られ、助け出して下さると言われているのです。
* これが、神の量りであることを詩篇138:6や箴言3:34などから引用したヤコブ4:6(新363)において、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」という神のお心が明確にされています。(Tペテロ5:5)
* ダビデは、自分の弱さを認識した時、神は私の状態を見てあわれんで下さり、助けて下さったと、体験上から、神のあわれみの御心を受けとめ、傲慢な者を引き落とされる神のみわざを見たのでしょう。信仰上での体験において、神の御心を理解し得たのは、彼の霊が鋭くされていたからでしょう。
(2)裏打ちされた信仰になっているか
* 自分の弱さを認識した、この私の信仰を見て、神はどのような働きかけをして下さったのか、ダビデはそれをいくつかの点によって示し、神の助けがいかにすごいものであり、そのお言葉の持つ真理の力がどれほどのものであったのか、言葉を尽くして歌っているのが、28節から36節までの内容です。
* これが6つの点に分けて歌われていますから、一つ一つを見ていくことにしましょう。第1は28節で、信仰の分量に応じて対応される神様は、ただ信仰の分量が十分かどうかを見ておられるというのではなく、その分量を増させようとして、2面からの働きかけをして下さるお方であると歌っているのです。
* 一面は、外なる事柄に対して、どう判断し、どう対処していくことが大事なのか。主の道を歩み、それを保とうとする者のために、その道を照らし導いて下さったと言っています。
* もちろん、ともしびは比喩的表現ですから、判断力、対処力に不足を感じていたダビデは、その時々に、その判断力を助け、対処力を助けて下さったと感じ取ったのです。
* 直接的な御声がいつも聞こえたわけではないでしょう。主が、判断を正しく導いて下さるように、求めつつ向かっていた時に、霊にひらめくものを感じたり、気づかされることがあったりして、それを神の導きとして受けとめて進んだのでしょう。
* もう一面は、内なる部分において、肉の思いが強く働いたり、気持ちが落ち込みやすくなったり、人を恐れたり、動揺しやすくなったり、人の内側には、サタンに狙われやすい闇の部分があります。主はその闇の部分を照らし出し白日の下にさらして、きよめようとして下さるのです。
* ダビデは、自分の闇の部分を主に照らし出され、顔を上げることができないほど恥じ、徹底して砕かれ、いかに神のお心に適わない自分であるかを認識させられた上で、主に赦しを請い、主のあわれみによりすがったのです。
* 主の道を歩む上において、外なる事柄と、内なる部分への主からの働きかけを頂いて整えられることが、何にも増して重要であったのです。その働きかけを受けたダビデは、この私が主の道を歩み、保つことができるのは、ただ主のあわれみによるものだと受けとめていたのです。
* この信仰は、すべての諸条件が異なる今日の私たち信仰者において、私たちの信仰として受け取っていかなければならないと思われます。ダビデと全く異なっている外なる事柄に対する判断力、対処力への導きと、内なる部分が砕かれ、きよめられ、整えて頂くという助けを得ることの大事さを受け取っていく私の信仰として、形造られていく必要があるのです。
* 第2は29節で、「敵軍を打ち破り、城壁を飛び越える」という表現で、自分の力では敵に押さえ込まれ、逃げ回るしかなかったダビデでありましたが、主の驚くべき働きかけを頂いて、敵を打ち破り、城の中に攻め込んで敵を敗走させたと言うのです。
* 具体的に、どの時のことを思い浮かべていたのか分かりませんが、それが、神の助けによるものであったという確信を持ったのです。考えられる状況は、敵の内部で、急に仲間割れが起きたとか、敵の指導者が病気になったとか、反乱が起きたとか、考えられない形で、敵の内部に混乱が起きたか、敵の力を砕く何らかの神の働きかけがあったとしか思えないことが起きたのでしょう。
* 今日の私たちにおいては、どのようなことが考えられるでしょうか。世の人の思いや心を動かして下さり、私に迫っていた何らかのつらい状況、危険な状況が急に変化したり、サタンの働きかけだと思われていたようなことから解放されたり、自分の周りで起きた急な変化を感じ、神が助けて下さったのではないかと思えるようなことが起きた時のようなことでしょう。
* それが超自然現象でなくても、神の助けを期待し、待ち望んでいた時に、何らかの変化が起きれば、神の働きかけによるものだと信じることができます。
* しかし、神がそこに介入して下さることを信じ、神の助けを期待し、待ち望む信仰に立っていなかったならば、神の助けが見えず、信じることもないでしょう。
* ダビデが、いかに神の助けと守りとを求め、神が、その叫びを聞いて応えて下さるお方であるかということを、本気で信じて期待しているかが問われるのです。
* 第3は、30節と31節です。ここでは、神と神のお言葉に対する揺るぐことのない信仰が歌われています。神の導きの完全性、神のお言葉には偽りが全く含まれていない真実性があるという絶大な信頼が表されています。
* なぜダビデは、神と神のお言葉にそこまで信頼を表すことができたのでしょうか。いつも即座に思い通りに行くように応えられたわけではありません。にもかかわらず、この信頼を揺るがすことがなかったのはなぜでしょうか。
* この一点が、神のしもべとしての拠り所であったからです。このお方以外に神はいない、このお方以外に確かな岩はない。この信仰が崩れると、ダビデの信仰はなくなってしまいます。
* ダビデの信仰がよく表されている事例を挙げてみますと、サムエル上24:6(旧420)で、自分を殺そうと追い迫ってきたサウル王を撃つことができるチャンスが与えられた時、ダビデは、自分が手を下さないばかりか、従者たちにも手を下させなかったのです。
* それは、今、このような理不尽なことをする王になっているが、サウル王は、主が油注がれた者だから、手を下すことを主は禁じておられるという考え方を、ダビデは決して崩さなかったのです。
* なぜそう考えたのでしょうか。神のなさったことに人間が手を出すべきではないという神の権威に対する強い思いがあったからです。確かに、神が油注がれても、人間の側が変質してしまうことがあるのですが、それでも、神の権威に異議を唱えて立ち向かうべきではないという、神への絶対信頼を表し続けたのです。
* そのことは又、どんな危険が迫っても、私の上にも主は油注いで下さったのだから、守られないはずはないと信じ切っていた信仰につながっているのです。私の側が変質さえしなければ、主はどこまでも責任を持って守り助けて下さると確信していたのです。
* それは、ヨシュア記に記されている信仰がえんえんと受け継がれてきたものだと言えます。主はヨシュアにこう言われました。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしないと」と。(ヨシュア1:5 旧301)この信仰がダビデを立たせていたのです。
* 今日の私たち信仰者においては、すべて諸条件が異なっていても、神と神のお言葉に対する信頼を失わず、主が油注いで下さった私たちを、見放すことも、見捨てることもなさらないと本気で信じ続けるならば、神は驚くべき形で応答して下さるのです。
* 詳しく見ていくと長くなりますので、第4の、力を帯びさせて下さる神(32節)、第5の、戦いに対抗できる力を与えて下さる神(33節、34節)、第6の、主の道を歩む足を強くし、支えて下さる神(35節、36節)について、一括して見てみる事にしましょう。
* ダビデは、自分にない力、勇気、行動力が起こされた経験をしたのでしょう。それを、神はこの私に力を帯びさせて下さったと信じたのです。世的な見方で言えば、今まで自分の内側に眠っていた力が引き出されたとか、瞬発力が潜在的に内側にあったと見るのですが、ダビデは、主が一時的に力を注いで下さったのを、しっかりと身に着けたと受けとめたのです。
* この力を身に着けたことによって、これまで対抗できなかった敵に対して、対抗できるようにして下さり、口語訳では「安全に」という言葉を補足していますが、原文では高い所に立たせて下さったとあり、勝利を確信できるように導かれたことを歌っています。
* そして、いつも背後にあって主が支え、押し出し、勝利へと導いて下さっていると信じる信仰が、ますます動かなくなり、その足もぐらつかなくなったと言って、信仰で前進する歩みは神が保証し、支え、崩されないように守って下さると歌っているのです。
* ダビデの信仰告白は、信仰体験が裏打ちとなっていたものですから、思いが揺れることはありませんでした。即座に見える形での神のお働きを受けとめることができなくても、神が、先の先まで見据えた上で計画されたそのご計画に沿って、時には力を帯びさせ、勝利できる位置に立たせ、支え、足をぐらつかないようにして下さっているとの確信は動かなかったのです。
* ダビデの信仰は、なぜ揺らがないものになっていたか、それは、彼の信仰が、信仰体験する度毎に、それが彼の信仰の裏打ちとなり、動かないものになって行ったからです。
* 確かに彼は、なお罪に引き込まれる弱さを持ち続けており、失敗も問題も多く抱えていました。にもかかわらず、神と神のお言葉に対する信頼は揺るぐことなく、その足がぐらつかなかったのは、信仰体験と、主が油注がれた者を見放さず、見捨てられないという約束のお言葉が、彼の信仰の裏打ちとなっていたからです。
* 裏打ちとは、紙、布、革などの弱い部分に裏から貼り付けることによって補強し、丈夫にすることです。信仰というのは、決して強いものではありません。いやなこと、つらいこと、耐え難いことなどが起き、それが続いたりすると破れやすくなるものです。
* 破れないように、信仰は裏打ちをしっかりしている必要があるのです。せっかく神が働きかけて下さり、信仰の良い経験をさせて頂いても、それを、信仰の裏打ちに用いようとしないで、その場限りにしてしまう人は、いつ破れるか分からない信仰を持ち続けている危なっかしいものになります。
* 確かな約束のお言葉を裏打ちしている人は、補強された信仰として、勝利者としての位置に立っていることができます。補強のされていない信仰で、平気でいてはならないのです。
(まとめ)信仰体験と約束のお言葉という裏打ち
* 今日の箇所を通して、ダビデの信仰の堅固さが感じられました。ダビデが特別であったというのではなく、神は、ご自身が油注がれた者に対して、とことん働き続け、信仰が確立するように手を貸し、力を帯びさせ、勇気を奮い起こさせ、足をぐらつかせないようにして下さるお方であることが明らかにされているのです。
* いくら油注がれても、サウル王のように、自分の側が変質してしまうならば、信仰も破れ、昔信仰を持っていたという過去形にしてしまい、力のない信仰として過ぎ去ってしまうのです。
* 信仰は弱いものだという認識を持って、十分な裏打ちをし、大事にすることがなされていないなら、いつ破れてもおかしくないのです。
* ダビデの信仰を学んでいたら支えられるというのではありません。神と向き合う一人の信仰者として、この私のすべてをご存知で、私の信仰を強くしながら、主の道を歩き通すように導き続けて下さっている、神に対する私の信仰を表していく必要があるのです。
* しかも、この私に体験させて下さる信仰体験と、この私に与えて下さっている約束のお言葉をしっかりと握って、それを持って信仰の裏打ちをし、足がぐらつかない歩みをしていかないと、いつまでも不安定な、いつ破れてもおかしくない信仰を持ち続けているようでは、この世の荒波を乗り越えることはできないでしょう。