聖日礼拝メッセージ
2012年6月12日 更新

聖 書 詩篇19:7〜11  (第2講)   イースター
 題 「主の御声に取り扱われる体験をする詩人」


  (序)詩人はどのような律法観を持っていたか

* 前半部分で学んだものは、詩人は、天体の素晴らしさに、今更ながら、改めて深い感動を覚え、そこに神の深いお計らいが込められているのを感じると共に、それらすべてが、塵にも等しい人間に仕えるために与えられたものだと思った時、その製作者である神をほめたたえずにはおれなかった詩人の姿でした。

* その天体や大自然からの声なき神の声を聞き取り、被造物が神の偉大さを訴え、声高らかに叫んでいるのを聞き取った詩人は、その声を聞きつつも、もっと声高らかに、より明確に示されている神の御声が、律法という形で語られていることに思いを向け、それが信仰にとってどれほど聞き逃してはならない大事なものであるかを、歌わずにはおれなくなったのです。

* ここから、この詩人が単なる天体好きの感傷主義者ではなく、創造者である神が、天体や大自然を通してだけではなく、常に人間に対して御心を示し続けておられるので、その御声を聞き取ろうとすることの重大さを、霊に感じ取っていた信仰に生きている人であったことが分かります。

* それではこの詩人が、神の示された律法から どのような御声を聞き取っている人であったのかを学ぶことが、今日の、私たち信仰に生きる者とって、私に対する神の御声を聞き取っていく歩みに対するヒントとなるものを得ることができるのか、見ていくことにしましょう。

* それを理解するために、前提として解決していなければならないことがあります。それは、この詩人にとって律法をどのようなものとして受けとめていたかという点です。

* 新約時代に生きる者にとって、律法という言葉を聞くと、禁止要項、奨励要項などの規則集のように理解している所があります。それは、律法学者やパリサイ人たちが現していた姿から、律法主義的な無味乾燥な規則、規律、戒律というイメージを持ってしまっているからだと言えます。

* この詩人が、律法をどのように表現し、どのようなものとして受けとめていたか、この前提がまず受けとめられていないと、この歌の真意が理解できないでしょう。おきて、あかし、さとし、戒めと4つの異なった表現を使って示そうとした、その意図から探っていくことにしましょう。


  (1)律法を4つの表現で言い表す詩人の律法観

* この19篇のように、律法をこのような表現で歌っているのは、詩篇119篇ですが、そこではより徹底して、律法のことをさまざまな言葉に言い換えられていて、律法主義的な捉え方がまだなされていない時代における律法観として、受けとめられていたことが分かります。


  (その1)おきてという言葉で示そうとしたもの

* まず19篇の詩人が使った表現から、どのような律法観を持っていたかを考えてみることにしましょう。最初は、「おきて」と言っています。これは律法(トーラー)という言葉で、元来「教示」を意味しており、律法は、神の御心を信仰者に教え示すものと受けとめ、そこに、愛し養う導き手としての神の恵みを見ていたのでしょう。

* このおきては、完全であって、魂を生き返らせるものだと歌いました。この詩人にとっておきてとは、完全な神のお心そのものであり、完全な神と結びついて生きていくためには、このおきてに聞き従うことが必要で、その歩みは、神から離れていた死んだ魂が、もう一度命の息を吹き返し、神の力にあふれて生きていくことができるようにされるものでありました。

* そのようなおきてを、御心の教示として受けとめ、おきてを聞くということは、つらく厳しい修行のようなものではなく、内から命が湧き出てくる泉を頂くようなものだと考えていたことが分かります。

* おきての中において、神と出会い、神の御心に触れて、死んでいた魂が電気ショックを受けて生き返るように、おきてに触れることは、神の生きた恵みに触れるものとして受けとめていたのでしょう。

* このように、詩人にとっておきてとは、日々触れて、そこから力を頂き続ける、力の源泉と考え、神を見、神を体験し、神の御心の恵み深さに圧倒され、今の自分にとってなくてはならない神からの語り掛けとして理解し、喜んで受け取っていたのです。

* 後のユダヤ教のように、律法を形式化、儀式化し、命のない戒律にしてしまうこともできるし、この詩人のように、信仰に生きる者の魂を強くし、養い育てて下さる力の源泉として受けとめ、喜びにあふれることもできます。それは受け取る側の対応ひとつで、死んだものにもなれば、生きたものにもなると言えるのです。


  (その2)あかしという言葉で示そうとしたもの

* 第2は「あかし」と言いました。定めと訳されているものもありますが、元来は、神の真実を証明するものとの意味で、神が、神の民と契約関係にあることを証するものとして律法が示されたという意味であかしと言っているのです。

* すなわち、この詩人が受けとめていた律法観の第2は、契約関係に置かれていた者としての確かな証拠であるという意味であかしと言ったのです。申命記29:12,13において、「あなたの神、主が、きょうあなたと結ばれるあなたの神、主の契約と誓いとに、はいろうとしている。…きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである」と言われています。

* 神は、契約を重んじられるお方であり、契約の大事さを知って守る者には、あふれるばかりの祝福を与えられ、契約を守らず、それに従わない者には、激しい呪いを与えられると言われているのです。(申命記28章)

* 律法は、契約の民として生きる者に与えられた確証という意味で、詩人はあかしと言ったのです。この主のあかしは確固たるものであり、神のものであって崩れることはないから、主のあかしは、無学な者を賢くすると言いました。

* ここで言う無学とは、人間的知識のないことを言っているのではなく、神との契約関係に置かれていることを自覚している者が、契約して下さっている神のお心を知らない無学なままでいい訳がないと言うのです。

* 神は、律法の中に、神との契約関係に置かれている者のあり方を示しておられるので、律法を学ぶ者は、神の知恵によって賢くされると言うのです。

* ここから、詩人が律法をどのようなものとして受け取っていたかが見えてきます。神は、ご自身のあわれみによって、私たちを契約関係の中に置いて下さったのですが、その祝福された位置を維持するために必要な御心を示し、霊的に鈍かった者を霊的に養い育て、賢くし、契約の中に置かれていることが、どんなにすごい恵みであり、喜びであり、祝福であるかを受けとめることができるように、律法を示して下さったと受けとめていたのです。


  (その3)命令という言葉で示そうとしたもの

* 第3は、口語訳では「さとし」と訳しています。この言葉は、命令とか指示と訳すことができる言葉で、主の命令とは、単なる規律を守るようにとの強圧的な命令のことではなく、私たちの歩む道が確かになるように示されている命令だと言います。(詩篇119:4,5、口語訳ではここでもさとしと訳しています)

* 同じ詩篇119:93では、主の命令は、私を生かして下さるためのもの、命を得させて下さるためのものだと言っています。契約の中に置かれた民が、神の祝福にあずかる道を歩み通すためには、主の命令を喜んで受けとめ、主の命令を守る歩みこそ、神から与えられた命を自分のものにしていく歩みだと言っているのです。

* そこで詩人は、主の命令こそ、まっすぐで心に喜びを与えてくれるもの(新共同訳)だと言ったのです。すなわち、神から注がれる命を自分のものにしていく、まっすぐな道を指し示してくれるものが主の命令であるから、それは負担になるものではなく、心を喜ばせてくれるものだと言って、律法をいかに慕わしく思っているかを表現しているのです。

* なぜ主の命令が、私の心を大きく喜ばせてくれるものだと言い得たのでしょうか。この詩人にとって主の命令とは、信仰者としての歩みにおいて、その時々に的確に示して下さる神の導きとして受けとめており、それに従って歩む時、私のことをすべてご存知であり、正しく導く力を持っておられる神であられるがゆえに、必ずよい道に導いて下さると信じることができ、主の手の中に置かれている平安を覚えて、心が喜びにあふれていたのでしょう。

* すなわち、心を喜ばせてくれるとは、この詩人の体験記であって、単なる言葉の遊びをしているわけではないことが分かります。律法を守ろうとすることが、主の導きを頂くことになるのですが、自然と心は喜び踊るようになります。


  (その4)戒めという言葉で示そうとしたもの

* 第4は、「戒め」と言いました。神は人間を契約の相手として選ばれました。もちろんそれは、対等の関係ではなく、創造主であり、権威あるお方が命令し、人間はその命令に服従することによって、契約の恵みにあずかるという前提があるものでした。

* その意味で戒めとは、契約の相手として招いて下さった神の示して下さっている契約の条件ともいうべきものだと言えるでしょう。それ故、神の権威を認めて、その戒めに応えていこうとすることは、契約の相手として招かれた者の現すべき姿であることは言うまでもないことでしょう。

* 詩篇119:143では、「悩みと苦しみがわたしに臨みました。しかしあなたの戒めはわたしの喜びです」と歌っています。神との契約の下に置いて頂いているということは、何の問題も起こらないようにされているわけではありません。

* 現実には、悩みと苦しみとが今襲い掛かっている。けれども私にはあなたが示して下さっている契約の条件が間違いのないものだと信じているので、それに応えていこうとしていれば、必ず神の祝福の中に置いて下さると信じることができ、喜び、楽しんでおることができると言うのです。

* 契約を結んで下さった権威あるお方を信じ、その条件を守ろうとしさえすれば、神は、この私を契約からはずされることはなく、そこに約束されているものにあずかることができないはずはないと確信して、苦しみの中にあっても疑わない姿が描かれています。これは、詩篇19篇の詩人の体験記でもあったと言えます。

* 詩人は、「主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする」と言いました。分かりやすい言葉に言い換えるならば、主が示して下さった契約条件は、まじりのないものとの表現で、裏がなく、いんちきのない,そのままのものだから、主の戒めを心にしっかりと刻んでさえいれば、心が燃えて、眼が生き生きと輝き出すとまで言っているのです。

* 主の契約の中に置いて頂いているのに、現状の苦しみや悩みが襲ってくると、腐った魚の眼のように、眼に光がなく、死んでいるかのような姿を現しているとするなら、その信仰者の心は燃えることなく、輝くこともなく、気の抜けた歩みしかできないでしょう。

* 詩人は、主の戒めに示されている神の真実と、その約束を果たされる神の誠実さとを本気で信じていたので、現状の戦いにはかかわりなく、心は、契約を守って下さる神への期待と信頼とを失うことなく、喜びがあふれ、それが眼の輝きとなって表に表れていたと告白しているのです。

* このような4つの表現から、詩人が律法に対して抱いていたイメージがどのようなものであったか見えてきます。それは絶対守らなければならない、厳しくつらい、冷たい戒律のようなものとしてではなく、神の力を頂くためにはなくてはならないもの、それは、契約の中に置いて頂いていることの確証であり、私を正しい道に導き、命を得る道として示されているものであり、それはまた、契約に示されている約束にあずかる条件であり、喜びと力とに満ち溢れるものだと受けとめていたのです。

* それが、後のユダヤ教においては、どうして命のない戒律として受けとめられるようになってしまったのでしょうか。それは、律法に全く従わなくなった不信仰の結果、神に見離されて国が滅亡し、バビロン捕囚を経験することによって、見捨てられる神を体験し、捕囚後に、律法を神に見捨てられないために守らなければならないものと受けとめるようになり、宗教的な権威を祭司たちが持つようになったことによって、律法を戒律として見るようになってしまったのでしょう。

* 国が滅亡するまでの契約の民の律法観は、信じる者に対する神からの道しるべとして、喜びと力に満ち溢れるものとして、力と命を得る導きとして、また、主の守りと支えにあずかる励ましと拠り所として、それは、新約において言えば、福音のようなものとして受けとめていたのです。


  (2)私の思いを満たしてくれる真実なもの

* 4つの表現を使って、律法が与えられた民としての幸いを表現してきた詩人は、天体や大自然からのようなぼんやりした神の声ではなく、より具体的、直接的な神の声を律法から聞き取るように導かれているすごさを明らかにしてきました。

* このような、神と出会い、神を体験していくものとして律法を捉えていた詩人は、律法から神の御声を聞き取っていこうとすることが、神を畏れ敬う姿を現すことであって、そのような向かい方はきよく、永遠に続くものだと歌いました。

* 律法から神の御声を聞き取っていこうとすることが、どうして神を畏れ敬うことになるのでしょうか。それは、私を契約の中に置いて下さり、神の恵みと力とにあずかる者にしようとして下さる神の驚くべき深い愛の御声を律法から聞き取ることは、主の前に砕かれ、低くされた心を持たずしてできないことであり、主を畏れ敬う心なくしてできないことだからです。

* それ故、主のさばきは真実であって、ことごとく正しいと告白したのです。このさばきとは、主が下される判断のことですが、契約の中に置いている者に対する神の導きは、必ずしも、信仰者の思い通りになるようにして下さるわけではありません。神のご判断に沿って導いて下さるのです。そのご判断は正しいと言います。ここにこの詩人の信仰がよく現れています。

* 自分の願いを第1に置かないで、神のご判断は真実で、正しく、私にとって真の益になるためのものだと判断された神への正しい畏れが根底にあるから、そのように告白できるのです。

* しかも11節で、神のお心として示して下さった律法は、世においてもっとも貴重で、高価なものだと考えられていた純金よりも慕わしいと思え、甘く舌をとろけさせる蜂蜜よりも甘いということによって、私にとっての律法は、他のどんなものよりも私の思いを満たしてくれるものだと言ったのです。

* 詩人が律法の中に何を見ていたのか、ともすれば冷たい戒律のように見え、信仰者の規範や掟のように見える律法の中に見ていたものは、人間を愛し、契約の中に置いて、正しく導きたいという神の熱い心を見ていたのです。

* パウロは、このモーセの律法と対比して、福音をキリストの律法と表現することによって(ガラテヤ6:2)、福音の中に示されている勧め、信仰者として表すべき姿勢をキリストの律法と言い、それは新約の戒律としてではなく、神と出会い、神を体験することによって、人間を愛し、契約の中に置いて、正しく導きたいと思っておられる神の熱い心を、そこに見るように示しているのです。


  (まとめ)生ける水が川のように流れ出る体験

* この詩人が、律法をどのようなものとして捉え、どのようなものとして日々体験してきたかを歌うことによって示そうとしたことは、命のない神のお心はない、律法の中に熱い神のお心が示されており、それは、私に深い神の知恵を与えるものであり、私を喜ばせ、生き生きとさせてくれるものだと受け取っていたのです。

* 4つの表現を通して、律法がいかに力あるものであり、契約の中にいる者を生かすおきてであり、あかしであり、命令であり、戒めであるかを受けとめてきた者として、神のお心をしっかりと受けとめ、神と出会い、神を体験してきたことを告白しているこの詩は、律法の真の価値を見出している詩として光を放っていると言えるでしょう。

* イエス様は、祭りに来ていた人々に向かってこう叫ばれました。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。私を信じる者は、聖書に書かれてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出る」と(ヨハネ7:37,38)。

* これは、命に満ちた神の御言葉を飢え渇いて求めるならば、生ける水が内側から流れ出てくる経験をしていくことができると言われ、主のみ言葉を飢え渇く姿が、主を畏れ敬う姿であると言われているのです。

* 飢え渇かない心には、生ける水を飲む経験はできません。この詩人が、自らの体験告白を通して訴えていることは、律法の中に示されている神のお心を食べ、味わい、力を得る体験をすることが、生きた信仰であり、眼が輝き続ける歩みだと、飢え渇くことの大事さを示しているのです。

* 律法より明確な、力があり、恵みに満ちた新約の福音から、真実な神の御声を聞くことができるようにされた私たちは、飢え渇くことによって、生ける水が腹から川のように流れ出る体験をし,眼がらんらんと輝く、生きた信仰の歩みを続けたいと思うのです。

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