(序)被造物を通して語られている御声を聞き取る
* この詩を歌った詩人は、非常に霊的感受性が敏感な人であったと分かります。神が創作された宇宙の偉大さ、その神秘を垣間見て、その奥深さ、その計り知れないみわざに圧倒され、そこに神の栄光を見ていたのです。
* たとえば、一つの花を見て、ただきれいだと思う人と、霊的感受性が働いて、その神秘と美の芸術性を感じ取り、その作者がいることに思いを馳せ、そこに神の声を聞き取ることができる人との間には大きな開きがあるでしょう。
* ここで、霊的感受性と言ったのは、人間的な感覚でいう感受性のことではないと言うことです。人間的な感受性の敏感な人たちは、巨木や古木を見て、そこに神秘性を感じ取り、奇岩や威厳を感じる山を見ては、そこに神々の臨在を感じ取って、木や岩や山を祀り、神々としてあがめようとするのです。
* もちろん、人間的な感受性の薄い人は、古木や奇岩や山を見ても、神々への信仰心が起こらず、ただ自然が作り出した不思議と、神秘の様を思うだけで、それに神的な価値を見出そうとはしません。
* 人間的感受性と霊的感受性との違いは、人間的な感受性は、大自然や天体の神秘さの中に、神を見ようとするのですが、霊的感受性は、その大自然や天体を造られた、その背後におられる神の存在を意識し、その偉大さ、尊厳さを感じ取ることなのです。
* この詩人は、詩人の理解できる天文学知識から、霊的感受性が敏感に働き、これらを深い意図を持って造り、支配し、保持しておられる、背後の偉大な神を強く感じ取り、そのすごさに圧倒され、そこに神の声を聞き取ったのです。
* もちろん耳に聞こえる声ではありません。霊の耳でそれを聞き取り、神がどのような思いを持って造られた作品なのか、それを聞き取ることのできる敏感な能力を持っていたのです。
* なぜこの詩人は、自然を見つめて、自然賛美ではなく、その背後におられる製作者を考えて賛美しようと思ったのでしょうか。気紛れに、神様ってすごいなあと思っただけなのでしょうか。自然を見て感動しやすい性格をそのまま表現しただけなのでしょうか。この詩人の信仰を通して、私たちの立つ必要のある信仰について学んでいくことにしましょう。
(1)すべての被造物から神の御声を聞き取る
* この詩は、前半の1〜6節までの内容と、後半の7〜14節までの内容は、全く異なっていると思えるほど、違った詩になっているので、多くの聖書学者たちは、全く異なった詩を、編集者が一つに結び付けたのではないかと見ています。もちろん一つの詩だと見る学者もいるのですが…。
* しかも、内容だけの違いではなく、前半には、神(ヘブル語でエル)が神名として用いられ、後半は、主(ヘブル語でアドナイ)が神名として用いられており、全く別の詩人によるものだと言うのです。
* しかしこれは、内容の違いによって、神名を変えることはあり得ることです。一方は、創造主としての神名を用い、もう一方はイスラエルの民と契約を結び、神の言葉をゆだねて下さった主としての神名を用いたと考えられるからです。(ローマ3:2)
* 前半は、被造物の神秘を見て、そこから神の声を聞き、神の栄光が語られていると言い、後半は、神がゆだねられた御言葉から神の声を聞き、神の御心が示され、罪から守られるようにして下さっていると考えられます。それでは今日は、その前半部分に目を留めてみましょう。
* まず「もろもろの天」と表現されている意味を考えて見ましょう。これは、この当時の古代宇宙観が、この詩人の思いを占めていたことが考えられますから、それがどのようなものであったかを理解しないと、この内容をつかむことはできません。
* 神は、不十分な宇宙観さえも用いて導こうとされます。現代でもそうです。現代の宇宙観はより正確になっていますが、それでもすべてが解明されているわけではありません。
* それでは、この当時の宇宙観というものがどういうものであったか、聖書辞典の図を参照して見ましょう。天が幾層にも分かれて存在していたと考えていましたから、もろもろの天という表現になっています。
* 本来天とは、超自然的な世界を指し、至高の天に神の座があると考えられており、天とは、神を指す表現でもありますが、この詩人は、大空と同じ意味で、目に見える天体を指して歌っていることが分かります。
* 詩人は、目に見える宇宙に思いを馳せ、狂うことなく日は巡り、月星が地上を照らし、一つ一つの天体の神秘さを思う時、それらを創造し、保持しておられる神の偉大さを思ったのです。それだけではなく、宇宙が神の栄光を現そうとして語りかけている声を聞いたと言うのです。
* それはあたかも、画家の描いた絵画から語りかけているものを聞き取るように、作曲者が書き著した音楽が語りかけているものを聞き取るように、直接耳に聞こえる声はなくても、それを聞き取ることが絵画を見ることであり、音楽を聴くことだと言えるからです。
* もちろん言葉としてではありませんから、それを受けとめる霊的感受性なくして、そこに示されている神の御声を聞き取ることはできません。この詩人は、その御声を聞き取り、神の栄光が現される声、御手のわざの素晴らしさを現す声を聞いたのです。
* 人間は、自分の側から何かを読み取っていこうとします。しかしそこには誤りが多く、間違った読み込みも多いのです。神の側から示され、語りかけて下さっている声を聞こうとするなら、宇宙や天体、すべての自然や人体からも示されている神の声を聞くことができるのです。
* それでは、霊的感受性はどうしたら敏感になり、すべての被造物から神の声を聞くことができるようになるのでしょうか。それはそんなに難しいものではありません。神がどんな意図を持ってお造りになった作品なのか、そのことに耳を傾けて御声を聞き取っていこうと心を向ければ、聞くことができるようになるでしょう。
* たとえば、自分の身体の一つ一つの部分に目をとめ、神はどんな意図を持ってこの私の手を、足を、目を、耳を…造られたのかを考えてみることです。世のものに思いを奪われ、行動し、そこに楽しみを見出すために作られた各部分ではありません。神と向き合い、神を見上げ、神に耳を傾け、神を礼拝し、喜びと感謝の思いを持って、喜び踊るために造られたのです。
* すべての被造物は、人間のため、いやこの私のために造られたのです。宇宙も天体も、すべての自然も被造物も、神と私との深い結びつきを応援し、協力し、楽しませ、輝かせるために造られたのです。この意図を知って、すべてのものを見るならば、そこに御声を聞き取ることができるようになるのです。
(2)昼は昼の時として、夜は夜の時として
* 神の造られたものから、御声を聞き取ることを示した詩人は、それだけではなく、神は、人を時間の世界の中に置き、人が起きて活動し、与えられている身体を活用して生活する昼の時が与えられており、又、心を静かにし、神の深い御心を思い、偉大なる神の御手の中で平安な休みを得る夜の時が与えられている不思議について歌っています。口語訳では、「日」と訳していますが、他の翻訳のように、これは「昼」と訳す方が、夜と対比して歌っている詩人の意図がより鮮明になるでしょう。
* なぜ神は、昼と夜とを与えられたのでしょうか。神と共に生きる信仰人生に必要な昼の時と、夜の時を設けて下さった神の御心を知ることは、信仰者にとって非常に重要なことだと言えます。
* 神が人間をお造りになった時、人間は、昼と夜とを交互に迎え、活動し、休息を取り、知識を蓄え、それを行動に活かすように身体の仕組みを造られ、神と向き合うようにされたのです。
* この詩人は、その不思議を思い、無意味に与えられたのではない昼の時と、夜の時からも御声を聞くという、擬人法を用いて、昼や夜を人格化した上で、昼は昼の持つ意義を次の昼に伝え、夜は夜の持つ意義を、次の夜に告げると言うのです。
* このように、人は昼の度毎にその有意義な歩みを重ねて次の昼に活かし、夜の度毎に、その有意義な歩みを重ねて次の夜に活かすように、昼と夜とが交互に繰り返し、信仰者として前進していく歩みを構成されたと言うのです。
* この詩人にとって昼は昼として、夜は夜として大事だと思うだけではなく、夜昼繰り返しつつ、一段ずつ上に昇っていく、螺旋階段人生が信仰人生であると受けとめていたのでしょう。
* しかし人は、無駄に昼を過ごし、無意味な夜を過ごして、それを前進の糧にしないで、昼に学んだことを次の昼に活かさず、夜に学んだことを次の夜に活かそうとしない、学習能力のない向かい方をしてしまいやすいものです。
* この詩人にとっての日々の信仰生活は、昼は昼に語りかけている御声を聞き、夜は夜に語りかけられている御声を聞き続ける時だと受けとめていたのです。もちろん、これは四六時中という意味ではなく、昼は昼の恵み、夜は夜の恵みを分けて受けとめ、それを次の昼と夜の歩みの土台にしたのです。
* 確かに昼も夜も声を出しません。しかし、この詩人は、それは全世界に響き渡り、声なき言葉は、世界の果てまで及んでいくと言いました。すなわち、耳を傾けさえすればすべての人にとって、昼と夜とを分けて生きるように導かれた神の声が聞こえ、天体も、昼も夜も、神の御声を聞く教本として与えられており、全人類に及んでいくようにされたと言うのです。
* ただ無意味に昼と夜とが繰り返されていると見ていた人々の中にあって、詩人は、その有意義な事を神の声なき声として聞き取っていたのです。ここに霊的感受性の敏感な姿が示されているのです。
(3)太陽を用いられた神の深い御心を歌う
* これまで、神の造られた天体の神秘が、神の栄光を語り、神のみわざのすごさを語っていると言い、その中の2つの天体に昼と夜とを任せられたことが、天地創造の第4日目であったと記されています。(創世記1:14〜19)この詩人は、創世記の御言葉を心に留めながら、天を見つめていたのでしょう。
* そこで、この歌が昼に書かれたとすると、その時、頭上で暖かく照り輝いている太陽を目にしながら、神はこの太陽をどのように走らせておられるのかを考えたのです。
* 太陽の休み場として幕屋が設けられ、そこから一回りして幕屋にたどり着くと考え、太陽が幕屋を出る様子は、花婿が花嫁を迎えに部屋から喜び勇んで出る様に似ており、又、勇士が我先に功を成し遂げようと勇んで走る様に似ていると感じ、東の果てから西の果てまで走り抜く、その熱の影響を受けないものは何一つないと言って、神の造られた天体の影響は、人間の生き死ににかかわるものだと歌っています。
* この詩人が、当時の理解で、地上を太陽が回っていると考え、神が太陽を用いて、人間の世界に昼を与え、熱と光とを持って、人としての歩みを可能にして下さっている神の深い御心を、太陽を見ながら思ったのでしょう。
* 近隣の諸国では、太陽や月を神としてあがめる人々がいることを知っていたと考えられますが、詩人は、太陽はあがめるべきものではなく、人間のために神が造られたものであって、その太陽をうまく配置し、東の果てから西の果てへと沈んでいくように計らわれた神の知恵と匠のわざとを思い、花婿のたとえ、勇士のたとえを示したのでしょう。
* このたとえから、詩人が太陽の働きに見ていたものは、神の御心を果たすために喜び勇んで走り続けているという被造物としての忠実、かつ人間に仕えるため果たしている使命感と言うものを、擬人法を用いて人格化して語ろうとしたことが分かります。
* 宇宙、天体、大自然、被造物などの偉大さ、その神秘さに圧倒されつつも、それらの被造物すべては、それは人間のためであり、この私のためであるとの信仰から、造り主なる神を見上げて称えているのです。
(結び)創造主なる神への深い信仰を築く
* この詩人の霊的感受性がここまで敏感にされ、人間の知識として、この当時の天文学理解以上のことは分からなくても、神が造られた宇宙、天体、大自然、被造物などを見て、ここまで霊的感動を覚え、神のなされしことに思いを馳せることができる人であったのは、創造主なる神への深い信仰が築かれていたからでしょう。
* 創造主なる神への深い信仰、これは簡単なようで簡単ではありません。それは、人は神の偉大さを信じているようでいて、現実に自分の目に見える形でその偉大さを見させて頂かない限り、なかなか信用しようとはしないからです。
* この詩人のように、神の造られた一つ一つの被造物を見て、神の測り知れない偉大さと、神秘さの前に圧倒され、しかもこれらの驚くべき被造物の一つ一つは、すべて人間に仕えるために神がお造りになったものであり、それら一つ一つから神の栄光が語られている御声を聞き取っていたならば、神を称えずにはおれないでしょう。
* 私自身の証しになりますが、私は人間の身体の仕組み、そのあまりにも繊細な、しかも奥深い構造を思った時、このような人間を造られた神の偉大さ、その測り知れない知恵のすごさを思い、深い霊的感動を覚えました。
* もし人間の機能をすべて果たす精密機械を作ろうとしたら、考えられないほどの巨大工場が必要で、しかもそこまでの精密さを出すことは不可能だと言われています。
* それを思った時、そのような人間が、自分に与えられた身体のすごさに気づかず、自分を大切にしないで歩んでいる様を見る時、人間は何と度し難い者だろうと思う反面、信仰を持って向かいさえすれば、その機能が最も素晴らしいものとして輝き始めるように造られているのだということが分かります。
* 信仰を持って、与えられた身体を重んじようとするようになった時、神の偉大さ、その奥深さを全く疑わなくなりました。神は何でもできるお方なのだと確信したのです。
* 人間だけではありません、被造物の一つ一つに込められている神の深い御思いを、この詩人のようにしっかりその声を聞いていたいと思ったのです。聞く耳さえ持てば、すべての被造物は神の栄光を称えているのですから。
* イエス様は言われました。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と。(マルコ10:27)信仰者のために何でもして下さるお方であります。そのために世界を造り、被造物すべてを造られたのです。
* 太陽や月だけではありません。私が生きるために必要なすべての被造物も、私に仕え、私が神と結びつき、神を称え、神の守りと支えの中で喜び踊る者となるために置かれているということを思うと、神の恵みの深さに頭を垂れるばかりです。
* 創造主なる神が、この小さな者のためにここまでして下さっているという恵みの深さが分かれば、神は何でもできるお方であることを本気で信じている、創造主なる神への深い信仰を築いていると言えるでしょう。