聖日礼拝メッセージ
2012年6月10日 更新

聖 書 ヨハネ1:1〜2  (第1講)
 題 「キリストの神性を見つめていたヨハネの目」


  (序)4番目の福音書が書かれる必要性

* 今日から、ヨハネによる福音書を学んでいくことにしましょう。ヨハネによる福音書が書き記された時代には、すでにマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書が流布されており、すべてのキリスト教会において、神のお言葉として重んじられていました。

* この著者は、そのことをよく知っていました。各福音書が書かれた年代は、すべて推測ですが、マルコが50年代に書かれ、ルカが60年頃に書かれ、マタイが60〜70年頃に書かれたと考えられています。早いものであればすでに30〜40年、神のお言葉として用いられてきたのです。

* けれどもキリスト教が、ギリシヤ人を中心とした異邦世界に広まり、異端も多く出回ってきており、真理の福音が危機にさらされる中で、キリストの神性が脅かされ、これまでの福音書では、それが十分に言い尽くされていないと感じて、これまでの福音書を補う意味で、異なった視点から福音書が書き記される必要性が高まってきたのでしょう。

* イエス様を直接間近に見てきた一人の証人であり、証人としての長き歩みにおいて、その語られてきたお言葉の真意を理解する者とされ、そのことを後世に伝えることのできる人間として、新たに福音書を書き表したのでしょう。

* その人物とは誰であるか、福音書自身には記されてはおらず、その後100年程経った後代の人々の証言によって、使徒ヨハネが著者だと言われてきました。

* しかし、21:24には、イエスの愛しておられた弟子がこの著者だと言っています。本人が自分のことを、イエスの愛しておられた弟子と呼ぶのはあまりにも不自然に感じられます。それ故、使徒ヨハネが口述したものを書きとめ、形態を整えた福音書記者がいたのではないかと推測されています。

* マルコによる福音書が、ペテロの証言を基にして作られたので、ペテロによる福音書と言ってもいいように、また、ルカによる福音書がパウロの証言を基にして作られたので、パウロによる福音書と言ってもいいように、たとえ福音書記者が別にいたとしても、ヨハネが語ったものとして、著者を使徒ヨハネと考えてもいいでしょう。それは90年代に書かれたと考えられています。


  (1)ユダヤ教を経由しないキリスト信仰

* それでは、3つの福音書とは別に、新たな福音書を書き表す必要がなぜあったのか、もう少し考えて見ましょう。先程も少し触れましたが、著者自身がこの福音書を書き表した目的を記していますので、その内容を理解することが、この福音書の内容を理解していく鍵となりますから、そこから考えてみることに致しましょう。

* 20:31において、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と言っています。この2つの点を受けとめてほしいことが執筆の動機だと明言しているのです。

* 第1は、イエスが神の子キリストであると信じることの重要性を示すためと言いましたが、これまで記された3つの福音書では、どうして不十分だと思ったのでしょうか。

* マタイ、マルコ、ルカの福音書は、特に神の民のために、神から約束されたメシヤがイエスであり、このイエスこそ罪人を罪から救い出すキリストであることを明らかにし、ユダヤ人に約束された救いが異邦人に及んだという、驚くべき神の愛の大きさを示すことでありました。事実その重要な役割を果たしたのです。

* しかし、1世紀終わり頃のヨハネの置かれている状況にあって、宣教してきたことは、ユダヤ人に約束されたメシヤという、アブラハムから始まるユダヤ教を経由したキリスト教ではありませんでした。

* というのは、この当時のギリシヤ人にとっては、一旦ユダヤ教思考を受け入れてから、キリスト教信仰を受け取っていくという遠回りの向かい方を望んではいませんでした。

* 当時のギリシヤ人への宣教のために,アブラハムから始まったユダヤ教信仰から解き明かしていくよりも、もっと古い時代にさかのぼり、人類が造られる前、世の始まる前からキリストがおられたこと、そのキリストが、神の子でありながら、肉体を取ってこの地上に来て下さったことを明らかにし、私たちが信じるイエスは神でありつつ、全人類を救うキリストとしてこられたことを正しく受けとめ、信仰とは何であって、何でないかを明らかにしていく福音書を書き表そうとしたのです。

* この観点から、イエスの公生涯を見直し、そのなされたみわざ、語られたお言葉を、聖霊の助けを頂いて正しく思い起こし(ヨハネ14:26)、この福音を読むだけで、イエスが神の子キリストであることを理解できるようにしたいと考えたのです。

* それだけではなく、目的の第2として、イエスを神の子と信じることによって、イエスの名によって命を得てもらうためだと言いました。命という言葉は、ヨハネが重要視した言葉の一つです。それを受け取ってほしい、それが目的だと言うのです。

* 命とは、人を生かしている根源的エネルギーのことで、肉的、地上的生命をも指していますが、神の前に生かされている霊的生命のことだと言っていいでしょう。

* 命の根源は神であり、キリストでありますから、ここで言う命を得るとは、イエスを神の子キリストであると信じることによってキリストに結びつき、神に結びつくことによって、神の前に生きることのできる根源的命エネルギーが流れ込んでくることを指しています。

* ヨハネが思い描いていたことは、神からかけ離れた所で生きていた虚しい存在が、イエスを神の子であり、救い主であると信じることによって命の根源であられる神と結びつき、神から命エネルギーが流れ込んできて、その人を生かし、決して途切れることなく、永遠に生かし続け、喜びと力と祝福に満ち溢れて生きていくことができることに気づく人が起こされることでした。

* これまでは、自分の中にエネルギーが隠されていると信じて、自分に頼り、期待を置いて生きてきたのですが、それは虚しい願望でしかなく、滅びに結びついているものであることに気づかされ、真の命は、神からの命エネルギーを受け取っていく道しかないことが分かって歩み出す人たちが起こされてきたのです。

* それは、イエスを神の子であり、救い主であると信じる道しかないという真理を通らなければ、誰もその命を得ることができず、神の命エネルギーに溢れることなどできないのですが、その真理を歪め、イエスを神の子であると信じない異端が多く出回ってきたことに(Tヨハネ2:18)危機感を抱き、この福音書が書き記されたのです。


  (2)キリストの先在性を信じる信仰

* ヨハネが、これまでの福音書に加えて、新たに福音書を書き記す必要があると考えた思いを見てきましたが、その理由を知ることは、私たち信仰者が、このヨハネによる福音書から何を読み取り、何を得ていかなければならないか分かった上で学んでいく大事さを理解するために必要でありました。

* そこでヨハネはまず、イエスが神の子キリストであることを明らかにしていくために、イエスがこの地上において、キリストとしての公生涯を歩まれるまでのお姿を、世の始まる前にまでさかのぼり、イエスの神性を見事な表現で言い表し,1:1〜18までを序文として示したのです。

* 今日は、その内の1、2節の所を学んでいくことにしましょう。ヨハネは冒頭において、「初めに言があった」と言いました。この言とは、14節の内容から、肉体を取られたキリストのことであることが分かります。それであるならば、どうして明確に「初めにキリストがおられた」と言わなかったのでしょうか。

* この言とは、ギリシヤ語で「ロゴス」と言い、日本語だとその真意が捉えにくくて、それは単なる言葉を指すのではなく、当時のストア哲学で用いられていた用語の一つであったのです。

* キリストを表現するのに、当時のギリシヤ的な概念を利用して、しかも、そこに旧約聖書の概念を盛り込み、キリストは世の始まる前からおられたと言うだけではなく、神の御意志であり、神の理性そのものであったロゴスがおられたと言うのです。

* すなわち、当時の人々が聞き慣れていたロゴスという表現を用いて、キリストが神の深い御心を表す存在であり、神の御意志を実現されるお方であって、そんなお方が、世が始まる前から存在していたお方であることを示そうとしたのです。

* どうしてヨハネは、読者を世の始まる以前へと引っ張って行ったのでしょうか。この地上にこられた時のキリストだけを見て、このお方が神性を持ったお方であるか、それとも単なる人間に過ぎないかを見分けていこうとする愚かさを現してはならないと示すためであったのでしょう。

* すなわち、キリストの先在性(キリストがイエスとしてこの地上に来られる前から存在しておられたことを表す用語)を明らかにすることによって、神が持っておられる神性を、ロゴスが持っておられることを証明しようとしたのです。

* もちろん、目に見える証明ではありません。神のご性質を持った神の御意志としてのロゴス、これが私たちの信じているキリストであることを、告白するという形で証明しようとしたのです。

* その意味でヨハネは、人間的な証明をもって、キリストが神の子であることを明らかにしようとしたのではなく、当時の哲学用語を用いながら、「初めに神は」と語られている創世記1:1の言葉を想起させるように、「初めにロゴスがあった」と言って、世の始まる前へと思いを向けさせたのです。

* ヨハネは、キリストの先在性を信じることが、キリスト信仰の基本であり、これが本気で受けとめられ、今も時間を超越しておられ、今日の私たちのために、今も生き続けておられ、永遠なる神と共に、永遠に存在し続けて下さっていることを信じていなければ、それは信仰とは言えないと言っているのでしょう。

* それと同様の信仰として示されているのが、マタイ28:20のイエス様の最後のお言葉であります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」イエスとしてこの地上に来られた時間はわずかであられたが、実際には、世の始まる前からおられ、あなたのために一時的に世に来て、世の終わりに至るまでおり続けて下さると言われているのです。

* このことを本気で信じることができるなら、信仰者の人生は不安もなく、恐れもなく、悩みもない天国人生だと言えるはずです。この地上におけるものですから、完全ではないが、キリストの愛に満ちた支配の下に置かれているという意味での天国人生です。

* もしこの天国人生を味わっていないのであれば、世の初めからおられたキリストが、この私のために、世の終わりに至るまでいつも共にいて下さるという信仰を持っていないことになります。

* 神の御意志を果たそうとされるロゴスとしてこられた。それは、私たちの上に臨み、世の終わりに至るまでいつも共にいて下さるのです。そして、私たちを用いて神の御意志を果たして下さるのです。

* そのことが、イザヤの預言で明らかにされています。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果たす」と(イザヤ55:11 旧1025)。


  (3)キリストについて受けとめるべき3つの点

* ロゴスが、世の始まる前からおられたというだけではなく、ロゴスは神と共におられ、ロゴスは神であったと続けて言っています。ロゴスは神と共におられたと言うことによって、ロゴスは、神とは別の存在であるが、神とは深い交わりがあったことを示しています。

* しかし、その後の「ロゴスは神であった」との句には、神に定冠詞がついていないので、これは、父なる神そのものであったというのではなく、定冠詞が伴っていない場合は、性質や素質を表すと考えられますから、ここでは「ロゴスは神性としての性質を持っておられたお方」との意味だと考えられます。

* 2節では、1節で語ったことをまとめる意味で、このロゴスは初めからおられ、神と共におられたと言ったのです。ヨハネが1節と2節を通して受けとめてほしいと願った点が、ここに3つ考えられます。それは、今日の私たち信仰者にも受けとめるように求められているものでしょう。それを考えて見ましょう。

* 第1は、イエス様は、見える形では人間として公生涯を歩まれました。しかし、このお方は永遠の初めからおられたお方であって、神性を持ったロゴスとして、神の御意志を私たちに啓示して下さるために、神の下から一時的にこの地上に降って下さったお方であり、また、元に戻られたお方だと言います。

* このように示すことによって、イエスがロゴスとして、神の御意志を啓示する使命を受けて世に来られた、真理の啓示者だと言って、ご自身の命を差し出すことによって、神の深い愛と、その赦しの御心を、身を持って啓示し、啓示者としての使命を全うされたことを明らかにしたのです。

* 第2は、キリストは神性を持ったお方だと言うだけではなく、神と同質であり、神の本質がそのまま見える形で来て下さったお方であることを明らかにしようとしたのです。

* ロゴスは、神と共にあったというのは、単にそこに一緒にいたという意味ではありません。神と本質を同じにしているロゴス,神の傍にいて、神の価値が下がって見られることのない同質のお方ということで、神を表すことのできる反映者として、この地上に来て下さったと言うのです。

* ヘブル書の著者は、それを次のように言いました。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である」と(ヘブル1:3)。キリストは神のことを伝えるお方ではなく、神の反映であるご自身を示すことによって、神を明らかにされたお方です。イエス様ご自身が語られたお言葉に、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)とあります。神を見るためには、神の反映者であるロゴスを通して父を見、父を知ることができるように現れて下さったのです。

* 第3は、ロゴスなるキリストは、神と同質だというだけではなく、御父と御子との深い交わり、その結びつきは決して切り離すことのできないものだと言うのです。すなわち、キリストを信じることが神を信じることであり、キリストに従うことが、神に従うことになると示しています。

* 私たちは、直接霊なる神を見ることも知ることもできません。しかし、この地上に来て下さったキリストを見、キリストを知り、キリストを信じ、キリストに従う姿を現すことが、神を見、神を知り、神を信じ、神に従うこととして受けとめて頂けると言うのです。

* 12:44では、「私を信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのである」と言われています。このことを分からせようとしたのは、キリストと神とを切り離し、キリストを一段低く見ようとしていた異端があって、それに引き込まれないようにしてほしいとの思いがあったからでしょう。

* これらのことから分かるように、ヨハネは、イエス様がユダヤ人に約束されたメシヤであったという位置を示すだけでは、この当時のキリスト信仰においては不十分だと考え、神の御意志を正しく示すことのできる神性を持った啓示者として、また、神の栄光を反映し、神と同じ性質を持っておられるお方であり、御父と切り離すことのできないお方であることを示すことによって、キリストの位置を、神性を持った驚くべき存在であることを信じさせようとしたのです。


  (まとめ)

* ヨハネが、この福音書を書き表すことによってなそうとしたことは、キリストに与えられている位置を、すべての者が悟り、正しい信仰に立って、命を得てほしいということでした。

* これは、逆に言えば、キリストに与えられた位置を正しく知って、受け入れてさえいれば、おのずと神と結びつき、神からの命エネルギーが注がれ、命を得ることができるという確信を持つことができるのです。

* 世の始まる前から、神と共にあり、神性を持ったロゴスとして,キリストを信じる時、神を信じている者として見て下さり、神は愛し導いて下さって、世の終わりまでいつも共にいて下さるとの約束に沿って、天国人生を送らせて下さるのです。

* そのためにもっとも大事なことは、キリストの位置を決して低く見てはならないということです。人間的な目で見ることしかできない人は、キリストが世の初めからおられ、神と共におられ、神としてのご性質を持っておられたという信仰告白をすることができないのです。

* キリストの位置を正しく受けとめた時、私たちの信仰は神に受けとめて頂けるので、信仰の喜びと感謝に満ち溢れるのです。

* ヨハネの持っていた信仰の目を持って、神の御子キリストを見上げる時、世の終わりの時に至るまで伴って下さっているキリストの御手が見え、神と結びつき、神からの命エネルギーが注がれ続けているという、神の大きな手の中にある幸いが感じられるのです。

月別へ   ヨハネへ   TOPへ