聖日礼拝メッセージ
2012年6月19日 更新

聖 書 詩篇18:37〜50  (第5講)
 題 「敵を恐れず、勝利を信じて踏み出す信仰」


  (序)神によって力を帯びる信仰体験

* 前回の学びにおいては、詳しく見ることができませんでしたが、ダビデがこの詩を通して歌っていることの中心は、32節、39節に記されており、神が、この私を選んで、私に油を注いで下さり、ご自身に忠実に従う者として見て下さって、この私に力を注いで下さった。この事実が、私の信仰の拠り所であったという告白でした。

* それ故、「神は、私に力を帯びさせて下さった」というダビデの個人的体験が土台にあることを思うと、それは、誰もが同じように実感できる普遍的な信仰体験とは言えないでしょう。

* そもそも、神によって力を帯びるという神の働きかけが、見える形で実感できるものであったとは思えないし、周りの人々に分かる形でなされたとも思えません。それでは、ダビデはどのような意味で、このような表現を使って歌ったのでしょうか。

* 敵に対抗できるだけの力が自分にはあると、自分で思ってはいなかったダビデは、若い時の信仰体験から確立していた一つのことがありました。

* 私に力はなくても、私の信頼している、私の内に働いて下さる力ある神が、その時に必要な工夫と知恵と力とを与えて下さると信じていたので、巨大な敵にさえも挑むことができたのです。それは、現在に至るまで変わらないダビデの信仰であったのです。

* 力を帯びるという表現で、それまで持っていなかった力を一時的に身に着けた者のようになったと言っているのです。自分のものでないものが、一時的であれ、自分のものとなり、敵に対抗するためにはなくてはならないものとして身に着けたと実感したのです。

* ダビデは、どうしてそれを実感することができたのでしょうか。私のものではない力、勇気、私のものではない頭の働きによる知恵と工夫とが湧き上がってきて、それを、神からのものだと信じた時、それを、「神の力を帯びた」と表現したのでしょう。

* 言わば、これがダビデの確信であり、敵に立ち向かっていく原動力であったのです。もし、この確信がなかったならば、自分の力や勇敢さに頼るしかないのですが、それらが、自分の内にはないと思っていたダビデでありましたから、この確信が支えとなり、敵におびえることなく突き進むことができたのです。

* それは、ダビデ個人における信仰体験でありましたが、ダビデだけが味わえるようにされた特殊な信仰体験であったというわけではありません。確かに時代も、背景も環境も、立場も異なっていますが、私たち一人一人に応じた上からの力を帯びるという信仰体験を味わわせて下さり、自分に迫ってくる敵におびえることなく、この確信を原動力にした信仰的歩みができるようにされていると言えます。

* というのは、私たち信仰者の思いをくじき、信仰に失望させ、前向きに歩めないようにさせてくる敵の勢力の最も強力な武器が、私たちを恐れさせ、おびえさせることで、神を見えなくさせることであるからです。

* これを克服するために必要なことが、この確信を原動力にした信仰的歩みをすることなのです。ダビデがどのようにしてその信仰を確立していったかよく分かりませんが、これを基にして前進している彼の姿から、私たちへの神の語りかけを聞き取りたいと思うのです。


  (1)確証のないまま、神を信じて踏み出す

* 戦いには、2つの面を考えなければなりません。第1は防御であり、第2は攻撃です。この詩において、敵からの激しい攻撃の中で、主が支えとなり、守りとなり、助けとなって下さったという、防御の面について多く歌ってきたのです。

* 今日学ぶ箇所の37節からの内容の主題は、敵を倒し、足元にひれ伏させるための攻撃の面について述べられていると言えるでしょう。守られるだけでは、敵の攻撃はなくならないので、少しでも隙を見せればやられてしまいます。敵の力をそぎ、打ち破るための攻撃を仕掛けることによって、勝利者となることができるのです。

* 敵を攻撃し、打ち倒すだけの力が自分にあるならば、対抗できるのですが、その力がない者にとって、神を味方につけ、神の力を頂いて敵を攻撃し、敵からの攻撃をなくさせる、あるいは無力化させるしかないのです。

* パウロもこう叫んでいます。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。神が私たちの味方であると敵が知ったならば、敵は決して攻撃してこようとはしません。それは、神を敵に回しては、全く勝ち目のない戦いであることが分かっているからです。

* ダビデは、神を味方につけて、敵から守られるだけではなく、敵に攻撃を仕掛けていったのです。ダビデは、どうして神が味方となって下さり、敵を攻撃できると考えることができたのでしょうか。敵への恐れ、おびえを封印して、敵に勝利できる力を神が与えて下さるとの信仰の方にかけたのです。もし恐れ続け、おびえ続けているならば、思いが萎え、力を失い、助けて下さる神が見えなくなりますから、それをやめ、神による勝利を信じて踏み出したのです。

* 神が味方となって攻撃できると確信できる、何らかの確証を得ることができたら踏み出すという向かい方は、信仰による向かい方ではありません。人間は、確証をほしがります。しかし、その思いは、信仰の思いを造り上げていくことにはならず、肉的な向かい方を形造っていくのです。

* 信仰は、何の見える確証、保険がなくても、味方をして下さる神を信じ、信頼する者に必要な力を帯びさせて下さるお方であると信じて進むことです。ヘブル書の著者も、そのことをこう言っています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認するものである」と。(ヘブル11:1 新354)

* 目に見える確証、保険がなくても、又、敵への恐れ、おびえがなくなるような状況でなくても、神が味方であり、力を帯びさせて下さるお方だからと信じて、敵への攻撃態勢を取り、信じて踏み出していく時、神はその信仰を見てわざを進めて下さるのです。

* 確証がなくても、神を信じて歩み出す。これは簡単なようで、簡単ではありません。本気で神を信じて向かおうとするか、信仰が問われるのです。ダビデはこれをしたのです。

* 一歩踏み出して敵を追い、滅ぼそうとし、足元に倒し、彼らを突き通したのです。踏み出す足に、突き出す手に、神が力を帯びさせて下さると信じて踏み出したのです。その結果、神の力によって勝利を得たと歌っているのです。

* 今日の私たち信仰者において、敵と言うべき存在は、私たちの信仰的生き方を理解せず、妨げようとする人々のことであり、そのような人々を背後にあって操っているサタンであると言えます。

* サタンに対抗できる力を持たない私たちの思いの中に、時には恐れたり、おびえたりさせるように働きかけてくるのですが、神が味方となって下さっているのだから、神の力によって勝利を得ることができると確信して踏み出す信仰が、私たちにも求められていると分かります。


  (2)主は生きておられるとの信仰

* ダビデに敵対していた人々が、どのような者たちであったか、歌われている内容から見て、ここには2種類の人々がいたと考えられます。一方は外敵であって、イスラエルを攻めようとする異邦の国々との戦いがあり、もう一方はダビデを王にさせないようにと働きかける内敵がいたと考えられます。

* それは41節において、ダビデに敵対していた人々が、「主に向かって叫んだ」とあり、これは異邦の民とは考えられない表現であり、イスラエルの民の内部で、ダビデに敵対していた人々がいたと考えられ、44節や45節においては、はっきりと異邦の民のことが記されており、外敵が存在していたことが分かります。

* 内外の敵との戦いを経て勝利し、イスラエルの民が、ダビデを王と認めるように神は導かれ、周りの国々も神の力による勢いを感じて和睦を求め、イスラエルに仕える道を選んだのです。

* このように、すべての戦いを、神の力による勝利であることと、神の王国を維持する者として、私を王に任じられたことを示し、これらは、すべて神がなさったことだと歌ってきたのです。

* もちろん、これは過去における神の働きかけのすごさを、ダビデは、神のお心の実現として受けとめてきたのですが、すべてよい結果に終わり、終わり良ければすべて良しのことわざの如く、途上においてはつらく厳しい戦いの中を通されたが、最後は、自分にとって思い通りの状態にして下さったと言って喜んでいるのでしょうか。そうではありません。

* ダビデが見ていたことは、私に使命を与え、私を用いて、神がなそうとされたお心が実現したということであって、もし、結果的に自分にとって良い結末にならなかったとしても、神のお心がなったということで喜んだのです。

* それは46節の内容で明らかにされています。「主は生きておられる」この信仰がダビデの信仰人生の大黒柱だったのです。

* すなわち、生きておられるとは、神として御心を完全に貫き通される、今も生きて働き続けておられる神のことですから、神のお心通りにみわざを進められ、神のお心通りに事がなされ、果たされる。どんな妨げようとする敵の勢力があっても、すべては今も生きて働いておられる神のお心が実現する、そう確信していたのです。

* どうしても、この詩篇の表面上の意味が、私に力を与えて敵を滅ぼさせ、王としての力量を示すことができたので、民も周りの国々も王として認め、すべてことが順調に進んで言うことのない状態にされた。神はほむべきかなと言って、自分にとって最高の結果になったから、神をほめたたえているように見えてしまうのです。

* 確かに、ダビデにとって結果的に、内外の敵を倒し、排除し、王として任じられることになり、こんな良い結果を与えて下さった主に感謝し、主を称えていると見えるのですが、彼が、主を称えたのは、そういう意味ではなく、神がご自身のお考え通り、救いのみわざを進めて下さり、実現して下さったという一点だったのです。

* それ故たとえ、私にとってそれが良い結果にならなくても、主は私の岩であり、勝利であるという事実は変わらないと確信していました。その信仰に立ち続けていたことがダビデの信仰でありました。

* すなわち、良い結果だけが勝利だと思っていたのではなく、そこに主が働いて下さっていることを信じることができ、主は生きておられるという信仰に立ち続けることができたことが勝利だと受けとめていたのです。

* 主が生きておられる限り、私たち信仰者には勝利が約束されています。もちろん、それは肉の目から見た勝利ではなく、私を用いて御心が実現されるという霊的勝利なのです。

* 神によって油注がれた者は、神から使命が与えられているので、神の力を信じて、信仰によって踏み出していくならば、主はその使命を果たさせて下さるという形で、勝利を見させて下さるのです。


  (3)ダビデの単純かつ素朴な信仰

* 神は、油注がれた者に使命を与え、救いのご計画を進めようとしておられると信じていたダビデは、この私に力を与え、敵を倒し、王となることによって、神の御心が果たされた。私が勝利したというよりは、神の御心が、私を用いて一歩進められたと見たのです。

* ダビデは、自分が神に用いられる一つの駒とされていることを喜び、私によって神のお心が実現していくことを何よりもうれしく思っていたのです。それ故ダビデは、神の御名をほめ称えています。

* 46節では、私を支える岩となって下さった主をほめたたえ、救いのみわざを進めておられる神をあがめ、49節では、神の素晴らしさを諸国民の前で示して主を称え、御名をほめ歌っているとダビデは言います。

* 神が、真の勝利者だと信じてきたから、主をほめたたえずにはおれなかったのです。私に、恐れとおびえとを植えつけようとする敵の勢力に負けず、勝利の人生を歩むことができたのは、真の勝利者なる神と直結し、その原動力を頂き、敵に立ち向かうことができるようにされたからであって、それは、すべて主の力によるものだと受けとめていたから、主をほめたたえたのです。

* ここに、ダビデの信仰が見えてきます。この私の上に油を注いで下さり、神からの使命を与えて下さったとの確信、信じて踏み出せば、その時に必要な力、知恵、工夫を与えて下さるとの確信、主はこの私を用いて、救いのご計画を進められるとの確信、私を通して神の偉大さを回りにしめされるとの確信、油注がれたこの私を、最後まで面倒を見て下さるとの強い確信、これらがダビデの信仰による生き方を支えていたのです。

* 人格や性格や、人間性全般に何の問題もなかったと言うのではありません。それどころか、問題が山積みであったとも言えます。しかし、神は、そのダビデに油注がれ、神の御心を果たしていく一つの器とされたのです。

* ダビデも、神による一方的な選びを謙虚な心で受けとめ、喜び、神が選んで下さったのだから、最後まで見捨てず、面倒を見て下さると信じてついて行ったのです。この単純かつ素朴な信仰が、ダビデの持ち味でした、疑わない、不満を漏らさない、つぶやかない、ただ信じて従ったのです。

* このことは、時代やすべての状況の違いを超えて、私たち信仰者においても、非常に大事な事柄だと言えるでしょう。自分の思いが強いと疑い、不満を漏らし、つぶやきます。神が選び、神が用いようとして、最後まで見捨てられず、面倒を見て下さると謙虚に信じてついていくこと、これが信仰だと言えるでしょう。


  (結び)御霊の剣を自由自在に用いる歩み

* 詩篇18篇を5回に分けて学んできましたが、この最後の所で、信仰とは、守られ、支えられることを願うばかりではなく、敵に対して攻撃を仕掛けていくことが大事であることを示しています。

* それは、攻撃が最大の防御となるからです。多くの信仰者は、主よ、守って下さい、支えて下さいと、防御について多く願うのですが、敵を攻撃しようとはしていません。もっと攻撃に転じるべきです。

* もちろん、そのためには、攻撃の武器が必要です。今日の私たち信仰者における敵とは、見える形では、私たちの信仰をつぶそうと働きかけてくる人たちや、自分の内にある肉の心(外敵と内敵)のことでありますが、そのような人たちや自分の内にある肉の心を背後で動かしているサタンがいることを、私たちは知っています。そして、これが最大の敵なのです。

* このサタンに対して攻撃を仕掛け、信じて踏み出していく必要があるのです。その時に、攻撃の武器である御霊の剣(エペソ6:17 新307)を取る必要があります。御霊の剣とは、神の言葉であるとそこで説明されています。

* なぜ単純に剣と言わずに、御霊の剣と言っているのでしょうか。聖書の言葉を用いさえすれば、それが剣になるのではありません。御霊が教える御言葉、すなわちサタンと対抗できる神の知恵、力が込められている、御霊が教える御言葉が御霊の剣だと言うのです。

* この剣を用いて、サタンを追い払われた最も素晴らしい実例が、荒野での試みに会われたイエス様の記事に分かりやすく記されています。聖書の言葉を持って誘惑しようとした悪魔に対して、イエス様は、御霊が教える言葉を持って悪魔に切りつけられ、排除された姿が描かれています。(マタイ4:1〜11)

* もちろん、この時にイエス様の受けられた試みは、救い主として受けられた特別の試みでありましたから、それをそのまま信仰者に応用することはできませんが、その対処方法については、応用する必要があります。サタンに対して、御霊の剣を持って攻撃し、勝利をしていくことが大事なのです。

* 荒野での試みの記事において、4:11で「そこで悪魔はイエスを離れ去った」とあります。一時的に退避したと言うのです。この世が存在する限り、サタンを滅ぼすことはできないし、滅ぼす力もありませんが、サタンを敗北させ、離れ去らせることができるのです。

* サタンを離れ去らせる御霊の剣を、私たちは力ある神の武器としてどこまで用いていると言えるでしょうか。知っているという程度では用いているとは言えません。その御霊の剣を振りかざして敵に対抗し、主が勝利を与えて下さると確信して踏み出すこと、これが、ダビデが生涯かけて歩んだ信仰人生であったと歌っているのです。

* 今日の私たちには、ダビデの時代よりももっと明確な、もっと力ある御霊の剣が与えられているということを知らなければなりません。いや知っているだけではなく、サタンを追い払う力ある御霊の剣を用いる者とされていなければ、サタンと対抗する信仰人生を歩むことはできないのです。

* 神が、救いのご計画を進めようとしておられるその一つの駒として、主は私たちに油を注いで、用いようとしておられるのですから、主の勝利を信じて、与えられている攻撃用の武器である御霊の剣を持って、踏み出していく信仰の大切さを思わされるのです。

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