聖日礼拝メッセージ
2012年6月3日 更新

聖 書 Vヨハネ9〜15  (第2講)
 題 「妨げに屈せず、真理の中を歩み続ける人生」


  (序)異質な救われた者の集まりである教会

* 人は信仰を持ったならば、みな同じような人間になるのではありません。みながみな、素直で、忠実で、心優しく、仲たがいせず、平和で、善意と寛容と、愛に溢れた人になれるわけではありません。

* というのは、一人一人がそれぞれの置かれた環境、受けた公的教育と家庭教育における違い、社会的立場など異なっており、考え方、生き方、人との接し方などもすべて異なっていた者が、神の前における自分の罪深さを示され、人間としてのくだらなさ、無意味さ、おぞましさなどを明らかにされて砕かれ、キリストによる救いを頂いて神の子とされたのです。

* 信仰においては、同じ神の子としての霊的位置を確保させて頂いたのですが、一人一人の罪意識の深さが異なっているだけではなく、救われてもなお持ち続ける性格、体質、気質、古い考え方、生き方、その他すべての事柄も処理されないまま持ち続けており、同じ神の子と言っても、全く別物ではないかと思えるほど異なっているのです。

* そんな神の子が、一つの群として集められ、互いに交わりを持ちつつ、キリストをかしらとした、からだとしての教会に結び合わされて進むように導かれるというのは、普通で考えるならば不可能なことです。

* というのは、同じ信仰者となっても、一人一人は、その人という灰汁(あく)の強さを残したままでありますから、うわべだけの交わりであるなら、それほど衝突することはなくても、本気で向き合おうとするなら、各々の性格、体質、気質、考え方などの灰汁と灰汁とがぶつかり合い、転覆しかねないからです。

* ヨハネは、真理の中を歩む生き方をしていくことによって、各々のそのような灰汁の強さが抑えられ、互いに愛し合い、父との交わり、御子との交わりを基にした深い結びつきが作り出され、互いに交わりを持ち、教会として前進していくようにされると確信していたので、ヨハネの勧めの中心は、真理の中を歩むようにという一点であったと言っても過言ではないでしょう。

* しかしガイオのいる教会において、ヨハネが勧める真理の中を歩む生き方に抵抗を覚える灰汁の強い人物がいて、教会を分裂させようとしているというより、自分の思っている教会形成を願う考えが強く、ヨハネが、教会に対していつまでもかかわるのを望まなかったので、ヨハネの下から遣わされてきた巡回伝道者たちをも受け入れず、ヨハネのかかわりを締め出そうとしていた、教会の中で力を持っていた人物がいたと言うのです。

* それがデオテレペスという人物でありましたが、この人がなぜヨハネのかかわりを締め出そうとしたのか、どのような信仰理解をもって向かっていたのか、教会において強い影響力を持っていたこのような人物のいる教会の中にあってカイオは、どのような信仰理解を持ち、ヨハネの勧めをどのように受けとめていたか、この手紙に記されている範囲内において、その背景を受けとめる必要があります。そしてそのことが、今日の私たち信仰者にどのような神のお心を示そうとしたものであるのかを共に学び取っていきたいと思います。


  (1)ヨハネのかかわりを排除しようとする働きかけ

* この手紙が書かれた時の状況を、できる限り再現してみましょう。最初に、ここにおいて教会が形造られたのは、どのような経緯であったか、この手紙の内容からではよく分かりません。しかし、教会の維持、信仰教育、成長のためにヨハネが深くかかわり、ヨハネが果たした役割は大きく、この地域一帯において長老と呼ばれ、霊的指導者として敬意を払われていたのでしょう。

* しかし、信仰者の中には、ヨハネのかかわりを疎ましく覚える者が出てきて、自分たちの教会は、自分たちの考え方で進めていきたいと考え、できる限りヨハネとのかかわりを排除し、もっと自分たちの思いにかなった教会作りをしていきたいと思う人が出てくるようになりました。

* ヨハネとのかかわりを排除していくことが、教会の自立につながると考えたのか、それとも、真理の中を歩めとくどく語り続けるヨハネをうるさく感じるようになったのか、他に反発の思いが起きてくるような何かがあったのか、この内容だけからでは推測することもできませんが、その先頭に立っていたデオテレペスの言動から考えられる一つのことは、ヨハネに感化されていた教会を一変させようとするものであったことが分かります。

* ガイオに手紙を書いて励ましていることから、ヨハネとその下から遣わされてきた巡回伝道者たちの信仰理解と、聖書の解き明かしを通して、真理の中を歩み、愛の中を歩むことに心を傾けて歩んでいた信仰者たちも多くいて、ヨハネ排除運動が起きていることに対して、ひどく心を痛めていたことでしょう。

* ヨハネは、自分の感化が薄れることに危機感を抱き、このままでは自分の支配下に置くことができる教会がなくなってしまうと考えてあせっているのではなかったと思います。ヨハネは、自分の影響力がなくなったとしても、教会が真理の中を歩む確かな歩みをしてくれるのであれば、それでよしとしたでしょう。

* ヨハネが憂えたことは、デオテレペスたちは、異端の信仰に走ったわけではないが、私を毛嫌いするようになったことにより、私と私の下から遣わした巡回伝道者たちが語ってきた真理の福音に対しても背を向けようとし始めている人たちの姿を見させられることでした。

* イエス様が、72人の弟子たちを町々へ遣わされる時にこう語っておられます。「あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをお遣わしになったかたを拒むのである」と(ルカ10:16)。遣わされた者が、キリストの代理人であった場合、その代理人を拒むということは、キリストを拒むことになると言われているのです。

* もしヨハネが、自分の思いで、自分の感化力を残したくて伝道のわざを続けているならば問題でありますが、キリストの代理人として向かっているのですから、ヨハネを拒むことは真理の福音を拒むことになるので、教会全体がそんな方向に走っていかないようにと憂えたのです。

* 確かに、伝道者にも灰汁の強い所があり、目に付く所、欠点、気になる所などがあるでしょう。人間的な面でヨハネに反発を感じたのか、それとも、デオテレペスが、自分が権威者、指導者になりたくて、ヨハネの影響力を排除したいと思ったのかよく分かりませんが、どちらにしても、ヨハネはそれを問題視しているのです。

* というのは、もしヨハネの灰汁の強さに反発を感じているとするなら、伝道者に対して要求する内容が見当違いであり、伝道者に対して人間性の立派さを求めるのではなく,真理の福音を語ることと、真理の福音に生きる証人としての姿だけを求めるべきだと知らなければなりません。伝道者だからと言って、灰汁の強さを完全に抑えることはできないからです。

* そうではなく、デオテレペスが自分の権威欲を満たしたくて、その邪魔となるヨハネの影響力を排除しようとしたとすれば、ヨハネを排除することにより、真理の福音まで排除することになり、それは肉の思いを優先させることになり、キリストをも拒むことになってしまうからです。

* このような、信仰の歪みを起こさないようにと、ヨハネは教会宛てに、以前に手紙を書いたと9節に記していますが、そのような内容は第1の手紙にも、第2の手紙にもありませんから、その手紙は失われたのでしょう。もしかすると、デオテレペスが握りつぶしたのかもしれません。それ故、今回の手紙は教会宛てではなく、ガイオ個人宛になっているのでしょう。


  (2)デオテレペスが現した3つの罪

* それでは、デオテレペスのどんな行為が問題であったのか、ヨハネは3つの点に触れていますから、それを見ていくことにしましょう。

* 第1は、口ぎたなくわたしたちをののしったとあります。口ぎたなくと訳しているこの言葉は、ありもしない悪口、噂話をするという意味で、非難する意図で悪意の含んだ噂話をして引き落とそうとしたと言うのです。

* 神であれば、人間の内側まですべてをご存知ですから正しい批判となりますが、人間の判断は、情報量が少なければ少ないほど、推測や憶測が多く入り込み、誤った判断をもたらし、そこに悪意があれば、ののしりとなり、非難となります。そのような人の情報を聞いた人は、またそこに推測や憶測を重ね、正しい判断はできなくなります。

* デオテレペスの悪意の込められた非難は、ヨハネの灰汁の強さを強調されたものだと思わされますが、他の人たちに誤った情報を流すことによって、ヨハネの伝えてきた真理の福音に対しても疑いを覚える人が起きてきて、ヨハネ排除運動に加わる者が出てきたのでしょう。

* 口から毒を吐き出す人がいると、その毒によってある人々は麻痺させられ、正しい判断ができなくなり、信仰さえも歪められる怖さがあります。それ故、悪意を持って人を批判したり、裁いたり、噂話をすることは不信仰につながり、他の人の信仰さえも引き落とす可能性のある罪であると言えるでしょう。

* デオテレペスの第1の罪は、自己正当化、もしくは自己擁護のため、他者をののしる罪であったと言えます。ヨハネは、自分がののしられたから怒っているのではなく、デオテレペスの心の中にある罪が、神を否定し、真理の福音を否定する恐ろしいものだから指摘しているのです。

* それでは、第2の点は何と言っているのでしょうか。それは、自分たちの教会の独立性を守るために、ヨハネとヨハネの下から遣わされてくる巡回伝道者たちを受け入れないようにと申し合わせたという点です。なぜこのような申し合わせが実行され、旅人をもてなすというきよい信仰的行為を否定するようになってしまったのでしょうか。

* 不信仰者の理屈に惑わされる人は多くいます。それは、惑わされる人の霊が確立していないからであって、神に対する不満の心がくすぶっていたり、疑いの思いが淀んでいたりして、福音信仰が波立っているからですが、そういう人は、不信仰者の理屈に対して、信仰によって対応できないから惑わされるのです。

* デオテレペスは、真理の福音を消化することができませんでした。それは彼の心の内に、強い肉の思いが残っていて、それを処理しようとする思いはなく、教会における指導者的地位を求める心が強かったので、それを果たすために邪魔となるものを排除しようとする意志が働いたのです。

* デオテレペスは、自分は信仰的であり、教会の指導者に選ばれるほうが教会のためになると思い、そのためには教会の独立性を妨げているヨハネ集団を排除することが大事だと思ったのです。そのような考え方に同調する者たちが出ていたらしいことが伺えます。不信仰者の理屈に惑わされる人々の愚かさを知らなければなりません。

* 更に第3の点は何と言っているのでしょうか。どれぐらいの比率かよく分かりませんが、ガイオを筆頭に、ヨハネの勧めに従って、真理の中を歩み、真理に生きる者にとってなすべきこととして示されている愛のわざ、すなわち旅人をもてなすわざを率先して行っていた人たちがいました。

* 特に、ヨハネとその下から遣わされている巡回伝道者たちを全力でもてなしていた人たちがいたのですが、デオテレペスとその同調者たちは、旅人をもてなすということは教会の独立性を妨げることになるから、教会として禁止し、それに従わない者たちは教会から追放すると言い、強制的に実行して、教会を混乱させていたのです。

* 教会は、どうしてデオテレペスたちの横暴な行為をとどめることができなかったのか、その詳細は分かりませんが、口が達者で、人々を言いくるめることのできる能力の持ち主であったのか、それとも、社会的地位や血筋を誇るプライドの高い野心家で、教会を支配したいと考える人であったのか、どちらにしても教会員の追放権を行使できるだけの、悪い意味でのリーダーシップの持ち主であったことは確かです。

* ヨハネは、そんなデオテレペスのことを11節において悪しき行為を表している者と言っています。善であり、義であられる神のお心とはかけ離れた、人間の悪しき肉の思いに従って生きている者と言ったのです。

* 福音を歪める異端に対して、神は激しく嫌われるのですが、神よりも自分の悪しき肉の思いを大事にする悪い者も、神の忌み嫌われる者だと言うのです。そのことをもう少し見てみることにしましょう。


  (3)悪を行う者と、善を行う者との違い

* ヨハネはガイオに、デオテレペスの影響を受けてはならない、彼らが私たちを退けることによって、真理の福音から離れ、自分たちを排除する運動を彼らが展開していることによって、教会が大波のように揺れ動いても、それに心を動かされてはならないと勧めたのです。

* このように勧めたのは、ガイオが、真理の福音に忠実に生きる人であったのですが、デオテレペスたちの強い影響力という圧力にも全く屈しないだけの人間的強さがないと見られていたのでしょう。霊的強さと人間的強さは必ずしも両立するとは限らないからです。

* ここでヨハネは、自分の肉の思いに従って行動する人たちのことを、悪を行う者と言い、真理の福音に沿って生き、愛のわざを重んじて愛の中を歩む者たちのことを、善を行う者と言い、善なる者であっても、世的強さを持って迫り来る悪なる者の影響を受ける可能性が全くないとは思ってはいませんでした。

* 悪なる者と善なる者とは、肉の思いが強い人と、肉の思いを抑え、霊の思いが強くされた人との違いという程度ではないのです。ヨハネは、悪を行う者は、神を見たことのない者だと言いました。これはどういうことでしょうか。

* 彼らも神を信じていたのですが、内側に残っている強い肉の思いを抑制しなかったので、神の思いよりも自分の肉の思いの方を優先し、神を信じているようでいて、神から遠く離れてしまっていたのです。ヨハネは、その状態を、神を見たことのない者だと言いました。

* イエス様は、「心の清い人は、さいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)と言われており、また、ヘブル書の著者は、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)と言いました。肉の思いを抑え、霊の思いに沿ってきよく生きるということと、神を見ることとが結び付けられているのです。

* もちろん、神を見ると言っても、肉の目で見ることではありません。見るという言葉には、会うとか、知るとか、味わうとか、経験するという意味を持っており、霊なる神を知り、神を味わい、神がここにいて下さって働き続けて下さっているという経験することを、神を見ると言っているのです。

* それ故、肉の思いを抑制するどころか、肉の思いを満たそうと歩んでいた彼らは、主の目にきよくない者と映っており、神を見たことのない者だと言われているのです。

* それでは善を行う者とは、どのような人のことを指しているのでしょうか。それは、善行を積む者のことではなく、信仰を持った後も、なお出てくる肉の思いを抑え、聖霊の助けによって内側に起こされる霊の思いに沿って歩もうとする者のことでありますから、そのような人は、神から出た者だと言うのです。

* このことは、第1の手紙でも話は展開されていました。3:9では、神から生まれた者という表現を用いながら、同じ3:10では神から出た者という表現を同じ意味で用いています。

* ここから分かることは、神から出た者とは、キリストを信じることにより、過去、現在、未来の罪をすべて赦され、神の目から罪のない者と見て頂くようになった、神によって新しく造られたきよい者のことなのです。

* 罪赦された後にも、なお罪や肉の思いが出てくるのですが、すでに解決済みの人生を生かされていると信じて歩むことが、主にあってきよい人生を歩むことでありますが、その生き方を現していくことによって、肉の思いが抑えられ、霊の思いが強くされていく生き方へと向けられ、神を見た者としての歩みをしていると見て頂けるのです。

* その後、デメテリオという人物を引き合いに出し、彼がいかに真理を語り、真理に忠実に生きている人であるかを保証するのです。それはガイオに対して、デオテレペスの言動に心を揺さぶられることのないように、デメテリオから真理の福音を十分に聞き取って歩むように勧めるために、デメテリオが真実であることを保証したのでしょう。


  (まとめ)肉の心をあおるサタンの働きかけ

* ガイオ個人に宛てたこの手紙においてヨハネは、真理の中を歩む生き方を妨げようとするサタンの働きかけに十分注意して、敵の何が問題なのか、何を崩そうとしてくる働きかけなのかを理解して、それにやられないように、神の形造られた教会が壊されてしまわないように勧めを書いたのです。

* できれば直接話して導きたいと思っていたヨハネは、すぐにでも行きたいと思いながら、それまでのつなぎとしてこの手紙を書いているのです。信仰者や教会をつぶそうとする働きかけは、偽福音とは限りません。信仰者の内側に残っている肉の心をあおり、人間的野心を引き出して、肉の思いで神を放り出そうとする働きかけもあると、この手紙から感じさせられるのです。

* 肉の心は、私たちの内側にも残っており、それをあおり、肉的生き方へと逆戻りさせようとするサタンの働きかけは、とどまることがありません。肉の思いを抑え、聖霊によって起こされた霊の思いが強くされていく生き方をして、神を見る者とならない限り、サタンの働きかけにやられる可能性はなくならないのです。

* それでは、どうすれば肉の思いを抑えることができるのでしょうか。ヨハネが示してきたことは、真理の福音を学び続け、真理の福音に沿って歩み、真理の福音に沿って歩んでいる人に倣って歩むこと、そこに肉の思いを抑える生き方を見出すことができ、霊の思いが強くされてくるということでした。

* 第1の手紙で明言していたように、御霊の働きかけがいかに重要であるか(5:7)ということを、ヨハネはどうしてこの手紙においても明言しなかったのか不思議ですが、直接話し合いたいと考えていたヨハネは、必要最小限のことだけを記したのでしょう。

* 今日の私たち信仰者においては、真理の福音を学び続け、真理の福音に沿って歩み続けるためには、そこに御霊の働きかけと助けなくしてあり得ません。真理の御霊の助けによって、神から出た者としての位置を見失うことなく、そこに喜びと感謝と希望に溢れる歩みを体験し続けたいと思うのです。



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