聖日礼拝メッセージ
2012年6月12日 更新

聖 書 詩篇19:12〜14  (第3講)
 題 「主のあわれみと助けとにすがった信仰人生」


  (序)自分の内面を正直に見ていた詩人

* 霊的感受性が敏感にされていた詩人は、天体やすべての大自然から神の栄光をたたえる声を聞き取り、それらの広大な被造物すべては、創造主である神の奥深いお計らいによって、人間に仕えるために造られたという神のあわれみに満ちたお心を知って、神をあがめたのです。

* それだけではなく、神の御声はもっとはっきりとした形で人間に示されていると、目を律法の方に向け、その御声は霊が死に掛けていた者の霊を生き返らせる力を持っており、霊的に無知な者に、霊的な正しい判断を下すことができる霊的知識を与えて賢くし、心が生き生きとし、心を燃やして眼が輝く歩みができるようにして下さると言いました。

* このように、律法からの力ある神の御声を聞き取り、それに素直に応えていくことが律法に生きることでありますから、詩人は、主のしもべとして、その道を進んでいきたいと思い、これを守るならば、神が大きな報いを与えて下さると信じていたのです。

* しかしその反面、気づかずに犯しているあやまちがあるのではないかという恐れがどこかにあって、律法の素晴らしさをそのまま素直に喜べない所があったのです。というのは、律法は、聞くことに意味があるのではなく、守ることに意味があって、神はそれに応えて下さるお方だからです。

* それ故、本当の意味で律法の持っている、霊を生き返らせる力や霊的判断力を与えるすごさや、心を生き生きとさせ、眼を輝かせるという生き方をより高めていくという素晴らしさは、律法を守る者に対して与えようとされる神からの報いなのですから、守っていると言えない部分が気づかない所にあるのではないかという恐れが拭い切れなかった詩人の正直な性格が伝わってきます。

* こういう点が、後の律法主義的ユダヤ人の信仰と大きく異なっているのが分かります。律法主義者たちは、自分たちは完全に律法を守っており、神もそれを認めて下さっていると自負していましたから、自分の気づかないあやまちや罪などを犯している可能性などを考えることもありませんでした。それ故、恐れることもなかったのです。ある意味では確信に満ちていてすごいことですが、自分の勝手な感覚以上のものではなかったのです。

* 今日の私たち信仰者における福音信仰も,聞くことに意味があるのではなく、守ることに意味があり、それに応えて下さる報いとしての福音の恵みにあずかり、その力に満たされ、霊的判別力が与えられ、霊が生き生きとし、眼が輝くという信仰体験をさせて頂けるのです。その意味で、この詩人の正直な信仰から大事な点を学び取っていくことにしましょう。


  (1)隠れたあやまちや罪をどう処理しているか

* この詩人は、律法を単なる無味乾燥な戒律と見てはおらず、律法の持つすごさというか、そこに込められている、選び出して契約を立てた者に対する神の熱い御思いを感じ取っており、律法を守ろうとする者に対して、報いて下さるお方だと確信していたのです。

* しかし一方では、律法を完全に守ることがいかに難しいことであるかということもよく悟っていたのです。それは、自分の姿を第3者的にというより、神の視点から分析し、判断する能力に長けていたからです。

* 人間は、自分には甘く、よく見ようとするような、自己採点の甘い所があります。律法がもたらす力や恵みのすごさを知って、律法を守る向かい方をしようとしても、正しく自己採点するならば、律法の精神を重んじて向かうことはできても、細部に至る事柄や、自分で気づいていない部分においてまで、あやまちや罪を犯さない者でおることができるとまでは決して思ってはいなかったのです。

* まして、すべてをご存知である主の目をごまかして、律法を完全に守っているかのように装うことは不謹慎であると分かっており、律法を完全に守ることのできない者が、律法を守った者に対して与えようとされる神の報いを期待することは難しいと思っていたのです。

* それでは、詩人が意識していた、気づかないで犯しているあやまちや罪とは、どのようなものだったのでしょうか。ここに記されている用語だけでは何一つ分かりませんが、犠牲の供え物をささげ、罪赦された後も、人間の内側に肉の思いが残っており、神の喜ばれないあやまちや無意識の罪、それは、その人の持っている性格や癖や弱さから出てしまう、自分で気づいていないあやまちや罪があるということでしょう。

* この詩人は、肉の思いで生きていこうとしやすい自分を意識していましたから、性格や癖や弱さから出てくるものまですべて把握し、それを抑制することができないと分かっていたのです。

* そこで、思いにおいては律法に従い、忠実に守りたいと願う思いで向かっていることを神に受けとめて頂いて、それでも自分で気づくこともできない霊的無知からくるあやまちや、性格や癖や弱さから自然と出てしまう隠れた罪を、主のあわれみによって赦して頂くように、願うしかなかったのです。

* もし、どんな些細な事でもあやまちや罪があったなら、それによって律法を守っていない者と見られ、律法のもたらすすごい力や恵みにあずかれないように報いて下さらないとしたら、信仰者は、悲惨というしかありません。律法を完全に守ることができる者は一人もいないのですから。

* 詩人が確信していたもうひとつのことは、主はそのように、信仰に生きる者をあわれんで下さるお方だと言うことです。律法を完全に守ることができなくても、主のあわれみを信じて向かう信仰者のために、赦して下さらないはずはないと信じていたのです。

* 口語訳では、「解き放って下さい」と訳されているこの言葉は、きよめるとか無罪を宣告するという意味を持った言葉で、それらの、気づかず肉の思いから現したあやまちや罪を有罪と見られないで、信仰の故にあわれんで下さって、無罪の宣告をして下さいと願ったのです。

* これは、肉の弱さを持っている自分であることを認識して、主のあわれみを願うことは、決して甘い考えなどではなく、信仰者として正直に自分の弱さを認め、律法に従い、守っていきたいとの強い思いを持ちつつも、弱さから出てくるあやまちや罪があると感じられるので、そのようなあやまちや罪を見られても赦して下さいと願うのは、信仰者としてのあるべき姿だと考えていたのです。

* この意味で、詩人は、自分の弱さを嘆くわけではなく、律法を完全に守ることのできない弱い自分を認め、主の前に格好をつけず、その弱さのまま、主のあわれみを信じて祈る人でありました。そして、信頼する者を裏切られないお方だと確信している人であったのです。この信仰は、今日の私たちにおいても、心に留めるべき大事なことだと言えるでしょう。


  (2)弱さから出てくる罪をどう処理しているか

* 13節の「故意の罪」と訳されているこの言葉は、ある人たちは、「不法の人」とか「傲慢の罪」の意味で理解していて、ここは判断が難しい所ですが、12節の内容から続けて語られている内容として、ここは、故意の罪を犯す場合のことを考えていたとは思われません。

* 分かっていて、わざと罪を犯すなら、神の赦しがあるとは思ってはいなかったでしょう。ただそれが罪だと分かっているにもかかわらず、弱さからつい肉の思いに囚われて、神に忌み嫌われる不法を行ってしまう姿を取り上げているのではないかと考えられます。つまりわざとではなく、弱さの故につい行ってしまう罪だと言っているのでしょう。

* 自分の弱さを知り尽くしていた詩人は、肉の思いから出てくるすべての罪を、自分の自制心で何とかなるようなものではないと感じていたので、そのような肉の思いに支配され、引っ張られて罪を犯してしまうことのないように、主の助けを願っているのでしょう。

* 詩人は、主の助けがありさえすれば、自制心を強くして下さり、あやまちのない者とされ、神が忌み嫌われる多くのとがから解放されると歌っています。これは、全くあやまちを犯さない者になれると言っているのではありません。

* 弱さを覚え、罪を犯したくないと思いながらも、これは神が忌み嫌われることだと分かっている思いと言葉と行いにおける罪を犯してしまおうとする肉の思いを、神がコントロールして下さるように真剣に願い、導いて下さると本気で信じるならば、その信仰を見て、神は、私たちがあやまちを犯さない者と見て下さるという神の視点から見た表現だと分かります。

* 詩人は、自分が律法を完璧に守ることができる人間だとは思ってはいませんでした。自分で気づかないあやまちや罪ばかりではなく、これは主の前に忌み嫌われるあやまちや罪であることが分かっていることにおいても、彼は自分の自制心を過信できる人ではなかったから、罪を犯してしまいやすい自分を知っていました、それ故、主のあわれみと助けとを願わずにはおれなかったのです。

* 律法に生かされ、律法を守る者に対する主からの報いを受け取って歩むためには、律法に従い、守っている者と主から見られない限り、主からの報いを期待することはできないと分かっていました。

* そこで、詩人の取った行動は、自分の弱さを認め、霊的無知からくる所の隠れたあやまちや罪を犯して、神から律法違反者の烙印を押されることがないように、主のあわれみを求めるという信仰的処理をしたのです。

* それだけではなく、さらに分かっているにもかかわらず、自制し切れずに犯してしまうあやまちや罪を、自分の自制心に信頼せず、主が私の内側に起きてくる肉の思いをとどめ、肉の思いに支配されて、あやまちや罪を犯すことがないように主の助けを求めるという信仰的処理をしたのです。

* この様な信仰的処理をしたからと言って、隠れたあやまちや罪を犯さないようになるわけではなく、神の忌み嫌われることであると分かっていながらも、自制し切れずにあやまちや罪を犯してしまうということがなくなるのではありません。

* ただ、この信仰的処理をすることによって、あやまちや罪を軽く見たり、守るのは無理だとあきらめたりするのではなく、そこに主のあわれみと助けがあることを信じる信仰に立つことが、弱さを乗り越え、神から律法を守っている者として見て頂ける唯一の方法だと受けとめたのです。ここにこの詩人の確かな信仰を見ることができます。

* 新約の時代に生きる私たちにおいても同様だと言えるでしょう。福音がもたらしてくれる神からの報いにあずかるためには、信仰によって、罪が正しく処理されていなければなりません。

* 気づかないで罪を犯し続け、福音の恵みから外れてしまうことがないように、主のあわれみを求め、神に忌み嫌われることだと分かっていながらも自制し切れずに罪を犯してしまうことに平気にならないように、主の助けを求め、福音に聞き従っている姿を現していると神から見て頂く歩みを続けたいのです。


  (3)主は私の岩、私のあがない主との信仰告白

* 主との契約の中に置かれ、律法を与えられた主の民として主からの恵みに満たされ、主の道を正しく歩むように導かれている信仰人生を送っていた詩人でありましたが、その歩みを妨げるものが、なお自分の内側にあることを強く意識していたのです。

* それが罪ですが、主のあわれみと助けなくして、霊的無知と弱さから発する隠れた罪と、分かっていながらも自制し切れない罪から解放されず、平安な信仰人生を送ることができないことを悟っていた詩人は、そのあわれみと助けとを与えて下さるお方が、私の岩であり、私のあがない主だと14節において信仰告白しているのです。

* 私の岩とは、聖書では2つの意味で使われています。第1は、全く動くことのない確かなもの(申命記32:4他)という岩の性質を語る比喩的内容として、第2は、敵から身を隠したり、岩から出る水によって渇きを癒したり、救いを意味したり、神の愛し守る御手のようなものだと記されています。(詩篇94:22他)

* ここでは、弱さを自覚している詩人にとって、歌っている内容から考えますと、主のあわれみと助けとを頂くことによって、罪に落ちてしまわないように、外から包むようにして、律法違反者の位置に立つことがないように守って下さるお方だとの第2の意味で使っていると考えられます。

* この詩人にとって恐ろしい外敵は、自分の霊的無知と弱さとであったのです。気づかずに犯している罪があることも分からず、また分かっていながらも自制することができない罪につぶされそうになるのですが、主がこの私の岩となって下さっている。私を取り囲み、私の力では対抗できない、自分の霊的無知と弱さから守って下さると信じていたのです。

* この詩人は、どうしてこのような新約の信仰に近い信仰に立つことができたのでしょうか。天体や自然を見つめ、律法の真意を見つめ、自分の内面を見つめ、神を見つめるという、真理を追い求める信仰者であったことが伺えます。これが、この人の信仰の源泉であったことが分かります。

* 真理を飢え渇いて求める歩みをすることによって、霊の目が開かれ、霊の耳が聞こえるようになり、霊的感受性が敏感になり、世に生きている人の目に見えないものが見えてくるようになったのでしょう。もっとも素晴らしい彼の発見は、主は私にとって岩であるというものだったのです。

* 彼が発見した第2のものは、主は私のあがない主だという点でした。旧約におけるあがないとは、@財産や動物や人間が法律上自由になるために金銭の支払いをすることによって買い戻す意味で使っています。A宗教的、祭儀的用語として、あがないの犠牲をささげることによって、罪からあがなわれるというものです。

* それ故、詩人がここで、主は私のあがない主と言った時、罪のあがないの道が示され、あがないの犠牲をささげることによって、罪赦された者に回復して下さったという信仰に立っていたのは、もちろんのことでありますが、罪赦されたにもかかわらず、なお隠れたあやまちや罪を犯しているのではないかという恐れと、分かっていても弱さの故に自制し切れていない罪があることも意識していましたから、それらの罪をもあがなって下さるお方だとの告白であることが分かります。

* 私のあがない主であるとの信仰告白は、軽い思いでは告白できません。主のあわれみと助けとがあるとの強い信頼と、神はこの私を見て、律法を完全に守っている者とは見えないにもかかわらず、この私を罪なしと判定して、ご自身の所有物として買い戻して下さったとの確信を持ち続けることなくして、心からの告白はできません。

* 自分の霊的無知や弱さから、絶えず罪が見え隠れしていても、それに惑わされず。主の側で、主のあわれみと助けとによってその罪を処理して下さっているとの信仰を動かさないことが必要なのです。

* このように、主を私の岩、私のあがない主と告白した詩人は、自分の霊的無知や弱さによって律法に生きる生き方が歪められずに支えられ、律法を守ることによって与えられる主からの報いを喜び味わい、霊が強くされ、霊的知識が増し加えられ、心は喜びにあふれ、眼が輝いていたのです。

* 律法主義者たちのような自分の視点から見た、律法を完全に守っているとの誤った確信ではなく、霊的無知と弱さとの故になお、罪に襲われながらも、主を私の岩、私のあがない主と告白する信仰に立ち続けることによって、それらの罪を正しく処理し、あがなわれて神のものとされているという強い確信に立っていたのです。


  (結び)主の中に置かれている勝利を信じていた詩人

* この詩人が最後に願ったことは、私の口の言葉と心の思いとが主に喜ばれますようにということでした。口語訳では2つの内容をひとつに結び付けて訳していますが、原文では、私の口の言葉が御心にかなうようにと願い、私の心の思いが御前に届きますようにと願っています。

* 自分の霊的無知さや弱さを認識していた詩人は、そのような不完全な者が、ただ主のあわれみと助けとによって御前に立たせて頂き、あがない取って下さったご自身の者として導いて下さり、なお出てくる口の罪、思いの罪が抑えられ、きよめられていくように育てて下さるお方だと信じていたので、このように祈ったのでしょう。

* 主の前に傲慢ではなく、さりとて卑屈でもなく、神の手の中に握られ、神のものとしてあがなわれていることをわずかも疑わず、なお覗き続ける罪にも振り回されず、信仰的処理をし続け、罪を抑え、さらにきよめていくように育てて下さる主を告白し続けた詩人は、現実の有様に負けることなく、主の中に置かれている勝利を信じ続けた人であったと言えます。

* これは、信仰者において、非常に重要な信仰姿勢だと言えるでしょう。何の問題もない人は一人もいません。すべての人は、その人なりの霊的無知と弱さとが信仰の歩みを妨げようとしています。他の人の弱さと比べたり、裁いたりしている間は自分の弱さが見えていないということです。

* 罪が全く覗こうとしない生き方ができれば、何の問題もないのですが、そんなことは望めません。罪は私の口を引き落とし、人や自分に害を与え、私の心の思いを暗くさせ、落ち込ませます。

* 主を私の岩と信じ、主を私のあがない主だと信じて、罪がなお自分の中から出てくるという現実の有様に振り回されず、負けることはないと信じ、主の中に包まれている勝利を味わって歩み続ける者でありたいのです。

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