聖日礼拝メッセージ
2012年7月29日 更新

聖 書 詩篇21:8〜13   (第2講)
 題 「主をたたえることの素晴らしさを知った信仰者」


(序)王の信仰が、民にどのような影響を与えるか

* 前回の所では、主を信頼し、主のいつくしみの中に置いて頂いているとの確信に満ちていた王の信仰であったというだけではなく、少々の苦難の状況の中にあったとしても、その信仰に揺るぎがなかったという点が、神によって受け入れられたものとなったことが歌われ、この王の下にいる民が、その祝福にあずかっていることを喜んでいる様子が見られました。

* このような理想的な信仰深い王が、実際にいたかどうか知るよしもありませんが、このような指導者の下に置かれている民の幸いがこの歌の背景になっていることが分かります。

* ここで理想的だと言ったのは、現実にはあり得ないという意味ではありません。自分の内側にある肉の思いを大事にしようとする愚かさに気付きさえすれば、そして時間的、場所的、能力的、知的などあらゆる面で限界を持っている存在であることを自覚したならば、そんな自分に頼ろうとすることがいかにくだらないことであるかが分かります。

* そして、すべてにおいて無限である神に信頼し、よりすがって生きていくことが当然のことであり、正解であることが分かるようになってくるのです。それが分かりさえすれば、ここで言う理想的な信仰になります。

* この王は、自分に与えられた使命の大きさに気付いていましたから、限界のある自分の力や知恵に頼ることはせず、主の力と知恵により頼む姿を現し、その信仰は揺らぐことがなかったのです。

* その結果、王のすべての願いを聞かれ、必要な長命も与えられ、神の承認としての純金の王冠をかぶせられ、栄光が注がれ、御顔を仰ぎ見る喜びに溢れていたのです。

* 主が、そこまで王を大事に思い、彼の現した信仰に応えられたのですが、それがどのようなものであったのか、後半の歌において述べられています。

* しかし、この後半の内容に、“あなた”と2人称で語られている人が誰のことか、王のことを指しているのか、それとも神のことを指しているのか、学者の間で大きく意見が分かれているところです。確かに、王として見ることもできなくはありませんが、子孫まで根絶やしにするとか、9節の「主」という言葉を、後代の加筆と考えて取り除いたりしない限り、詩全体の内容から見て、神と考えるべきでしょう。

* すなわち、前半に現されている王の信仰を受け入れられた主が、どのような働きかけを持って、王のために助けの手を伸べて下さったか、応えて下さる神と、その神をほめたたえている王の姿が歌われていると見る方が、本文に人間の手を加えようとしない正しい受けとめ方だと言えるでしょう。

* 神に信頼を置き、どこまでも寄りすがろうとする者に対して、神はどのように応えて下さるのか。しかも、その働きかけを受けとめた信仰者が、神をあがめるという構図は、今日の私たち信仰者にとって、重要な信仰のあり方を示していると言えるでしょう。


  (1)神の御力に対する絶対的な信頼

* 前半の所で現されていた王の信仰の特徴は、神の御力に対する絶対的な信頼であったことが分かります。これが、信仰が揺らぐことのない秘訣であったからです。どうして王が、このような絶対的信頼を現すに至ったのか、その過程は分かりませんが、一度持った思いを動かさなかったのは確かでしょう。

* それでは、王は、神はどんなことをして下さったと信仰によって受けとめたのか、その内容から考えてみることにしましょう。

* その第1は、敵の手、企てなどをすべて探し出して下さるというものでした。第2は、御怒りの火をもって、敵を焼き滅ぼされ、完全に根絶やしにされるというものでした。第3は、敵の企てをつぶし、実現できないようにさせ、失敗して逃げ惑うようにされるというものでした。

* しかしこのことは、具体的にどのようなことを指しているのか分かりにくい内容です。敵やその企てを探し出して下さるとはどういうことか、敵を焼き滅ぼされるとはどういうことか、神の働きかけよって敵を逃げ惑わせるとはどういうことか。

* 神の守りと助けとを信頼し、神の偉大な御力をもって働きかけて下さっていると信じていた王は、自分と民に勝利を与え、そのしるしとして純金の王冠をかぶらせて下さったと確信していたのです。もちろん、天から神の御手が現れて、神特注の純金製の王冠をかぶらせて頂いたというわけではありません。

* 神によりすがっていた王は、神の守りと助けとを感じ取り、周りにいる敵に対して、勝利を得ていると実感できる何らかの働きかけを受けとめることができたのでしょう。それがどのようなものであったか伺い知ることができませんが、サムエル記に記されている実例から、それに似た情景を見てみることにしましょう。

* 第1は、敵とその企てを探し出して教えて下さるという点から考えて見ましょう。サムエル記上20章に、サウル王のねたみにより殺されそうになったダビデの記事が記されていますが、サウルの子ヨナタンとの友情を持っていたダビデは、サウル王の企み、殺意を聞き取り、それが主の示しだと受けとめて逃亡生活に向かうことになるのです。

* 直接、神が、敵の企てを探し出して、それを教えて下さると言うのではありませんが、神があらゆる人を用いて教え示し、サタンの企みに落とされることがないように導かれるのです。(20:9)

* それが友であったり、預言者であったり、夢であったり、神は多彩な方法を持ってなされるのです。今日においては、御言葉を通して、最強の敵サタンの企みを教えて下さると言えるでしょう。

* もしサタンの企み、罠に気付くことができなかったならば、私たちはいとも簡単に罠に落とされ、サタンの思いに引き込まれるようになってしまいます。サタンは惑わす霊として悪霊を送り込んでいます。信仰者たちの中に、その惑わしを受けて、信仰から離れ去る者が出るとも言われているのです。(Tテモテ4:1)それゆえ、御言葉を通してサタンの企みを知り、注意をしなければならないのです。

* それ故、聞く側がしっかりと霊の耳をそばだてて聞くことができなければ、サタンの惑わしの声の方がリアルで、肉の思いを納得させる語り掛けをしてくるので、惑わされ、引き落とされてしまいます。

* 第2は、み怒りの火をもって敵を焼き滅ぼされるという点を見てみましょう。直接天から火を下されるということもあるかもしれませんが、それはまれなことです。この表現が示そうとしていることを考えますと、信仰者を守るために、信仰者とその群を引き落とそうとする敵に対して、神は敵の力をもぎ取り、戦意を奪い取るようにされるという意味であるとも考えられます。

* 列王記下19章に、ヒゼキヤ王がアッスリヤの国から今にも大軍によって攻め込まれようとしていた時に、ヒゼキヤ王が主に祈り願い、助けを願った所、敵の総大将であるラブシャケの所に主の使いが遣わされ、18万5千人の兵士が殺されたり、王が国許の諸問題のために国に帰ったりして、戦う意欲を奪ったりした様子が描かれています。(イザヤ37:33〜38)これらは、万軍の主のなされることだと言われています。これに似たような主の働きかけがあったのだと考えられます。

* 第3の敵の企てをつぶし、実現できないようにさせ、失敗して逃げ惑うようにされるという内容も、第1と第2の事柄と似たようなものでしょう。ただそれが、神の働きかけによるものだと王や民の目に見えたのでしょう。

* 信仰なくして、それらの神の助けと神の偉大さを見ることはできません。この歌から見えることは、王や民は、自分たちが今こうして守られ、勝利を得ているのは、神の偉大な御力によるものだと確信していた彼らの様子です。いくら神が働きかけて下さっても、それを見ることができないなら、すべては虚しい働きかけになってしまうのです。

* 王と民は、主の驚くべき働きかけによって、敵に対する勝利を実感したのです。これは、パウロが悪しき勢力に対して、勝利を実感した、あの勝利の叫びと同じ旋律がそこに流れていると感じるのです。彼は次のように叫びました。「神が私たちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)

* しかも、21篇後半の歌の底に流れている一つの信仰理解があります。それは、信仰者に襲い掛かろうとする敵の攻撃は、神がご自分に対する攻撃、反逆とみなして、偉大な力をもって立ち向かって下さるという“主の戦い思想”があります。

* 王も民も、その信仰思想に立っていたので、敵の愚かな企てに激しい怒りを現して下さり、彼らだけではなく、子々孫々に至るまで根絶やしにされ、彼らの企みは何一つ実現しないと告白しているのです。

* 主の戦い思想は、人間の思いによって誤った使い方がなされる危険性のある思想ですが、正しく受けとめるなら、私の敵は神の敵、神の勝利は私の勝利という、欠かすことのできない重要な信仰思想であります。


  (2)奥深い主の偉大さに触れていくことを求める

* 神の偉大な御力を味わった王と民は、信仰によって、叫ぶようにして賛美しています。それが13節です。この内容を2つに分けて見てみることにしましょう。

* 第1は、私たちはあなたの偉大な御力を味わわせて頂きました。しかし、あなたの偉大さはそんなものではありません。もっともっと偉大で力強く、他の追従を赦さない驚くべき威厳に満ちたものですから、それを顕して下さいと訴えているのです。

* これは何を意味しているのでしょうか。神の偉大さ、そのすごさに気づいたと言っても、人間は、神が持っておられるその偉大さのわずか一部を見、体験したに過ぎないのです。その全貌を見ることも体験することもできません。

* それ故、神の偉大さ、すごさの全貌を見ることのできる霊の目を人間に与えて下さった上で、ご自身の偉大さを顕して下さるように願っているこの叫びは、あなたの偉大さをもっと見ることのできる目を持たせて下さいという飢え渇きの告白でありました。

* なぜ、まだ氷山の一角しか見えていない神の偉大さの全貌を見させて下さいと願っているのでしょうか。神の偉大さに触れる量が増えることによって霊が大きく成長し、高められていくようになると信じていたからです。

* パウロは、そのことをエペソ書で次のように語っています。「どうか父が、その栄光の富にしたがい(その富の大きさに触れる量に沿って)、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と。(エペソ3:16)

* それは、人間というのは、一部を見ただけで、それで全部を見たかのように思ってしまうような、本当の意味でそのすごさ、深さ、大きさを知ることができない狭い視野しか持っていないのです。それ故、これは、そのような狭い視野しか持っていないということに気付いた詩人の叫び求める声であったと言えるでしょう。

* それは、あたかも宇宙の広がりの一部を見ただけで、宇宙全体を見たかのように思ってしまうようなもので、ともすれば、人間の感覚で神を小さく見ようとする所があるのです。この愚かさに気付くことが信仰の目を持つことだと言えるでしょう。

* この詩人は、神の偉大さ、そのすごさを見、体験した王と民の思いを歌いつつ、あなたの偉大さ、すごさはこんなものではありません。「主よ(もっと)力を現して、みずからを高くして下さい」。それを見る目を持たせて下さいと歌ったのです。

* ここに、この詩人の信仰がよく表れていると言えます。自分たちが見えていない者であることを自覚していたのです。そして、もっと見えるようにして下さる神の働きかけを求めたのです。

* イエス様がこの地上に来て下さった頃のユダヤ人たちは、自分たちが見えていない者であることを悟ろうとはしなかったのです。そして、見えていないのに、見えていると言い張るところに彼らの罪があると指摘されています。(ヨハネ9:41)

* この詩人と同じように、私たちも、もっと主の偉大さと、そのすごさを見させて下さいと真剣に願い、主の偉大さと、そのすごさにより多く触れることによって、内なる人が強くされ、霊が高く引き上げられることを求めていきたいのです。


(3)喜び躍る信仰者の姿を見たいと願っておられる神

* 第2は、主の大能(力あるみわざ)をうたい、ほめたたえようとの主への賛美が歌われています。このように、主を賛美できるのは、主が現して下さる力あるみわざがどれほどすごいものか味わったからだと言えるでしょう。

* なぜ詩人は、最後に主を賛美して結ぼうとしたのでしょうか。神様のことを思い、神様がどれほど偉大で、人間の思考領域に納まり切らない計測不能なほど大きく、高く、深いお方であり、そのお方が私に目を留め、愛し、導き、養おうとして働き続けて下さっていることを思い、感謝な思いが溢れてくるならば、主をたたえずにはおれなくなるからです。

* それを逆から見れば、形や口だけではなく、心から主をたたえているとするなら、この人の内側に、神への感謝の思いが溢れており、神がどのようなお方であり、何をして下さっているかを深く思う人であったと言えます。

* もしその人の思いの中に、主への賛美の心が溢れていないならば、神のことを思わない人、主への感謝の思いがない人だと言えます。この意味で、神の大能のみわざを深く思う、霊が鋭くされていた人であったと分かります。

* パウロは、エペソ書において、私たちが選ばれ、神の子としての身分を受けるように定められたのは、キリストによって与えられた栄光ある恵みをほめたたえさせるためであると言っています。(1:4,5)

* しかも、その後キリストにあって定められ、神の民として選ばれたのは、神の栄光をほめたたえる者とならせるためだと重ねて言っています。(1:11,12)それが信仰者にとっていかに重要な生きる目的として与えられたものであるかを示そうとしたことが分かります。

* なぜ主と主の恵みをほめたたえることが、そんなに重要なのでしょうか。もちろん聖歌隊を作ることが目的で、その隊員を集めるために救っておられるわけではありません。

* 神が私たちを選び、救いの恵みにあずかるように定められたのは、神が、自分にして下さったことがどんなにすごい恵みであるか、それを味わい、喜びと感謝の思いに満たされて、神に対して感謝の声を上げ、ほめたたえずにはおれない者にされることが目的であったのです。

* 神は、ほめられることによって、ご自身の自尊心がくすぐられてうれしいから、ほめたたえるようにされたのではありません。神をほめたたえずにはおれないほど、その恵みの素晴らしさを味わい、喜び躍る信仰者の姿を見たいと願っておられるから、神をほめたたえるように導かれているのです。

* この詩人は、王と民を代表して、神の大能なるみわざのすごさを味わい、心底喜び躍る者として主をほめたたえているのです。ここまで主をほめたたえることができるということは、その信仰がいかにぶれないものであったかがよく示されています。

* たまにしか喜べない人か、それとも、選ばれ、救われ、生かされていることそのものを心の底から喜び、感謝に満ちて主をほめたたえている人であるか、その差は天と地ほど違います。


(まとめ)神の耳に届く賛美

* この詩人は、前半において、王が主に対して絶対的信頼を現し、その信仰が全く揺るがないものであったことを神が認められ、驚くべき御力をもって守り助けられたという、信じる者に対して、必ず応えて下さる神の姿が歌われていました。

* そして、後半の今日の箇所においては、応えて下さる神による働きかけがどのようなものであったか歌われ、信じる者と神との間に、切っても切れない深い結びつきがあることが描き出されていました。

* 確かに神を信じていれば、神は必ず見える形で助けて下さり、救い出して下さるというわけではありません。もしそのことを約束してほしいと言うならば、それはご利益宗教と何ら変わらなくなります。

* けれども、見える形の助けがあるなしにかかわらず、信じる者に対する神の熱い心、深い結びつき、大事に思い、責任を持って導こうとして下さるその愛の深さは必ず示され、神の御手の中にあって、喜びと感謝に満ち溢れる者にして下さることは間違いありません。

* 神の偉大さを思えば、その大能のみわざをもって御力を現して下さらないはずはなく、その御手の中に置かれている幸いを日々味わうことができ、喜びと感謝に満ちて、主をほめたたえずにはおれなくなるのです。そうなるように神が導いて下さっているからです。

* 神は、日々喜び躍る信仰者の姿を見たいと思っておられるのです。いつも心の底から主をほめたたえ、人に聴かせる声でなくてもいいのです。神の耳に届く賛美する姿を見たいと思っておられるのです。神はそのために働きかけを惜しまれることは決してありません。



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