(序)霊の内に映像として見た光景
* 著者ヨハネは、天上の霊的な光景を、今見ているかのようにして伝えてきました。これができるのは、体が地上にあっても、霊の世界で生き、霊の思いで生きている人の特徴であると言えます。
* 12弟子の働きを補佐する者として、7人の執事が選ばれたという記事が使徒行伝の6章に記されていますが、その内の一人であったステパノは、あまりにも大胆に福音を弁明したので、多くのユダヤ人たちの反発を買い、迫害を受け、リンチによって殺されそうになった時、彼はその最中、天上の霊的な光景を見たと述べています。(使徒7:55,56)
* それは、昇天され、神の位に戻られたイエス様が、今のこの私の受けている迫害を見て、心配のあまり立ち上がっておられる姿が見えたと言うのです。
* もちろん、イエス様が、今も天上にあって、人の体を持っておられるわけではありませんが、この時のイエス様のお心を感じ取り、一つの霊的イメージとして、その光景を見たと言っているのでしょう。
* これは、神のみを見上げ、神の守りと助けとを疑うことなく、主に仕えることと、御栄えを現すことだけを考えて向かっているこの私の信仰を支え、愛し守ろうとして下さっているキリストの御心を、ステパノは強く感じ取っていたから、その霊的な光景を、現実に見ているかのように、映像として見せられたのでしょう。
* このステパノの例から考えてみても、いつもそのような霊的な光景を見ることができたというわけではなかったと考えられます。しかし、霊の思いが高められ、神の熱い思いが押し迫ってきたのを感じ取った時に、一瞬の内にその映像が霊に映し出されたのでしょう。
* 著者ヨハネも、すべての信仰者、求道者のために、イエスが神の小羊であることを証明し、立証する福音を書き表したいと強く願い、思いを整えて書こうとした時、そこに聖霊が働いて下さり、霊の思いが高められ、この天上の光景が、霊の内に映像として見えたのでしょう。
* その光景は、お一人なる神が、父とロゴス(言)のお二人として、別々の存在として座しておられる光景でありました。その内のロゴス(言)なる神の方がおもむろに立ち上がり、神がご計画された歴史的大事業を託された者として、いよいよそのみわざに着手しようとしておられる直前の様子でありました。
* それは、ロゴスなる神が、神の身分をかなぐり捨てて、人間の姿を取り、神の許からこの世に出張されようとする直前の光景でありますが、それは、何千年に及ぶ神による下準備がなされてきて、その下準備が、バプテスマのヨハネにおいて完成したので、今か今かとメシヤが出番を待っておられる光景でした。
* ヨハネは、それをここでは、直接、人となられたメシヤとしてこられたと言わないで、闇の世界を打ち破る光として来られたと示すのです。それは、光としての持つ性質を示す方が、メシヤ来臨の意義を明確に示すことができると考えたからでしょう。それでは、光として示された意味を共に考えていくことにしましょう。
(1)本物の光の来臨を示すヨハネ
* 著者ヨハネは、バプテスマのヨハネのことを、光について証言する者として遣わされたと言いました。彼は証言を3つの点から示し、まことの光なるお方について立証してきたことを見てきました。その3つの点を、光についての証言としての角度から、もう少し見直して見ましょう。
* その第1は、世の罪を取り除く神の小羊であることを示した点でありました。すなわち、神のかたちを失い、罪にまみれ、暗黒の存在として、暗黒の世界の中にあって生きるしかなかった者たちに、その原因となった罪を処理して赦し、それによって神のかたちを回復し、光の中に移し変え、光の子として生きることができるように、光なるお方はあがないの供え物として、神にささげられるべき小羊となって下さることを証言して、光なるお方の来臨に備えさせようとしたのです。
* 第2は、全人類の罪をあがなうための供え物となることができるのは、神の御心を満足させる供え物でなければならず、その資格がある唯一の神の小羊は、神性を持ったキリストでなければならず、その神性を持ったキリストが誰であるか見分ける霊の目を持って、人々が決して見間違うことがないように、バプテスマのヨハネは、黄金の指を持って指し示すことであったのです。
* 第3は、光なるお方のあがないによって、暗闇の中に閉じ込められていて、闇の生き方しかできなくなっていた者たちが、暗闇から解放され、光の中に移し変えられて、光の生き方をすることができるようにされるためには、人間の側において、自らの闇を自覚し、光なるお方を迎え入れるために、罪の方に向いていた心を神の方に向き変わることを表す悔い改めが必要であって、それを形によって表現する悔い改めのバプテスマを受ける必要があることを示したのです。
* バプテスマのヨハネは、これらの3つの証言を、自分に与えられた使命として果たし、光の登場を見たならば、早々と退場して行ったのです。何という鮮やかな生き様でしょうか。
* それでは、バプテスマのヨハネがあかしした光は、彼が証言した通りの光だったのでしょうか。著者ヨハネは、それを一言で言い表します。その(ロゴスなる)光は、まことの光であったと。
* この“まことの”という言葉は、「真正の」あるいは「正真正銘の」という意味の言葉で、本物の光であるから、バプテスマのヨハネがあかしした通り、光としての驚くべきみわざを実現して下さるお方として来て下さったと言うのです。
* この表現を使っている著者ヨハネの意図は,この当時、反キリストの霊が多くの人々を惑わし、本物の光は、人の形を持っていた人間イエスではないと言って、イエスの神性を疑わせ、闇の生き方に逆戻りさせようとして人間的に納得しやすい教えを勧め、それがいかにも闇から解放される光であるかのように勧めていた偽信仰が猛威を振るっていた状況であったのです。
* そこで、そのようなものに惑わされないように、本物の光であるお方が、神の許から遣わされたという事実を知れ、この方こそ本物の光だ、このお方を見よ!と言うのです。
* 本物の光に照らし出されるなら、その光の影響を受け、光に変えられるのですが、偽りの光に照らし出されるなら、偽りの光の影響を受け、悪魔から出た者となってしまう。闇は過ぎ去るが、まことの光は永遠に輝き続けるということを示そうとしたのです。
* バプテスマのヨハネによる証言に偽りはない。光としての驚くべきご性質を持って、闇の中に囚われてしまっている人々を解放し、光に変え、光の中を生きることができるようにして下さるお方が来られた。このお方こそ、すべての人の内にある闇を照らし、光に変えて下さるお方だと言うのです。
* 著者ヨハネの見ていた天上の光景は、太陽以上に光り輝くお方が、ちっぽけな人間という外套を着て、世に来られ、ご自身の光をもって、レーザー光線のように闇を照らされるという光景であったのでしょう。
(2)創造から再創造まで働き続けて下さるロゴス
* このお方がまことの光であって、すべての人を照らし出すために世に来られた、このことを知ってほしい。これから明らかにしていく福音書の内容を読めば、イエスこそ紛れもないまことの光、闇の中からの解放者、罪から解き放つ真の神の小羊であることが分かると示すのですが、どれだけの人に、まことの光が分かるのか、著者ヨハネは決して楽観視していたわけではありません。
* 9節の証言だけで、本来ならすべて終わる所なのですが、そうはいきません。人間の側に問題が残っていますから、そう簡単には行かないのです。闇の中にいる人々に、まことの光さえ示せば、喜んで光の下に来て、光の恵みにあずかりたいと願うほど、人間は素直ではなく、完全に闇色に染まり、ひねくれてしまっているからです。
* それ故、まことの光に照らし出された時の人間の反応が、どのようなものであったか、イエス様のご生涯に対するユダヤ人の反応を、この序文において、一つの文章でまとめているのです。
* このお方は、まことの光として暗闇に慣れ切った世に来られた。これまでは遠くで見ておられただけで、この時初めて世に介入されたと言おうとしているのではなく、彼は世にいたと言うのです。この動詞は、動作が過去の時間に進行中であったこと、そしてそれが今も継続していることを表す未完了という時称で書かれています。
* ということは、この時初めて世に来られたと言うのではなく、本当は世が造られた最初から、ロゴスなる光は世におられたと言い、世は彼を通して造られたものであるから、ご自分に属するものとして大事に思い、そこに臨在しておられたと言っているのです。
* 著者ヨハネが、光と世との関係を、このように明らかにしようとしたのは、光なるお方の立ち位置を明確にするためであったと分かります。
* 人間は、自分の側から物事を考えようとしますが、著者ヨハネは天上の光景を思い、神の側から、光なるロゴスがどこに立っておられ、どのように世とかかわっておられるのかを示すことによって、人間の側の立ち位置を明らかにしようとしたのです。
* それでは、光なるお方が、神の許におられ、そして神であったと示した上で、神から歴史的大事業を託されて、世に来られたという内容は、そこには、ご自身の愛のご計画を果たそうとされる、神の強い意気込みが感じられ、そのことを示そうとしていることはよく分かるのですが、その後に、光は、本当は最初から世におられたのだ、この世は彼の製作物だからと言い添えたのはどのような意図があるのでしょうか。
* ヨハネの見た天上の光景は,神の考えておられる時がいよいよ来たから、それまでじっとしておられたロゴスが、おもむろに立ち上がられ、行動を開始されたというような、天上で出番待ちをして、準備されていたというものではなかったと言うのです。
* 天地創造のみわざに加わられたロゴスが、その最初の時から世に臨在され、愛し導く働きかけを続けてこられ、いよいよ大事業の本番となった時、人間という肉体的制限のある外套を着て、神の定められた時に、世に臨まれたと言うものだったのです。
* パウロも、その真理を知っていたので、すでにモーセの時代において働いておられたキリストについて言及している箇所があります。(Tコリント10:4)モーセが杖で叩いた岩から水が流れ出たという、その岩はキリストだったのだ、キリストから命に溢れた水が流れ出たのだというキリストのお働きについて述べています。
* ヘブル書の著者も、モーセがキリストを見ていて、自分が神の民と共に虐待を受けることは、キリストの故に受けるそしりだと理解していたことを伝えています。(ヘブル11:26)
* キリストの来臨の前にも、このように、キリストが信仰者に深くかかわって働いて下さっていたという信仰に立っていたのです。ヨハネは、この福音書の中で、(5:17)「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われたキリストのお言葉を載せています。
* この働くという動詞は、現在形で、その動作が進行中で、なお続いていることを示していますから、父なる神は、天地創造の初めから今に至るまで休むことなく、働き続けておられるように、私も働き続ける、休むことはないと言われたのです。
* キリストが、ご自身の作品の中に臨在して下さり、それを保持し、養い育てるために、休むことなく働き続け、あの重大な歴史の一点において、その爆発的な働きをもって人間を根底から造り変え、言わば再創造して下さったというのです。
* 創造から再創造まで一手に引き受けて働き続けて下さったお方。これが私たちの信じる神なるロゴスであり、光としてのお働きだと言おうとしたのです。
(3)光なるお方を迎え入れない人々
* これほどまで力を注ぎ、愛を注ぎ、臨在して働き続けて下さったお方が、更に大事業を果たされるために、あえて人間の目に見える形で現れて下さったのに、人間はどのような反応を示したか。ここでは、神の民として選ばれたユダヤ人が、全人類の代表として、どのような反応を示したかを取り上げています。
* 世界を造り、その中心になる者として人間を造られたお方が、決して造りっ放しではなく、最後まで責任を持って保持し、養い育てる働きかけを惜しまれず、世に臨在して下さっていたと言ってきました。
* それは言うならば、キリストの作品が無意味な存在として落ちてしまわないようにという、不眠不休の働きかけであったと言っているのです。その本番としてのキリストの来臨に接して、人間は感激を覚えて、感謝しかないはずなのに、何と、自分の民は受け入れなかったと言っています。
* なぜでしょうか。このお方が、人間を創造して下さった神なるお方であり、更に再創造して下さるあわれみ深い神性を持ったお方でもあるということが、全く受けとめられないほど、人間の霊は、ほとんど働かなくなってしまっていたから、光として来られた神なるロゴスを受け入れなかったのです。
* これは、当時のユダヤ人たちの事だと言いました。彼らは神を信じ、礼拝する民であって、神から完全に離れていたとは思われないのに、どうして神の御心を感じ取ることのできる霊が、ほとんど働かなっていたというようなことがあるのでしょうか。
* 彼らは、神様のことを思ってはいたが、本音では、自分の思いを中心にして考えるようになってしまっていたから、神様のことを思っても肉で思い、肉的な向かい方しかできなかったので、霊は全く働かず、思いが、神のお心から離れており、再創造して下さるための光なるお方の来臨を、目の当たりにしても、神の御心として受け入れられず、愚かにも拒否してしまったのです。
* 霊が働いていない状態での礼拝、霊が働いていない状態での信仰生活、霊が働いていない状態での思いと言葉と行いすべては、神から遠く離れてしまっている状態です。
* 形においては、信仰者らしい姿を現していても、信仰深い歩みをしているように見えたとしても、神のお心はその人の内に入っていかず、神の御思いからは遠く離れた信仰となってしまい、結局、光なるお方を受け入れない者となってしまうのです。
* ユダヤ人たちでさえそうだったのですから、自分が、神によって造られた霊的な存在であることすら分からない異邦人であるならば、より自分の思いが強く、闇に覆われた歩みをしているので、光なるお方を受け入れることはあり得ないのです。
* もちろん皆無だというのではありません。ユダヤ人の中にも、異邦人の中にも、本人が分かっているかいないかは別として、聖霊の働きかけによって、わずかであっても、霊が働き、光なるお方を受け入れる者が起こされることは、この後の12,13節で語られていますから、それはその所で見ていくことにしましょう。
(結び)霊が働く向かい方とは
* 人間が罪を犯してからの世は、キリストがお造りになった作品からは、遠くかけ離れたくだらない者となってしまい、闇の世界となってしまって、もはや光の届かない世となってしまいました。
* そんな暗黒の世界に、神なるロゴスは光として、暗闇を光の世界にするために、暗闇で人としての生き方を失ってしまっていた人間を照らし出して、光の中を歩む者に造り変えるために来て下さったのです。
* しかし、光なるロゴスは、ご自身が造られた、自分に属する者たちの所に、光の持つ驚くべき恵みと力をもって来臨して下さったのに、キリストに属する者であることを悟れない人々は、自分の人生にはそのような光は不要だと考え、受け入れようとせず、闇の恐ろしさを悟らないまま拒否してしまって、闇が用意している滅びの方を選び取ってしまったのです。
* 光として来て下さったロゴスを受け入れない人々の姿について、もう少し考えて見ましょう。光を受け入れないとはどういうことか、それは、光を光として認めようとせず、光に対して心を閉ざし、光が入り込んでこないようにすることです。
* 世に染まってしまった闇の部分が、自分の内側に巣を作っているということを悟ろうとしない人は、そこを、光に照らし出されたくないと思っているのです。
* もちろん、自分の中の闇の部分に気付いていても、意図的に隠そうとする者もあれば、自分の中にある闇が何であるか分からないまま、光を迎え入れようとしない者もあります。と言うのは、闇自身が闇であることを隠そうとするものだからです。
* 形としては、神を信じ、礼拝をささげ、信仰者として生活しているようであっても、闇の生き方をし、闇をよしとしている場合があるのです。それが肉で神を信じ、礼拝し、信仰者としての生活をしている場合がそれです。肉で向かうことによって、霊が働かないように閉じてしまっているので、光が入っていかないのです。
* 霊が閉じているならば、光は入ることはできません。ということは、霊が働く向かい方をする必要があるのですが、霊が働く向かい方がどのような向かい方であるのか分からなければ、光を受け入れたことにはならず、光がもたらす恵みと力とは不発弾となって、その人を造り変えることができないのです。
* 多くの人は、光を受け入れていない自分の姿が見えておらず、霊を閉じてしまっているので、光として来られたロゴスがもたらして下さった恵みと力とが分からないまま、力のない信仰人生を送っているのです。これほどの素晴らしい恵みを無駄にすることほど、もったいない信仰人生はないでしょう。
* 霊が働く向かい方とは、自分の中にある闇に気付き、それを光なるお方の前に差し出し、光の驚くべき力によって光り輝き、光人間にして頂けると信じ、神の御思い(御言葉)に耳を傾け続けることです。そうすれば霊は働き、聖霊の助けを受けることができるのです。