(序)歌う中で霊が整えられていく
* 民が、王のためにとりなし、自分たちの信仰が、王の信仰にプラスされると知り、王が苦難の時に、主の助けと守りとを確信しながら乗り越えていくことができるように、民が心を合わせて歌うように作られた詩篇であると、その前半の内容から学んできました。
* 誰が書いた詩であるのか分かりませんが、神に選ばれた信仰者である王が、どんな状況に置かれても、指導者としての務めを正しく果たし、国が神の御栄えを現す集団として突き進むことができるように、そのためには、民が自分を差し出すとりなしの祈りをすることがいかに大事であるか、その信仰の思いが起こされた詩人の作ったものであることが分かります。
* そこには、王が信仰によって向かい、それを見て主が助け、支え、その思いを導き、勝利へと引き寄せて下さるようにと真剣に願い求める民の信仰が、なくてはならないものだと歌われており、とりなしの祈りをすることが、王の信仰の支えとなり、励ましとなっていたことが伺えます。
* しかも、そのとりなしの祈りは、通り一遍のものではなく、主に助けと守りとを願い求めていく中で、王が苦難の時に勝利を得るという、まだ具体的な状況の好転がない状態で、全く兆しも見えない中にあって、先取りの告白をし、勝利の喜びの声を上げたのです。
* これは、主に信頼し、よりすがる者に対して、主が勝利に導いて下さらないはずはないとの信仰に立ち、目に見える結果を拠り所とする現実的信仰から大きく一歩踏み出し、信仰的冒険をして、神への絶対的信頼を表すように歌っているのです。
* ここには、主への強い期待を現す信仰が大事であるから、王のために真剣に願い求めるとりなしの祈りをしてきたのですが、そこにとどまるのではなく、その一歩先の信仰である先取りの告白をしていくように、歌われていることを学んできました。ここには、歌う中で霊が整えられていき、高められていくことによって、一段高い信仰へと引き上げられている姿が見えるのです。
* しかし、それでよしとされるのではなく、後半の今日の箇所において、更にもう一段高い信仰に立つように求めているのが見えるのです。それがどのようなものであるのか、ご一緒に学んでいくことにしましょう。
(1)神の思いが内側に起こされるという霊的働きかけ
* 6節において、王のためのとりなしの祈りをしていく中で、ある変化が起きたと言うのです。「今私は知った」あるいは分かったと言います。ここまでは「私たち」と言ってきたのですが、ここにおいて「私」という一人称単数の表現に変わっています。これは、民の代表としてとりなしの祈りをリードしている祭司が、ここで神からの託宣を受けたので、神はこのように祈りを聞いて下さったと歌い始めたのだと想定する人たちも多いのです。
* 確かにそのように感じることもできますが、それでは、何か最初から出来上がっている劇作文を聞いているようで、今知ったという、神の働きかけが今この時に実現したという緊迫感のないものとなってしまうでしょう。
* ここで言う私とは、祭司というよりも、民のとりなしの必要を歌ってきたこの詩人自身だと見た方がいいでしょう。民が、王のためにとりなしの祈りをしていくようにと導いてきた中で、詩人がハッとさせられ、そうだ!神はご自身が選ばれた、油注がれた者(王のこと)を、ご自身が責任を持って導いて下さらないはずがない。神のご性質を考えれば、信頼を表してさえいれば、苦難の状況のままに放置されるということなど決してあり得ない、と詩人の思いの中に神の深い愛が激しく侵入してきたのを感じ取ったのでしょう。
* なぜ詩人の思いの中に、この時、神の深い愛を感じ取るという大きな変化が起きたのでしょうか。神は、その人の思いや信仰にかかわりなく、突発的に思いを起こさせるように、思いを注入されるのでしょうか。
* 神の働きかけを十分に理解できていない人は、神が思いを注入して、私たちの内側に神の思いを起こして下さるという霊的働きかけを受けとめることができません。
* 前回も引用したピリピ書2:13においても記されてありましたが、神が「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせて下さる」という内容が、目で見て確認できることではありませんから、本当に神が思いを起こして下さっているのかどうかよく分からない人が多いのです
* もし、この霊的事実を信じることができないなら、人間は自分の思いで神を信じ、自分の感覚で神を捉え、神の導きを理解し、神の働きかけを感じ取ろうとするしかないのですから、そこには無理があり、歪んだ信仰になってしまいます。
* もし、神が私たちの思いの中に働きかけて、神の思いを起こして下さるという一点を信じることができないなら、人間は、神を理解することも信じることもできないし、それは信仰とは言えないでしょう。これを信じているかいないかで、その信仰は神によって持ったものであるか、人間的なものであるかを見分けることができるでしょう。
* それでは、神が私たちの思いの中に、神の思いを起こして下さるということを、私たちはどのように感じ取ることができるのでしょうか。もちろん、人間の感覚で感じ取ることができないものであることは言うまでもないことでしょう。それでは、霊で感じ取るものだと言っても、簡単に理解できるものではありません。
* このことを理解するために、私たちの内側にあらゆる思いが起きてくるのですが、それはどのように起きてくるのかを考えて見ましょう。それは、私たちが目で見たもの、耳で聞いたものなど五感によって受けた情報に反応して(まれには第六感であるひらめきもあるでしょう)、それを判断したり、考えたり、悩んだり、楽しんだり、裁いたり、あらゆる思いが吹き出てくるようになっています。
* 五感によって受けた情報によって、何にも反応せず、思いが起きてこなかったならば、人はこの世にあって生きていくことができません。たとえば、これは「熱い」と受けた情報に全く反応しなかったならば、やけどをします。すべてがその情報によって世に生きる対処をしているのです。
* しかし人間には、必要な反応だけではなく、考えなくてもいいことまで考えたり、思わなくてもいいことまで思ったりして心を乱し、平安を失い、人を恨んだり、裁いたり、心が落ち着かなくなったりする過剰反応、不要反応も多くあり、これをコントロールできない人は、自分の内側に起きてくる思いにやられてしまい、自分をつぶすほどの力を現すことがあります。(精神的ストレス)
* 話を元に戻しますが、この世の思い、肉の思いはそのように、情報に対する反応だと言えます。そこにサタンが流す不信仰な情報に振り回されて、肉の反応が引き出され、肉の思いに押しつぶされてしまうのが不信です。
* それでは、神の思いはどのように私たちの内側に起こされるのでしょうか。御言葉という正しい霊的情報に接し、それに対して正しく反応するように、そこに聖霊が働いて下さって、私たちの内側に神の思いが起こされてくると考えることができます。
* ということは、より正しい霊的情報に接することなくして、正しく反応することができないし、人間的な反応ではなく、そこに聖霊の助けによって霊的な反応を表さなければ、私たちの内側に神の思いが起こされないということが分かります。
* 正しい霊的情報が乏しく、この世の肉的情報にばかり触れている人は、神の思いが起こされる領域を失っていることになります。パウロはそのことをTコリント12:3で「神の霊によって語る者は誰も『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできない」と言いました。聖霊の助けによって霊的な情報に素直に反応するように導かれるので、神の起こして下さった思いによって、イエスを主と告白することができるのです。
* それでは、先ほどの疑問に戻りますが、この詩人の内側に起きた大きな変化は、詩人の思いや信仰にかかわりなく、神の気紛れによって、神の思いを注入し、ショックを与えられたものなのでしょうか。
* そうではないでしょう。この詩人が正しい霊的情報に触れることを何よりも重んじていたから、五感で感じ取ることができなくても、霊において反応することを大事にしていたので、彼の内側に大きな変化が起きて、神の思いが起こされたのです。
(2)先取りの告白から、強い確信と主を誇る信仰へ
* 詩人は、歌う中で内側に神の思いが起こされ、神の偉大さを霊において体験したのです。それによって霊が一段と高められ、先取りの告白をせずにはおれなくなったのです。主は、信頼する者を何としてでも助け、勝利を与えずにはおれないお方だ、私は勝利の旗を掲げると。
* 事ある毎に、この先取りの告白をしていく信仰を現し続けていくと、霊が更に育てられていって、神が偉大な右の手によって勝利を与え、神がお選びになった油注がれた王に、聖なる天から、助けの手を差し伸べて応えて下さるということを疑うことのない信仰へと高められていくのです。
* 信仰者であると言っても、神からの確かな保証を求めようとする思いを持っていると言えます。霊的な事柄は目に見えないと分かっていても、神を信じて向かうならば安心だと思えるようにしてほしい思いを持っているのです。
* しかしそれは、楽して安心保証を求め、苦難の時にも主の助けを頂いて乗り越えることのできる確証を得たいと思っている甘い思いだと言えるでしょう。
* そのような、楽に信仰の高嶺というか、山上に登ることはできないようになっています。一朝一夕で霊は高められないからです。人間の側において、霊が高められていくように向かわずして、楽に神の助けを確信して、勝利の旗を掲げ、喜びに満ちることはできないのです。
* それでは、信仰者はどのように向かっていれば、霊が高められていくのでしょうか。まず主の偉大さを知り、信頼と期待とを現していくこと、それが真剣な飢え渇きの祈りとなるのです。そして、神からの正しい霊的情報に触れ続けることによって、神の思いが起こされ、先取りの告白をしていく信仰へと導かれていくのです。
* その向かい方を大事にして、事ある毎に先取りの告白をし、神の保証の中に置かれていることを強く確信していくと、偉大な主の右の手による勝利が、すでに与えられているという強い確信へと導かれ、勝利を疑わなくなり、主を誇る信仰へとより高められていくのです。
* 2節の所では、主の助けが聖所から、あるいはシオンから送られると歌われていたのに、同じ歌の中で、主の助けが直接聖なる天から送られてくると言い換えられているのはどうしてでしょうか。ここに、詩人の思いの中に大きな変化が起きていたことが見えるのです。
* 口語訳では、「主はその油注がれた者を助けられる」と訳していますが、ここは、助けるという動詞に完了形が使われており、「助けられた」あるいは「勝利を与えられた」と言っているのです。現実において実現したというのではなく、信仰の目から見て、すでに勝利した。神が助けて下さったと歌っているのです。
* この信仰の目を持った時、私たちの思いをすべてご存知である神が、直接天から応えて下さったことが分かったのです。聖所やシオンからというのは,仲介者である祭司を通して、神の助けを受けとめるという旧約信仰の表現でありましたが、詩人に、その域を越えた天からの直接的助けを見る信仰の目が開かれたのです。
* 先取りの告白をしていくという信仰は、そこには信仰によって、なかなか悟ろうとしない自分に言い聞かせるという要素が込められていることは否めません。しかし、先取りの告白を、事ある毎にしていくことによって、偉大な主の右の手による勝利がすでに与えられたという強い確信が育てられていくようになって、信仰の目が開かれ、主を誇りとする信仰へと高められていくのです。
* 神が、私たちの内側に神の思いを起こして下さることを大事にした詩人は、歌う中で信仰が高められ、育てられ、信仰の目が開かれて、王の勝利を確信し、天からの神の助けがすでに与えられたと確認し喜んだのです。そしてこれが、民がとりなしの祈りとして表すべき信仰姿勢だと示しているのです。
(3)主の御力に賭けて歩む
* 神の思いが内側に起こされることによって、霊が育てられ、高められていくようにされているのですから、聖霊の助けなくして、霊が高められていくことなど考えられないことが分かります。
* 詩人は、そのようにして、王のためにとりなす民の信仰が高められていくことによって、王の信仰にプラスされることになり、王の勝利の信仰が国のためであり、民のためであり、神の御栄えを現すためのものになっていくと確信していたのです。
* その高められていく信仰の最たるものがどのようなものであるか、詩人は7節で歌うのです。ここに取り上げているある者とは、霊が高められていく必要があるということを理解しようとしない世の人、神を前に置こうとしない肉の人のことを指しています。
* このような人は戦車を誇り、馬を誇りとして生きている人だと言います。これは直接的には武力、軍事力を拠り所として生きる人のことを指していますが、もっと広い意味で、人間が世的に頼りとするすべてのものをも含めていると推察できます。
* 世的に頼りとするもの、すなわち、これは安心で、希望が持てて、大丈夫だと思えるものすべてを考えることができます。ヨハネはそれを目の欲、肉の欲、持ち物の誇り(Tヨハネ2:16)と言いました。人は財力、権力、武力、知力など、世の求めるものに頼ろうとする心を持っています。
* しかし、それらのものが本当の意味で人を支え、幸いにし、安心を与えるものではなく、人間の期待に応える力を持ってはいないので、最終的には、彼らはかがみ、また倒れることになると8節で結論を示しています。
* けれども私たち信仰者は、正しい霊的情報に触れ、神の思いが内側に起こされることによって、世のもの、肉のものがもたらすものは失望でしかないことを理解し、本当にすがるべきは神だけしかないことを信じ、神だけは拠り所にしても決して失望することなく、すがる者に対して応えて下さるお方だと確信する。この信仰に立つことが、霊が高められていく者の現す姿だと歌うのです。
* そして、主を拠り所とし、主を誇る私たちは、起きて、まっすぐに立つと確信して歌っています。この表現で示していることは、勝利は主の力による以外にない、世のものに少しでも頼ろうとする者は、失望するしかないと言い切ることでした。
* 士師の一人ギデオンの取った行動が、士師記7章に記されていますが、今にも襲いかかろうとしていたミデアン人の大群の前に、ギデオンは兵を募り、3万2千人集まったのですが、兵の数が多いと、自分たちの手で勝ったと思うから人数を少なくせよとの主の御声に聞き従って、最終的には300人で大群に向かうことになったのです。
* この戦いを主の戦いとして、主の手によって勝利したことを見させられたのです。物語としては、素晴らしい逸話だと思うのですが、世にすがるものを一切持たず、神にだけすがれ、神が勝利を与えられることを信じなさいと言われて、本当に信じることができるのでしょうか。
* 世的不安を覚える人にとっては無理な、無謀なことでしかないでしょう。しかし、神の思いが内側に起こされ、神の偉大さを見、霊が高くされた人にとっては、それは無理なことでも、無謀なことでもなく、偉大な主にとっては当然のことであり、そうでなければ、主によりすがったことにはならないと分かるのです。
* この詩人が、民にとりなしの祈りをするように導きながら、内側に神の思いが起こされ、霊が高くされた者としての神への絶対的な信頼を現すように求めたのです。
* そしてこの信仰は、今日の私たちに対する導きをも示しているものであることが分かります。主の御力に対する絶対信頼なくして、神信仰にあらず。それを無理なこと、無謀なことだと思おうとする肉の心に負けないで、信仰的冒険をしていく、すなわち、主の御力に賭けて歩むことが信仰であると感じさせられるのです。
(まとめ)
* この詩人が示してきたことは、とりなしの祈りをするということは、形だけして、それでしているつもりになるのではなく、そこに自分を賭けている、自分の信仰が、とりなしの相手の信仰にプラスされていくものであることを知り、とりなしの祈りをする自分の信仰が育てられていき、高められていく必要があると言うことでした。
* ここでは王のために、真剣に飢え渇いてとりなしの祈りをするだけではなく、祈りの中で神の思いが起こされ、先取りの告白へと導かれ、更に偉大な主の右の手による勝利がすでに与えられたとの強い確信に導かれ、主を誇る信仰へとより高められていく姿が描き出されていました。
* そして、これらの事を見る信仰の目が開かれ、神がどれほど大きな愛を持って働きかけ、助けて下さったか、天からの直接的助けを、霊において見たのです。これが、この詩人のすごい所です。
* 主の御力に対する絶対信頼を表す信仰的冒険を表したギデオンのように、私たち信仰者も、今置かれている状況の中で、御力への信頼を表し、目で見える状況に惑わされず、主の助けがあることを疑わず、起きて、まっすぐに立つことができるようにして下さることを確信して、よりすがっていくことが大切であると思わされました。
* 詩人は、最後の9節において、このような確信を持って、主によりすがっている者として、再び王のためにとりなして終わっているのです。表面は、最初の時のとりなしと同じような内容でありますが、最後の所は、信仰の目が開かれた上で、絶対信頼を表して生きていきますという強い信仰的意志を持って、王のためにとりなしているので、その内容は全く別のものだと言えるでしょう。
* 祈りの中で、神の思いが内側に起こされ、霊が高められていくという経験を大事にしていくということが分からないなら、いつまで経っても育てられることなく、形だけのとりなしで終わらせてしまうのです。