(序)本文の最初を飾る大事な部分として
* ヨハネによる福音書の序文を読むと、著者ヨハネは、永遠を見つめていた人であったと思わされます。私たち人間は、ともすれば目先のこと、世のことに目を奪われてしまう者でありますが、ヨハネは、信仰に長く生きる中で、永遠に目を注ぐようになり,永遠から目先のこと,世のことを見ていくようになっていたと考えられます。
* 伝道の書の著者は、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と語っています。すなわち、時間を超越しておられる唯一のお方である神を思い、神の深い御心を思う時、自分の人生は、永遠なるお方の御手の中で握りしめられており、最高の人生となるように、驚くべきご計画の中に置いて頂いていると思うことができるのです。
* こうして、永遠を見つめていた著者ヨハネは、世の始まる前から神なるロゴス(キリスト)がおられ、命と光の源泉として、神と共におられるという天上の霊的な光景を思い浮かべていたのです。
* その永遠において、神なるロゴスが立ち上がり、いよいよ、すべての人を照らすまことの光としてのみわざを進めていこうとして、この世に臨んで下さったと記していこうとしていることが感じられます。
* すなわち、永遠の初めからおられた神が、この地上にある時と場の一点を定めて降りてこられ、人の形を取り、人間の世界に介入されたという驚くべき光景を描き出しているのです。
* しかし、いよいよキリストが、まことの光として世に来られたことが語られると思っていたら、そこで話が中断し、バプテスマのヨハネの記事が挿入されているのです。これでは、話の腰を折ってしまうのではないかと思うのです。
* 著者ヨハネの考えていることは異なっていました。まことの光なるロゴスの出現は、光の証人であるバプテスマのヨハネの出現から始まっていると考えていたのです。それ故、バプテスマのヨハネについて語ることは、余分なことでも、単なる補足でも、脚注でもなく、本文の最初を飾る大事な部分だと見ていたのです。
* それでは、バプテスマのヨハネについて詳しく説明していくのかと思うと、共観福音書のように、ヨハネがどのように誕生したのか、どのような風貌で宗教運動を起こし、神の民に悔い改めを迫る活動をすることによって、民を覚醒する大事業を成し遂げたのか、これまで遣わされた預言者のアンカーとして、その働きや功績などについて、なぜか一切触れようとはしません。
* それは、どこまでもまことの光の前に遣わされた光の証人という役割を与えられた人物としてだけ描き、バプテスマのヨハネを通して、神は、光を遣わして臨むこの大事業の前に、あらかじめ備えさせるお考えを持っておられたということを明らかにしているのです。
* それ故、今日の私たち信仰者も、そこまでお考え下さり、まことの光なるお方を、自分の人生に正しく受けとめていくための最初の大事な部分として、この箇所をご一緒に学んで行きたいと思うのです。
(1)天地の造られる前からの神の選び
* 神から遣わされた一人の人物があって、その名はヨハネと言ったと証言しています。ここで、神から遣わされた人物であることが強調されているのは、神が、光を遣わすというこの大事業に対して、いかに心血注いで取り組んで下さっているかということが、まことの光を遣わす前に、その先駆けを遣わす必要を感じておられたということから分かるのです。
* 先駆け、それは戦いの先陣を表す言葉です。サタンに取り込まれてしまった罪人、すなわち、神のかたちを失い、サタンの捕虜となってしまっている罪人たちを取り戻すための、サタンとの戦いの先陣を任せる者として、バプテスマのヨハネが選ばれたと言うのです。
* バプテスマのヨハネの場合は、生まれる前から選ばれ、母の胎内にいる時から聖別され、エリヤの霊と力という表現で,預言者に与えられる最高の権威と能力を持つ者として、整えられた民を主に備えるという使命を与えた上で誕生させられたという、特別の選びであったことが記されています。(ルカ1:17)
* ということは、これは、最後の預言者として使えそうだと神がバプテスマのヨハネの信仰や、性格や、人間性などを見て選ばれたのではなく、まだ形のない時から、神のみわざに用いることができる器として選ばれ、その通りの人物として用いられたと言うのです。
* ここに、神の選びの深みというものが余す所なく示されているのが分かります。たとえ人生の途中から、その信仰を見られて神に選ばれたように見られたとしても、本当は、すべてを見通しておられる神による選びは、生まれる前からの、それどころかエペソ書の信仰で言うなら、天地の造られる前からの選び(エペソ1:4)であったと言えます。
* というのは、神は結果を見て判定し、選ばれるというようなお方ではではなく、ご自身を信頼し、信仰を大事にし、義の器として用いられることを喜びとし、従っていこうとする者となる者を先読みしておられるだけではなく、その生き方をしていく者となるように、あらゆる働きかけをなし、導き、養い、育てる働きかけを惜しまれないことによって、選びにふさわしい者となるようにすることを織り込んだ上で、選んでおられるということが分かるのです。
* バプテスマのヨハネの場合は、神の選びには何の揺るぎもないことが明確に示されており、バプテスマのヨハネも、そのような神の御心を失望させない、神の選びを受身ではなく、積極的に受けとめ、選ばれたことを大事に思い、喜んで従った人であったということが分かります。
* 彼は、神の御心を理解し、これからなそうとされる人類救済大事業の大事さを十分に理解していました。神がそれまで心を痛めてこられた、壊れて滅びるしかない人間を再生させるために神が考え出された一大事業、その一翼を担う者として、神はこの私を先駆けとして遣わして下さったという、強い使命感を持った人物であったことを示しているのです。
* バプテスマのヨハネは、罪を犯した人間のために、神のかたちを回復させるというとんでもないこの大事業に、神は、何千年に亘る綿密なご計画と測り知れないほど細部に至るまで下準備をなしてこられたこの大事業が、完璧な神の事業であったことを理解していたのです。
* しかも、人間の側には、そのような神のあわれみ深い御心を悟ろうとする心と、そのみわざに対する強い期待と、飢え渇きの心がなかったので、この大事業を無駄にしないために、光を遣わす前に民の心を整えようとして、先駆けとなる者を遣わそうとされました。それが自分に与えられた務めであることを、ヨハネは十分に承知していたのです。
* イエス様は、バプテスマのヨハネについて、こう評価しておられます。「あなたがたによく言っておく、女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」と。(マタイ11:11)
* ここで言われている大きい人物という評価の意味は、ヨハネの人格や人間性に対してではなく、自分に与えられた役割の大きさと、その役割をそのまま理解し、受け入れ、それに沿って果たしていくことに忠実であったという点を見られて言われたのだと言えます。
* このことは、私たちの選びにおいても言えることです。神は、私たちの人格や人間性を見て選ばれるのではなく、神を信頼し、信仰を大事にし、義の器として用いられることを喜びとし、従っていこうとする者として、神は選んで下さっており、そのような神の選びの御心を知った者として、喜んで従っていくなら、神は育てて下さらないはずはなく、主の選びが地に落ちてしまうことはなく、主のみわざがとどまってしまうことはないのです。
(2)光投入の下準備としての役割に徹する
* それでは、バプテスマのヨハネが受けとめた自分の役割とは何だったのでしょう。著者ヨハネは、あかしのためと言い、光についてあかしをし、すべての人が光を信じ、光を遣わされた神を信じるためだと語っています。
* このあかしとは、証言、あるいは証明することによって、そのすごさを立証することです。バプテスマのヨハネに与えられた役割は、光なるお方がなぜ神の許から遣わされたのか。何をして下さるために来て下さるのか。どのようにしてそれを成し遂げて下さるのか。まことの光なるお方が来られるために、十分な下準備をして、民に対して、光の到来を迎える準備をさせることでありました。
* バプテスマのヨハネの理解したあかしの働きとは、どのようなものだったのでしょうか。彼が表した言動からそれを見ることができます。
* その第1のあかしは、言葉によるもので、光なるお方がなして下さるものが、世の罪を取り除く神の小羊としてのみわざであること。それが、神のかたちの回復につながる驚くべきみわざであることを語ることでした。
* すなわち、失われた神のかたちが回復されない限り、人間には希望がなく、無意味な人生に終わってしまうことを叫んで、その解決を与えて下さる神の小羊を待ち望むように、語り続けることでありました。
* 第2は、神の小羊が誰であるのか指を差し、神から遣わされたお方を見間違うことがないように明らかにすることでありました。それに合わせて、そのために自分が先に遣わされたこと。自分は光ではないが、光をあかしする者として遣わされたことを明言することでした。
* 第3は、具体的に悔い改めを促すバプテスマを施すことによって、神に背を向けていた人々に、光なるお方の到来を待ち望む信仰を、思いの中に引き起こさせることでありました。真の王が来られるのに、全く備えなしで迎えることが、いかに不信仰であるか示すためでした。
* こうして、3つの点からバプテスマのヨハネは、光についてあかしすることに自分の命を懸けたのです。それは、神のかたちを失い、真の人間性を喪失してしまった罪人に、何としてでも再び神のかたちを回復させてやりたいという強い願いを持って、取って置きの最上策として、光を投入しようとしておられる神の熱い御心を察していたからです。
* そこまでして、神は民のことを思い、失った神のかたちを再び取り戻す喜びに溢れる者にしたいと考えておられる神が、光を投入する前に、光についてあかしする者としてこの私を選ばれた。こんな光栄なことはないと受けとめていたのです。
* 小さい時から、自分の誕生が神の選びによって計画されたものであったことを両親から繰り返し聞いてきたことでしょう。自分自身でそのことを自覚し、意識するようになってからは、神が何のためにこの私を選び、どんな役割を与え、その使命を果たさせようとして下さるのか、信仰の思いを高め、神に忠実に従っていこうとする思いが育てられていったのでしょう。
* しかし著者ヨハネは、それらの詳細について、何も触れようとしないで、バプテスマのヨハネが、光についてあかしする使命を、自分の信仰人生の中心の旗として掲げ、その生き方を貫き通した人物であることだけが、概略として記され、その詳細については、1:19〜からの所、3章や、5章に記していくのです。
* 著者ヨハネの意図は、バプテスマのヨハネに焦点を当てようとしているのではなく、罪人を再生するというとてつもない人類救済大事業の序幕として、深いお考えの下で、バプテスマのヨハネが立てられ、その使命である光についてのあかしという働きが、光投入の下準備であったことを示そうとしたのです。
(3)一人一人にふさわしい使命を与えられる神
* 著者ヨハネが見ていたことは、神による測り知れないご計画と、罪人をあわれまれる神の大きな愛と、そのために遣わされる光なるお方がどれほどすごい存在であるかという点でありました。
* そのお方が、いよいよ幕が開いて、これから現れて下さろうとしている。そのことを、先駆けであるバプテスマのヨハネを見て悟れと言わんばかりに、バプテスマのヨハネについて記しているのです。
* バプテスマのヨハネが、光についてあかしするのは、彼のあかしする言葉、指し示す指、悔い改めを迫るバプテスマを通して、すべての人が信じるようになってほしいがためなのです。
* 言わば、最終、最大兵器である光まで投入して、壊れた人間を再生しようとして下さっている神の御心を悟らせることが、ヨハネに与えられている使命であったと言えます。
* バプテスマのヨハネのあかしを通して人々は救われ、神信仰を持ち、神のかたちが再生するわけではありません。それでは、「信じるようになるため」とはどのような意味でしょうか。光まで投入して再生しようとして下さっている神の御心に気付かせ、その取って置きの最良策を待ち望み、期待を持って神に向かうようにさせることだと言えるでしょう。
* まず、神の熱い愛に満ちた御心に目を向けさせることなくして、救いの恵みにあずかる者はいません。その意味で、バプテスマのヨハネに託された使命は、非常に重大なものでありました。
* けれども、バプテスマのヨハネの指し示す指の方角を見ずに、彼自身に目を向け、神から遣わされた偉大な預言者として仰ごうとする人々もいたので、著者ヨハネははっきりと言うのです。「彼は光ではない」と。
* バプテスマのヨハネが徹底して光についてあかしをしていたことが、彼の弟子の一人の言葉からよく分かるのです。「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そしてあなたがあかししておられたあの方がバプテスマを授けている」と言って、本家であることを主張されない先生に不満を覚えるかのように訴えている箇所に、ヨハネの姿勢がよく出ています。(3:26)
* ヨハネの求めていたものは、自分が持ち上げられることでも、自分の平穏無事な人生でもなく、まして自分の幸福を求めることでもありませんでした。ヨハネが求めていたものは、神から与えられた使命を、自分の全力を持って果たすことが、神の喜んで下さることだと思っていましたから、人間的な表現で言うならば、神の喜ばれる顔を見たい一心で歩んだ人であったのです。
* そしてそれが自分の人生を最も輝かせる生き方であり、有意義な人生であり、幸いだと考えていたのです。その意味で、いつも自分に与えられた使命を前に置き、それを見つめつつ歩んだ人でありました。
* そのように言えるのは、すべてをご存知である神が、私たち一人一人にふさわしい使命を与えることができるお方だと信じていたからです。そのようなバプテスマのヨハネに対して、イエス様は、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」と言われたのはうなずけるのです。それは、バプテスマのヨハネにしか与えられなかった特別な使命であったものを、それを、彼は全力で、また忠実に果たしたからです。
(まとめ)使命を前に置いて生きる信仰人生
* 私たち人間は、自分の心をすべて覗き見ることはできません。自分が見えないが故に、自分にどんな役割が与えられているのかも見えないのです。しかし、神はそんな私たちの心を、私たちが生まれる前から、いや、天地の造られる前からご存知であり、その上で、そんな私たちにふさわしい使命をすでに与えて下さり、それを果たさせるために、あらかじめ選んで下さったという驚くべき事実が、バプテスマのヨハネの記事を見る時、分かるのです。
* 確かにバプテスマのヨハネに与えられた使命は特別のもので、誰もが与えられるものではありません。けれども、特別であるかどうかは別にして、神が私たちを、世の始まる前から選ばれ、壊れた人間になっていたものを再生させ、光の中を歩むことのできる人間にさせようとして下さったのは、私たち一人一人にふさわしい使命を与えるためであったのです。
* 自分に与えられた使命を果たすことによって、もっとも輝かしい人生を生き、有意義な人生を生き、それがもっとも幸いな人生だということが分かり、バプテスマのヨハネと同じように、神の喜ばれる顔を見たい一心で、使命を前に置いて歩むように導かれていることが分かるのです。
* 私たちに与えられた使命とは、一人一人の置かれている状況、置かれている周りの人々の中で、光の素晴らしさを証言していく使命であり、それが具体的に誰に対してであるか、一人一人がそれを受けとめながら向かう必要があるでしょう。
* また、神が集められた群の中で仕え合う使命も含まれており、光の中を歩むことの幸いを、言葉と生き方で示していくしめいでもあり、どんな形であれ、神の喜ばれる顔を見たい一心で歩むことそのものだと言えるでしょう。
* もし自分に与えられている使命が何であるか分からなければ、どのようにして神の喜んで下さる顔を見ることができるでしょうか。また、何のために、天地が造られる前からこの私が選ばれた存在であると信じて生きていく必要があるのでしょうか。
* 自分に与えられた使命を前に置いて生きる人生、これが、神が力の限りを尽くして、壊れた人間であったこの私たちを、神のかたちに再生して下さった目的であり、与えられた最高の信仰人生だと言えるのです。