聖日礼拝メッセージ
2012年8月19日 更新

聖 書 ヨハネ1:29〜34  (第10講)
   題 「メシヤのみわざのすごさを受け取る信仰」


  (序)主権を神にお渡しする

* 神からの語り掛けを聞く信仰を持たない調査団の人々、ひいてはユダヤ教の指導者たちに対しても、バプテスマのヨハネは先駆者としての働きを全力でなしているのが見えるのです。

* それは、ヨハネがメシヤを指し示す必要のある人と必要でない人を自分の思いで判定した上で、その使命を果たす人ではなかったからです。判定は神にお任せしてどんな人に対しても、悔い改めのバプテスマを授けるチャンスを与えようと向かった人でありました。

* しかし、神の語り掛けを聞く信仰を持たない人は、神の方向に正しく向かう悔い改めのチャンスが与えられていても、せっかくのそのチャンスを自らふいにし、メシヤを迎える備えができず、メシヤを自分の人生から排除してしまうようになるのです。

* バプテスマのヨハネの目から見て、彼らの質問から考えると、神の語り掛けを聞く信仰がないと分かっていたと思われますが、それでも自己判定をしないようにしていたのは、主権は神にあるという点、判定されるのは神であるという点を徹底して受けとめていたからでしょう。これが証人以上に自分を高ぶらせないバプテスマのヨハネの姿勢であったのです。

* イエス様でさえ、「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである」(ヨハネ12:47)と言われています。

* また、「あなたがたは肉によって人を裁く」者であるということを指摘しておられ(ヨハネ8:15)、人間の裁きは必ずしも正しいとは言えないと言われています。メシヤとメシヤのお言葉を受け入れない人は、終わりの日に神が判定されると言われ、(12:48)すべての人にチャンスは終わりの日まで与えられていると言われているのです。

* バプテスマのヨハネに見える証人としての姿勢は、自分や自分の思いを前面に出さず、自分が指し示すお方のみに、人々の目を向けさせようと全力を傾けていた姿が見えるのです。

* 人間はいつも判定を下しています。自分の目に映るものすべてを良いものと悪いものとに判別し、自分にとって益となると思えるものと、害となると思えるものに分け、不要なもの、害なるものは切って捨てていきます。

* しかし、信仰においては、これまでしてきた世的判別をやめ、その判別は神にお任せし、主権を神にお渡しする向かい方が証人としての向かい方だと、ヨハネは彼の生き方を通して示しているのです。

* 神からの語り掛けを聞く信仰を持っているかいないかを判定され、最終的に終わりの日に裁かれるのは神であり、その裁きだけが正しくて、それまでは、神は愛を持ってチャンスを与え続けて下さるのです。


  (1)罪汚染人間から罪を取り除くメシヤ

* 裁きの主権を神にお渡しして、与えられた証人としての使命を果たし続けたバプテスマのヨハネですが、イエスが自分の方に歩いてこられるのを見た時、彼がこれまで信仰で理解し、メシヤ紹介の最高の切り札としていた名称を、ここで人々に指し示しているのが今日の箇所です。

* イエス様が、ヨハネに方に向かって歩かれたこの時は、公生涯の初期の足取りから考えてどこに位置するのか、分かりにくいのですが、共観福音書と照らし合わせて、その足取りを考えてみることにしましょう。

* まず、バプテスマのヨハネによる荒野での宣教の開始があり、多くの人々が悔い改めのバプテスマを受け、しばらくしてイエス様もヨハネからバプテスマをお受けになったのです。(その時に、聖霊がはとのように下った)このバプテスマを受けられる前に、ヨハネはイエス様を見て、自分が指し示すべきメシヤだと感知したので、自分こそバプテスマを受ける側だと言った。

* イエス様はバプテスマを受けられた後、荒野での試みを40日間受けられる。試みが終わって後、イエス様はヨルダン川にいたヨハネにもとに再び行かれる。自分の下に来られるイエス様を見て、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だと人々に紹介した。

* すなわち、一度目はバプテスマを受けに行かれ、2度目は、イエス様の宣教開始の前に、ヨハネの下に行かれたと考えられます。そうすると、バプテスマのヨハネが過去形で、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見たと表現しているのが理解できます。

* バプテスマのヨハネは、この方こそメシヤだと人々に証しする言葉として、当時の人々が期待しているメシヤ像との違いを鮮明にしようとしました。

* すなわち、全人類を根底から狂わせ、肉の思いだけが暗躍する恐るべき世にしてしまった、その恐るべき罪を取り除くために、神の小羊となってきて下さったお方、それがメシヤだと示しました。

* 人々が期待していたメシヤ像は,たとえばエレミヤ23:5(旧1085)には「見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起こす日が来る。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う」と言われています。これはメシヤ預言のひとつでありますが、霊的な意味で王として世を治められると言われているのを、この当時の人々は、ローマの属国状態から解放してくれる政治的指導者としての王を期待していたのです。

* ヨハネが神から啓示を受けたメシヤ像は違っていました。イザヤ53:7(旧1022)に記されている「ほふり場にひかれていく小羊」、この弱々しい小羊が、霊的な意味で、私たちの王として来て下さるメシヤの姿であることを明らかにしようとしたのです。

* すなわちこの王は、力をもって政治的勝利を与えてくれる王ではなく、自分のいのちを犠牲としてささげることによって、罪からの勝利をもたらす、霊的な意味で王となって下さるお方だと言うのです。

* 罪によって狂ってしまい、肉の思いが暗躍する世にされてしまった人間は、そのままでは全く希望がなくなってしまい、神との交わりを完全に失ってしまったのですが、神は再びその交わりを取り戻すために、メシヤを遣わして下さったのです。

* このメシヤを、王として迎えるためには、まずその妨げとなっている罪が取り除かれなければ実現しませんから、人間の力で取り除くことができないこの罪を、メシヤがほふられる神の小羊として来て下さったことによって実現されると、バプテスマのヨハネは示しているのです。

* しかし、罪に完全に浸されてしまった人間から、罪を取り除くというのは、放射線に被曝してしまった町から放射線を取り除くということが、並大抵なことではできないのと同様に簡単なことではありません。

* けれども、メシヤが、ほふり場にひかれる小羊の如く、神の怒りをなだめる犠牲の小羊となって、いのちをささげて下さることによって、それが可能になり、罪が取り除かれ、王に治めて頂く者となることができると言うのです。

* バプテスマのヨハネが、キリストが十字架にかかって死なれるという考えもつかない犠牲の状態についてまで見通すことができたかどうかは定かではありませんが、罪の赦しのために犠牲の小羊となって下さるメシヤ像を思い描いていたことは確かです。

* しかし、罪が取り除かれるとはどのようなことか、もう少し考える必要があるでしょう。メシヤが、自らを犠牲の小羊としてささげられることによって、神の側においては、もはや私たち人間から、罪が取り除かれた状態になると言われているのです。

* これは、神との交わりの妨げとなっていた罪という壁が取り払われたという意味であって、人間から罪がなくなるということではありません。

* 神の立てられた小羊が、犠牲としてほふられることにより、神の怒りがなだめられ、罪の中に浸されて完全に罪そのものになってしまっている人間の罪を、神の側ですべて処理して下さり、それによって神との交わりに全く支障がなくなり、神の御前に生きる道が回復されるのです。そして王となって治めて下さるのです。

* すなわちこのような神の小羊が来て下さることによって、全く解決がないと思われていた罪汚染人間から罪が取り除かれ、真の王の支配の下にあって生きることができるという、この驚くべき時代が到来したのだとヨハネは示したのです。


  (2)罪によって鈍くなってしまった霊

* ヨハネは、最初からイエス様が約束されていたメシヤであると分かっていたわけではありませんでした。しかし一つのしるしが見えることを、御霊によって知らされていたのです。

* それは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見たら、その人こそメシヤであると教え示されていたのです。けれども、実際そのしるしを見る前に、ヨハネはこの方こそメシヤだと感じ取ったので、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに」(マタイ3:14)と言って、立場が逆であることを語ったのは、御霊のしるしを見る前のことでした。これはヨハネの霊が鋭く反応したから分かったのでしょう。

* 両親ザカリヤとエリサベツから、自らの誕生秘話や、親戚マリヤ訪問の秘話についてどこまで教えられていたか知る由もありませんが、ヨハネが胎児の時、マリヤの胎児に反応し、躍ったと言う驚くべき記事が記されているのを見る時、(ルカ1:41)母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされていた(ルカ1:15)と言うことが分かり、しるしを見なくても、聖霊によって感じ取ったのは当然のことだと言えます。

* それならば、御霊が下るしるしはヨハネのためのものではなかったのでしょうか。聖霊に満たされていたヨハネにとって、しるしは必要なかったと思われます。けれども、民衆にとっては、ヨハネの証言だけでは神の小羊としてのメシヤを信じることができないと読んで、見えるしるしを証拠として明示するようにされたのでしょう。

* けれども、見えるしるしとは言っても、御霊がはとのように下る光景を、バプテスマのヨハネだけではなく、バプテスマを受けようとしてきていた人々も、その光景を見ていたと考えられるし、共観福音書においては、その時に天からの声もあったと記されていますが、どうして人々はその光景を目の当たりに見ても、何の反応も示さなかったのでしょうか。不思議で仕方ありません。

* 聖霊が下る光景も、天からの声も、ある意味では一瞬の出来事であり、疑り深い心を持っている人々には、十分なしるしとは言えなかったのでしょう。なぜ人々は疑り深いのでしょうか、それは、その人の霊が、神の示しに簡単に反応しないほど鈍くなってしまっていたからでしょう。

* 罪によって鈍くなってしまった霊は、罪を取り除いて頂かない限り、霊の事柄を素直に受けとめることができなくなってしまっています。それ故、疑り深いのです。

* 聖霊に満たされない限り、霊は敏感にならず、神の示しに対して素直に反応しないまま、神が与えて下さっている多くのチャンスを逃してしまいます。

* 霊を鋭くすることが信仰の鍵です。そのためにメシヤが来て下さり、御霊によってバプテスマを授けて頂き、御霊に満たされる状態にする必要があるのです。


  (3)聖霊によるバプテスマの驚くべき効果

* バプテスマのヨハネは、メシヤを紹介する最もふさわしい名称として、罪を取り除く神の小羊だと言いました。それだけではなく、更に、この方は聖霊によってバプテスマを授けて下さるお方だと言いました。これは、これまで誰も使わなかった表現であって、メシヤの使命を、非常に的確に言い表しています。

* 水によるバプテスマとは、原語の意味から言って、実際に水に浸されることですからその意味はよく分かります。しかし、メシヤは水ではなく、聖霊によるバプテスマを授けて下さるお方だと言いました。

* しかし、イエス様が公生涯において授けられたのは、ヨハネと同じ水のバプテスマでありました。(実際に授けていたのは弟子たちでありました。4:1,2)決して聖霊によるバプテスマなるものは授けられませんでした。これはどういうことでしょうか。

* バプテスマのヨハネは、イエス様が公生涯において、そのことを実現なさるとは言ってはいません。イエス様が復活後、弟子たちに現れて、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)と言われ、その後、使徒行伝2章のところでは聖霊が一人一人の上に注がれた、あの聖霊降臨の状況を示していることから、これが聖霊によるバプテスマのことだと分かります。

* 神の小羊として、ご自身を犠牲の供え物として神にささげられることによって、罪が取り除かれ、聖霊降臨の霊的状況を作り出して下さったのです。

* それでは、聖霊降臨のことを、ヨハネは(復活のイエス様も)どうして聖霊によるバプテスマと言ったのでしょうか。バプテスマのヨハネが施した水のバプテスマは、聖霊によるバプテスマの先備えでもあったのですから、水のバプテスマが示している、水に浸すというその行為を予型として、聖霊の中に浸すという意義を込めて、聖霊によるバプテスマだと言われたのでしょう。

* すなわち、神の小羊としてささげられた犠牲のみわざを信じた者の上に聖霊が注がれるという霊的な光景は、聖霊がその人の内に宿るというイメージよりも、ここでは、聖霊なる神の中に漬けられて、浸される姿がイメージされ、それまでは罪の持つ肉的汚染臭にまみれていた者が聖霊に浸されて、聖霊のきよい香りがする者に変えて下さるという働きかけを示しているのでしょう。

* 本来なら人間は、罪に汚染され、肉的汚染臭が染み込み、強烈な肉の臭いから決して解放されることなどあり得ない者であったのです。そんな肉人間が、聖霊のバプテスマを受けることによって、肉的汚染臭の根が絶たれ、聖霊のきよい香りを放つ者にされるという驚くべき神のみわざだと示しているのです。

* しかしここで理解していなければならないことは、罪に汚染され、肉的汚染臭が染み込んだ人間になったと言われても、人間はその罪の恐ろしさをほとんど感じることができないということを知っていなければなりません。

* それは、罪の恐ろしさを感じる霊が、全く働かなくなり、言わば、鼻の機能が全く使えなくなっているから、鼻がもげるような臭いを自分から出していても、自分で気付かなくなってしまっています。

* このまま鼻だけを直しても、その強烈な汚染臭に耐えがたくなるだけです。汚染臭の素を断ち切り、聖霊によるきよい香りを放つ者に変えられるために聖霊によるバプテスマが重要なのです。キリストのあがないを信じる者の上に、キリストが授けて下さるのです。

* すなわち、聖霊のバプテスマを受けることによって、神用のものに造り変えられるのです。聖霊のきよさの中にじっくりと漬け込み、浸すことによって、浸された私という素材は変わらないのですが、浸されたことによって、きよい香りを放つ者へと変えられていくのです。

* 確かに、キリスト教会初期においては、見える形で聖霊降臨がありましたが、後代においては全く霊的な事柄として、信仰によって受け取っていくものとされたのです。

* バプテスマのヨハネが、メシヤがなされることとして示した聖霊によるバプテスマは、神の小羊としてのみわざと共に人類救済事業として、欠かすことのできない重要な事柄だと示し、このことを受けとめ、受け入れることなくして、罪から解放されることなく、神との正しい関係の回復はどこにもないと示されているのです。


  (まとめ)メシヤのみわざについての完璧な証言

* バプテスマのヨハネは、このお方がメシヤだと示すだけではなく、何をなして下さるお方であるかを明らかにし、その第1は、世の罪を取り除く神の小羊であると示し、第2は、御霊によってバプテスマを授ける方であると、ふたつの表現で完璧に示したのです。

* ヨハネが思い描いていたメシヤ像、それは、これまでに誰もそこまで明確に、完璧に示すことができませんでした。神は預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、メシヤ来臨と、メシヤのみわざを示してこられました。

* この終わりの時代になって、メシヤが遣わされる前に、先駆者ヨハネが、これまでの預言と啓示とを通して、メシヤ像の重大な2つの点について示すように導かれたのです。ヨハネにとって、これほどのすごい証人冥利を思って心が躍ったでしょう。

* こんな驚くべきみわざをなして下さるお方を見よ。このお方だけがあなたを罪から解放し、聖霊に浸して、きよくしてしまわれる。そのことが信じられるか。

* そして、あなたを神用のものにしてしまわれ、有意義なものに変えてしまわれる。このお方があなたの王となって支配して下さる時、あなたは喜び躍らずにはおれなくなると言おうとしたのです。

* メシヤのなして下さるこの2つのみわざを受け取らなかったならば、それは神を退けることになり、神との正しい関係を否定することになるのです。どちらか一つ欠けてもそれは実現しません。

* あなたを支配するために王となって来て下さった。このお方を見よ!バプテスマのヨハネは、こう証言できることを心の底から誇りに思っていたのです。



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