聖日礼拝メッセージ
2012年6月12日 更新

聖 書 Vヨハネ1〜6  (第1講)
 題 「愛の教会が建て上げられていくすごさ」


  (序)明確に示されていない差出人と、受取人

* ヨハネの第2の手紙と第3の手紙は、当時の手紙の形式に沿った差出人と受取人とが明確に記されている手紙となっています。ただ、選ばれた婦人とその子供たちと記されている受取人が一体誰のことか、自ら長老と呼んでいる差出人は誰のことか明確ではありません。

* この手紙の内容を理解するためには、その背景として、受取人と、差出人とを判定し、何の目的でこの手紙を書いたのかを考える必要があります。そうすると、著者がどのような思いで神のお心を示そうとしたのかが見えてきます。

* この受取人は、個人的に知っていた婦人とその子供たちと言われている一信仰者の家庭に宛てて書かれているように考えられ、そのように受けとめる学者もいます。選ばれた婦人を固有名詞として理解し、エレクティ・クリアだと見る人、あるいは、選ばれたクリアという人物だと見る人、あるいはエレクティ夫人と見る人などです。

* しかし多くの学者たちは、これは固有名詞ではなく、比喩的な表現として使われており、この手紙を送った一地方教会を指していると見ます。それは当時、教会が女性名詞で表現されていることがしばしばあったからです。(黙示21:2,9,22:17キリストが小羊であり、教会がその花嫁と呼ばれている)もし比喩的表現だとすると、婦人の子供たちというのは、その教会の教会員たちを指していることになります。

* どうして、このような分かりにくい比喩的表現で言わなければならなかったのかという正確な理由は分かりませんが、勧めている内容全体から判断しますと、ある教会とその教会員に宛てた手紙だと見る方が納得いきます。個人ではないと完全に否定することはできませんが、教会とその信者に宛てられた手紙だとして見ていきましょう。

* 今度は差出人ですが、自ら長老とだけ名乗っていることから考えられることは、教会ではこの呼称だけで誰からの手紙であるか分かっていたのでしょう。すなわち、字義通り年長者というだけではなく、教会における指導者的立場と権威とを暗示する称号として、長老の名前が使われており、これが後に、使徒ヨハネが書いたものだと見られるようになりました。

* ある学者たちは、長老ヨハネという人物がいて、使徒ヨハネとは別人であったと想定していますが、それを確かめることができるような当時の文献はなく、あくまで推測でしかないと言う事でしょう。

* もちろん、著者が使徒ヨハネでなければならないということはありませんが、真理の福音を伝え続けていた巡回伝道者であり、尊敬を受けていた人物が、その指導に当たっていた教会に対して、信仰の勧めを書いたと見て学んでいくことにしましょう。

* その宛先の教会が、どのような信仰的危機に見舞われ、何に注意するべきか、2回で全体を捉え、そこに示されている神のお心を読み取っていくことにしましょう。


  (1)真理による結びつき

* まず、この教会における信仰的危機とはどのような背景の下で襲ってきたものか、その当時の背景を簡単に見てみましょう。当時クリスチャンが伝道のため、または商用のために旅をする時、どのような所で宿泊したかを見てみる必要があるでしょう。

* 確かに宿屋はあるにはあったのですが、あまり多くはなく、あっても評判が悪く、宿屋は汚くて、宿屋の主人は貪欲であったと見られていました。そこには、全く快適さは求められなかったと言われています。それ故ユダヤ教においては、旅人をもてなすことを大事な徳として勧められており、クリスチャンの場合は、地方の教会や信者の善意に頼るのが普通のことであって、ローマ12:13などでも「旅人をもてなしなさい」と勧められています。(ヘブル13:2)

* このような善意が仇となる場合もあったのです。それは、クリスチャンの振りして入り込んでくる偽教師が、偽の教えを広めようとして教会や信者の家に入り込み、信仰を覆させようとしてくることがあったのです。

* 第2の手紙では、10節において、そのような偽教師たちに注意するように語られており、第3の手紙では、巡回伝道者を受け入れず、泊まらせることをしなかったデオテレペスのことを取り上げ、真理の福音を伝える人たちを追い出そうとして、信仰者の表すべき善意を否定し、教会に迎え入れないように働きかけた光景が描かれています。このような背景の下において記された手紙として、その内容を見ていくことにしましょう。

* 最初の挨拶の中で、私はあなたがたの教会を愛し、信仰者一人一人を愛している。私だけではない、真理を知り、真理に立っている者はみなあなたがたを真理に立っている者として愛していると、伝道者と教会、教会と教会との関係は、真理という一点で結びついており、愛し合い、支え合う関係として置かれていることを明らかにしているのです。

* しかも真理は、変動、変更するものではありませんから、永遠に私たちと共にあると言って、一旦真理を受け取ったならば、真理は私たちから離れることなく、真理によって私たちはひとつに結び合わされていると言うのです。

* このことを、最初の挨拶の中で示しているのは、著者ヨハネが、私は真理を伝える者としてあなたがたの前に立ってきた、神が示された真理だけが、あなたがたと私とを結びつける唯一のものであって、どちらかが真理から外れるなら、その結びつきも消えてしまうと、真理が伝道者と教会、教会と教会とを結びつける唯一の根拠であることを示しているのです。

* なぜヨハネは、真理にそれほどこだわるのでしょうか。真理でなくても、励みとなったり、納得できて、いいと思えたりするものであるだけでは、どうしてだめなのでしょうか。人間は、自分の観点からものを見ようとする心を持っていますから、あまり、真理であるかどうかにこだわらないのです。それが自分にとって良いと思えるものであれば受け入れにくい真理よりはいいと思ったりするのです。

* それでは、真理とは何なのでしょうか。このことを私たちはよく理解している必要があります。真理とは、すべての真偽を見分けることのできる神のお心そのものなのです。すなわち、神のお心は真実であり、そこには偽りは全くありません。

* それ故、神のお心そのものである真理の福音でなければ、神から出たものではありませんから、人間の観点から見てよいものだと判断したとしても、神は、それは本物ではなく、何の意味もないものとして排除され、偽物として捨てられます。すなわち、真理であるかないかは、神が本物として受け入れられるか、偽物として見捨てられるか判定されるという意味で、非常に重要なポイントになります。

* 卑近な例を挙げますと、○○ブランドの本物のかばんと、偽物のかばんとでは、品質や価値が全く違いますが、使う段にはそれほど不都合はありません。しかし本物の福音か偽物の福音かの違いは、決して小さなものではなく、本物の方は神から出たものですから、神は受け入れられますが、偽物の方は、神から出たものではなく、サタンから出たものですから、害があり、毒性を持っているものとして排除し、見捨てられるのです。かばんであれば偽物でもかばんですが、福音の偽物は福音ではないのです。このことをヨハネは訴えようとしているのです。


  (2)真理にあって歩み始めた人々を見て喜ぶヨハネ

* それ故、教会員の中に、真理にあって歩んでいる人があるのを見て喜んでいると言いました。この表現は、みんなが真理にあって歩んでいるとは見ていないという否定の思いも含まれている表現であることが分かります。

* それでもヨハネは、真理にあって歩んでいる人があるのを見て、心から喜んでいたのです。それは、真理にあって歩むということが、肉の心が強い人間にはそう簡単ではないと考えていたからでしょう。誰でも簡単に真理にあって歩むことができるのであれば、伝道者は戦うことが少なくなるのですが、なかなかそういうわけにはいきません。

* なぜ、真理に立って歩むことがそれほど難しいのでしょうか。それは、真理を受け入れにくい、人間の構造の方に問題があるからです。神が本物として示されたものを、肉の思いが強い人間は、それをわずかも歪めず、そのまま受け入れるということがなかなかできないのです。

* 真理を受け入れ、真理に立つということは、それまでの自分の思考回路を完全にストップさせ、神のお心が示されている意図を歪めないで、そのまま受け取っていくという全く別の思考回路を働かせ始めなければ、決して受け入れることができないからです。

* そのためには、聖霊の助けを頂いて、神の深い知恵を受けとめる必要があることを、イエス様のお言葉として伝えられています。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」と(ヨハネ16:12)

* すなわち、聖霊の助けによって、それまでの肉的思考回路を完全にストップさせた上で、聖霊による全く異なった思考回路を働かせることによって、神の深いお心をそのまま真理として受け取っていく歩みが始まるのです。それは、瞬時にできるものではありません。だから、真理にあって歩むということは、そう簡単なことではないのです。

* しかし、この宛先教会の中に、その生き方を始めた人が、というより、そのような霊的生き方が定着し、真理にあって歩んでいると言える人が起こされているという事実を見たのです。そのことは、ヨハネを心底喜ばせ、希望を持たせたのです。

* というのは、たとえ数人であれ、そのような真理にあって歩む人が教会の中にいることによって、教会全体が霊的に育てられ、他の人々にも大きな影響を与えることを知っていたからです。だから全員でなくても、何人かの人がそのように整えられ始められていることを喜ばずにはおれなかったのです。

* この真理にあって歩む姿を、ヨハネは、父から受けた戒め通りに歩んだ姿だと言いました。この戒めとは、Tヨハネ3:23では、神の子イエス・キリストの御名を信じること、さらに互いに愛し合うことだと言っています。

* すなわち、キリストを信じることによって神を愛する生き方をするようになり、キリストを信じた者同志、互いに愛し合う生き方をするようになることが、神の戒め通りに歩むことだと教えているのです。

* ここから分かることは、真理にあって歩むとは、単に真理の福音を受け入れるだけではなく、真理の福音に沿って歩むという信仰者の言動に目が向けられており、神を愛する歩み、兄弟愛を持って互いに愛し合っていく歩みが真理にあって歩むことであり、父なる神の戒め通りに歩むことだと言って、教会員のある人たちは、現に愛を大事にする歩みをしていたのを見て、ヨハネは喜んでいると言っているのです。

* ということは、この手紙の宛先の教会において、まだ少数ではあったが、非常に期待できる愛の教会が少しずつ出来上がりつつあることを見て喜んでいたということでしょう。具体的にどのようなものであったか,触れられてはいませんから分かりませんが、そのことを6節の言葉からもう少し考えてみることにしましょう。


  (3)愛の教会が作り始められていく過程

* ヨハネが望んでいた愛の教会とは、どのようなものだったのでしょうか。ヨハネは、真理にあって歩むという表現を使ってきました。それは、真理の中を歩むという意味ですが、それと同じ言い方を使って、愛の中を歩むようにと勧めています。

* すなわち、真理の中を歩むことは、愛の中を歩むことにつながっていると示しているのでしょう。キリストの福音に生きるようにされた信仰者は、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子を遣わして下さった神の愛の大きさ、深さに触れて(Tヨハネ4:10)、神の愛の中に囚われ、その愛に囲まれて生きることのできる素晴らしさに包まれる者となりました。

* 本当の愛を知らなかった者が、愛の本質を知らされ、愛に包まれるということが、どんなにすごい恵みであるかが分かるようになってくると、その人の内側に愛の思いが引き起こされてきて、互いに愛し合うという兄弟愛を現していくように導かれるのです。

* ということは、兄弟愛は、神の愛のすごさに圧倒され、その愛に包まれ、愛とはどのようなものであるかを感じさせられ、神によって、内側に愛の思いが起こされていくという経験をしていかない限り、現し得ないものであることが分かります。

* 愛の中を歩くようにとの勧めが、信仰を持った最初の頃から聞き続けてきた大事な神の戒めであったということにより、それは、繰り返し聞き続けていくべき大事な戒めであり、それを現していくことができるように求めていくべきものであることを示していると言えます。

* すなわち、神の愛のすごさを味わい続ける歩みを大事にしながら、内側に愛の思いが引き起こされるのを期待して待ち続け、愛の中を歩くことができるように、信じて向かうことが求められているのです。

* もちろん、神の愛のすごさを味わい続けるためには、御言葉を学び続ける必要があり、キリスト・イエスを通して示されている神の愛(ローマ8:39)に包まれる経験をしていくことが、内側に愛の思いが起こされてくるための土台として必要だということが分かります。

* それ故、ヨハネが望んでいた愛の教会とは、どのようなものであったか考えてみますと、まず、真理の中を歩む者が起こされてくることでありました。

* そのためには、自分の肉の思いを納得させる人間の教えを拒み、神が本物だと判定される真理の御言葉を学び続け、そこに御霊が働いて下さることによって、神の知恵によって正しく理解し、歪めないで受けとめて、そのまま信じ、それによって、神の深い愛に包まれる経験をしていくようされていくのです。そのことを大事にしていくならば、内側に愛の思いが起こされてきて、兄弟愛を持って互いに相手を大事に思い、祈り合い、支え合い、仕え合っていく歩みをしていくようにされる。これが愛の教会の姿なのです。

* 全員がそのようにできるに越したことはありませんが、簡単ではありません。その中の少数であっても、愛の教会が作り始められていくならば、それは人間によるものではなく、神が起こして下さっているみわざだと言えますから、そこに大きな期待と望みを持つことができるのです。


  (まとめ)愛の教会作りをして下さる神への大きな期待

* ヨハネが示してきた要点は、真理の中を歩むことと、愛の中を歩むことでありました。なぜそれが重要だと考えていたのでしょうか。

* ヨハネにとって、神のお心そのものである真理から離れることは、すべてのことが無意味になるというだけではなく、恐ろしいサタンの手の中に逆戻りし、サタンの兵士として、キリストの兵士に敵対し、害を与える存在になってしまうと示してきたのです。

* 福音書では、キリストが真理そのものであると語られており(ヨハネ14:6)、御霊はその真理を分からせるために遣わされると言われているのです(ヨハネ16:13)。言わば、私たちが真理の中を歩むようになるために、キリストが遣わされ、御霊が遣わされたと言うのです。何という恵みでしょうか。

* そしてそれは、私たちが愛の中を歩むようになるためだとも言います。ヨハネは、今すでに愛の教会が作り始められている姿を見て喜びながら、それが少数のままで終わるのではなく、教会全体に及び、すべての人が真理の中を歩み、愛の中を歩むことを願って勧めているのです。

* 確かに、言葉では真理の中を歩め、愛の中を歩めと簡単に言うことができますが、それが瞬時できるものではないし、簡単にできるものでもありません。それでは信仰者として、どのように心掛けていればいいのでしょうか。

* ヨハネが考えていたひとつのことは、父から受けた戒めを重んじていこうとすることです。すなわち、神の大きな愛に包まれる霊的信仰生活をし、そこから神を愛し、人を愛する思いが内側に起こされてくることを強く期待して、その導きを信じて歩んでいこうとする信仰的生き方を心掛けていれば、神が育てて下さり、愛の教会を建て上げて下さるというものでした。

* 私たち人間の頑張りによるものではなく、神が育てて下さる土壌として自分を明け渡しながら、真理の中を歩み、愛の中を歩む力を主が与えて下さることを信じることです。

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