聖日礼拝メッセージ
2012年7月8日 更新

聖 書 詩篇20:1〜5   (第1講)
 題 「とりなしの祈りによって支えられる信仰」


  (序)この詩の背景を推測する

* この詩は、王の詩だと言われており、民が王のためにとりなしの祈りをしている内容であることが分かります。苦難の日、勝利、戦車を誇るという用語などから、これは戦争に出る前に主の助けを願う民の祈祷文だったのではないかと、多くの学者は見ています。

* しかし、ある学者たちは、ここには戦いという切羽詰まった感じはなく、王の即位式や新年祭の時に歌われた詩篇ではないかと言います。どちらにしても、表題にあるような、ダビデが作った歌ではなく、民が王のために作った歌だと見るべきでしょう。

* この詩の背景が、戦争前の王の立場にせよ、即位の時、平常時の治世の時の王の立場にせよ、国難の時に、王が神の助けによって勝利をし、国難を乗り越えるように民がとりなしの祈りをするということは、王の勝利が国民の勝利となるのですから、このとりなしの祈りは、間接的に自分たちと自分たちの国のための祈りだと言えます。

* 神が、この国の支配者として王を立てられ、王を用いてこの国が正しい道を進み、神のみ栄えを現す王国となっていくように、民が心を合わせて祈り、神による深い介入を求めることの大事さを訴えている内容として見ていくことが重要でしょう。

* それでは、どうして王のために、民はとりなしの祈りをすることが大事だと考えたのでしょうか。これは、とりなしの祈りのもつ意義とその効力、さらに、神はそのとりなしの祈りをどのように受けとめて下さるのか、理解している必要があります。

* 聖書の中には、私たち信仰者のために、神との間をとりなして下さるお方としてキリスト(ヘブル7:25、ローマ8:34)と御霊(ローマ8:26)とが記されています、キリストや御霊のとりなしは、御心をご存知の上で、正しい仲介ができるお方のとりなしですから、間違いなく有効なものでありますが、私たち信仰者の不十分なとりなしの祈りにどれほどの意味があるのか、そのことをも含めて考える必要があるでしょう。

* もちろん、私たち信仰者にも、すべての人のために、上に立っている人のためにとりなしをするように勧められていますから(Tテモテ2:1)、不十分なとりなしでありながらも、それが大事な一つの信仰的行為であることが記されています。この詩篇からそれらのことについても見ていくことにしましょう。


  (1)王のためのとりなしの祈りが持つ意義

* 民は、王が苦難のただ中に置かれた時、王が主を見上げ、主の助けと守りとがあるように、信仰を持って願い求めていくという、そのような王の信仰に対して、神が応えて下さり、ヤコブの神の御名によって守って下さるようにと願いました。

* 口語訳で、守って下さいと訳している言葉は、高く上げて下さいとの意味を持っている言葉ですから、敵の上に立ち、勝利を見させて下さいとの、とりなしの祈りであることが分かります。

* このようなとりなしの祈りが、どのような意味を持つのか考えて見ましょう。人間の激励であるなら、それは頑張って勝利を得、苦難を乗り越えて下さいという励ましの言葉以上のものではありません。と言うことは、王自身の頑張りによって乗り越える以外に、他に方法はないのです。

* もし王が、信仰を持っておらず、民が神信仰に立って、王に代わってとりなしの祈りをしたとしましょう。神はそのとりなしの祈りをどのように聞いて下さるのでしょうか。

* 祈る人の信仰によって、苦難の状況によい作用を及ぼして、民の信仰の故に、王に信仰がなくても、神は王を助け守って下さるのでしょうか。もし王が苦難を乗り越え、勝利を得たとしたら、王は、神によって勝利を得たと思わず、自分の力と工夫によって勝利したと思うでしょう。であれば、未信者のためのとりなしは無意味なのでしょうか。今日はこの詩篇の内容から外れますから、このことに詳しく触れることは致しません。

* この詩におけるとりなしの祈りは、王が信仰に立っている者であることが、供え物や燔祭をささげており、油注がれた者と言われていることから分かります。それ故、この場合は、主に信頼を置いて国を治め、国を外敵から守ろうとしていた王のために、信仰に立ち、王を勝利に導いて下さる主によりすがっていた民のとりなしの祈りであります。

* と言うことは、このとりなしの祈りは、王様!あなたの信頼する神が、あなたに苦難を乗り越える力を与え、勝利に導いて下さいと、王と同じ神を信じる民が、自分たちの信仰によって、神の働きかけを切に願い求めているとりなしであると分かります。

* 王が、信仰者として主によりすがり、主の助けを信じて祈りつつ、供え物をささげ、神の前にきよく生きようとしていたのですから、神は、王の信仰を見て助け、主の偉大な力によって苦難を乗り越えさせて下さるとの信仰に立って向かっていたのですから、民のとりなしの祈りは不要なのではないでしょうか。

* ここに、とりなしの祈りの意義が何であるか考えさせられます。援護射撃のように、自分一人の信仰だけでは神のお心を動かし、神に働いて頂くということは無理なので、一人よりも二人、二人より5人とより多くの人のとりなしの祈りがあれば、神もお心を動かして下さるのではないかという、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる式で、誰かのとりなしによって神がお心を動かして下さるのではないかと考えてするとすれば、これはとりなしの意義が分かっていないことに気づく必要があります。

* 祈りとは、この祈りの内容はいいと、その祈りの内容に対して神が感動され、心を動かし、働いて下さることを求めるためにするものではありません。なぜなら神は、祈る前から、私たちの必要をすべてご存知であられるからです。

* にもかかわらず、祈ることを求めておられるのです。それは一体どうしてでしょうか。それは、祈りという信仰告白をすることによって、神をどこまで信じ、信頼し、よりすがり、神の助けと守りとを確信しているか、その告白信仰を、祈りという形で表すことを、神は信仰者に求めておられるからです。

* それ故、王自身が神に祈りつつ、供え物をささげ、礼拝を大事にしつつ向かっていたとしても、その王の下にある国民として、王の勝利は国の勝利であり、国民一人一人の勝利なのですから、このとりなしは、王のためでありつつも、自分の告白信仰を持って、神の助けと守りとを求める自分のための祈りでもあったのです。

* これは、王自身が神に祈りつつ、供え物をささげ、礼拝を大事にしつつ向かっていたとしても、その王の下にある国民として、王の勝利は国の勝利であり、国民一人一人の勝利なのですから、このとりなしは王のためでありつつ、自分の告白信仰を持って神の助けと守りとを求める民のための祈りでもあったのです。

* これは、指導者とその指導者の下に導かれている集団の場合にも当てはまるでしょう。ここに取り上げられているとりなしから考えられることは、王だけが信仰を持って立ち向かえばいいと言うのではなく、同じ信仰に立っている民が背後にあってとりなしの祈りをするという形で、共に向かうことの大事さを示しているのでしょう。

* パウロも、「わたしのために祈ってほしい」(エペソ6:19他)と言いました。大胆に福音の奥義を明らかに示すことができるように、とりなしを求めたのですが、これは本来、パウロ自身の信仰の問題として、神に願い求めるべきことであるのに、どうしてわたしのために祈ってほしいと、とりなしてくれるように求めているのでしょうか。

* 私たち信仰者は、神の前に一人で立つ者でありつつ、共に立つようにも求められていることを、パウロは知っていたからです。これは、複数で祈る方がより効き目があるのかどうかという事柄なのではなく、私たちの立つべき信仰姿勢の事柄として示されていることが分かります。

* 一人で神に向かい、一人で必死に神に祈りつつ、事に立ち向かうのではなく、とりなしの祈りという形で、共に事に立ち向かうということが重要であるという、信仰意識を持つように導かれているのでしょう。

* ここでは、王のための民のとりなしという形で、王と民とが一体となって神の助けを願い、神への強い信頼を表して苦難に立ち向かっていくよぅに、その意味で王は、実行部隊の長であり、民は援護部隊として、各々形は異なっていても、共に立ち向かう信仰に立つことが、とりなしの意義だと考えられます。

* これは、指導者と、その指導者の下に置かれている集団との関係だけではなく、同じ信仰者同志の場合においても、一方が実行部隊となると、他方は援護部隊となり、その正反対の構図にもなると言うのです。こうして、互いのためにとりなし合うことになります。


  (2)王の信仰プラス民の信仰を表現するとりなし

* それでは、民のとりなしの祈りの内容について見ていくことにしましょう。1節では苦難の時に、神の助けによって勝利を与えて下さるようにとのことでした。

* 神を信じて従っているなら、苦難が襲ってくることはないとは決して言いません。預言者イザヤは33:2で、「主よわれわれをお恵み下さい。われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救いとなって下さい」と祈っています。

* いくら主を待ち望む信仰に立っていたとしても、悩みの時のあることが前提として語られています。その時がきたならば救いとなって下さいと言うのです。

* この詩篇においては、苦難の日に応えて下さるようにと言い、苦難を乗り越える力を与え、“ヤコブの神のみ名が”と言って、選民イスラエルの偉大な神の権威において守りの中に置き、勝利を得させて下さいと祈ったのです。

* 2節では、その勝利は、王が神を見上げている聖所から送られ、神の住居として下さったシオン(エルサレム)から送られるように祈って、王の神信仰に応えて下さいと言うものでした。

* 当時においては、神が臨在して下さっている聖所から、信仰者に、神の力を電波のように送られるとのイメージを抱いていたのでしょう。同じ詩篇96:6で、「力と麗しさとはその聖所にある」と歌っています。その偉大な御力を受け取る信仰者の側が、しっかりとキャッチできる信仰を持つ必要があるのは言うまでもないことでしょう。

* 3節では、王の礼拝行為である供え物と燔祭という表現で言い表しているものは、供え物とは穀物の供え物のことで、これは、神に近づく手段とされ、燔祭は動物のささげもののことで、これをすべて焼き尽くすことにより、自分をすべて差し出す献身の手段とされているのです。

* すなわち、供え物をささげ、燔祭を行うことによって、神に近づく生き方を第1にしていることを表現し、この私は神のものであるとの信仰に立って、自分を差し出していく歩みを重んじていたことが示され、神が、王のそのような信仰を受け入れて下さるようにと、とりなしています。

* 4節では、主の助けと導きを頂きながら、与えられた知恵と工夫とをもって、苦難に対してどのように対処し、どのように乗り越えていくべきか、王が考えた計画を、神がそれを遂げさせて下さるようにとのとりなしであります。

* これは、王が、王自身の知恵や計画で事を進められることなく、信仰によって、神から与えられた知恵で対処をし、それを神が遂げさせて下さるようにと、民がとりなしているのです。

* それは、パウロが信仰の原点として示した内容と同様の意味を持つとりなしであったと言えます。パウロは、ピリピ書でこう言っています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」と(2:13)。

* 王の思いの中に働きかけ、神の与えられた知恵によって判断し、計画し、神に祈りつつ苦難に立ち向かうならば、神はその信仰の姿をよしとされ、実現に至らせて下さると信じてとりなしているのです。

* もちろん、王自身がその信仰に立って、正しい判断をし、計画を立てることができるように、神が知恵を与えて下さっていると信じ、王が下した判断や計画などを神がよしとして、実現に至らせて下さると信じて、目の前の苦難に向き合おうとすることが大事ですから、王がその信仰に立ち、確信して前進するように民がとりなすことによって、神はその祈りに耳をとめて下さり、王の信仰プラス民の信仰として受けとめて下さるように求めているのが、このとりなしの祈りの意義であったと考えられるのです。


  (3)主は私の岩、私のあがない主との信仰告白

* 5節の所でも、とりなしの祈りが続くのですが、その祈りの前に、神による勝利を確信し、まだ苦難からの具体的な勝利の様が見えない中、神の御名という旗を高く掲げ、勝利を宣言した上で、その勝利を与えて下さった主への絶大な信頼を表すかのように、王の願いを満たして下さるようにと、とりなしているのです。

* 言わば、願い通りになるその時が来ない前に、すでに勝利したかのように感謝の告白をする、先取りの告白とも言うべきものをここに見ることができます。このことが、神信仰における非常に重要な特徴であり、それがここに明らかにされていると言うことができます。

* 肉の目に制約されている人間にとっては、実際に主の助けを見、主の守りを体験し、主の支えを味わったならば喜ぶことはできるのですが,その時が来るまでは苦しみの中でうめき、助けを求め続ける信仰の向かい方しかできないのです。すなわち、現実的信仰の域を超えることができないのです。

* しかし、永遠性を持っておられる神の働きかけと言うのは、時間を超越したものでありますから、肉の目で見える現実の勝利イコール勝利という狭い人間的制約を超えたものであって、神の約束(現実には勝利が見えない時であっても)イコール実現という、永遠なる神の偉大さを信じる神信仰を持つことによって、神の約束を信じた時イコール勝利を確信し、告白する者にされるのです。

* この時の民は、主の御力による勝利が与えられることを確信し、喜び歌うという告白信仰を現したのです。これは、そうなってくれたらいいのにという単なる願望ではありません。現実にはまだ勝利は見えなくても、神においてはすでに勝利して下さったと言い切っているのです。

* この告白信仰ができない信仰者は、目の前の苦難に振り回され、状況が好転するまではホッとすることができず、落ち着かず、平安を得ることもできません。その意味で、先取りの告白ができる信仰者と、肉の目に制約されたままの信仰者との間には大きな開きがあると言えるでしょう。

* もちろん、信仰者は、もっと積極的に先取りの告白をしていく必要があると勧められても、そう簡単にできるものではありません。それには、時間を超越しておられる永遠なる神を本気で信じることがポイントとなってきます。

* パウロは、アブラハムの信仰を例に取り上げて、「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」と言うのです。(ローマ4:20,21)

* 勝利がまだ肉の目に見えていなくても、永遠なる神の約束という勝利の保証があるが故に、勝利を確信し、勝利を大胆に告白し、それをわずかも疑わず、突き進むことができるのです。これができなければ信仰の喜びは湧き上がってこないし、思いの中に平安は訪れないのです。

* 民のとりなしは、王の勝利を、すなわち国の勝利を、国民の勝利をまだ見ていないのに、その勝利を喜び歌うという暴挙とも言える信仰的冒険を表し、勝利の告白をし、主への絶対的な信頼を歌った上で行ったものです。

* 信仰者には、この信仰的冒険が必要なのです。石橋を叩かなければ渡れないような、肉の目で確信できる現実的信仰の域にとどまらないで、神にはできる、神がなそうと思われたら、神にはできないことは一つもない、永遠なる神にすがっているならば、応えて下さらないはずがない。すでに勝利を頂いた、勝利の旗を掲げて、主をたたえると告白する信仰で進むことが、このとりなしの祈りの背後にある信仰思想だと分かります。


  (結び)自分を差し出すとりなしの祈りをしているか

* この詩は、苦難の時に、王が正しい信仰を持って主に向かい、主の助けと守りを頂くことによって勝利を得、国に平安をもたらしてくれるように祈る、民のとりなしの祈りでありました。人間的な激励ではありません。神へのとりなしです。なぜそのようにとりなしの祈りをすることが必要だと考えたのでしょうか。

* 最初に、とりなしの祈りの持つ意義とその効力はどのようなものか、また、神はそのとりなしの祈りをどのように受けとめて下さるのかという疑問を示しましたが、その答えを考える必要があるでしょう。

* このとりなしは、信仰に立った指導者である王のために、同じ信仰に立つ民によるとりなしだと見てきました。すなわち、とりなしの祈りをすることによって、王の信仰を変えて下さいと言うものではありません。

* 王が、人間の思いに引っ張られず、神の知恵による判断と計画とをもって進むように、信仰を整え、民も王の信仰にだけぶら下がるというのではなく、民として同じ信仰を持ってとりなし、一緒に立ち向かっていく思いを強くする姿を現すためであったことが分かります。

* すなわち、とりなしの祈りをするというのは、自分の信仰をそこに賭け、自分を差し出す思いがなくして、神への信頼を表していることにはならないでしょう。王が正しい信仰的判断を下すことができず、苦難を乗り越えることができなかったとしたならば、それは民のとりなしの祈りが、神に聞き届けられない、自分を差し出していないものであったとも言えるのです。

* もし他の人のためにとりなしているのであれば、その人が、正しい判断を下すことができないのを見て、どうして信仰が足らなかったのかと裁いてはなりません。それは、自分のとりなしが神に聞いて頂いていないことであり、自分のとりなしに全く力がないことを明らかにし、自分を裁いていることになるからです。

* 信仰は神と1対1のものでありつつ、背後で自分を差し出してとりなしてくれている人の信仰にもかかっており、神は私たちの信仰を見つつ、その背後でとりなしている人々の信仰をも深いかかわりのあるものとして受けとめて下さっているのです。

* もし指導者が、民のとりなしという信仰的行為に支えられていないとしたら、その信仰は弱いものとなり、小さなものとなるでしょう。しかも先取りの告白をするとりなしを、神は大事な信仰の向かい方として求めておられるのです。

* すでに勝利を頂いているとの永遠なる神の保証を確信し、勝利の告白をしていく、告白信仰に立ち続けているならば、肉の目に見える勝利の状況がまだ見えない中にあっても、オロオロせず、いつ聞いて下さるのかとのあせる思いを持つこともなく、格好付けや、やせ我慢によるものではない感謝と喜びの声を上げることができ、平安が訪れるのです。

* 私たち一人一人も、他の信仰者による、先取りの告白をするとりなしの祈りに支えられていることを忘れてはなりません。また私たちがとりなしの祈りをしていく側となり、自分を差し出すとりなしの祈りをすることによって、相手の信仰がプラスされていくことを信じて向かうことも大切になってくるのです。

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