(序)守りを固めるという準積極的な行動を取る
* この手紙の宛先の教会において、反キリストたちが、信仰者の、信仰的な思いや愛の行動を逆手に取って、信仰の中に土足で入り込もうとしていた光景が,少ない言葉ながらよく言い表されています。
* そこには、反キリストたちの巧みな策略と、信仰者たちの脇の甘さとが合わさって、蛇に睨まれた蛙のごとく、身がすくんで手も足も出ないどころか、飲み込まれてしまっている姿が描かれています。
* どうして、信仰者は抵抗できず、立ちすくんでしまい、弱さを露呈してしまうのでしょうか。それは、反キリストたちは確信に満ちているから、態勢は万全であるが、真理の福音に捉えられ、しっかり立っているはずの信仰者の方が、確信が不十分で、思いが揺れ動き、安定がなく、態勢も万全とは言えなかったからでしょう。
* 確かに、前回学んだように、真理のうちを歩む姿を現している人たちも出ていたので、そのような人たちの信仰は崩されることなく、教会の土台を支えていましたから、教会として崩されてしまうということはありませんでしたが、その激しい働きかけは、教会内部に強い揺れを感じさせるものでありました。
* なぜ信仰者は、外からの激しい揺さぶりに対抗できる信仰態勢を万全にすることができない人が多いのでしょうか。それは、真理の福音を味わい続け、真理の福音に立つことを告白し、真理の福音に生きる歩みを確立することはそう簡単ではなく、隙も多いので、少しの揺れでもその態勢が崩されやすいからでしょう。
* 真理の中を歩み、愛の中を歩むことが、神の求めておられる信仰姿勢であることを、前回の箇所で示していましたが、今日の所では、福音信仰に生きようとしていた者が、その信仰態勢を崩されて落ちて行ったという悲しい現実を示しながら、なぜ落ちて行ったのか、彼らの二の舞にならないために、何に注意しなければならないのか、どのような対策を講じなければならないのかなどの、守りを固めることが示されています。
* 守りを固めるというのは、消極的な行動のようですが、敵が入り込む隙を作らないということは、反撃態勢を整え、敵に対抗できる力を蓄えるための、準積極的な行動であると言えます。これをおろそかにしていると、敵に対抗することはできないからです。
* 守りの態勢を整えるために示されている今日の内容から、この当時とは全く異なった、現代における真理の敵に対して、どのように立ち向かっていかなければならないのかを考えていくことに致しましょう。
(1)偽福音の内容に込められている危険思想
* イエス様は、終わりの時代になると、必ず偽キリストや、偽預言者が出てきて、選民を惑わそうとするようになると教えておられます。(マタイ24:24他)ヨハネは、すでにそれが始まっていると見ていたのです。だからそのような人々のことを反キリストと呼んでいます。
* 彼らが教える偽りの福音は、どのようなものであったと言っているのでしょうか。彼らはイエスが肉体を取ってこられたことを告白しないと言っています。否定すると言わないで、告白しないと言うのです。このような言い方を通して示そうとしたことは2つ考えられます。
* その一つ目は、偽りの福音を教える人たちは、反発されては信仰者の心に入り込めないので、反発が起きないように明確に否定することをせず、イエスが肉体を取ってこられたことを信じている振りをしながら、信仰者をうまく異端の教えの方へ引き込もうとしていたことを示しているのでしょう。すなわち、彼らの巧みさが示されています。
* 今日においても、エホバの証人という異端は、信仰者の家を訪れて、聖書を一緒に学びましょうと、いかにも聖書信仰に立っているかのような振りをしながら、偽りの教えに引き込もうとする同様のやり方をしているのを見ます。
* 2つ目は、イエスが肉体を取ってこられたことは、最初信じていたが、信仰においてはそれほど重要なこととは思わなくなっていた彼らは、その真理に目を向けさせないように、信仰者と接していた様子が示されています。
* ヨハネは、そんな彼らの姿を惑わす者だと言いました。すなわち、ここで言う惑わしとは、自分たちが伝える教えは、これまで受けてきた福音より優れた福音の進歩した形である内容だと装いながら、実は福音を否定する内容を信じさせようとするものだったからです。
* それではなぜヨハネは、イエス・キリストが肉体を取ってこられたことを告白することを重要だとし、告白しない者は反キリストとまで言ったのでしょうか。このことの意味を考えるためには、まずここで、文法的に違和感を覚える表現をあえて使っているのはなぜかを見ていく必要があるでしょう。
* ヨハネはここで、「イエス・キリストは肉体を取ってこられた」という過去の事実を述べる完了分詞を使わずに、なぜ「肉体を取ってこられる」という未来の事を指す現在分詞を使って書いているのかという点が疑問として残ります。
* 学者の中には、これは再びおいでになる再臨について言及しているのであって、マリヤを通しておいでになった初臨のことではないと考える人もあります。再臨のキリストが肉体を取ってこられるという論議がなされていたのかどうかよく分かりませんが、前後の文脈から考えてみて、ここでは再臨について言及していると考えるよりも、初臨のことと考える方がいいでしょう。
* それではなぜ、未来のことであるかのように現在分詞を使ったのでしょうか。考えられるひとつのことは、イエス・キリストが人となってきて下さったのは、確かに過去の事実でありますが、信仰者においてはこの私のために肉体を取って人となられ、十字架にかかってあがないのみわざをなして下さったのは、私にとっては現在のことであり、その罪の赦しを頂いて御国に至るまで、あがないの恵みを受け続けるという意味では未来のことだと言えます。
* 反キリストたちは、イエス・キリストが自分のため肉体を取ってこられたことを告白しなかったのは、肉体は悪であるから、罪を犯すのは仕方のないことだと言って、罪を軽く見、罪と向き合うことをしなくなったから、現在から未来にかけて、あがないの恵みを受け続ける大事さを考えることがなくなってしまったからです。
* すなわち、彼らは告白しないことによって、キリストによるあがないのみわざの大事さを否定し、福音の根本である内容を排除したのです。
* ヨハネは、彼らのそのような姿を指摘し、それがいかに危険な思想であり、福音を引き落とす考え方であり、惑わしであるかを感じ取るように示して、注意を促したのです。
(2)神の選びというあわれみの行為に対する信仰
* ヨハネは、信仰者が真理の福音に立ち続けるようにと、あらゆる労苦を惜しまず、一人一人の内側に潜んでいる、信仰の思いを損なおうとしている肉の思いを指摘し、霊の思いを高め、御霊の働き掛けを受けとめることのできる歩みをするようにと、あらん限りの労力を振り絞って尽くしてきたのです。
* しかし、そのような努力も報われず、キリスト信仰に立っていた者の中から、多くの者が偽りの教えに惑わされて反キリストのグループへと入っていったのです。7節で口語訳では、「多く世に入ってきた」と訳していますが、ここは、「世に出て行く」という言葉が使われています。真理の福音に立っていたはずの人々が、偽りの教えの方に走っていった姿を、世の方に出て行ったと言っているのです。
* ヨハネの目から見れば、せっかく真理の福音によって、サタンの手から救い出され、主の御手の中へと移し変えて頂いたのに、真理の福音から逸れることによって、世に出て行き、再びサタンの手の中に逆戻りしてしまったと見たのです。それによって、私たちが働いて得た成果を台無しにしてしまったと言うのです。
* そのような人たちは、キリストの教えを通り過ごして、キリストの教えにとどまろうとしなかったのです。キリストの教えは一時的な通過点だとみなし、より進歩的な福音があると考えてキリストの教えにとどまらなかったので、彼らは神を持っていないとヨハネは言ったのです。
* この表現は、Tヨハネ2:23において、同様のことを語っています。「御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである」と。神を持つという表現で,御子を告白することによって、神と直結させて頂き、神からの祝福が流れ込んでくる者とされ、神ご自身を所有しているかのように、神を頂いた者となったことを示そうとしています。
* しかし、せっかく神を頂いた者とされたのに、そこを一時的な通過点としてしまい、そこにとどまらなかったので、彼らは神を持たない者の領域へと入り込んでしまい、サタンを持つ者へと陥落してしまったと言うのです。
* けれども、ここで考えさせられることがあります。彼らをサタン側の者だと切って捨ててしまうのは簡単なことです。それでは、惑わされた人たちは、最初から神によって選ばれた人たちではなかったと言うべきなのでしょうか。神の選びとは、そんなにも簡単に途中で変更され、崩されてしまうような不確かなものなのでしょうか。
* 神による選びとは、先の見えない人間による選びとは違って、先の先まで見通した上で、神の深いご判断によって、ただ選ぶだけではなく、その後、養い育てるご自身の働きかけを考慮した上で、選んでおられるものありますから、選ばれ、救い出されたはずの人が、そう簡単にその選びを否定するかのように、真理の福音から離れていくというのは考えられないことです。
* 離れていく人たちのことを考えますと、彼らの先の姿を神は全く見えていなかったと考えるべきか、それとも、救われた人はすべて神に選ばれた人だと言うのはなく、救われた後も、キリストの教えにとどまり続けた人たちだけが、神に選ばれた人たちであって、救われても後から離れていく人たちは、最初から神に選ばれた人たちではなかったと言うべきでしょうか。
* イエス様も、こう言っておられます。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と(マタイ22:14)神の選びによって招かれ、キリストの教えを受け入れて信じる者は多くいるのですが、キリストの教えを通り過ぎないで、キリストの教えにとどまり続ける選ばれた人は少ないと言われているのです。
* すなわち、神の選びとは、招かれている者も含められていますが、そこには、真の選ばれた人としてとどまり続ける人になるようにとの、主の期待が込められているものであることが分かります。
* 神の深いお心を、すべて理解し切れない私たち人間にとって、神の選びすべてが分かるわけではありませんが、理解し、立っていなければならない最小限の事柄は把握している必要があります。
* それは、神の選びとは、人間の目で機械的に判定できるものではなく、神の深いあわれみのお心によるものであることを知る必要があります。私たちを救い上げ、その恵みを味わい続けさせようとされる愛に満ちた深いお心から出たものだということです。それゆえ、その人が選ばれた人であったかどうか、先を見通せない私たち人間が判断すべきではないということです。
* それでは、自分に対して、どう判断しているべきでしょうか。神がこの私を選んで下さったのかどうかどうして判断できるでしょうか。救われたからと言って選ばれたとは限りません、途中から離れる人が出るわけですから、私たちもどうなるか分かりません。それではどう受けとめているべきでしょうか。
* 私たちの側が、選ばれたかどうか判定するのではなく、神はこの私を選んで下さり、最後まで責任を持って導こうとして下さっているという信仰の確信を持って歩むことが大切なのです。
* すなわち、選びは人間が判断すべき事柄ではなく、神の選びと責任がこの私の上に間違いなく注がれていると信じる信仰の事柄であることが分かります。
* ということは、神が選びと責任とをもって導こうとして下さっているとの信仰に立てなくなり、真理の福音から離れていった人たちは、選びの中に置いて頂く者とされていたのに、自らの意志で、神の選びと責任とを拒否し、選びの外へと出て行く信仰を表したというしかないでしょう。立ち返るチャンスは完全になくなったわけではありませんが、彼らは自らの強い意志で放棄したのです。
* 神の選びに対する信仰を持ち続ける私たちの上に、神は豊かな報いを与えようとして下さっています。その報いを落とさないようにしなさいと語りかけているのが8節の言葉だと言えます。変心しやすい人間に対して、変心は自らをつぶす恐ろしい破壊力を持っていることを明らかにしているのです。
(3)自分の立場を明言し、行為で示していく
* ヨハネは、このように自らの意思で神の選びを捨て去り、神からの報いを投げ捨て、自分の肉の思いを大事にして歩み出し、真理の福音から世の方に出て行ってしまった人たちのことを注意するように示してきました。それは、その人たちが出している悪臭の影響を受けることがないように、自分の持っていた確信まで揺さぶられないように注意を促すためでありました。
* けれども、誰が、自らの意志で神の選びを捨て去った人なのかどうか、表面から見ただけですべてを判定できない私たちが、信仰者として表すべき倫理姿勢の一つとして示されている旅人をもてなすというわざを行わなくてもいいという言い訳に使っていいのでしょうか。
* ヨハネは、一方では愛の中を歩むように、神を愛し、神に愛された同胞の兄弟たちを愛し、愛の教会が神によって建て上げられていくことを信じて、旅人をもてなす心を持って向かっていくように示しているのですが、もう一方では、そのような愛の教会作りという神のみわざの隙間を狙って、サタンが送り込んできた偽伝道者が、教会や教会員の家に入り込んでくることがあるので、注意して見分け、惑わされないために、そのような人だと思ったら、家に迎え入れることも、挨拶をすることもよくないとまで言うのです。
* どうしてここまで徹するように言う必要があるのでしょうか。それは、サタンによる惑わし作戦を決して甘く見ないように勧めるためであることが分かります。というのは、当時の信仰者の中に、偽福音の方へと引っ張られて行った元同胞たちを、もう一度教会に連れ戻したいと思ってつながりを絶たず、放蕩息子のごとく立ち返ってくれることを願って交わりを持っていた人たちが、逆に引き込まれ、偽福音のグループの方へと引っ張られてしまったということがあったのでしょう。
* 虎穴に入らずんば虎子を得ずということわざの如く、危険を承知していても、相手の懐に入らなければ、その人を引き戻すことはできないと思って向かい、かえって相手の獲物にされて引き込まれて行ったのです。これはサタンの惑わしを甘く見ていたことになります。
* ヨハネは、そんな甘いことは言いません。家に迎え入れるな。挨拶もするな。関係を完全に断ち切れと言うのです。なぜここまで恐れるように勧めるのでしょうか。これは、ヨハネが、信仰者の甘さをよく知っていたからです。そんなことで簡単に引き戻せるようなものではない。強い意志を持って神に反逆した彼らを、情のつながりで引き戻せると考えるのは甘いと言うのです。それどころか、逆に少しでも隙を見せれば、確信のない部分をついて、自分たちの方へ引き込もうとしてくるのです。
* そして、ここで信仰者に向かわせようとしているのは、真理の福音に対する自分の信仰を確認し、神の側に立つ強い意志を示しなさいと言っているのです。旧約の記事で見るならば、ヨシュアが、異教の神々に心を囚われ始めていた民を前に置いて、「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしと私の家族とは共に主に仕えます」(ヨシュア24:15 旧336)と断言して、この私は神の側に立つとの強い意志を持って宣言して、自分の立場を明言しているのを見ます。
* この宣言は、あなたがたが選ぶ神が、私の仕える神と異なっているならば、金輪際あなたがたとは付き合いませんという宣言であったのです。宣言した後も、異なった神々を選んだ人とつながりを持っていたならば、その人の異教信仰を認めたことになるか、その信仰に寛容さを示していることになっていると見られ、証にならないと言うのです。
* けれども、挨拶までするなとは行き過ぎではないかと思うのですが、隙をついて入り込もうとしてくるサタンの働きかけを甘く見てはならないということと、当時の挨拶は、単なる親しさを表すだけではなく、神の平安があなたの上にあるようにという意味を持ってする挨拶ですから、異端の信者に神の平安を祈るということは、相手の信仰を承認していることになり、自分の信仰との間に違和感はないと言っているようなもので、証にならないから挨拶をしてはならないと言うのです。
* しかも11節では、挨拶をするということは、その悪い行いにあずかることになると言っています。すなわち、偽福音に立つということは、神に反逆する行為そのものであり、神の選びを無駄にし、神を悲しませるもっとも悪い行為であるから、その行為を表す、神に反逆する者に対して挨拶をするというのは、思いを共にしていることを現していることになると、小さな行為のように見える挨拶一つにも信仰がかかっていると言うのです。
* それでは、その人のことをサタンの側に立つ者として呪いなさいと言うのでしょうか.その必要はありません。その人の立ち返るチャンスを残しておられるのは神であって、そのことはすべて神にお任せしてしまうことです。
* 私たちのなすべきことは、自分の立っている真理の福音に生きることを喜び、感謝の思いに溢れ、神の選びと責任の下に置いて頂いている幸いを味わい、その信仰に立たせて頂いていることを証する強い意志をもって貫いていこうとすることによって隙を作らず、サタンを甘く見ないで、サタンの送り出した人との関係を絶つことだと言うのです。
(まとめ)ヨハネが願っていたこと
* ヨハネが、この小さな手紙で示してきたことは、真理の中を歩むことと、愛の中を歩むことに心を傾け、それを妨げようとしてくるサタンに属するグループの者たちが、信仰を惑わし、確信を失わせ、真理の福音から離れさせようとやってくるので、守りをしっかりと固めなさいということでした。
* サタンの働きかけを甘く見ていた人たちは、ガードが弱く、危険が一杯だと言えます。真理の福音に立つということは、自分の立っている位置を明確に告白し、それを妨げようとしてくる者との間に距離を置き、同じ真理の福音に立っている信仰者とのつながりを重んじることだと言います。
* ヨハネは、終わりの挨拶の所で、選ばれたあなたの姉妹の子供たちがあなたによろしくと言っていますと書きました。これは、同じ真理の福音に立っている姉妹教会のクリスチャンたちからの挨拶を加えることによって、共に支え合っていく者たちがここにもいるよ、との励ましの意味が込められているのでしょう。
* 神に選ばれ、最後まで責任を持って導いて頂ける喜びと平安の思いを持ち続けることができるのは、真理の中を歩み、愛の中を歩む者に対してだけです。それ故、決して惑わされず、確信が揺さぶられず、神からの豊かな報いを受け続けている者としての確かな歩みを続けてほしい、ヨハネはそう願わずにはおれなかったのです。それは、今日の私たち信仰者に対する語り掛けでもあると言えるでしょう。