聖日礼拝メッセージ
2012年8月5日 更新

聖 書 ヨハネ1:19〜23  (第8講)
   題 「黒子として徹した証人としての任務」


  (序)バプテスマのヨハネの登場

* 著者ヨハネは、これまで福音の導入部分として、神と同質であられる光なるロゴスが、神の許におられたが、人類救済事業のために、神性を持ったまま、人間の体を取り、人性を併せ持ったお方として地上に来て下さったという、福音の土台となる部分の概要を序文として示してきました。

* その中で、光なるお方の前に遣わされる光の証人として、バプテスマのヨハネについても取り上げ、人類救済事業の偉大な幕開けとなる準備を整える重要人物として記していたのです。

* この当時において、400年近く、神から遣わされた者による神の声が途絶えてしまっており、神から見放されたのではないかとの不安が襲っていた中にあって、そこに神から遣わされた預言者らしき風貌を持って荒野において神の言葉を語り、悔い改めを迫り、バプテスマを授け始めるという注目すべき出来事を見聞きした人々は、ユダヤ全土から我先にとバプテスマを受けようと人が集まり、一大センセーションが起きていたのです。

* ユダヤ教当局においても、このような社会現象ともなったヨハネによるバプテスマ運動を放置したままにしておくわけには行かず、当局はエルサレムから祭司やレビ人たちを遣わし、ヨハネのしていることが、神から遣わされた者が行っている、神によるものか、それとも唯一神に反するものか調査することにしたのです。

* この当時の、ユダヤ教当局の信仰姿勢はどのようなものであったのか、また、彼らの調査に対して答えているバプテスマのヨハネが示そうとした意図は何だったのか、これらのことを正しく理解することが、この記事を通して示される神の御声を聞き取るためには重要になってきます。

* 著者ヨハネが、神の驚くべき救済事業を始められる土壌となっているユダヤ人の信仰状態と、彼らが神からの働きかけを受ける前に準備されなければならないことを明らかにしようとして、この記事を記していると考えられます。


  (1)バプテスマのヨハネが訴えかけているもの

* 社会現象となったヨハネによるバプテスマ運動、それは、バプテスマのヨハネが求めていたものとはかなりずれていましたが、人々に悔い改めを迫り、神の下に立ち帰り、神が遣わして下さるキリストを待ち望む信仰に立つように語り続けた結果、多くの人々が自ら求めてバプテスマを受けたのです。

* 当時において、確かにバプテスマは行われていました。しかし、その意味する所は、異邦人がユダヤ教に改宗するしるしとしてなされていたものです。それ故、ユダヤ人がバプテスマを受けるというのは、ある特殊な宗派がきよめのための毎日の儀式としてなされたもの以外はありませんでした。

* バプテスマのヨハネが提唱したのは、生涯に一度限りのバプテスマで、しかも異邦人に対するものではなく、すべてのユダヤ人が受け入れるべきものであって、悔い改めが求められるしるしとしてでありました。

* これまでユダヤ教の指導者たち、サンヘドリン(70人議会)から教えられていた内容と異なる意味のバプテスマでありましたが、バプテスマのヨハネの言葉を聞き、多くの人々がこぞって悔い改めのバプテスマを受けにやってきたのです。それは、ヨハネを、神から遣わされた預言者だと確信したからです。けれどもそれほど深刻な悔い改めが迫られているとまで受けとめていなかったようです。

* しかし、バプテスマのヨハネが求めた悔い改めはもっと厳しいものでありました。ルカ3:7では、バプテスマを受けようとしてやってきた人々に向かってこう言っています。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、逃れられると、お前たちにだれが教えたのか」と。

* ヨハネの言葉を聞いて集まり、バプテスマを受けようとしたのだから、自分たちの今の信仰的向かい方では不十分だ、悔い改めが必要だと迫られていると受け取って、素直に向かおうとしていたのです。しかし、“まむしの子ら”とそこまで呼ばれるとは思ってはいなかったのです。

* 蛇はサタンの象徴とも言えるものですから、あなたがたはサタンの子となって神の怒りを受けるしかない存在だと痛烈な非難であったと考えられます。群衆は、そこまで自分たちは悪い存在だとまで思ってはいませんでした。罪があるとは認識していたから悔い改めが必要だと聞いて、その通りだと思ってやってきたのです。

* しかし、存在そのものが、神からサタンの手に移って、サタンの子となってしまっており、神の怒りを受ける存在になってしまっていると聞いて、どこまで心が刺されたのでしょうか。ヨハネは、自分たちの父にはアブラハムがあるなど、心の中で思っても見るな、神の選民だという誇りを捨てよと言ったのです。

* これは、ユダヤ教当局に対する挑戦状とも言うべき言葉でありました。彼らの拠り所は先祖アブラハムであり、律法の民とされた誇りであり、メシヤを約束されている民という誇りでありました。

* なぜバプテスマのヨハネは、アブラハムが父であることを誇ってはならないと言うのでしょうか。ここが信仰者の勘違いする所です。神が、アブラハムとアブラハムの子孫とに祝福を与えられたのはどうしてか、その理由を忘れてはならないのです。

* 神が、アブラハムと契約を結ばれたのは、アブラハムが主を信じたことによって、主がそれを義と認めて下さったからです。(創世記15:6)このアブラハムの信仰の故に、その子孫とも契約を結ばれたのです。(創世記17:7)

* この当時のユダヤ人が、アブラハムを父として誇ったのは、血族上でありました。アブラハムの信仰につながっていたのではなかったのです。だから、自分たちの父にはアブラハムがあるなどと思うなと言ったのです。

* バプテスマのヨハネが求めたのは、思いが神から離れ、サタンの望む方向に向かってしまっている自分の姿に早く気付いて、180度向き変わる悔い改めが必要だ、神の怒りを受けるしかない自分であることを認め、自分を治めて下さる王が来ようとして下さっている。早く備えよという呼びかけに応える信仰であったのです。


  (2)バプテスマのヨハネの生き様

* 著者ヨハネは、共観福音書に記されている、バプテスマのヨハネの活動初期には触れず、ユダヤ教当局から調査団が送り込まれてきた所から書き始めています。

* バプテスマのヨハネの重要な役割の一つが、自分が何者であり、神のどのような御心を示すために神から遣わされたかを伝えることでありました。

* その意味で、その調査団の質問に対して、何の淀みもなく、明白に答えていく姿が描かれています。それは、「あなたはどなたですか」という問いでした。ヨハネが祭司の家系であったことは知っていたことでしょう。しかし、自分たちと違った教えを伝えるヨハネが、本当に神から遣わされた預言者なのか、それとも新興宗教なのか見極める必要があったので、ユダヤ教当局は調査団を遣わしたのでしょう。

* それ故、ここでは、あなたは誰かという問いというより,あなた自身、自分をどういう存在だと考えているのですかという問いかけだと見るべきでしょう。その問いの中に、キリストではないかという人々の期待感を感じ取っていたヨハネは、はっきりと言うのです。わたしはキリストではありませんと。

* それではどなたなのですか。キリストの前に遣わされる預言者エリヤの再来ですかという問いに対しても、はっきりとそうではないと答えました。これは、非常に微妙な問題を含んでいます。それは、マラキ書において、終わりの時代に、民の心を父なる神に向けさせる重要な働きをする者として、預言者エリヤの再来となる者を遣わすと言われており、(マラキ4:5、6)イエス様は、バプテスマのヨハネが、このエリヤの再来だと明言されているからです。(マタイ10:14)

* それではなぜ、バプテスマのヨハネはこれを否定したのでしょうか。彼には、自分が預言者エリヤの再来という自覚を持つことができなかったのでしょうか。そうではなく、預言者エリヤの再来に対する民の期待が、神のお心から外れていたものであったから、あなたがたが期待しているエリヤではないと否定したのでしょう。

* 人々は、イスラエルが独立国となることを夢見ており、そのために、この国を治めて下さる王としてメシヤが来て下さると思い込み、その先駆者としてのエリヤを待ち望んでいたから、あなたがたが思う意味での預言者エリヤの再来ではないと否定したのでしょう。

* 人々は、神の約束のお言葉を、信仰で聞こうとせず、肉の思いを通して聞こうとするから、神の約束のお言葉が力とはならず、霊を強めて行ってくれる正しい期待を持つことができないのです。

* 神の約束のお言葉に沿った正しい期待を持つことは、信仰の歩みにおいて欠かすことのできない信仰姿勢です。しかし、肉の思いが強くなってくると、人は人間的、肉的期待をそこに入れ込むので、信仰が歪むのです。

* バプテスマのヨハネが否定したことは、私はあなたがたが肉の思いで期待している預言者エリヤの再来ではないと言ったのです。すなわち、彼の否定は肉的信仰の否定なのです。

* これでは、その真意を悟ることができない調査団の求める答えにはならないので、彼らは更に、ではモーセが示したあの預言者なのですかと問うたのです。(申命記18:15 旧273)

* この預言は、各々の時代に神の言葉を正しく伝える預言者が立てられるという意味であると共に、終わりの時代において、神のお言葉を伝える真の預言者であるメシヤが立てられるという預言でもありました。

* ということは、調査団の問いは、キリストですかとの問いかけが繰り返されていることになります。何としてでもヨハネの口からその答えを引き出そうとして、いろいろな預言の言葉を取り上げて問い続けている彼らの姿が感じられます。

* バプテスマのヨハネはその問いかけに対しても、そうではないと言明しました。こうなると後は、あなた自身、自分を誰だと考えているか聞くしかなかったのです。

* 調査団の質問は、ヨハネが神によって遣わされた人かどうかを聞くことではありませんでした。神がヨハネを立てることによって何を示そうとし、何を明らかにしようとしておられるかという御心を聞くためでもなかったのです。

* ユダヤ教当局にとって害となるか、益となるか、その調査のためだけでありました。そのような肉的問いかけに対しても、ヨハネは、自分が誰であるかを知ることが、信仰者にとって救いに招かれる大きな第1歩になると分かっていたので、自分を明らかにする一つのチャンスとして示しているのです。

* バプテスマのヨハネが目的としていたことは、人々を何とかして父の御許に引き寄せ、父がこれから示そうとして下さる愛の形であるキリストを、霊的な意味で、自分の王として迎える準備をさせることであったのです。彼はそれ以外のことは一切考えなかったし、それ以外のことに興味を持たなかったのです。ここに彼の生き方がよく表れていると言えます。

* これは、バプテスマのヨハネだけが表すように導かれた生き方ではありませんでした。パウロは、信仰者というものはこうあるべきだと、ローマ14:7,8で語っています。「わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ、だから生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と。これがバプテスマのヨハネの生き様であったし、私たち信仰者の生き様として示されているのです。


  (3)荒野で呼ばわる者の声としての任務

* あなた自身、自分を誰だと考えるのですかと問われた時、バプテスマのヨハネは全く躊躇せず言いました。「荒野で呼ばわる者の声だ」と。荒野で呼ばわる者だと言わず、その声だと言ったのは、どのような意味でしょうか。

* それは、人々に注目されるべき人物としてではなく、神の御心を伝える声に過ぎないと言うのです。これは何を意味するかと言いますと、目に見えない声だということによって、人目に触れない存在、すなわち自分が前面に出ないでキリストを指し示すだけの者として自分のことを考えていることを、このイザヤ書の言葉から引用したのです。

* しかも、このイザヤ書40:1〜3の所に語られている内容は、神の民への慰めの歌として示されている預言で、神の民自身の不信仰によって他国に囚われの身となるという刑罰を受けることが預言され、その先の、服役期間が終わって、傲慢な心が砕かれ、慰めを受けることができる状態になった時に、荒野から、主の道を整えるように声が発され、あなたを治める王が来られるので、迎える準備をするようにと呼びかけられ、神の民が、救いの慰めを受けると預言されている所です。

* 荒野からの声、これが私のことだと調査団に答えたのです。なぜ声が荒野で発されなければならなかったのでしょうか。もっと、人の集まる都の広場とか、神殿の前とか、会堂などではなく、どうして荒野だったのか、これは、そこに比喩的な意味も込められていたと考えられます。

* 現在の、神の民の信仰状態は、水がなく、土地はやせていて、心が安らぐことができない荒れた土地でしかない、罪と汚れに満ちた人間の状態を指しており、荒れた心に語りかける声だと言うのです。

* すなわち、自分が荒野だと受けとめた者に、神からの慰めの声が発され、あなたが救われ、平安を得る道は、イスラエルに王が立てられることではなく、あなた自身を治めて下さる王をお迎えすることだと語っているのです。そしてこの慰めの声が私だと、イザヤ書を通して自分の役割を確認していたのです。

* この説明が、調査団の人々に通じたかと言えば、この後の記事を見れば、信仰で受けとめていないので、ヨハネが示した意図は全く受けとめられなかったのでしょう。

* もちろん、自分たちの信仰状態が荒野だと思いもしないし、服役期間が終わって傲慢な心が砕かれる経験もしていないので、神からの慰めの声を聞き取ろうとする状態になっていなかったからです。

* 調査団の人々だけではなく、民のほとんどは、私を治めて下さる王をお迎えするということがどういうことか分かっておらず、王に治めて頂かなければ、神の怒りを受ける荒野状態であるということに気付いてもいないのです。

* バプテスマのヨハネを、荒野で呼ばわる者の声として受けとめ、父の御許に引き寄せようとして下さっている神の御思いを受け取った時、私たちを治めて下さる王が、私たちの中に来て下さるのです。すなわち、神が声としてバプテスマのヨハネを立てて下さったということは、何としてでもご自身の御許に引き寄せ、喜びと平安と感謝の思いに満ち溢れる者にしたいとの御心の表れだと言えるのです。

* 神の子として頂いた私たちは、すでに神の怒りを受ける傲慢な心が砕かれたことを決して忘れず、父の御許に引き寄せて頂いている幸いを覚えて、救いの慰めを頂いた者として感謝の声を上げていきたいのです。キリストは私を治める王として来て下さったのですから。


(まとめ)黒子に徹した偉大な人物

* バプテスマのヨハネは、イエス様から最高の評価を受けた人物です。マタイ11:11で、イエス様は、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」と言われています。

* これは、バプテスマのヨハネの人格や業績を見て言われているのではなく、その偉大さは、ヨハネに与えられた特別な任務の偉大さによるものであり、その任務を果たすことに肉の思いをわずかも入れず、仕えることに徹したという点が見られて、最高の評価を受けたのです。

* すなわち、キリストを前面に打ち出し、キリストがあがめられ、人々がキリストを王として受け入れ、治められるようになることだけを考えて黒子に徹したのです。黒子とは、歌舞伎で役者の後見役として黒衣装で出てくる人のことです。自分が目立つためではなく、役者が目立つように徹するのです。

* 慰めの声として、王なるキリストをお迎えする準備をするように語り掛けることに徹したバプテスマのヨハネを見て、イエス様は人間としての最高の評価をされたのです。

* 黒子に徹したバプテスマのヨハネに最高の評価を与えられたということは、イエス様ご自身、ヨハネが示した王として、一人一人の中に入り、治め、神の子に造り変える力を持っておられるお方であることを自ら保証しておられることを示されていることになります。その力ある者に仕える黒子をたたえておられるのです。

* 私たちが、他の人にキリストを証しする時、キリストが王としてその人を治め、造り変え、真の人間にしてしまわれると本気で信じて、キリストにはその力があるということを体験済みの者としてキリストを示し、黒子に徹する時、イエス様は私たち一人一人にも最高の評価を与えて下さるでしょう。

* 確かに神を信じていれば、神は必ず見える形で助けて下さり、救い出して下さるというわけではありません。もしそのことを約束してほしいと言うならば、それはご利益宗教と何ら変わらなくなります。

* けれども、見える形の助けがあるなしにかかわらず、信じる者に対する神の熱い心、深い結びつき、大事に思い、責任を持って導こうとして下さるその愛の深さは必ず示され、神の御手の中にあって、喜びと感謝に満ち溢れる者にして下さることは間違いありません。

* 神の偉大さを思えば、その大能のみわざをもって御力を現して下さらないはずはなく、その御手の中に置かれている幸いを日々味わうことができ、喜びと感謝に満ちて、主をほめたたえずにはおれなくなるのです。そうなるように神が導いて下さっているからです。

* 神は、日々喜び躍る信仰者の姿を見たいと思っておられるのです。いつも心の底から主をほめたたえ、人に聴かせる声でなくてもいいのです。神の耳に届く賛美する姿を見たいと思っておられるのです。神はそのために働きかけを惜しまれることは決してありません。



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