(序)神とサタンとの親権争い
* 今日の内容を理解する助けとして、世の制度をたとえとして取り上げて見ることにしましょう。まだ、未成年である子供がいる状態で、両親が離婚した場合、父親と母親とが未成年の子の親権をめぐって争うというようなことがあります。
* 本来親権とは、広辞苑で見ますと、親として未成年の子に対して、身分上や財産上の監督、養育、保護する権利や義務を負っていることを指しており、両親がその責任を負うべきでありますが、離婚した場合には、どちらか一方が親権を持ち、他方は親権を失うことになります。もちろん、親権を失っても、親と子という事実が消滅するわけではありません。
* 3節と9節の所において、ロゴスは創り主であったことが語られ、言わば人間にとってロゴスは、神と共に親であったと言うのです。親権を持っているロゴスが、ご自分の子の所に来られたのに、子は親を認めず、受け入れようとしなかったと、ユダヤ人たちの不信仰な姿を、人間の代表として前回は見てきたのです。
* ロゴスが、「あなたがたは私に属する者だ」と身分上、財産上の監督、養育、保護する権利と義務とを有しておられることを主張されるのですが、子の方がそれを認めず、あなたは親ではない。私たちの親は他にいる。私たちはあなたの言うことを聞こうとは思わないと拒絶した姿が、当時のユダヤ人たちの姿であり、それが、人類が神に背を向けてきた姿であると言ってきました。
* 世の制度における親権の場合は、未成年の子供に選択権はなく、親にその権利と義務とが託されるのですが、霊の世界においては、本来人間の側に選択権はなく、親である神が果たそうとされる権利と義務の許で生きる道しかないのですが、罪を犯した人間は、何を勘違いしたのか、自分の側に選択権があると考え、神の親権を認めず、自己の主権を主張することによって、サタンに親権を与えることになってしまったのです。
* その時から、神とサタンの間で親権争いが始まり、神は最も有力な代理人として神なるロゴスを遣わし、人間をサタンの手から取り戻すための歴史的大事業を果たされ、それを実現されたと言ってきたのですが、霊的には実現され、人間の側が神の親権を認め、受け入れるようになるはずであったのに、自分に属する民は、代理人ロゴスを認めず、拒絶してしまったのです。
* 著者ヨハネは、天における霊的な光景と、そこにおける神の御思いとを垣間見た時、尽くしがいのない人間の姿を見て、その考えられない様に、憮然としておられる神のお心が感じられたのですが、しかし一方では、少数ではあっても、神の親権を認め、そのためになして下さった歴史的大事業がどれほどすごいものであったかを知って、神に従う人間が起こされる姿を見て、ホッとしておられる神のお心をも感じ取ったのです。
* 今日の箇所では、そのような神の親権を認め、受け入れた人々に対して、神はどのような身分を与え、この地上にあって、その身分にふさわしく生きるための必要な満たしを与えようとして下さっているかが語られているのです。
* 私たち信仰者は、ここからどのような神の語り掛けを聞くべきか、ご一緒に見ていくことにしましょう。
(1)信じ続けるという行為を重要視される神
* 神は、何千年にも亘る準備期間を設けられて、あらゆる働きかけを惜しまれることなく、見える形や、見えない形も含めて臨んで下さり、最終準備としてバプテスマのヨハネを遣わし、光なるお方をお迎えする前備えをなされ、満を持しての神なるロゴスの登場を用意されたのです。
* これは、準備を完璧になさる神のご性質だからというのではなく、受け入れるべき人間の側に、準備させようとされた深い配慮によるものでありましたが、ここまで準備期間を与え、配慮されたにもかかわらず、神権を認めず、神が用意された解決方法を受け入れようとしない人間の姿がまず描かれていると言うことは、親の心子知らずと言うか、創り主の御心を全く受けとめようとしないほど、人間の霊的な鈍さが極まっていたことを示していると分かります。
* しかし、すべての人の霊が完全に腐っていたわけではなく、そこまで配慮して下さった神の深い愛のお心に、霊が敏感に反応し始め、光の素晴らしさが分かるようになっていき、光なるお方が私の創り主だと受けとめることができるようになり、光なるお方を自分の主として受け入れ、信じる者が起きてきていることに対して,ヨハネは、神のみわざが無駄にならない姿を見て喜んだのです。
* これは、著者ヨハネが、驚くべき天上の光景と、神のご計画が進められるための地上における歴史的大事業がなされる光景を見ながら、それに対する人間の反応を描くことによって、わずかであっても、そこに神の求めておられる再創造の効果が現れているのを見て喜んでおられる神の御心を示そうとしたのでしょう。
* 神が喜ばれるか、悲しまれるか、この違いはどこにあるのでしょうか。それは、人間性によるものでも、世的貢献度のよるのでも、能力によるのでもありません。まして経済力によるのでもありません。ただ一点、光なるお方が神の許から私を救い出し、神のかたちを回復させるために来て下さったことを信じるか信じないかという点だけが見られていると言うのです。
* すなわち、光なるお方の神権を受け入れ、私たちを神の子として生きることができるように、その妨げとなっている問題点である罪を解決し、この地上にあって、神の子として生きることができるように監督し、養育し、保護し、相続の希望まで与えて下さると明らかにしているのです。
* 光なるお方の神権を認め、信じるということが、なぜそれほど重要なこととして示されているのでしょうか。ここには、神の前における自分の立場を正しく認識することが、神のかたちに回復して頂くための、もっとも必要な姿勢であると言われているのでしょう。
* 神と共にロゴスが創り主であり、私たち人間は被造物であり、神の御栄えを表す神の作品として造られた者であると認識し、神の前にぬかずき、神のみを見上げて生きる存在として造られた者であると認識し、崩れてしまった私たちを回復して下さるために来られた光なるロゴスを信じるということは、創造も、再創造もこのお方によると信じることであり、それを信じることが、人間の立ち位置が分かることなのです。これをヨハネは、信じるという言葉で表現しているのです。
* それ故、神が人間に求めておられるのは、罪を犯したことによって神の前に立てなくなり、神の御栄えを現すために造られた神の作品であることを認めなくなり、神に背を向けて生きるようになってしまった人間が、神のかたちを回復させるという再創造のお働きをして下さる、光るなるロゴスを信じることによって、再び神の前に立つ者となり、神の御栄を現すために造られた神の作品として生きることになると示しているのです。
* 信じるということは、小さなことではありません。神の前における自分の位置を認め、神の前に立とうとしない傲慢な罪人でしかないことを示されて砕かれ、神をいらだたせる存在でしかない自分に失望し、主のあわれみを信頼してすがることでありますから、神は、私たちをこの点から判定され、信じた者を神の子にし、神の子として生きる能力を与えられたと言うのです。
* 信じるだけで、なぜ罪の子から神の子という驚くべき身分転換が与えられると言われているのでしょうか。これは、信じ続けるという行為が、神のもっとも重要視しておられる姿だからです。
* しかしともすれば、人間は信じることを軽いこととみなし、信じるだけで安心できなかったり、信じたり信じなかったり、揺れ動きやすい存在なのです。信じることの重大さが分かっていないのです。
* それ故、ヨハネは、信じただけの人を神は諸手を上げて喜んで下さり、惜しげもなく神の子としての身分を奮発し、そればかりか、神の子としての能力まで与えられて、神の子としての祝福にあずかることができるように保証して下さっていると言うのです。このすごさがどこまで分かっているでしょうか。
(2)神の子として歩み続けるための4つの能力
* 信じるだけで神の子とし、神の子として生きる能力を与えられたということがどういうことなのか、もう少し考えてみることにしましょう。
* 神の子とされたということは、神が私の父となって、私に対して全責任を持って下さり、ご自身の持てるものすべてを持って養い、教育し、監督し、保護して下さると確信できるようになることです。
* ということは、罪人なる人間は、神という父を持たない孤児であり、保護者のいない、自活する能力のない者でしかなく、何の保証も、拠り所も持たない、惨めな人生であったのです。そんな孤児が、信じるだけで真の拠り所となる父を持つようになり、虚しさや孤独から解放され、父の手の中にあって保護される喜びを味わい、生きることの素晴らしさを味わうことができるようになると言うのです。
* 父は、私たちを見て、愛する価値があるから子と認め、愛して下さるのではありません。まことの光であるロゴスをただ受け入れたという一点を見て、私たちの父として愛して下さり、育てて下さるのです。私たちが、少々出来が悪くても、欠けがあっても、父としては、大事な大事な子供として見て下さっているのです。
* イエス様が語って下さったあのお言葉は、真の拠り所となる父を持つようになったことの素晴らしさが十二分に語られています。(14:18)「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。これは、私がこの地上に来たことで、あなたがたの孤児状態が解消された。あなたがたは見捨てられることはないと言われているのです。
* ここで、神の子という身分を与えたというだけではなく、神の子となる力を与えたと言われているのはどういうことでしょうか。
* この力という言葉は、権威とか、能力をいう意味を持った言葉で、神の子の身分を与えたから、後は自分の頑張りで、神の子の身分にふさわしい生き方をしなさいと突き離されるのではなく、この地上において、神の子として生きることができる能力を与えた。だからあなたがたは神の子として生きることができると言うのです。
* しかし、このことは分かるようで分かりにくい内容です。神の子として生きる能力とはどういうものでしょうか。この地上は、神の子として生きるのは難しい場所です。というのは、この世はサタンの支配している世界であり、サタンの支配下に属する人々で満ち溢れており、世的考えに埋没してしまっている所だからです。
* 神の子という身分を与えられたからと言って、おいそれとは、神の子らしく生きることができません。そのことが分かっておられる神様は、神の子として生き抜くための能力をも与え、楽ではないが、神の子として歩めるようにして下さると言うのです。
* それでは、神の子として生き抜くための能力とはどのようなものかを考えてみる必要があるでしょう。ヘブル書6:4では、信仰を持った者に必要な4つの能力が与えられることが語られています。
* そこでは、それを捨ててしまい、神の子としての生き方をしなくなった者の惨めな結末として、もう救いのチャンスは残ってはいないと警告している箇所です。
* その4つの能力とは、天からの賜物を味わうこと。それは、御子の支配下に移し変えられたことによって、霊の喜び、平安、力、祝福など、神は天からの賜物を持って信仰者を満たし、その歩みを導いて下さるのです。第2は、聖霊にあずからせ、聖霊の助けによって、神の子としての歩みができるようにして下さるのです。
* 第3は、私たちの霊を強め、霊で判断し、対処していくことができるように、その時々に必要な御言葉を与え、押し出して下さいます。第4は、来るべき世の力を味わうという表現で,天国に迎え入れて下さるという確かな希望と、今すでに天国人にして頂いているという、後の世の保証とも言えるものを味わい始めていると言います。
* この4つ能力、どれ一つ欠けても十分とは言えなくなります。この地上にあって、神の子として歩み続けるためには、これらの能力を頂いているとの確信を持って突き進む必要があります。そうすると、サタンとサタンの支配下にある人々に囲まれている世にあっても,落とされることなく、神の保護の下、神の子としての歩みをすることができるのです。
(3)神が与えられた思いとして受けとめる
* このような、真の拠り所となる父を持つようになるという驚くべき身分転換は、どのようにして得ることができるのかについても触れており、信じるという行為が、どのようなものであるかを明らかにしているのです。
* なぜこれらのことが付け加えられているかと言いますと、信じるという行為にまつわる誤った理解を払拭させる必要を感じていたからだと考えられます。
* 信じるという表現は、人間の側がよしと判断し、信じるに値すると判定することによって下す意思決定という要素がついて回る表現でありますから、少しでも不安要素や確認できない不確定要素が残ると信じることができず、石橋を叩いても渡ることができない人も出てくるのです。
* しかし、神に関する事柄はすべて霊的なものですから、不安要素や不確定要素がすべて解消されて、信じることができるという人間的意思決定ができるものではないのです。
* ヨハネは、光なるお方の神権を認め、この私の創り主であると認め、さらにこの私を再創造して下さるお方であると信じる思いは、人間的に、間違いがないと思える不安要素や不確定要素がすべて払拭されたことによって持つことができるのではないと示していくのです。
* ここでは、それを3つの表現で語っています。第1は血筋によらずと言います。原文では血によらずとなっています。親子の間のことを血のつながりと表現するように、ここは親や先祖のことを表し、神の選民の血統だから、神の子になれたのではないと言うのです。
* 第2は、肉の欲にもよらずと言います。神の子にされたいという人間の思いが実を結んで神の子になれたのでもないと言います。第3の、人の欲にもよらずという表現も同様の意味でしょう
* すなわち、これらの表現を通して、人間の側の要求や意志、神の子にふさわしい血統などの要素が満たされているから信仰を持つようになり、人間の意志で神の子となったのではなく、神の子とされるということは、神の側の意志によって生まれることだと言い切っているのです。
* ということは、私たちが光なるお方の神権を認め、この私の創り主であり、再創造して下さるお方であると信じることができるのは、私たちが人間的に判断し、判定する事柄ではなく、私たちの内に信じる思いを起こさせ、それによって罪の子から神の子に変質させようとされる神の働きかけによるものだと言って、それを神による誕生だと表現したのです。
* もしそうであるならば、信じるという行為をどのようなものだと示そうとしたのでしょうか。それは、神の思いが私たちの内側に注入された時に起こる奇蹟の行為であることが示されているのです。
* パウロはそれを、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(Tコリント12:3)と言いました。光なるお方を創り主であり、再創造主であると信じることができるのは、聖霊が内側に信じる思いを起こして下さるからだと言っています。
* 人間的に考えて、不安要素や不確定要素がなくなったから信仰を持つようになったという人間的な作業ではなく、聖霊が起こして下さった思いを大事にし、不安要素や不確定要素がなくならなくても、確かで裏切られない神を信じる思いを、神からのものとして受けとめた時、神によって生まれた者と見て頂けるのです。
(結び)信じて神の子とされる不思議さ
* 私たちが、光なるお方を創り主として信じ、再創造主だと信じることができるのは、これは神による奇蹟的なみわざであるということが分かります。それは、人間的な思いでは、信じることができないものだからです。
* まだ、人間的な思いの要素が強い信仰の人は、神を信じ切れず、神の子として神から生まれた者であるという霊的事実を信じて喜ぶということができないのです。
* もし、信仰がその程度のものであれば、何と不安定なものでしょうか。揺れ動く人間の思いの上に乗っている信仰は、安定することはなく、神から生まれた神の子としての確信もなく、喜びもなく、平安もありません。
* まして、自分を見てきよい人間だと思えない私たちは、神によって生まれたとは恥ずかしく言えない思いを持っているので、神によって生まれた神の子にされているとは、大胆に言うことができない古い肉の感覚が残っており、それが信仰の妨げとなっています。
* 私がどう思うかではなく、他の人がどう見るかではなく、神が、この私たちの内に信じる思いを起こさせ、その思いに沿って信じた時に、「あなたは私の生んだ子だ」、「私にとって大事な子だと」、その誕生を心の底から喜んで下さり、宣言して下さっていると分かるのです。
* この私がきよいからではなく、欠点がないからではなく、まして価値や能力やあらゆる才能があるからでもなく、人間の判断によらず、ただ神による奇蹟によって、光なるお方を信じるようにされ、子と認定して下さったのです。
* 神は、そのことをどれほど心待ちにして下さっていたことでしょうか。その神の御思いを感じ取っていた著者ヨハネは、子の誕生を小躍りして喜んでおられる神の姿を思い描かずにはおれなかったのです。
* その大きな、慈しみに満ちた神の御手に抱かれ、『おお!私の愛する我が子よ』と呼びかけて頂いている者であることを、私たちはどれほど幸いなこととして受けとめているでしょうか。