(序)神の側における取って置きの解決策
* 福音書を書き表そうとしたヨハネにとって、一番心に留めていたことは、私たちを罪の中から救い上げ、神が造られた最初の人間が持っていた“神のかたち”を回復させるために、神の側でその取って置きの解決策である、約束のキリストをこの地上に遣わすこと、そのことに、神がどれほど心血を注がれたかということを示すことでありました。
* そのためには、どのようなキリストでなければならないか、神のお考えになったことを理解し、それをそのまま受け入れ、神の激しい愛のお心として受けとめるように、明らかにすることでした。
* その第1は、キリストはどのようなお方でなければ本当の解決策にならないかということで、第2は、何をして下さることが本当の解決策になるのかという点で、第3は、どのようにそれを果たして下さったかということでした。このことを、福音書全体を通して示そうとしたのです。
* 前回学んだように、この序文において、私たちを罪から救い上げ、神の子として下さり、神のかたちを回復して下さるためには、キリストが神性を持ったお方であって、神と本質を同じくし、神との深い結びつきの中におられたお方でなければ、それは真の解決策にならないという点を示してきたのです。
* 当時の異端の教えに引っ張られる人たちがあって、そのような人たちは、キリストを低く見るようになっていたのを見て、危機感を抱いていたヨハネは、キリストを少しでも低く見たその時点で、神による解決策は無に帰してしまい、全く意味のない福音となってしまうということを訴えたかったのです。
* ヨハネは単にオーバーな表現と見識ぶった表現で、人の心を引き寄せようとしたのではありません。キリストが唯一なる神とは異なった別の存在であるが、間違いなく神なる存在であり、神と本質が同じである存在でなければ、キリストとして、人間に、神のかたちを回復させる働きはできないし、あらゆる先の先まで考えられた神の豊かなご計画が果たされないのです。
* 今日取り上げた3〜5節の内容は、キリストは神性を持ったお方であるが故に、神のロゴスとして、神の御意志がそのまま形となるという、すべての被造物をお造りになった創り主であることが示されています。
* なぜキリストが創り主であるということが、ここに取り上げられる必要があったのでしょうか、更に、ロゴスは命を持っており、人々を照らす光であったという点を取り上げている意図を探り、これらのことを通して示そうとしているヨハネの思いに迫って行きたいと思うのです。
(1)創り主としての強い愛着心
* 前回も学びましたが、キリストを神なるロゴスとして示すことが、キリスト理解のもっとも重要な点であり、罪人を神のかたちに回復させるという、人類救済事業を進めるための必要な条件として、神の側でお決めになり、その条件を満たすために、神なるロゴスを遣わして下さったと記されていました。
* キリストが神であるか、人であるか、人間の判断で判定しようとすること自体が間違っていることを明らかにしようとしているのです。
* 神の側で、罪人を再び神のかたちに回復させるには、神なるロゴスが遣わされない限り、その務めを果たすことができないので、世の始まる前からご自身の傍にいて、ご自身と同じ神であったロゴスを遣わして下さったと言われているのです。
* その神なるロゴスは、神の御意志そのものであり、神の御意志は即実現となる、とんでもない命エネルギーに満ち溢れているものであることは、創世記において、神が御言葉を発されると製作過程の全くないまま即実現するという驚くべきものであったことが記されている通りです。(創世記1:3,6,9…)
* ヨハネは、それをロゴスの持っておられる神的なご性質と権威によって、瞬間製作をされたものだと示しているのです。神の御意志が語られると即実現となるというご性質と力は神だけが持っておられるものですから、ロゴスは神であり、すべての被造物製作にもかかわられ、神のロゴスによらないものは何一つないと明言しているのです。
* ヨハネは、あたかも天地創造の場面に立ち会っているかのように、神の御意志そのものであられたロゴスが、その時には声として発され、それが人間の理解できる言葉であったか、そうでなかったかは分かりませんが、単なる思いが言葉として発されるという、人間の考える発声ではなく、神の力そのものが発され、それが即実現となる光景を見たかのように記しているのです。
* もちろんヨハネは、そのような場面を映像で見たわけではありませんが、その時の唯一の目撃者であられる聖霊の助けを頂いて、信仰によって理解し、それをここに明言しているのです。
* なぜ、ロゴスが創り主であったということを、ここに取り上げる必要があったのかを考えて見なければなりません。ヨハネが証明しようとしたことは、キリストとして来られたロゴスは、ご自身の造ったものが、神の目的から落ちてしまったものとなっていたから、もう一度神のかたちに再生しようとして、被造物のただ中に介入して下さったことを示すためであったことが分かります。
* ご自身が創り主であられたからこそ、落ちてしまった被造物をあわれみ、最初の創造は、神なるロゴスとしての力を発することによってなされたのですが、一度落ちてしまった被造物を再生し、神のかたちを回復させるためには、ロゴスであるご自身が、同じ被造物の形を取って、命を投げ出すことによってなそうとされたのです。
* 創造のみわざ以上に、再生のみわざのほうがはるかに大変な事業であることが明白です。パウロは、そのことをテトス3:5で、「ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」と言っています。
* 最初の目的から落ちてしまい、駄作となってしまった作品を、なぜ、考えられないほど手がかかることが分かっているのに、再生のみわざをなそうとなさったのでしょうか。それは、最初の製作物に対する神の愛着心が強かったからだとしか言いようがないでしょう。
* 神なるロゴスも、神と思いをひとつにしておられますから、その再生のみわざのために、自ら人間に身を落とし、更に命を投げ出して、考えられないほどの犠牲を重ねられるなさり方によって,そのみわざを遂行なさったことを、明らかにしていこうとしているのです。
* もし神なるロゴスが、創り主のお一人でなかったならば、ただ神から遣わされ、用いられた存在に過ぎないのですが、神と同じ創り主として、愛着心を持っておられたから、全人類を徹底して愛し、再生のみわざのために、労と恥と言語に絶する犠牲をもいとわず、そのみわざを果たすことに全力を傾けて下さったということが分かるのです。
(2)死んだ者に命を注入されるロゴス
* 神なるロゴスが、神のかたちに造られた人間に対して、強い愛着心を持って、再生のみわざのために、本来ならなす必要のない労苦をも買って出られたことを見てきたのですが、そのロゴスには命があったと続けて言っています。
* 滅ぶべき存在になってしまった人間に、命をもたらすお方として、ご自身の造られた被造物世界の中に来て下さったと言うのです。
* この表現を用いて語ろうとしたことは、せっかく神のかたちに造られた人間が、罪を犯したことによって、神との関係が断絶してしまい、真の命を失った存在になってしまったのを、ただ指をくわえて見ておられるのではなく、命を回復させるお方として、人間の世界に介入しようとして下さったことを示そうとしていることが分かります。
* そのことは、5:19〜の所において語っていくのです。5:21では、「子もまた、そのこころにかなう人々に命を与える」と言われています。この序文の所では、その伏線としてあらかじめ示されていると考えられますから、命をもたらすお方としてのキリストを見よ!と指し示していると考えられます。
* キリストを低く見始めていた人たちは、神との関係を回復し、神のかたちを取り戻して頂くことができるためには、命を注入することによって、御前に滅ぶしかなかった存在を再び生き返らせ、神との深い結びつきを持つことができる者にして頂くしかないのですが、それができるお方はキリストしかいないという真理から目を背け始めるようになっていたのでしょう。
* 世の初めからおられ、神と本質を同じくし、神との結びつきを与える命の源泉はキリストしかおられず、このキリストによって、死ぬべき者が生きる者に変えられると信じる所に、キリスト信仰があるのです。このことを信じることができなくなったら、信仰とは言えないでしょう。その意味で、キリストを低く見始めていた人たちは、信仰から落ちかかっていたと言えるのです。
* ヨハネは、命の与え主なるキリストを見よ、キリストの偉大さを見失ってはならないと、まずキリストのすごさに目を向けさせ、そこからしか命が来ないことを示そうとしたのです。
* 分かりやすいたとえで考えて見ましょう。美しい花があるとしましょう。命がある時は美しく生き生きとしていて、見る者を和ませてくれます。しかし、その花も命を失い始め、枯れてしまうと、見る影も無くなります。同じ花であるにもかかわらず、死んだ花は枯れて腐り、花としての価値がなくなってしまうのです。
* それと同じように、人間が、神に与えられた目的に沿って、美しく生き生きとして命の溢れている生き方をしている時は、価値があり、有意義な働きをしています。しかし、神から離れ、命が枯れてしまい、人間としての価値を失い、意義のない存在になってしまうと、不要な存在であるばかりか、害でしかなくなるのです。
* そのような価値を全く失い、意義のない存在になってしまった、枯れた(滅びた)人間に、再び命を与えることができるお方がおられる、それが神なるロゴスだと言います。すなわち、不可能を可能にして下さる命の与え主のすごさを知れ!と言わんばかりに示しているのです。
(3)闇製品を光製品に造り変えるという奇蹟
* その、命の与え主は、更に人の光であったと言います。5節の内容から考えますと、命を失って暗闇人生を歩んでいる人間に、神との交わりのない暗闇人生がどれほど惨めで、虚しく、無意味なものであるかを明らかにする光なるお方として、闇の中に来て下さったお方であることを示していると理解できます。
* もちろん光は、暗闇の現状を明らかにするだけではなく、光の下に立ち帰る道をも指し示し、神の下に導こうとするのです。それは光自身に、それをなす力があるからです。
* そのことをパウロも、エペソ5:13,14でこう語っています。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである」と。光の持つ能力を示しています。光は闇を打ち破るだけではなく、闇の中にあったものを暖かく包んで、光を反映するものに変えてしまうのです。
* 神なるロゴスが、暗闇の中にいて、神から離れ、虚しい人生を送っていることにも気づかない闇人生を歩んでいる者たちを照らし、暖かく包む光なるお方として来て下さる。これから明らかにしていこうとしているキリストは、そのようなお方だと言うのです。
* 序文において、このことを示しているのは、イエス様ご自身が、「わたしは光としてこの世にきた。それは、私を信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである」(ヨハネ12:46)と語られていることの真意を明らかにするための伏線として、ここに記されているのでしょう。
* しかし、暗闇は何と深いことでしょう。少々の光では届かない深海のように、世は闇に包まれ、覆いつくされていて、光の入り込む余地がないかのように思えるほどです。
* にもかかわらず、創り主であられるロゴスは、命を携えて、最高、最大の光源として世に臨もうとして下さった。現に、光が届かないと思えるような私の心の奥深くまで照らして命を与え、死んでいた私を生き返らせて下さったとヨハネは証しし、告白している言葉だと考えられます。
* 確かに、閉じこもった部屋の中にまで、光は無理やり入り込んではきません。しかし、その闇にうんざりし、その部屋の扉を開けるなら、光は闇を突き破り、暖かく包んで光に変えてしまわれるのです。光なるお方に照らすことのできない場所などどこにもないのです。
* それ故、あなたを照らそうとされる光なるお方に自分の部屋を開放せよ。すべて開放することによって、光の力によって神のかたちへと回復されると叫んでいるのです。
* 今日の私たちは、光なるお方を受け入れ、信じて救われています。しかし、なお闇の部分が自分の内にあることに気づかされるので、うっかりすると光の持つ能力とはその程度のものかと思う人もあるでしょう。
* それは、光の能力が足らないのではなく、それは、自分のすべての部屋を開放していない人間の方に問題があるのです。というのは、光に照らされてもすべてを明け渡さず、光に変えられるという経験をし続けていないからです。
* 闇の生き方に慣れてしまった私たちが、なお闇の部分を残そうとする信じ方をしているという愚かさを表す事が多いのです。光に変えられるという素晴らしさが、本当の意味でまだ分かってはいないからです。そのことが分かった時初めて、光として来て下さった神なるロゴスを受け入れるということが、私を光に変えるという奇蹟を味わうことができるのです。
* 確かに、闇は私たちの内側から完全にはなくなりません。けれども闇製品から、光製品に造り変えられ、もはや闇に心を奪われることがなくなり、闇に振り回されなくなる光の子とされるのです。(Tテサロニケ5:5)このために来て下さったキリストを見よ!と示しているのです。
(まとめ)神の示された方法をそのまま受け入れる
* 神のかたちを失った人間に、神のかたちを回復させるための唯一の手段として神が考えて下さったことは、神性を持ったキリストを遣わされることでした。このキリストを正しく知り、理解し、受け入れることが何よりも重要であることを、ヨハネは、この福音書を通して示そうとしたのです。この序文はその概要として書かれたものあります。
* まず、キリストを神の御意志そのものであるロゴスとして示し、このロゴスは神と共に創り主であられたから、神の作品が、目的から外れて虚しい存在になってしまっても、簡単に見捨てず、もう一度神のかたちに回復させてやりたいと、自らの労と犠牲とを惜しむことなく、命を投げ出して下さったと見てきました。
* これは、ご自身の造られたものに対する強い愛着心を持っておられたからです。愛着心、それは自分にとって大事なもの、大切なものと思っていたものであれば、それがたとえ古くなったり、使い物にならなくなったりしても、愛着心を抱いて保存しておこうとするように、キリストも、くだらない私たちを見させられても、元は神のかたちであったことが分かっておられますから、それを大事に思い、大切にしていたものですから、何とか再生させ、再び命の通うものにしたいとお考え下さったのだと分かります。
* 再生できないものであれば、愛着心があっても、そこに価値を見出すことはできませんが、命を吹き込み、光で包みさえすれば、再生が可能だと見て頂いたのが私たちだと言えます。けれども、私たちが闇の部分を残そうとし、光を拒むならば、すべてが光に変えられず、光の子としての歩みに支障が出るでしょう。
* 再生されてこそ価値ある者となり、意義ある者となります。そのためには、神の側においては、再生するための驚くべき能力をお持ちでありますから、私たち人間の側さえ、神の示された解決方法をそのまま受け入れるならば、価値ある者に造り変えられるのです。
* それでは、どうすることがそのまま受け入れることか、考えてみる必要があるでしょう。それには3つのことが考えらます。その第1が、キリストの偉大さの等身大を正しく知って受けとめることです。少しでもキリストを低く見るならば、神の驚くべき能力は発揮できません。
* そして第2は、人間が神のかたちに造られたが故に、創られたものに対する神なるロゴスの強い愛着心によって、滅ぼされることもなく、見捨てられることもなく、何とか再生させてやりたいという強い思いを持っておられる神の御心を感じ取り、どれほど大事に思い、大切に考えて下さっているかを知ることです。
* そして第3は、罪ゆえに闇人生となってしまって、すでに滅んでしまっている、くだらない人生に、何と命を注入し、光で包んで、光の子にするというとんでもない神の奇蹟が実現すると信じることです。
* これらの3つのことを受けとめているならば、神なるロゴスの驚くべき御力によって、光製品に変えられると確信できるのです。