聖日礼拝メッセージ
2012年7月15日 更新

聖 書 ヨハネ1:16〜18  (第7講)
 題 「ひとり子なる神を見つつ歩む信仰人生」


  (序)神を見ることのできる唯一の方法

* 人間は、神を見ることができたらと思っています。だから目に見えるものに頼ろうとする偶像崇拝がなくならないのです。それは、目で確認し、確証を得たい思いが強いからです。というのは、目で見なければ安心ができず、目で確認できない状態で、ただ信じるだけという向かい方はどこか頼りないと思っているからです。

* しかしパウロは、神を見た者は、誰一人なく、見ることもできないお方だと言っています。(Tテモテ6:16)それはなぜでしょうか、そのことについてモーセに語られている所があります。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はいない」(出エジ33:20)と。神を見たら死ぬと言われているのです。

* それは、罪に汚れた人間が、聖い神を見るならば、その聖さに耐えられず、溶け去ってしまうからでしょう。聖さが持つ恐るべき力、それはあたかも地下のマグマが噴出して、すべてのものを溶かし去ってしまうようなものだと考えられるでしょう。

* けれども著者ヨハネは、この福音書を通して、神を見ることのできる唯一の方法があると示すのです。この方法で神を見る者になることが、人間にとっての究極の目的だと示そうとしたのです。

* その方法とは、神の許におられ、自らも神性を持っておられるロゴスが肉体となってこの地上に降って下さったという、このひとり子なる神と出会い、このお方が明らかにして下さる父なる神を受けとめ、このお方を通して神を見るという間接的な方法だと示しているのです。

* もちろん、それだけでは人間は汚れたままですから、神の聖さの前に溶け去るしかないのです。聖い神を見ることができるためには、自らも聖くなる必要があります。自らの頑張りで聖くなることができませんから、御子を信じることにより、神の子にして頂くことによって聖さを頂いた者となる必要があるのです。

* ここに著者ヨハネの思いが見えてきます。神を見て生きる者となる。これが人間として持つ必要のある生き方であることを示してきたのです。このことができるようにするために、神なるひとり子が肉体となって私たちの世界に来て下さったことを明らかにしてきたのです。


  (1)すべてが神の恵みとして受けとめる

* ヨハネが序文において、これまで書いてきたことは、私たちが信じているイエス・キリストは、父のひとり子なる神として、世の初めから神と共におられ、神性を持った光なるロゴスとしておられたが、人間の歴史のただ中に、肉体を取ってきて下さった。それは、神性を持たれた状態で、人性をも併せて持たれたという、人知をはるかに超えたお方であることを明らかにしてきました。

* そして、このお方には父のひとり子としての栄光の輝きがあり、その中には神の恵みとまこととが満ちていたと言って、このお方を熟視すれば、このお方の中には神の測り知れない恵みが一杯詰まっていることが分かり、偽ることがない神の真実が溢れているということが分かると言ってきたのです。

* 私たちが、このお方を信じるということは、このお方の中に一杯詰まっている恵みとまこととを受け取っていくことで、そのように向かっている者は、恵みに恵みを加えられた状態になると言うのです。

* 「恵みに恵みを加える」と訳されているこの表現は、「〜に代わって、〜と引き替えに」という前置詞が用いられており、恵みに代わって、(更に次の)恵みを受け取ると言う言い回しになっています。次の17節の内容とのつながりを考えると、最初の恵みであるモーセの律法に代わって、更に優れたイエス・キリストによる恵みを受け取ったという意味に受けとめることができます。

* そのように受けとめないで、もう少し漠然とした意味で、「古い恵みに変わって、より優れた尽きることのない豊かな恵みが増し加えられていく」という内容だと説明する学者もあります。それ以外の説もありますが…。

* ヨハネが言おうとした意図から考えて見ますと、ここでは肉体となったロゴスであるイエス様の中に、父のひとり子としての栄光の輝きが潜んでいることを熟視し、その目撃者となり、体験者となって、思いがぶれることなく、このお方を見た者としての歩みをすることによって、このお方と深く結び合わされ、それによってこのお方に充満しているいのちエネルギーが流れ込んでくるようになると示そうとしたのです。

* ただ先程考えた「恵みに代わって更に次の恵みを」という表現を理解することは難しいことです。なぜかと言いますと、モーセ律法を、神が示された恵みの内容として受けとめにくいからです。どうしても律法は、神に認められるための規律、戒律としてしか考えられないのです。

* それをヨハネは、どうして律法のことを、後にイエス・キリストによって示される驚くべき恵みの内容の前に示された最初の恵みとして表現したのでしょうか。

* 律法は、確かに直接的には恵みを示す内容だとは思えません。しかしパウロがローマ5:20で語っているように、律法の直接の目的は、罪を指摘し、罪を明らかにすることによって罪過が増し加わることでありますが、その結果、恵みもますます満ち溢れたと言い、間接的に律法は罪過が増し加わることを経由して、恵みに至ると言うのです。

* そして、この後に示された驚くべき恵みは、イエス・キリストのあがないのみわざによって罪を完全に解消するものであり、このお方の中に充満しているいのちエネルギーが流れ込んできて、恵みとまこととに溢れるものであり、律法の恵みとは比べものにならないぐらい、激しく、強力なもので、以前のものを覆い尽くすほどだと言うのです。

* ここから見えてくるヨハネの思いは、神が、神のかたちを失った人間に対して、何とか神のかたちを回復させてやりたいという強い思いから、すべて人類に対して恵みによる働きかけをして下さった。最初は律法によるものであり、後には最初の恵みを覆い尽くすほどのイエス・キリストにおける恵みを持って働き続けて下さったという恵みの大きさを示しているのです。

* 神は、なぜこれほど、恵みによる働きかけにこだわられたのでしょうか。これは、罪に汚れた人間が、絶対に、聖い神の前に立つことができないその状態を打破して下さるために、神の側で人間の罪を処理し、汚れを解消して、聖さを与えるという一方的な恵みの方法しかなかったからです。

* このような神の側による恵みの働きかけが、信仰の最重要ポイントだとヨハネは考えていたのです。子なる神が肉体を取られたのも、信じる者に神の子としての権利を与えられたのも、このお方と結びついて、このお方に充満しているいのちエネルギーが流れ込んできて満ち溢れさせて頂けるのも、すべては神の恵みであり、神の賜物であることを受けとめてほしいと願って、序文のまとめとしたのでしょう。

* パウロも、そのことをエペソ2:8で次のように語っています。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」と。神の恵みを知り、神の恵みを味わい、神の恵みに満たされること。それが信仰だと言うのです。


  (2)聖い神を見るためには聖い者でなければならない

* ここでもうひとつのことを考えておく必要があるでしょう。それは、ロゴスが肉体となってこの地上に降って下さった目的は何であったのかと言うことです。これまで語られてきたことから整理してみましょう。

* 第1は、信じる者に、失われた神のかたちを回復させ、神の子となる権利を与えるためであったと分かります。神のかたちを失った人間は、人間としての価値のない存在となり、無意味な人生を送ることしかできなくなってしまったのです。

* そんな人間に、神が、何とかして神のかたちを回復させるためにと取られた方法が、ご自身の下におられるひとり子なる神に肉体を取らせてこの地上に遣わし、人間が受けるべき罰を代わって受けさせ、それによって罪を処理され、神のかたちを回復させられるという方法だったのです。

* しかも、神のかたちを回復させられただけではなく、神の子としての身分と権利とを与えられ、人間としての価値と意味とを取り戻させて下さったことが語られていました。この希望を示すことが第1の点でした。

* 第2は、そのように神の子としての身分と権利とが与えられた者は、イエス・キリストの内に充満しているいのちエネルギーが注がれ、それに満たされて、この地上にあって喜びと感謝の声を上げて生きていくことができるようにされたという点です。

* イエス・キリストからいのちエネルギーが注ぎこまれるとは、具体的にどのようなことを指しているのか考えてみる必要があります。それは、人として生きていく力、あるいは原動力と言えるものです。

* たとえば、自動車がガソリンというエネルギーによって動く力を得て、その果たすべき務め、役割、仕事をするように、信仰者はイエス・キリストから注がれるいのちエネルギーによって満タンにされ、人として果たすべき務め、役割、仕事をすることによって、神の栄光を現す生き方をすることができるようになるのです。

* 第3は、ただ一方的な恵みによって神のかたちを回復して頂き、イエス・キリストと結びついて、いのちエネルギーが注ぎこまれた者は、神を見る歩みをするようになるという点です。

* ヨハネは、神を見た者はひとりもいない、見ることはできないのだと言いながら、確かに父なる神を見ることはできないが、父と親密なひとり子なる神が、父のふところからこの地上に来て下さり、ひとり子なる神によって、父なる神のことが分かるようにされ、間接的に神を見る者にされると言うのです。

* 神を見るという表現で言おうとしたことは,神との密接な結びつきを頂いて生きる者にされるという意味だと考えられます。それ故、聖い神を見るには、聖い者でなければならないのです。

* 人間の中に、聖い神の聖さに耐えることができる聖さを持った者は一人もいません。それ故、ひとり子なる神の中に、あわれみによって入れて頂くことにより、聖い者とみなされ、間接的に神を見ることが赦されるのです。

* パウロは、「わたしたちは、今は、(ぼんやりとした)鏡に映して見るようにおぼろげながら見ている」と言い、終わりの日には「顔と顔とを合わせて見る」(Tコリント13:12)と言っています。Uコリント3:18では、顔覆いなしで直接主と向き合い、主と同じ姿に変えられていくとまで言っています。

* すなわち、終わりの日には、直接主と向き合って御顔を見ることができるようにされているのは、その時には、私たちにも全き聖さが与えられるからです。しかしそれまでの地上の歩みは、完全な意味で神を見る歩みができるわけではありません。

* それでは、この地上にあって、ひとり子なる神を通して間接的に神を見て歩む信仰人生とはどのようなものなのでしょうか。そのことについて考えてみることにしましょう。


  (3)神を見る歩みをするとはどのようなことか

* イエス様は、山上の垂訓の中で次のように言われています。「心のきよい人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」と。(マタイ5:8)逆に言えば、心がきよくなければ神を見ることができないとも示されているのです。

* このきよいという言葉は、物理的にも、儀式的にも、倫理的にも、きれいな、純粋な、純潔な状態を指している言葉で、そのようなきよい生き方をする者しか、聖い神を見ることができないと言います。しかし、そのような完全な聖さを持って神を見ることができる者は一人もいません。それではこれは、単なる理想論なのでしょうか。

* そうではありません。こういう教えは福音全体を受けとめて理解しないと、間違った受けとめ方をしてしまいます。ヨハネは第1の手紙4:12で、神を見たものはひとりもいないが、神が私たちの内にいて下さる歩みをするならば、神の愛が全うされると言って、神を見ることができることを暗に示しています。

* それでは神が、私たちの内にいて下さる歩みはどうすればできるのでしょうか。それは同じ4:10で言われているように、私たちの罪のあがないの供え物として、御子をおつかわしになった、この神の愛を喜び受け入れることによって、神が私たちの内にいて下さる歩みができるようになり、神を見ることができると言っています。

* 肉的に、儀式的に、倫理的に、完全な聖さを表すことができない私たちであっても、あがないの供え物となって下さった御子を信じることによって聖いとみなされ、神を見る歩みができるようにして下さるのです。

* それでは、神を見る歩みをするとはどのようなことか、整理して考えてみることにしましょう。まず私たちには、聖い神の前に立つことができる聖さがないことを自覚する必要があります。その上で、あがないの供え物となって下さった御子を信じることによって、聖い神を見ることのできる聖い者とみなして下さったとの信仰に立つことです。

* そして、神を見る歩みによって、終わりの時には主と向き合い、主と同じ姿に変えられていくという、とんでもない完全転換がなされていくのですが、それまでのこの地上における歩みにおいては、神を見る歩みの度毎に,ある一部、また別の一部と、それは不完全な転換ではありますが、部分的転換が徐々になされていくと考えられます。

* もちろん神を見ると言っても、肉眼で見ることではなく、信仰によって、霊の目で見ることですが、神を直接ではなく、同じ神の本質を持っておられるイエス・キリストを見ることによって、間接的に神を見る者にされているのです。

* 現代に生きる私たちにとって、肉体となられたイエス・キリストを実際に見ることもできません。ペテロは、1世紀後半の、実際にイエス様を見たことのない人たちに手紙を書いて次のように語っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在見てはいないけれども、信じて言葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びに溢れている」と。(Tペテロ1:8)

* 肉眼で見えなくても、いつも傍にいて下さることを確信し、守り導いて下さっているお方のことを思って本気で愛し、どこまでも信頼を寄せ、輝きに満ちた救いの喜びに溢れる歩みをすることが、イエス・キリストを見ているようにして歩む天国人人生であり、それが聖い神の前に立つ歩みであるのです。


  (まとめ)

* 私たちを救い出すために、神なるお方が肉体を取って私たちの所に来て下さった。このすごい恵みをあなたは分かっているか、そう問いかけるようにして福音書の序文を書いてきたヨハネですが、それは、私たち一人一人にとって、人間としての価値と意義の回復というとてつもない恵みであり、その原動力となるいのちエネルギーを溢れるばかりに注いで下さっているのを、あなたは受け取ったかとの問いかけでもありました。

* 父との親密な関係におられ、父のふところにおられたひとり子なる神が、今もあなたの傍にいてあなたを守り、あなたを助け、光の中を歩むことができるように導いて下さっている。霊の目でこのお方を見る歩みをせよとの語り掛けを、私たちはここから聞くのです。

* その語りかけに対して、私たちは、キリストが私の傍にいて下さることを疑わず、大きなご計画の中で守り導いて下さっていることを確信し、キリストを本気で愛し、信頼してふらつかないならば、輝きに満ちた救いの喜びが消えることなく、日々溢れ続けるでしょう。日々キリストを見て歩むこと。これが神の一方的な恵みのみわざに応えるあり方なのです。



月別へ   ヨハネへ   TOPへ