(序)なぜ福音は信じにくいのか
* 「ロゴス(言)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」この言葉は、人間世界においてはあまりにも奇抜な内容であって、受け入れ難いものです。しかし著者ヨハネは、この内容を伝えたいために序文を書いてきたと言って過言ではないでしょう。
* キリストの十字架のあがないによらなければ、私たちは罪から解放されることなく、神との関係が回復されることはないことを、ヨハネは大事な真理として捉えていたのですが、そのためには、神性を持っておられるロゴスが、人間の肉体を取って、一人の人間となられたという前提を抜きにして、そのあがないは実現することはないと考えていたのです。
* それ故、著者ヨハネにとって、信仰者として欠かすことのできない信仰理解として、十字架によるあがないのみわざをなさったキリストは、世の始まる前は、神と共におられた神なるロゴスであり、そしてそのロゴスが、肉体を取ってこの地上に降り、イエスという一人の人間として歩まれたという、人間の理解では不可能な真理の重要性を示そうと考えたのです。
* いつの時代においても、異端の教えが雨後の筍のように出てきますが、ほとんどは、このキリスト理解を正しく持つことができないので、人間が納得し、受け入れやすい内容に作り変えて、神の与えて下さった福音からかけ離れた内容にしてしまっているのです。
* なぜ、聖書が示している福音をそのまま信じるのが難しいのでしょうか。それは、人間の知恵で納得でき、受け入れやすいようにと考え出されたものではないからです。キリストの処女降誕にせよ、復活にせよ、あらゆる奇蹟など、ましてひとりなるお方が完全な神性と人性とを併せ持っておられるなどということは、空想話のようで、信じくいのが当然なのです。
* それは神が、人間が信じやすいように考えて、救いの道を考え出されたのではないからです。神は、ご自身の御心を歪めることなく、ご自身の義を引き落とすことない状態で、人間を救うために考え出されたとんでもないご計画を遂行なさるために、必要な諸条件を満たそうとされたことが、人間の側からすれば、不可解であり、受け入れにくい内容になっただけです。
* 今日の内容で言うならば、神なるロゴスが神性を持ったまま肉体を取り、一人の人間として完全な人性を持たれた。これがキリストだと示しているのです。
* 神の考え出された救いの道は、このような条件が満たされていてこそ完成するのです。神のお心が満足されることなくして、人間を救う福音にはならないのです。それが人間にとっては信じにくいものとなったに過ぎません。
* それでは、救いの福音の大前提と言える今日の内容がどうして重要なのか、この内容を通して何を示そうとしているのか、ご一緒に考えていくことにしましょう。
(1)ヨハネが示しているキリスト観
* ヨハネは、「言(ロゴス)は肉体となった」と言いました。これまでは,このお方をロゴスとして、神のお心そのものとして示してきたのですが、この14節を最後にして、これ以降はロゴスという名称を使わないのです。
* これはどうしてでしょうか。ロゴスは、神であり、創り主であり、光の根源なるお方でありますが、人間の肉体を取られた時点で、人間イエスとなられ、救い主キリストとなられ、ロゴスはイエス・キリストの一面である神性を表すのですが、人性を表すことはありませんから、肉体を取られた時点から、ロゴスという名称は使わなくなるのです。
* それでは、ロゴスなるお方が人間の肉体を取られることによって、どのような存在になられたのでしょうか。ヨハネはここに大きな変化を見たのです。その状態を正しく知る必要があります。
* 神なるお方が、その上に肉体という外套を着て、内側は神性を持ちつつ、外は人生を持った特殊な存在だと見るべきでしょうか。それとも、肉体を取られた時から、神性は神の下に預けられ、人性を持たれたことによって、私たち人間と全く同じ存在になられたのでしょうか。
* それとも、神性を持ったまま肉体を取られることによって神性と人性とが完全に融合して、全く神でありつつ、全く人であるという、融合するはずがあり得ない神と人との融合がこのお方において実現したと言うのでしょうか。
* このことを理解するために、イエス様が人間となられたということがどのようなものであったか考えて見ましょう。私たち人間と同じように食事され、休まれ、喉の渇きを覚えられ、疲労を感じ、怒られ、涙を流され、あわれまれ、祈られ、試練さえもお受けになったことを思うと、見た目では完全な人間としての歩みをされたということ分かります。
* ということは、人間の持つ弱さや罪に引っ張られる汚れさえも持っておられたと見るべきでしょうか。確かに人間と全く同じ姿を現されたのですが、罪は犯されませんでした。(Tペテロ3:22)これは、人間と全く同じ姿を取られたのですが、それは、罪を犯す前の、神との結びつきにおいて全く問題がない状態として歩まれたと言えます。
* もう一方では、人の心をすべてご存知であり、見えない所をも見通しておられ、海の上を歩かれ、波を静められ、病をいやされ、悪霊を追い出され、死人さえも生き返され、常時ではなかったとしても、必要に応じて神性を用いて事を成しておられるのが分かります。
* これは、その時々に神の力を受けてみわざをなされたというのではなく、ご自身の持っておられる神性を、その時に応じて用いられ、時には神なる存在であることを明らかにするため、時には愛とあわれみの発露として、神的能力を用いられたこともあります。
* ここから見えてくることは、神性と人性が融合して別種のものになられたとは考えられません。また、ヨハネが、『父のひとり子としての栄光を、実際のイエス様の中に見たと言っていることから、神性を持った御子としての輝きを見たということですから、見た目は人間であっても、神性をも併せて持っておられたことが伺えます。
* ということは、イエス様の中に神性と人性とが同居しており、しかもバラバラにではなく,一人格として、一つに結合しており、見た目は全く人間でありながら、必要な時には、取り出すことができる完全な神性を持っておられる神であり、一つの意志によって人間としての生き方を表しながら、時には神的能力を用いて事を成され、それはすべて神としての深いお考えの下で使い分けられていると見るべきでしょう。
* 人間の知恵では理解できないキリスト観でありますが、理屈としてではなく大事な信仰対象として理解することが、信仰の基本であって重要だと言えるからです。
* ヨハネは、言(ロゴス)は肉体となった時点で、全く神でありながら、全く人間であり、それが一つの人格として、一つの意志の下で、神と人間とを使い分けておられるお方であると示しているのが分かるのです。
* このようなお方をキリストとして信じるようにされているのですが、このキリスト観が正しく受けとめられていないと、何が問題なのでしょうか。それはただ一つ、キリスト観が少しでも狂っていれば、神の示された福音は成立せず、救いの恵みが現実のものにはならないからです。
* 全く神であり、全く人であるというお一人の人格としてキリストを見上げた時、神による驚くべき福音が、私たちの上に成就するのです。
(2)父のひとり子としての栄光を見た
* 著者ヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た。それはひとり子としての栄光であった」と言いました。この見たという言葉は、じっくり熟視したという意味の言葉ですから、見間違うことがないほど、このお方は神性を持った父のひとり子としての栄光に輝いているのを私たちははっきりと見たと言ったのです。
* わたしたちということによって、それはヨハネ個人の感想ではなく、このお方の傍にいた者たちは、すべてこのお方の姿の中に、父のひとり子としての栄光を確かに見たと証言しているのです。
* 17:5の大祭司としてのイエス様の祈りにおいて、こう祈られています。『父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい』と。これは、父のひとり子として持っていた栄光に言及されており、それは神の下にあって、神なる存在として持っておられた権威、力などによる輝きを、肉体となった今も神性が失われず、神の権威と力とを持っている者として、この地上にあって輝かせて下さいと祈られたのです。
* それは、直接的には弟子たちが、この私のことを、神としての権威と力とを持っている者であることを信じるようになることが、弟子たちによって栄光を受けることになる(17:10)と言われたのです。
* ヨハネは、弟子の一人として、12弟子だけではなく、他の弟子たちも含めて、イエス様の栄光、すなわち神としての権威と力を持ったお方であることを、わずかも疑うことがないほどに、じっくり熟視したと証言しているのです。
* ヨハネは、この証言を通して何を示そうとしたのでしょうか。もちろん第1のことは、イエスこそ神の栄光を持っておられるお方であることを示すためでありますが、もう一つのことは、イエス様の中に神の権威と力とをじっくりと見ることによって、信じる者にもその栄光が与えられるようになることを示すことであったのでしょう。
* 17:22でイエス様は、「わたしは、あなたから頂いた栄光を彼らにも与えました」と言われています。イエス様の中に、神としての権威と力とを垣間見た者は、そのイエス様を内に入って頂くことによって(エペソ3:17)、神の権威と力とにあずかる者とされ、神の輝きが信じる者の上に溢れるようになるのです。
* このことを体験してきたヨハネは、ロゴスが肉体となってもなお、父のひとり子としての栄光を持ち続けておられるのをしっかりと熟視した者であるこの私たちの証言を、そのまま受け入れ、イエス様の中に、神としての権威と力による輝きがあることを信じたならば、あなたがたも、その栄光にあずかることになるよ、と示そうとしたのです。
* 神なるロゴスが肉体となられたというだけでも、その真理の深みを捉え難いのに、肉体を持たれた神でありつつ、人であられたイエス様の栄光をしっかりと熟視した者は、イエス様の持っておられるその栄光にあずかる者にされるとは、あまりにも深遠な内容に圧倒されそうであります。
* イエス様の栄光をしっかりと熟視した者の証言であるこの福音書全体を学んでいくことによって、私たち一人一人も、神としての権威と力とに満ちておられるイエス様をしっかりと熟視することによって、その栄光にあずかる者とされている素晴らしさを、ひと時も忘れてはならないでしょう。
(3)恵みとまこととに満ちていた栄光
* 父のひとり子としての栄光を見たと言うだけではなく、その栄光は、恵みとまこととに満ちているものであったと、その栄光の内容がどのようなものであったかを説明しています。
* すなわち、父のひとり子としての輝きとは、第1は、測り知れない恵み深さにあると言いました。第2は、限りない真実にあると言っています。この2つの事柄に、御子の輝きが余す所なく示されていると言っているのです。
* 第1の内容からもう少し詳しく見ていきましょう。父のひとり子としての権威と力とをどのように表して下さったか、それを、この恵みという言葉で表現されているのですが、本来なら、全く愛するだけの価値がなくなってしまった罪人を、何としてでも神のかたちを回復させ、神の祝福にあずかることができる者にしてやりたい、との神の強い愛を実現させるお方、それが父のひとり子であり、権威と力を、その恵みの働きのために用いて下さったと言うのです。
* しかし、人間は、恵みという言葉の持つ重みがどこまで分かっているでしょうか。こんな私を愛して下さって感謝で一杯ですと言った舌の根が乾かぬ内に、神はどうしてもっとこうしてくれないのかと不満を漏らし、つぶやこうとするのです。
* 自分が恵みを受けるにふさわしくない者であることが分かっているようで分かっていないのです。私たちの姿を見れば、怒りを受け、罰されて当然なのですが、ご自分が造った民の所にこられたひとり子なる神は、どうしようもない怒りの子を愛し、救い上げて下さったのです。
* ひとり子なる神が、恵み深いお方であるということが本当の意味で分かれば、私たちは要求を一切しなくなります。しかし肉欲の強い人間は、恵みを受けている自分の位置が見えず、要求できる者であるかのように思っている所が残っているのです。
* 主のあわれみを求めることは、決して要求なのではありません。自分が恵みを受けている位置にあることが分かったならば、感謝の心しか出てこなくなるでしょう。
* 第2の内容は、父のひとり子としての権威と力とを、神の真実を持って表して下さったと言うのです。ひとり子なる神のお働きを、真実というお言葉で表現したのはどうしてでしょうか.イエス様ご自身、私は真理である(14:6)と言われました。わずかの偽りもない神の真実を表す存在として私は来たと言われたのです。
* 人間の特徴は不真実です。たとえ真実そうに見える人であっても、不真実な要素を持っています。そんな私たち人間を、神は真実を持って愛し抜き、救い上げて下さったのです。それを見える形で表して下さったのがひとり子なる神であり、神の真実そのものだと示しているのです。
* 真実、それは人間が失ったものであり、回復すべき第1のものです。神は真実な交わりを持つことのできる存在として、人間を造って下さったのに、神に対して不真実となり、神に背を向け、交わりが断絶してしまいました。そんな人間に対して、どこまでも真実を示し、真実なるひとり子を遣わして交わりの修復をして下さったのです。それは、神との交わりにおいて、真実が何よりも重要であることを示すためだと分かるのです。
* ひとり子なる神の輝きは、その表された恵みと真実によって、信じる者に明らかになり、それを体験し、そのすごさに喜び踊る者にされるのです。ひとり子なる神の輝きは、私たち信仰者に与えられ、私たちの輝きとなり、恵みに生き、真実に生きる者へと変換されるのです。
* 15節で、再びバプテスマのヨハネについて触れ、ひとり子なる神の栄光の輝きをあかししている証言を取り上げています。ここでは神との交わりが断絶し、主の祝福に預かれなくなった人間のために、父のひとり子として、恵みとまこととを持って、完全な修復して下さるお方としてきて下さったことを、少しのブレもなく伝えている姿が描かれています。
* バプテスマのヨハネは、どうしてひとり子なる神のことが分かり、神であり、人であったというイエスを信じ切り、人々に紹介できたのでしょうか。身近で触れたわけではなく、神の約束の言葉を聞いただけです。しかしバプテスマのヨハネにとっては、それで十分であり、ひとり子なる神の偉大さ、恵みとまこととに満ちておられるお方への絶大なる信頼は、わずかも揺るがず、証し続けたのです。
* 確かなお言葉に対する信頼を動かさないならば、その人の生き方はふらつかないのです。ひとり子なる神の輝きである恵みとまことと触れて、恵みに感謝し、まことに感動して応えていこうとする歩みはぶれず、ふらつくことはないのです。
(まとめ)目撃者であり、経験者として
* 「私たちは、父のひとり子としての栄光を見た」と、明白に告白をしています。これは、単なるヨハネの個人的感想ではなく、共通信仰として、信仰者というのはみな、父のひとり子としての栄光を見た目撃者だと言おうとしているのが感じられます。
* 著者ヨハネは、ひとり子なる神の栄光の目撃者だと大胆に言えたのは、イエス様の変貌の光景を見たからだと言うのではないでしょう。それも大きな要因の一つだと考えられますが、イエス様の歩み全体から、神としての輝きを熟視し、正しく見抜くことができたのだと考えられます。
* 同じ時期にイエス様を見ていた人たちが無数にいても、ひとり子なる神の栄光の目撃者になることができた人はごくわずかです。神としての輝きを見抜く霊の目がなければ、イエス様を見ても、神の栄光を目撃することができず、恵みとまこととを体験することもできず、救い上げのみわざにあずかることもできません。
* バプテスマのヨハネの場合は、イエス様の歩みをそばで見て、神としての輝きを見抜いたのではありません。神の約束のお言葉が、イエス様をひとり子なる神だと明らかにしていたから、神の真実のお言葉を全く疑わなかったので、神の栄光の目撃者ではなかったが、ぶれることなく、ふらつくことなく、証し続けたのです。
* 今日の私たちは、実際にイエス様を見ることはできません。聖書を通してしか知ることができないのです。けれども、神のお心である聖書を通して、イエス様がひとり子なる神の栄光に輝いておられるお方であると判定することができ、そこに恵みとまこととが満ち溢れていて、私たちはひとり子なる神の栄光の目撃者となり、神の恵みとまこととの体験者となり、生涯ぶれることなく、証し続ける者とされるのです。
* 聖書を読んでも、目撃者にも、体験者にもなれない人は無数にいます。神の、このような大きな愛に触れることができない人生は何とわびしく、虚しい人生でしょう。霊の目がつぶれたまま、霊の心が閉じたまま、神の恵みのすごさ、神の真実の素晴らしさに触れることができない人生ほど無意味な人生はないでしょう。