聖日礼拝メッセージ
2012年7月23日 更新

聖 書 詩篇21:1〜7   (第1講)
 題 「宗教的指導者は何のために立てられているか」


  (序)王の信仰が、民にどのような影響を与えるか

* この21篇は、20篇と同じように、王の詩篇だと言われています。20篇では国難を乗り越えるために立ち向かう王のための、民によるとりなしの祈りだと見ましたが、この21篇は、王の信仰に信頼し、神が王に勝利を与え、祝福を注いで下さっていることが感じられ、それは、民にとっても祝福であることを喜び歌っている内容だと考えられます。

* それがどのような状況の下で歌われ、何を示そうとした内容であるのか、具体的な詳細は何一つ分かりませんが、いくつかの言葉から、これは王が即位する時の歌だとか、即位の記念日だとか考える学者もいますが、それもはっきりとしていません。

* しかし、それらの状況が分からなくても、見えてくるものがあります。それは、指導者としての王の向かい方が、肉の力や知恵による向かい方ではなく、主により頼む信仰で、すべての物事に立ち向かおうとしているものであることを、民の代表として、この詩人が歌っているという点です。

* いつの時代の歌であるかを推測することもできませんが、王が政治的、宗教的指導者として、国の安全を守ろうとする時代にあって、王の信仰は、国の土台を左右する重要な事柄であったと言えます。

* というのは、民の信仰も、指導者の信仰に大きく左右され、王の不信仰が、民に伝染し、国全体が不信仰だと見られ、神の裁きを受けるという事例が、イスラエルの歴史において繰り返し起きていたことが歴然としているからです。

* 今日においては、時代も状況も異なり、王のような政治的、宗教的指導者が国の安全を守るという情景は考えられませんが、新約の時代に生きる私たちにおいて、信仰者を教会に集め、そこに信仰的指導者を立てておられるという現状を見る時、この詩篇から何を読み取り、何を学び取っていくべきなのか、そこに、神の御声を聞き取っていかなければならないと思わされます。

* それは、信仰的指導者が、肉の力と知恵によってしか向かわず、その指導者の内に信仰が見られないなら、その指導者の下にある一人一人の信仰はどのようになると考えられるでしょうか。

* もちろん、王と民のような主従関係ではありませんから、強制されることはありませんが、指導者の導きが不信仰によるものであるなら、民が、必ずしも不信仰になるとは限りませんが、伝染しやすく、信仰を受け取っていく道がないことになってしまいます。その意味で、深いかかわりのある内容と考えられるでしょう。


  (1)それでも、神にだけよりすがる信仰を現すか

* この21篇は、前半部分と後半部分とに内容がはっきりと分かれています。後半の内容は次回に考えるとして、この前半の内容を3つに分けて考えてみることにしましょう。

* 第1は、1節で、王として、信仰による向かい方を確立しているとの、民の目から見た判定を歌っています。第2は、2節〜6節で、主が王の信仰を承認して、それに応えておられ、喜ばせておられるとの民の確証が歌われています。第3は、7節で、王の信仰は揺るがず、信頼し、疑わない。そんな王の信仰を誇りとし、喜んでいる民の思いが歌われています。

* それでは、その第1の点からもう少し詳しく見ていくことにしましょう。王が政治的、宗教的指導者としての自分の立場を認識し、その役割を果たしていくために、神に対する信仰が何よりも大事だと考え、自分の力や知恵を働かせようとせず、主によりすがり、主の助けと守りとがあることを信じて向かうことを大事にする姿が、民の目にも明らかであったと言うのです。

* 南王国ユダと北王国イスラエルに分かれていた時代において、信仰深い王もいましたが、不信仰な王も多く、見える神々である偶像の方に走った王も多くいました。

* 一例を挙げてみましょう。南王国ユダにアサという王がいましたが、「アサの心は一生の間、主に対して全く真実であった」(列王上15:14 旧503)と言われています。けれども、偶像崇拝につながる高き所までは除かなかったし、イスラエルの王が攻めてきた時には、神にすがるよりも、スリヤの王に貢ぎ物を贈って同盟を結んで国を守ろうとし、肉で向かおうとするところをも覗かせていました。

* 詩篇21篇で歌われているような、徹頭徹尾主にだけ心を向けて歩んだという王はなかなか見当たりません。イザヤの教育を受けたヒゼキヤ王でさえ、最初は信仰だけでは向かうことができず、途中から信仰によってのみ立ち向かうようになった様子が見られます。

* 確かに、完璧な信仰深い王を求めることはできませんが、完璧ではなくても、弱さを自覚しつつ、主にだけ心を向けようと心掛けた王が、この詩篇で歌われている王だったのでしょう。民の目から見てそのように写っていたと言うのです。

* 内面のすべてを見抜く力が人間にあるわけではありません。けれどもこの詩人は、民の代表として、王が人間的に言えば、少しふらつくところがあったとしても、すぐに立ち帰ることができた王で、信仰が確立していた人だと見ていたのです。

* ここで歌っている内容を見ると、王は、神の御力を喜んでいたと言います。この表現は、神がこの私の信仰を受け入れ、上からの力を持って働きかけて下さっているという信仰体験をして、主の助けを信じて心底喜んでいた姿が描かれています。

* 神の、力による働きかけ、あるいは助けと言われるものが、王にとって具体的にどのようなものであったか、ここには記されてはいませんから、詳しいことは分かりませんが、2節の表現などから見て、王としての政治的、宗教的指導者として与えられている責務を果たしたいと強く願っている思いに神が応えられ、上からの力に満たされて向かうことができたのでしょう。

* 現状がより厳しく、肉の力や知恵によって逃げ道を作ったり、問題から目をそむけたりさせるような状況に置かれた時にこそ、神にだけよりすがる信仰を現すか、信仰が問われるのです。すなわち、たとえ厳しい状況であっても、主の御力だけを頼りとして進もうとするか、それとも他の方法に目を向けるか問われるのです。

* この時の王は、主の御力だけを頼りにしたからこそ、そこに主が助けの手を伸べ、働いて下さった主の働きかけを体験し、主の御力を喜び、飛び上がるほど喜び踊ったと言っているのです。

* 主の助けと言っても、見える結果において、必ずしも良い変化があった事を指しているとは限りません。見える良い結果が伴わなくても、そこに神が働いて下さり、霊を励まし、強めて下さっているという霊的働きかけの場合もあります。信仰によってそれを受けとめることができるかどうかが重要になってくるのです。


  (2)信仰が受け入れられる分量とは?

* このように、主の御力による働きかけを信仰体験した王の姿は、確信に満ちていたのでしょう。民の目から見て、そのような王の姿が、神が王の信仰を見て、その願いをかなえて下さり、決して王の思いを無視したり、退けられたり、なさらなかったと写ったのです。

* この王の信仰は、神が受け入れられたので、主の助けを信仰体験できたのです。信仰が受け入れられるとはどういうことでしょうか。

* イエス様は、百卒長の表した信仰を見てこう言われています。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」。そこで百卒長に対して、「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われたのです。(マタイ8:10,13)

* 12年間長血をわずらった女に対しても(マタイ9:22)、バルテマイという盲人に対しても(マルコ10:52)、カナンの女に対しても(マタイ15:28)、重い皮膚病にかかっていた10人の内の一人のサマリヤ人に対しても(ルカ17:19)、エリコの盲人に対しても(ルカ18:42)、この人たちの信仰が受け入れられ、その願いが聞かれたと言われています。

* それに反して、霊を追い出せなかった弟子たちに、信仰が足らないと言われ(マタイ17:20)、波をこわがっていた弟子たちに対して、どうして信仰がないのかと言われ(マルコ4:40)、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしないとユダヤ人たちに言われ(ヨハネ6:36)、これらの人たちの信仰は受け入れられず、その願いは聞かれることはなかったのです。

* それ故、信仰が受け入れられるとは、神が願いを聞こうと考えておられる分量が十分であった時には受け入れられ、分量が足らない時には受け入れられないということだと分かります。

* それでは、この王の信仰が受け入れられたその信仰の分量とはどれぐらいだったのでしょうか。2節から6節までの幾つかの言葉からそれを見てみましょう。

* 2節では、王が心の中に願っていたその思いは、人間的欲求から出たものではなく、自分の思いを中心としたものではなかったから、主はその願いに応えられ、その求めを退けられなかったのでしょう。

* イエス様は、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい」と言われました。(ヨハネ15:7)これを見ると、キリストにつながり、キリストの言葉が内側にあるならば、肉欲は働かず、神の御旨にかなった思いが起こされ、それに対して神は応えて下さると言われていると分かります。

* 3節では、豊かな祝福を与え、王として神が承認され、純金の王冠をかぶらせて下さるという表現で,王として与えられた役割に、主にあって忠実に向かっていこうとしている姿勢が、信仰の分量が十分であるとして、神がよしとされたことが伺えます。

* 4節では長命を求めると、主はそれに応えて、少し表現が誇張されていますが、永遠に生き続けることができるようにされたと言っています。これは、実際の長命か、それとも王として果たし得るだけの十分な年数を指しているのか定かではありません。

* ここには、王が、単に自己願望から長命を求めたのではなく、王として与えられた責務を果たすために必要な長命を求めたので、神はそれに応えられたのでしょう。

* 5節では、主に忠実な王としての輝きと威光とが与えられたと言っています。神が人間に求められるのは、与えられた使命に忠実に向かう姿です。どれだけできるか、または持っている能力や実績などで見られるのではなく、いかに忠実に向かう姿勢を表そうとしているかという面を見ておられます。なぜなら、力を与え、祝福を注いで下さるのは神様なのですから、忠実に向かう姿勢を現す者の上に臨んで下さるのです。

* 6節では、主は王を、祝福を受ける者にするだけではなく、御前に歩み、御顔を仰ぎ見て歩もうとするその歩みが、どんなに喜びに溢れ、楽しみに満ちているものであるか、分かる者にして下さると言うのです。

* 主に従う歩みが、ただつらいだけ、苦しいだけと考えている人は、神の祝福を受け損なっています。確かにつらく、苦しい一面もあることは確かですが、それ以上に喜びと楽しみと希望に満ちている歩みなのです。王は信仰によってそのことを受けとめていたのです。

* このような信仰に立っていた王の信仰の分量は、十分だと見られ、神からの大きな愛と御力に守られ、その与えられた使命と責務とを喜んで果たそうとしていた姿が伺われるのです。


  (3)揺らぐことがない信仰の秘訣

* これらの、王の信仰姿勢を判定していた民の目には、信仰者としての確信に満ちた歩みをしていた王の姿が見て取れたのです。それを7節で、王はまことに主に強い信頼を寄せ、いと高きお方のいつくしみを信じ切っていて、その信仰は揺らぐことはないと判定したのです。

* 揺らぐことのない信仰とは、どのような姿を指して言っているのでしょうか。人はすぐ揺らぎます。もう動くことはないと思っていたら、またぐらぐらと揺れるのです。それは、あたかもすり減ったネジのように、締めて動かなくなったと思っても、しばらくしたら、またぐらぐらするようなものです。

* なぜ人は揺らぐのか、それは、揺らぎやすい人間の思いや感覚を土台としているからです。決して揺らぐことのない神の御思いを土台にするならば、揺らぐことはないのです。

* パウロは、ヒメナオやピレトの信仰を取り上げ、彼らは、偽の教えのとりこになり、真理から外れてしまったばかりか、他の人にも、復活はすでに済んでしまったと言って惑わし、多くの信仰者の思いを覆そうとしていたのです。それは、彼ら自身の信仰そのものが、いつも揺れに揺れていたのです。しかし神の揺るがない土台はすでにすえられていると断言されています。(Uテモテ2:17〜19)

* どうして、最初は真理だと信じて従っていた者が、途中から揺らぐのか、それは、自分の思いを土台にしたまま、自分の思いに納得できるものを選ぼうとするから、せっかく真理にたどり着いたとしても、自分の思いに沿わない感じが出てくると、揺らぎ始めるのです。

* ヒメナオとピレトとは、自分の思いを土台にしていたから、偽の教えの方へと走っていき、真理から落ちてしまったのです。確かに、神の御思いを土台にして向かっているなら、自分の思いに沿わないことが起きてくるものです。どうしてもっと、このようにしてくれないのかとの神への不満の思いが出てきたり、疑ったりするようになることが出てくるのです。

* それでも、神の御心だけが真実で、間違いがないと信じるのが信仰なのです。なぜ神は、私たちの思いを満足させて下さらないことがあるのでしょうか。それは、私たちの思いには欲と汚れが入り込んでおり、神の真実からはかけ離れているからです。

* この王の信仰は、どうして、何があっても揺らぐことはなかったのでしょうか。ここには2つの表現が記されています。第1は、主に強い信頼を寄せていたと言います。すなわち、神のお心を信用して、自分を信用しなかったと言うことです。神はうそをつかれない、裏切られない、それは、神のお心は汚れなく、義であり、真実だからです。

* 第2は、いと高き方のいつくしみをこうむってと訳されています。これは、いつくしみの中に置かれているという表現です。

* 神を、ここではいと高き方と呼んでいます。これは、モーセの義父エテロの言葉として次のように言われています。「主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」(出エジ18:11 旧100)すべての神々とは比べ物にならない高くて、唯一の力ある神だと言うのです。

* このお方のいつくしみの中に置いて頂いているとの確信があったので、目に見える現状に心が動かず、恐れたり、先行き不安を覚えたりせず、神の御手から落ちることはないと、どっしりと構えていたので、その信仰は揺らぐことがなかったのです。


  (結び)指導者の信仰が神の御手として用いられる

* ここで歌われている王は、揺らぐことのない信仰に立ち、与えられた政治的、宗教的指導者としての使命を果たすことに心を傾け、詩篇139篇の詩人が立っていた、あの信仰に立ち続けていたのです。(139:5)

* その信仰とは、「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」との、神に取り囲まれ、その歩みすべての上に御手を置いて下さっているという“神のふところ信仰”あるいは“カンガルー信仰”というものです。

* ここまでの、神による養いを感じ取ることができないと、神の愛の深みを感じ取っているとは言えません。獅子の子落としということわざがありますが、子供に苦難の道を歩ませることで、一人前に育てるというたとえですが、神は、私たちをサタンの世に放り込んで、自ら這い上がってくるのを待たれるお方ではありません。

* サタンが押し迫る厳しい世にあって、揺らぐことのない信仰を持って歩むことができるまで、カンガルーの母親が子供を育児嚢に入れて外敵から守り、養い育てるように、神は、私たちをこの地上に送られてはいますが、この地上にあって、神によって取り囲まれ,その歩みすべての上に御手を置いて下さっているのです。

* 神は、民のために指導者を与え、指導者の信仰が、神の御手となり、民の信仰を養い育て、その歩みを導いて下さっているのです。その意味で、この時代において立てられた政治的、宗教的指導者であった王の信仰は、民の信仰、安全、養いを左右する大事な鍵でありました。

* ここに描かれている王は、神から与えられた使命を忠実に果たした、信仰にぶれがない良き指導者であったので、民は、神からの祝福にあずかったのです。

* 今日においては、王のような立場は残されず、政治的な意味がなくなりましたが、宗教的指導者として、各々群に牧者が与えられています。その牧者の信仰がぶれず、福音にしっかりと立ち、真理の福音を信じる喜びに溢れ、その与えられた使命を果たしているなら、その群は大きな祝福に満たされるでしょう。

* しかし、指導者であるはずの牧者が、福音信仰からはずれていたり、信仰の喜びを体験していなかったり、神の御思いを伝えることにいのちを賭けていなかったりして、なお自分の思いを大事にしていたとしたらどうでしょう。その指導者の下に置かれている群は育たず、福音が明らかにされないまま、肉の思いが闊歩するだけの群に落ちてしまい、惨めな群になってしまうことでしょう。

* この意味で、指導者として立てられた牧者の信仰が問われると言えるでしょう。真理の福音に立っているか。その福音に生きている者であるか。神の力を味わい、その信仰が揺らがないものになっているか。もし牧者がぐらぐらしていたら、群全体がぐらぐらします。

* ヤコブ書で、こう言われています。「あなたがたのうちの多くの者は、教師(牧者)にならないがよい。わたしたち教師が他の人たち(信仰者たち)よりも、もっと厳しい裁きを受ける」と。(ヤコブ3:1)与えられている信仰的指導者としての務めを忠実に果たさないならば、真っ先に、また、もっとも厳しい裁きが待っていると言われているのです。

* もちろん、民も王の信仰を見張る者であったのと同様に、群の一人一人も、牧者の信仰を見張り、群として、信仰によって前進するように向かい、心を傾けていく務めが与えられていると言えるでしょう。



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