(序)信仰者ガイオに宛てた信仰の奨励
* この文書は、新約聖書の中でもっとも短い手紙で、特に教理的重要性もなければ、特別なければならない福音の深みが示されているわけでもありません。個人に宛てられた信仰的奨励の手紙であって、それがどうして新約聖書として残されたのか、神のお心の不思議さを思わされるのですが、どのような意義があると考えられて入れられているのかを見ていくことにしましょう。
* ここには、一人の信仰者として、神からどのような使命が与えられているのか、どのような信仰的向かい方をもって、その使命を果たしていくように示されているのか、どういうことに目を向けていなければならないかなどについて見ていくことは、私たちにも与えられている神からの使命を果たしていくために大事なヒントが与えられるでしょう。
* 差出人は、ヨハネの第2の手紙と全く同じ称号を用い、同様の書き方をしている点から考えてみて、第2の手紙の著者と同じだと考えていいでしょう。
* それでは、この手紙の受取人であるガイオとはどのような人物であったのでしょうか。新約聖書の中に3人のガイオという人物が取り上げられていますが、そのうちのどれかではなく、当時のありふれた名前と考えられますから、どこの誰であるか特定できません。
* この人は、評判のよいクリスチャンであって、ヨハネの宣教によって信仰を持った人であったことが、ヨハネが「わたしの子供」と呼んでいることから分かります。群の指導者であったかどうか定かではありませんが、群をリードする一人であった様子が見られます。
* ガイオが属していた群がどのような群であったか、手紙の内容から判断しますと、第2の手紙の宛先であった教会とは異なった状態にあったことが伺えます。
* 第2の手紙の宛先教会では、反キリストである惑わす人々に揺さぶられている状況でありましたが、ガイオが属している教会では、そのような異端の問題は感じられず、群の指導者になりたいと考えていた独善的な人物がいて、ヨハネの下から遣わされてきた巡回伝道者を排除し、受け入れようとする人たちを教会から追い出そうとしていたといいます。どれほど影響力があったのか分かりませんが、群を分裂させようとする力が働いていたことが分かります。
* このような群の状態の中にあって、ガイオは、どのような立場にあったのかは正確には分かりませんが、そんな群の状態を憂えて、群が崩壊してしまうことがないように、また、今行っている愛の中を歩む向かい方である、旅人をもてなすわざを行っていたのです。
* そんなガイオに対して、旅人をもてなすことをやめず、肉の働きかけに対抗するようにと示しているのは、ヨハネが真理の福音を通して進めてきた群作りのグループの中心的立場にいたからではないかと考えられるのです。
* もしそうであれば、人間的権威を持って群を私物化しようという働きかけを受けている群の中にあって、この手紙は、一人の信仰者に対しての真理の福音に対する信仰が崩されないようにという勧めと考えるよりも、あなたの信仰が揺さぶられず、動じない姿を現すことによって群全体の支えとなるからと言います。群が崩されないための、中心的人物に対する手紙だと考える方がよいと思われます。
* そのことが、今日の時代に生きる私たち信仰者にとって、どのような神の語り書けとして聞くことができるのでしょうか。同じ問題が起きていなくても、あらゆるサタンの働きかけに対して、真理の福音に立ち、崩されない姿を示すことが、個人にとっても、群にとっても重要なことだと示していることが分かります。
(1)ガイオのために祈るヨハネの思い
* ヨハネは、自分もすぐにでもガイオの所に行きたいと言いつつも、まだその時がこないと感じられる状況にあったので、ヨハネの元にいた巡回伝道者の一団の中から代わる代わる遣わして、各地を回らせていたのでしょう。一教会一指導者の形態がまだできていない時代のあり方としてなされていたのでしょう。
* そこでヨハネは、巡回伝道者の一人に手紙を持たせ、真実に愛している親愛なるガイオへという表現で、ガイオとの霊的な親子としての深い愛に結ばれていることを示すことによって、あなたの背後にはいつもこの私がついているよ、との励ましの意味を込めて挨拶を送っているのでしょう。
* それだけではなく、そこに祈りを込めることにより、神もあなたのことを大事に思っておられると示しているのです。その人のために、神の恵みと祝福とが注がれるように祈るというのは、その人の信仰が神によって支えられ、守られ、導かれていると信用しているからだと分かります。
* ヨハネがここで祈ったことは、魂がいつも神の恵みに満たされていると同様に、他のすべてのことや健康面においても恵まれるようにと言うことでした。
* ここに使われている「恵まれるように」という言葉は,「順調な」とか「繁盛する」とか「うまく行っている」などの意味を持った言葉ですから、ここでは霊的に神の祝福を頂いているのと同様に、肉的な面においても順調に、経済的にも、健康面においても祝され、整えられるようにと祈っているのです。
* なぜそのように祈ったかを考えて見ますと、どんな状況にあっても、真理の中を歩み、愛の中を歩み、信仰が崩されない状態になっているのは、神によって与えられた霊性が、神によって祝されている状態でありましたが、さらに主に仕える歩みを続けるためには、この時の状態で言えば、巡回伝道者たちをもてなし、さらに次の旅へと送り出すという旅人へのもてなしの働きが、信仰のわざとして続けられていくように、肉的な面においても順調に行くことを祈り願ったのです。
* 一言で言うならば、愛する兄弟が、神のみ栄えを現すための働きを、喜びと感謝の心を持って続けることができるように、肉的な面においても祝福をも祈るということは、神が整えて下さることなくして、神に仕えることはできないという信仰に立っていたからでしょう。
* 私たちも友のために祈る時、ただ物事が順調に行くようにというのではなく、友が主に仕え、み栄えを表す事ができるように、物事が順調に行き、必要な満たしと、健康の支えとを願うことは、肉的な願いではなく、大切なことだと思わされるのです。
(2)主のご愛に対する応答としてのもてなし
* 祈りの後、自分の霊の子供であるガイオが,真理の中を歩み、愛の中を歩むという姿を現しているのを、遣わした兄弟たちから聞いて、ヨハネは自分がどれほど喜んでいるかを述べるのです。
* ここは、「真理の中を歩んでいるというあなたの真理について」という、真理という言葉を2度繰り返すことによって、もてなしを受けた巡回伝道者たちが、真理の中を歩んでいたガイオの本物の生き方をしている姿を感じ取って、感銘を受け、その思いが込めて報告していることが分かります。その報告を聞いたヨハネは、この表現で、あなたは本物だと示そうとしたのでしょう。
* 第2の手紙と同じ著者だと考えると、真理の中を歩むというのは、真理を受け入れるだけではなく、その真理に沿って歩む誠実な生き方を示しており、それが、最も具体的な行動として、愛の中を歩むことにつながり、旅人をもてなすという行為の中にもっともよく現れてくると見ていたことが分かります。
* すなわち、旅人をもてなすという行為の中に、その人の真実というか、本物の信仰者としての生き方が見えたと言うのです。私たち信仰者は、人の誠実さ、真実さに触れることによって何が見えるでしょうか。それは、神の真実さがその人から噴出しているという事実でしょう。真実は神から来るものだからです。
* 巡回伝道者たちが、ガイオの家において受けたもてなしは、ガイオが神の真理の中を歩み、本物の生き方をしていると感じ取るほどのものだったのです。これはすごいことです。単なる人間的に親切で、心優しいというのではなく、真理に忠実に生きようとしていることが感じられたからです。
* ガイオにとって、この群のために遠い地から、険しい旅をものともせず、御言葉を取り継ぐために、また、宣教のために来て下さったのだから、主が遣わして下さった方として大事にもてなすのは当然のことだと思ったのでしょう。それは、神への感謝の思いを持って仕えたと分かります。
* 人間は、奉仕をするというと、奉仕そのものや、人の目に心が行って、主の目から逸れてしまうことがあります。それは奉仕ではなく、肉の働きになってしまいます。主に対する奉仕が肉の働きになってしまわないためには、人に向かわず、主が喜んで下さり、主が報いて下さることだけを考えてするべきです。
* もしガイオが、主の方ではなく、人の方にだけ目を向け、自分の親切心をもって精一杯もてなしていたとしたら、巡回伝道者たちの反応は異なったものとなっていたことでしょう。5節では、そのようなガイオの行為を、真実なわざだと言っています。
* この「真実な」という言葉は、「信仰している」「信仰を持っている」という意味の言葉ですから、神に目を向けた信仰の思いから出た行為だと言っているのです。
* ここに、ガイオが人の前に立たず、神の前に立つ信仰的生き方をしていたことがよく言い表されています。信仰者には、分かっていても、すぐ人を前に置いてしまう肉の心が強く働いています。
* あの詩篇16篇の詩人が、強い信仰的意志を持って、「わたしは常に主をわたしの前に置く」(16:8)と告白しました。よほど信仰的意志を働かせないと、人の方に目が向くことをよく知っていたのでしょう。その意味でこの告白は、信仰の目を逸らさないために重要な役割を持っているということが分かります。
* ガイオの思いの中では、自分の命を削りながら尽くして下さっているヨハネ先生や巡回伝道者たちの一団のことを思う時、ただ人に対して感謝の思いを持つ以上に、神がこの私たちの群のため、いやこの私のためにここまでして下さっているという感謝の思いが溢れていたのでしょう。それ故、彼がなしたもてなしの奉仕は、主のご愛に対する応答であったと言っていいでしょう。
(3)伝道者に与えられた使命、信仰者に与えられた使命
* ヨハネは、そのようなもてなしの奉仕をしたガイオに対して、それを喜ぶだけではなく、さらに彼らを神の御心にふさわしく送り出してほしいと願いました。それは、巡回伝道者たちの使命は、この群だけではなく、次に遣わされる地においても果たされるように導かれているのですから、そのわざが祝されたものとなるように、旅における必需品を整え、送り出してほしいと願ったのです。
* そこまで要求し過ぎるのではないかと思うのですが,ヨハネは、ガイオに対してこのように示すことによって、信仰者が巡回伝道者とどのように向き合う必要があるのかを示そうとしたと思われます。
* 巡回伝道者の立っている位置は、ただ御名のために、み栄えを現すために自分を差し出し、主の意のままに用いて下さるように、自分のすべてをささげた者ですから、世からの支えは全くなく、主が支えて下さることだけを信じて向かっている者であります。
* 信仰者は、神が、そのような神の道具として差し出した者を用いて自分たちの霊を養い導こうとして下さっている。神のそのような愛の働きかけを十分に受けとめて喜び、霊の満たしを頂いて歩むことができるようにされているならば、神の豊かな愛に対する応答として、巡回伝道者に対して至れり尽くせりのもてなしをすることは当然の応答だと言うのです。
* 確かに巡回伝道者たちは、主から与えられた使命を果たす意図から、険しい旅をもいとわないで御言葉を解き明かし、宣教のわざを行っています。それに対して神が報いようとされます。彼らも、神からの報いを求めて向かっているのであって、人から感謝されることや人からの報いを得ることを求めているのではありません。
* 御言葉の奉仕によって神からの恵みを受けた信仰者たちも、伝道者に目を向けるのではなく、伝道者を用いておられる神に目を向けて感謝すべきです。
* それではヨハネは、どうして巡回伝道者たちに対して、至れり尽くせりのもてなしをするように求めたのでしょうか。それは、神に感謝する思いを持って、直接的には伝道者に仕え、伝道者も神に与えられた使命を果たす思いで人に仕え、人のために命を削れと言われているからです。
* イエス様は、右にいる人々を祝福し、御国を受け継ぐように示されました。それは、右にいる人々は、主に仕える思いで人に仕え、至れり尽くせりのもてなしをしたから、そのもてなしは、私に対してしたことになると見て下さったからです。(マタイ25:34〜40)
* 伝道者は、神に与えられた使命に沿って、神に仕える思いをもって人に仕え、信仰者は、神の大きな愛と導きとを伝道者を通して受け取り、神に感謝の思いを表し、喜び溢れる思いで 伝道者をもてなし、仕える姿を現すことが、伝道者と信仰者の向き合い方であることを示しているのです。
* さらに8節で、伝道者だけが、神から使命が与えられているのではなく、信仰者にも使命が与えられていて、それは真理の福音を持ち運ぶ伝道者の同労者となる使命だと言うのです。
* すなわち、真理の福音に立つ伝道者の解き明かしをそのまま受け取り、それを力として味わい、伝道者の働きがより神によって用いられるように、すべての点で仕え、もてなし、協力し、心を一つにすること、それが真理のための同労者としての姿であり、伝道者と信仰者が同じ恵みにあずかり、祝福を受けることになると言うのです。
(まとめ)伝道者、信仰者双方に与えられた役割と使命
* ヨハネは、ガイオが、真理の中を歩み、愛の中を歩むあり方を、動揺することなく現し続けているのを兄弟たちから聞いて、非常に喜んでいました。しかし、それで十分だと言うのではなく、さらに巡回伝道者たちの、神のしもべとしての働きを援助し、よりもてなしのわざを進めてほしいと願ったのです。
* 伝道者の側が、信仰者はもっと伝道者に仕えるべきですという要求は語りにくいのですが、人間的な思惑に囚われて言葉をとどめようとしないヨハネは、誤解をも恐れず、それが神の御意志だからと明確に示していきます。
* この時代の巡回伝道者と、今日の伝道者とでは、立場や困難度や形態などすべての点で異なっていますから同様に考えるべきではないでしょう。
* しかし、根底の所では同じであり、神が、ご自身の御名のために立てられ、遣わされた伝道者を用いて、信仰者の霊を養おうとして下さっており、信仰者も、伝道者を通して神の恵みと祝福とにあずかり、神の偉大さと、愛の深さを味わう者にされ、伝道者に対して、同労者として仕えるようにされているという点では変わりません。
* 神が立てられた伝道者と、信仰者の、各々の役割と立場と使命が与えられています。それを正しく受けとめて向き合うならば、向き合う思いの中に、肉の思いが入り込むことはなく、互いに与えられた使命に応じて仕え、もてなすことによって神に仕え、神に応答することになるという真理をしっかりと受けとめていなければなりません。それが、神のお心に生きる信仰者の姿であるからです。
* この時代の旅人をもてなすという仕えるわざが、今日においてはどのような仕えるわざに匹敵するのか考えることは難しい所です。
* 信仰者は、伝道者のことを、神が立てられた者として信頼し、その口から出てくる言葉を神からの言葉として、自分が造り変えられていくように自分を差し出し、神に目を向けつつ伝道者に仕え、もてなすことによって同労者(共に主の恵みにあずかる者)としての歩みが求められます。
* また伝道者は、神が大事にし、霊を養い育て、最後まで責任を持って導こうとしておられる信仰者に思いを傾け、上からの御言葉を全力で解き明かし、命と力になるように、信仰者のために命を削り、全力を尽くして向かい、決して肉的な感謝を人に求めず、主に栄光を帰すという向かい方をするように求められているのでしょう。
* このように互いに与えられた役割と使命とを果たす向き合い方をすることによって、神に応答する真実な生き方が示されていると分かるのです。