(序)神からの語り掛けを聞き分ける
* 人間は、神の語り掛けをどのように判断し、それを神からの語り掛けとして認識し、受けとめるのでしょうか。直接天から聞こえてくるわけではありません。必ずしも明確に神からのものだと判断できる材料が与えられるとは限りません。
* それ故、ある人は、大事な神からの語り掛けとして聞くことができるし、ある人は、同じ語り掛けを神からのものとは認識せず、その語り掛けを聞こうとしないのです。
* どうして神様は、誰でも判断し間違うことがないように、天からの声として分かるような形で語りかけて下さらないのでしょうか。これは、信仰全般に言えることですが、神は、ご自身の語り掛けを、信仰によって聞き取るように求めておられるのです。
* 聖書が、神から人間に語り掛けられた御言葉だと言っても、人間的には証明できるものがあるわけでもないし、神の言葉だと保証される明確なしるしがあるわけでもありません。たとえば、聖書を持てば、突然神の声が耳に聞こえてくるというような特別な導きがあるわけでもありません。
* それでは、私たちは、神の語り掛けをどのように判断し、受けとめていけばいいのでしょうか。それは、信仰によって、神からの語り掛けを聞き分け、受けとめ、確信していくしかないのです。そして、それが、神が私たち信仰者に求めておられることなのです。
* メシヤが遣わされるということと、その前に先駆者である預言者が遣わされるということが約束されていましたが、そのことが、神から語り掛けられたものであるかどうかを信仰によって判断し、受け入れ、その時を待ち望むようにと、長い歴史の中で導かれてきたのです。
* しかし、いつその時が来るのか、400年もの長い、神の沈黙の中にあって、人々は神の語り掛けをどこまで本気で受けとめていたか、神の語り掛けに対する信仰が薄らいできていた時でした。
* そんな時に、荒野において神の預言者として語り、人々に悔い改めて主に立ち帰るように迫り、バプテスマを授ける人物が現れ、民衆は、これこそ沈黙しておられた神が、語り始めて下さったのだ。そのように受けとめて人々はヨルダン川にいたヨハネの下にぞくぞくと集まり、バプテスマを受けたのです。
* しかし、それを神からの語り掛けだと受けとめない人々も多くいたのです。それが、ここではパリサイ人たちだと言われている、ユダヤ教を指導する人たちであったのです。なぜ彼らは、自分たちに対する神からの語り掛けだと受けとめなかったのでしょうか。
* 一言で言えば、神の語り掛けを受けとめる信仰がなかったからでありますが、それは、神の語り掛けを現実のものとして受けとめることができないほど信仰が形骸化し、いのちのない、形だけで安心してしまっている宗教家となってしまっていたからでしょう。
* 今日でも、キリスト教という形だけで安心し、いのちのない、神の語り掛けを受けとめることのできない形骸化した信仰が幅を利かせ、信仰も、気分や気持ちを切り替えるだけの道徳宗教に引き落としてしまっていると感じさせられるのですが、神の語り掛けを受けとめる信仰が、いかに大事なことか、このバプテスマのヨハネの記事から見ていくことにしましょう。
(1)神からの語り掛けを聞く信仰がなかった人々
* 前回の所では、ヨハネによるバプテスマ運動が、ユダヤ全土を揺り動かすものとなり、ユダヤ教の指導者たちは、この運動が、ユダヤ教当局にとって益となるものか、それとも害となるものか調査する必要を感じたので、調査団をヨハネの下に遣わし、その立場を確認させようとした内容でありました。
* ここまで大々的にするからには、聖書において約束されている重要人物の内の誰であるかを主張すると考えられるから、本人の口からはっきりと言わせようとして、質問をぶつけていったのです。
* あなたは、自分がキリストだと思っておられるのですか、それとも預言者エリヤの再来、あるいはモーセが語ったあの預言者だと思っておられるのですか問いかけてきたのです。それに対してヨハネは、すべて否定し、私は荒野で呼ばわる者の声に過ぎないと言い切ったのです。
* そのヨハネの答えに対して、あなたがメシヤでも、エリヤの再来でも、あの預言者でもないなら、今まで誰もしなかったような意味でのバプテスマを、なぜ人々に施しているのですか。そんな権威を一体誰が与えられたのですかと、今度は詰問していくのです。
* 共観福音書では、バプテスマを授けるよりも前に、罪が赦されるための悔い改めが必要であることを訴え、それを形として表すバプテスマを受けるようにと訴え続けたことが記されています。(ルカ3:3)すなわち、罪赦される前段階としての、悔い改めを意味するバプテスマについて説いたのです。
* 民衆は、ヨハネのことをメシヤではないかと思うほど,神は、このバプテスマのヨハネを通してこの私たちに語り掛けて下さっている。救いの王が来られる前に、悔い改めることが必要だと言われて、悔い改めとは方向転換のことですから、神の方に向き変わっていない自分たちの信仰姿勢を指摘されていると理解し、今私たちに語られている神からの直接的語り掛けとして受けとめて歩み出そうとし、バプテスマを受けたのです。
* しかし、調査団を遣わしたユダヤ教の指導者たちは、調査団の報告を聞いても、そこに神からの語り掛けを聞く信仰を表すことができなかったのです。ヨハネを排除しなければならないと思わなかった所を見ると、神から遣わされた預言者の一人だと認めたのでしょう。
* にもかかわらず、ヨハネの語る言葉を通して、神からの語り掛けを聞こうとはしなかったのです。なぜでしょうか。神の語りかけに対して、何としてでも聞きたいという飢え渇きがなかったからです。
* 自分たちは、民衆のように無知ではないし、信仰の指導者として生きているから、私たちには、ヨハネが言うような悔い改めは必要ないと思ったのでしょう。神からの語り掛けを聞こうとしなくなってしまっていた彼らは、神の御声を、信仰で受けとめる向かい方が全くできなくなってしまっていたのです。
* ルカによる福音書では、そのことを「パリサイ人と律法学者たちとは、彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした」(ルカ7:30)と解説しています。すなわち、神の語り掛けを聞く耳がなかったと言われているのです。
* ユダヤ教の指導者たちは、小さいころから神信仰を学び、自ら生涯神に従って歩もうとするだけではなく、人々に教え示す指導者の立場に立ってきたのです。そんな彼らが、どうして神からの語り掛けを受けとめる信仰を表すことができなかったのでしょうか。ヨハネを、偽預言者だと決め付けたわけではないし、全く信仰がなかったわけでもないでしょう。
* しかし、彼らの信仰は形骸化してしまっており、骨組みは神信仰であっても、中身は空っぽとなってしまうのが信仰の恐ろしさです。いかにも信仰を持って生きているようでいても、神の語り掛けを聞く信仰がないから、骨組みはなくならないが、中身のない、いのちのない信仰になってしまうのです。それは、肉の思いが強くなってくる時に起きてくる現象だと言えます。
* 信仰においては、このことを最も注意する必要があります。今日のキリスト教会においても、信仰が形骸化してしまって、いのちのない信仰になってしまっている群は多く、キリストについて、神について語り、儀式や信条を重んじ、伝道に熱心であっても、そこにはいのちエネルギーが感じられず、聖霊が働かれていないという、骨組みは神信仰であっても、中身が全くからっぽの教会となってしまっているのです。
(2)形骸化された信仰にいのちは流れない
* ユダヤ教当局にとって重要なのは、神からの語り掛けを聞こうとするよりも、自分たちにとって益となる存在か、害となる存在かということしか興味を持たなかったのです。そのような人々から遣わされてきた調査団ですから、真理を求めることが目的ではなく、必要な事柄を確認することだけに重きを置いていたのです。
* バプテスマのヨハネは、彼らの問いに対して、「この私は人々を水の中に浸しているだけだ、それは単なる準備作業でしかない。本作業である救いのみわざをなされるお方は、あなたがたはまだ気付いてはいないが、あなたがたのただ中に立っておられる、と直接指差したわけではありませんが、私の後から来る人を見よ!と漠然と紹介したのです。
* なぜか彼らは、この答えを聞いて、それ以上問いかけることも、その内容を確かめたり、詮索したりすることもなく、調査終了として去って行ったのです。
* 神からの語り掛けを聞くことが目的ではなかったから、ヨハネが約束されていた重要人物ではなく、水のバプテスマも、ユダヤ教信仰を根底から覆そうとするものではなく、神の方向に向けさせようとするだけのものであると調査して、それでよしとしたのです。
* バプテスマのヨハネは、私の後から来られるお方に目を向けよ。このお方こそ、あなたがたが待ち望んできたお方だと示したにもかかわらず、調査団の人々も、その報告を聞いたユダヤ教当局の人たちも、バプテスマのヨハネを害なしと判断し、神から遣わされた預言者と判定したが、自分たちもその声に耳を傾け、神からの語り掛けとして聞く必要があるとは判断せず、それ以上の解明をしようとはしなかったのです。
* どうして、バプテスマのヨハネが示した、私の後からこられると語ったそのメシヤについて、もっと具体的に聞き出そうとせず、また、メシヤに会いたいと思わなかったのでしょうか。メシヤを待ち望む信仰が彼らにはなかったのでしょうか。
* あった筈です。にもかかわらず、出会いたいと思わなかったのは、信仰においては大事だと思ってはいても、現状の権利、権益を得ている状態に満足していたから、これを壊したくないと思っていたのです。
* 信仰上の大事な事柄として民衆に対しては、口ではメシヤを待ち望む信仰について教えてきたのです。にもかかわらず、自分たちは現状に満足していて、メシヤによる救いを必要としていなかったのです。
* このことは、キリストの誕生の記事においても記されています。東から来た博士たちがエルサレムにやってきた時、ヘロデ王から問われた祭司長、律法学者たちは、キリストはユダヤのベツレヘムに生まれると答えながら、彼らは誰一人としてキリストに会おうとして尋ね出した人はいなかったのです。頭では分かっていても、救いを求める心がなかったからです(マタイ2:4、5)
* 神から自分たちへの直接的な語り掛け、直接的な働きかけを求めてはおらず、信仰を精神的拠り所にするだけで満足してしまっていて、今の私に何を語りかけ、どのように働きかけて下さっているのか、ということに目を向けず、神を信じているという事実だけで満足してしまっている信仰に成り下がっていたのです。
* 神との深い結びつきが与えられているならば、そこには勢いよく流れているいのちが溢れ、神からの新しい語り掛け、働き掛けを頂いて、いのちがますます満ち溢れている信仰になるように導いておられるのです。
* しかし彼らは、神を信じ、御言葉を学び、信仰者らしく生きているという事実だけで満足し、信仰を精神的拠り所というレベルにまで引き下げてしまうことによって、神との結びつきが滞ってしまい、いのちが勢いよく流れず淀んでしまい、形だけの信仰に成り下がってしまっていたのです。
(3)メシヤ像を明示するバプテスマのヨハネ
* 形だけの信仰者に成り下がっている様子が見える調査団の人々に対しても、バプテスマのヨハネは、メシヤの方に目を向かせようと,「私の後から来られるお方に目を向けよ。そのお方は、私の下に集まっているあなたがたのただ中におられる」と、その時には、どれほどの人々が集まっていたか知る由もありませんが、その中の一人がそうだと示したのです。
* しかも27節では、そのお方と比べるなら、この私など靴の紐を解く奴隷の資格さえないと言って、人間ではない、偉大な存在であるお方がこられると、その言葉を持って示そうとしたのです。
* バプテスマのヨハネは、自分の謙遜さを表そうとして、この私などこのお方の前には奴隷の資格さえないと言ったわけではありません。バプテスマのヨハネが、神から啓示された御心として、どのようなメシヤ像を思い描いていたか、この一言に込めて語ったのです。
* これは、イザヤが神殿において、天の御座から神殿にかけて神の衣が覆いかぶさっているのを見た時に、「災いなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王(その衣だけであるが)を見たのだから」と言って、聖なる神の前に立つことができない、罪に汚れ切っている私は生きてはおれないと叫んだようなものです。(イザヤ6:5)
* あまりにも偉大な神なるお方が、何とあなたがたと同じところに立っておられる。私などは恐れ多くて、そのお方に比べれば奴隷以下だと、人間としての立場をわきまえた彼の告白であったと言えます。
* すなわち、当時の人々が待ち望んでいたメシヤ像は、人間の中から特別に選ばれた者が、メシヤとして遣わされると思っていたのでしょう。しかしバプテスマのヨハネが示そうとしたのは、人間の体を持ってはおられるが、神性を持っておられるというとんでもない偉大なお方、人間とは比べ物にならない神なるお方、それがメシヤだと示そうとしたのです。
* 私などは、このお方の足元にも及ばない、そんな驚くべき神なるメシヤが、ここに集まっているあなた方の中に立っておられるとまで示したのです。
* しかし調査団は、そのような神からの語り掛けに対して、わずかも心が動かされず、何も聞かなかったかのように、その場を去って行ってしまったのです。ここまで霊が鈍れば、神の語り掛けは地に落ちてしまいます。
(結び)神のいのちが流れている信仰になっているか
* 調査団の人々や、彼らを遣わしたユダヤ教の指導者たちの信仰はどのようなものであったのでしょうか。民衆は、教えられたまま、神がメシヤを遣わして下さると信じて、バプテスマのヨハネの登場がそうではないかと大きな期待を寄せたのです。
* メシヤを待ち望む信仰を教えてきた指導者たちは、バプテスマのヨハネの登場にどのような反応を示したかを考えると、ヨハネのことをメシヤではないかとの思いを持つこともなく、バプテスマのヨハネが、神なるお方メシヤが、ここに集まっているあなたがたのただ中に立っておられると示しても、メシヤに出会いたいとも思わないし、探そうともせず、よそ事のように、ユダヤ教会や自分たちの立場の利害しか考えず、利害にかかわらないと知ると我関せずを貫いているのです。
* 彼らの持っているのは、信仰のようでありながら、神との結びつきを第1にするものではなく、自分たちの利害を測る量りをもっとも大事にし、それでいて、口からは信仰の言葉を発している。けれども、神が今この私に語りかけ、働きかけて下さっているという意識が全くないのです。
* 彼らは、神を信じており、信仰によって生きていると思っています。まして指導者の立場でありますから、聖書知識も豊富であり、律法的対応や、儀式にも長けており、人々から尊敬されていました。
* しかし現実には、その信仰は、神とは結びついてはおらず、信じているつもり、神に従っているつもり、御言葉に沿って生きているつもりという、つもり信仰でしかなく、その信仰に神のいのちは流れてはおらず、神の力が及んではいなかったのです。
* バプテスマのヨハネは、神の方向に向いているつもりのあなたの信仰は、実は歪んでいる、だから悔い改めて、正しく神の方向に向き直りなさい。それが神なるメシヤを迎える大事な準備作業だとバプテスマを受ける必要性を説いたのです。
* この当時の人々は、バプテスマのヨハネを通して語られている神の語り掛けを聞き、その働きかけを受けとめるように導かれていたのです。民衆は、それに反応し、ヨハネの言葉に耳を傾け、バプテスマを受けたのです。
* しかし、調査団の人々、ひいてはユダヤ教の指導者たちは神からの語り掛けを聞こうとせず、その働きかけを受けとめようとせず、分かっているつもり、信仰あるつもり、神に従っているつもりでいて、全く神から遠く離れていました。神の方向に向かっていないということが分かってはいないのです。悔い改めはこのような人々に必要なのです。
* このことは、今日においても同様です。分かっているつもり、信仰あるつもり、神に従っているつもりでも、神の御思いから遠く離れ、神のいのちが流れてはおらず、神の力が働いていないキリスト教にしてしまっている教会がどれだけあるでしょうか。
* 指導者においても、聖書知識が豊かで、教会経営に優れ、人格的に秀でていても、その信仰はつもり信仰になっており、神のいのちが通っていない信仰になってしまうというようなことがあるのです。
* それは、今の私に対する神からの語り掛けを聞き、その働きかけを受け取っていこうとする信仰が欠けているならば、つもり信仰以上のものにはならないからです。
* 神は、あらゆる人を用い、状況を用いて、惜しむことなく私たちに直接語り掛け、働き掛けて下さっているのです。その信仰体験をしていくことなくして、信仰には神のいのちが流れなくなってくるのです。