聖日礼拝メッセージ
2012年8月26日 更新

聖 書 ヨハネ1:35〜42  (第11講)
   題 「神の導きに従って一歩踏み出した2人の弟子」


  (序)バプテスマのヨハネの真意を受けとめた弟子たち

* 聖書に記されている内容は、実際の出来事のごくわずかでしかありませんから、バプテスマのヨハネの弟子となった人がどれほどいたのか、その弟子たちに対して、バプテスマのヨハネはどのような内容を教え、訓練していたのか、その詳細は全く分かりません。

* しかし、聖書の中に記されているいくつかの内容から見て、バプテスマのヨハネの宣教を通して、多くの人たちが弟子となって従い、バプテスマのヨハネの死後、後代までもヨハネの弟子として、教えられた御言葉を他の人々に解き明かしていた人たちがいたと考えられます。

* その一例として、使徒行伝19章におけるパウロのエペソ伝道の折、それはAD53年頃だと思われますが(ヨハネの死後約26,7年経った頃)、パウロは、12人ほどの弟子集団に出会ったという記事が記されています。

* 彼らは、ヨハネの名による悔い改めのバプテスマを受けた弟子集団であったと言うのです。ここから、バプテスマのヨハネの意志とは別のところで、水のバプテスマとそれに伴う御言葉の解き明かしが長く受け継がれていたということが分かります。

* バプテスマのヨハネが、あれほど、自分は先駆者であって、私の後から来られるお方を準備する者でしかないと自分の立場を明言し、メシヤを直接指し示す働きを続けていたのに、多くの人たちは、どうしてヨハネの下にとどまり、ヨハネの弟子として歩み続けたのでしょうか。そのあたりの詳細はよく分かりません。

* 考えられることは、いくらヨハネがそのように語り続けても、ヨハネがかもし出している預言者としての風格、威厳、神から遣わされた者としての権威、その語る言葉の鋭さ、それだけではなく、謙虚であり、世的権威に対しても、こびへつらわない毅然として姿など、言わば、ヨハネに対する尊敬、信頼、その語る言葉の持つ力などの方に目が向けられ、メシヤを指し示しているヨハネの真意を受けとめられなかった人たちが多くいたのでしょう。

* しかし、みんながそうだったのではないことを、今日の記事は示しています。前日、イエス様を指差して、このお方こそ世の罪を取り除く神の小羊であり、御霊によってバプテスマを授けて下さるお方であることを明言したヨハネでありました。

* 場所は記されてはいませんが、前日と同じヨルダン川沿いで宣教していた時だと思われますが、そこへ再びイエスが通っていかれる様子がここに記されていると考えられます。単なるそこが通り道であったとは思われません。こういうところを見ると、御霊に導かれるまま行動しておられるイエス様のお姿を感じるのです。

* 前日、バプテスマのヨハネによって、このお方がメシヤなるお方だと紹介されたにもかかわらず、誰一人としてイエス様の所に行って直接尋ねる者も、教えを乞う者もいなかったのです。先駆者としての、バプテスマのヨハネの働きかけが全く無駄に終わってしまうかに見えたのです。

* しかし、御霊に導かれて歩いておられるイエス様を再び見たヨハネは、一歩踏み出し切れなかった者がいると受けとめ、2人の弟子が自分の傍にいた時、昨日も教えたように、この方は神の小羊だと再度教えたのです。このことは一体何を示しているのか、その導きは私たちに何を教えているのかを共に考えて見たいと思います。


  (1)信仰的向かい方をするとは

* 前日のメシヤ証言は、ヨハネが誰に対して示したものであったのか、その対象について全く触れられてはいませんから、バプテスマを受けに集まっていた民衆全体に対して語られたものと見るべきでしょう。その時、メシヤを指し示したヨハネの意図を受けとめる者が、民衆の中からなぜか一人も起こらなかったのです。

* ヨハネが、この日イエス様が歩いておられるのを見た時、傍に2人の弟子が一緒に立っている時であったのです。神が再びチャンスをお与えになったと受けとめたヨハネは、2人の弟子に向かって、「このお方が神の小羊だ」と言った。

* 師のそのような語り掛けに、昨日は自分に対するものだと感じ取ることができなかったその言葉が、今日は、自分たちに示されている神の語り掛けであると受けとめることができ、2人の弟子は心が動いたのです。

* 神の語り掛けというのは、人間の側がいつもすぐに正しく反応できる状態であるとは限りません。その人の状態によって語り掛けに心が揺り動かされるか、揺り動かされないかの違いだとも言えるでしょう。もちろんそれは、霊が敏感になっているか鈍いかの違いであります。

* 2人の弟子は、霊を鋭くしようと意識して、ヨハネの証しを聞いたわけではないでしょう。昨日聞いた時には、自分に対する直接的な神からの呼びかけだと受けとめられなかったのに、その同じ証しを聞いて、なぜか今日は心が動いたのです。

* 多くある神の導きや語り掛けの中に、今、この私に対して語り掛けられていることだと受けとめる瞬間というのは、いつでもあるというのではありません。神の導きを大事にする思い、真剣に飢え渇く思いなくして、霊的な反応を示すことはないのです。

* 今神は、今の私に対して、このような導きを与えておられる。その導きが分かった時、素直に応えていきたいとの信仰に立ってさえいれば、一度聞いたら、即座に応答できる状態であるとは限りません、2度目、3度目であってもいいのです。主が最もよいとお考えになる時、ふさわしい導きを与えて下さるのです。

* バプテスマのヨハネは、自分の下で育て、準備させてきた弟子を、この時が導きの時だと受けとめて、2人の弟子を押し出すかのようにして、彼らの信仰に訴え、メシヤを指し示し、神の導きを受けとめさせようとしたのです。

* 2人の弟子は、師の一言で、前日受けとめられなかった自分への神の導きを受けとめ、その神の導きに従って行きたいとの思いが起こされて、イエス様の後をついて行ったのです。

* 神の導きに従って1歩を踏み出すということは、信仰の歩みにおいて、非常に重要なことです。ともすれば、頭の中だけで考え、あーでもない、こーでもないと思うだけで、なかなか一歩を踏み出すことができないものです。

* けれども、神が今の私に必要な導きを与えて下さるお方であり、この私がその神の導きを受けとめて、その導きを信じて従っていこうと、大きく一歩を踏み出させて下さる思いを、神が起こして下さるとの信仰に立っていない限り、神よ、導いて下さいと願っていても、神の導きを受け取ることはできないのです。

* 2人の弟子は、神の導きに対して、大きく一歩を踏み出しました。バプテスマのヨハネの弟子となり、師を尊敬するだけではなく、師が信頼している神を信頼していたから、師の言葉を通して神の導きを受けとめ、神の導きに従ったのです。その意味でこの2人の弟子たちは、神が起こされた思いに沿って歩み出した、信仰的向かい方をした人たちだった言うことができます。


  (2)一泊研修会によって大きく変わった弟子たち

* 師ヨハネの導きを受けて、2人の弟子はイエス様の後をついて行ったのです。ついてきた2人の方に振り返ったイエス様は、「あなたがたは私に何を求めてついてくるのか」と言われました。もちろん彼らの思いが分かっておられなかったのではありません。漫然とついてくるのではなく、何を私から求めようとしてついてきているのか、彼らの口から言わせようとなさったのです。

* 彼らは、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と、答えらしくない問いかけで返したのです。師ヨハネの言葉に込められている神の福音を全部受けとめたわけではなかったのですが、師の勧めに心が動き、そこに何か更によい導きがあるのではないかと踏み出しただけですから、質問されるとは思ってもおらず、明瞭な考えを持っていなかったのです。

* けれども、師ヨハネの言葉から抱いた漠然とした期待、奥深い神の導き、このお方から感じられる霊的高貴さ、このお方に接していれば、その答えが分かるのではないか。そんな思いがよぎったのでしょう。あなたの傍にしばらくおらせて下さいとの思いで、ラビ、どこに泊まっておられるのですかと言ったのでしょう。

* 言わば、答えはあなたが示して下さるとの委任状を差し出したのです。彼らの素直な答えに、イエス様は、「その答えが分かるように、私についてきなさい。泊まるところも分かるだろう」と答えられたのです。

* しかし2人の弟子は、イエス様からどのような話を聞き、自分たちの持っていた疑問が、霧が晴れるように晴れたのか、その内容について一切触れられてはおらず、判断しようがありません。ただじっくりと話を聞いた2人の内の一人の証言だけが記されているのです。

* 師ヨハネから、あの方がメシヤだと見間違うことのない示しを受けてついて行ったのですから、神が、神の民のためにメシヤを遣わして下さると約束されていたことを、彼らが知らないはずがありません。最初は師ヨハネがメシヤかも知れないと思っていた時もありましたが、ヨハネ自身の口から、「私ではない、私の後からメシヤが来られる」とはっきりと聞いて、そのお方に期待するように導かれたのです。

* と言うことは、彼らの思いの中では、メシヤに対する明確な期待をしていたと言うよりも、そのような神の約束があるという教えを身近なこととしてではなく、漠然とした期待を持っていた程度であったと考えられます。それ故、何を求めているのかとイエス様から問われても、私にとってメシヤが誰か知りたいのですと答えることができなかったのです。

* けれども、午後4時頃から泊りがけで研修会が行われ、キリストから話をじっくりと聞いて、確かにこのお方が、私を救い、神との正しい関係を回復するために来て下さった、私にとってのメシヤだと霊に感じたのです。それまでは、ぼんやりとした輪郭だけだったイメージが、明確になり、この方が私を救い出し、神との正しい関係を回復させて下さる神なるメシヤだと実感したのです。

* ここでの一泊研修会の内容が分かれば、私たちもぜひ聞いてみたいと思うのですが、資料がなかったのか、聞き取り調査ができなかったのか、聖霊がそこまで明らかにされなかったのか、その内容は隠されました。

* ただその研修会が、2人の弟子たちの内の一人だけか、それとも、2人共であったかは分かりませんが、その内の一人アンデレは間違いなく、霊の目が開かれ、私のために神が遣わして下さったメシヤがこのお方であり、私の罪を赦し、その罪から解放し、神の御許に引き寄せて下さったという驚くべき霊的体験をしたのです。

* それまではぼんやりとしていた期待程度のものでしかなかったものが、人間に真の希望をもたらすメシヤが、今ここにいて下さるとは、何という神の愛とあわれみに満ちた事実だろうか。それはあたかも、イエス様から一度、目に手を当ててもらった盲人の目が、ぼんやりと見えるようになりましたが、再び手を当てられたら、すべてのものがはっきりと、見えるようになったというあの奇蹟のようだと言えるでしょう。(マルコ8:22〜26)アンデレは、これまでぼんやりとしていた大事なことがはっきりと見ることができて、喜び躍ったのです。霊の目が開かれるということは何という素晴らしい経験でしょう。


  (3)霊的な素直さを持って受けとめたアンデレ

* 自分の霊の目が開かれ、喜びに満ちたアンデレが最初にしたことは、自分の兄シモンにその喜びを証しし、イエス様の下に連れて行くことでした。ただ、うれしかったで終らせず、これは、私にとって希望であり喜びであるだけではなく、兄にとっても、また親しい者にとっても希望であり、喜びであると確信したから、それを伝えずにはおれなかったのです。

* イエス様から「来てごらんなさい。そうしたら分かる」と言われた通りついていくことによって、メシヤなるお方を知ることができ、それがどんなにすごい祝福であるか分かったのです。それ故、兄シモンにも同じように言わずにはおれなかったのです。あなたも、このお方があなたのメシヤであり、あなたを救い、神の恵みの中に入れて下さるお方であると分かるから、ぜひ来てごらんなさいと勧めようとする思いが起こされたのです。

* 著者ヨハネは、このアンデレの反応が、信仰者にとって重要な、素直な反応であると受けとめたから、この記事を記したのでしょう。しかも、バプテスマのヨハネによる橋渡しを無駄にしなかった数少ない人物としても取り上げているのです。

* どれだけの人が、「この方こそ神の小羊だ」というヨハネの紹介を聞いたことでしょうか。推測が赦されるなら、ヨハネは人々にバプテスマを授ける度毎に、私の後にこられるお方がいるその方こそメシヤだと語り続けていたことでしょう。にもかかわらず、それを聞いて心を動かされた者、神の祝福を受けとめることができた者は、この2人だけであり、その代表として、ここにアンデレの姿が描かれているのです。

* これは、彼が、単に性格的に素直であったからそのようにできたと示そうとしているのではありません。性格が素直な人は、バプテスマのヨハネの下に集まった人々の中に多くいたことでしょう。しかし、霊が動いたのは、ここに2人だけしか取り上げられていないのです。

* 言うならば、それは性格的なものではなく、霊的な素直さが必要であったのです。霊的な素直さとは、神から自分への語りかけがあると信じ、その御言葉を受け取って行きたいと真剣に願い、その御言葉に取り扱われたいと自分を差し出し、神のお言葉の力を味わっていきたいと飢え渇く心をもって神に向かうこと、これが霊的な素直さです。これは、人間の内側に、元から備わっているものではなく、信仰によって作り出されていくものです。

* アンデレともう一人の弟子は、師ヨハネを通して語られたお言葉を、今の自分への語り掛けとして、本気で受けとめようとしたのです。だからイエス様についていったのです。このお方には、自分にとって大事だと思えるものを与えて下さることができる力がある。そう強く期待したから、イエス様の語られるお言葉から、真の解決を得ることができたのです。

* 性格的な素直さがあったとしても、霊的語り掛けに対しては、心は動かないのです。霊的な素直さを持っていたアンデレは、神からの語り掛け、その導きに対して飢え渇いて、アンテナを張り巡らしていたので、霊に感じ、霊が激しく動いたのです。

* だから、イエス様から話を聞いたことによって、私はメシヤを発見した、と躊躇することなくして証言できたのです。誰でも直接話を聞いたら、メシヤを発見できるかと言えば、そうではありません。霊的素直さがあるかどうかで発見できるかどうかが分かれるのです。

* アンデレにとって、自分の人生を左右する、霊的大発見をすることによって、彼の人生は変わったのです。イエス様は、彼の兄シモンにも目を留め,不動の岩となる彼の信仰を見通されたことが記されています。


  (結び)霊が激しく燃えているか

* 今日の箇所は、十分理解できないまま、師ヨハネの言葉に動かされてイエス様の後をついて行った二人の弟子の姿と、一泊研修会において、イエス様から直接話を聞いたことによって、その内の一人であったアンデレの霊が躍動し、私の人生にとってなくてはならないお方として、霊的な大発見をしたことを、兄に証言している姿が描き出されている箇所です。

* その内容の詳細が分からないにもかかわらず、イエス様から直接話を聞く機会が与えられたことによって、霊が激しく躍動し、その大発見を、何としてでも伝えずはおれなかったアンデレの、霊に燃えている姿が感じられるのです。

* 師ヨハネの教育を受け、十分に備えられていたからこそ、霊に燃えることができたアンデレが用意されていたのです。師ヨハネから、あの方こそ、神の小羊と示されたことによって大きく霊が動き、一歩を踏み出すことができたのです。

* すなわち、すべて神の側で用意され、神の導きが与えられているので、信仰者の側に、霊的素直さがありさえすれば、霊的な大発見に至るように導かれ、霊が激しく燃え盛るようになるのです。

* パウロは、信仰者と言うのは、霊に燃える者のことであるとローマ12:11で示しています。霊において燃えるとは、霊が激しく活発に活動している様を言っていると分かります。

* パウロの勧めからも分かるように、神との結びつきのために与えられている人間の霊が、活発に活動することが、神から祝福を頂くことであり、喜びと感謝に満ち溢れることができる扉であります。それが、何にも増して重要であると言っているのです。

* アンデレの霊は、メシヤが誰で、何をして下さるお方なのか、霊的な大発見をしたことによって、霊は激しく活動し始め、神との深い結びつきを動かないものにしたのです。霊が激しく活動し、霊が燃えることなくして、神と直結し、神からのすべての祝福と賜物は流れてこないのです。

* 私たちの霊は激しく燃やされているでしょうか。私たちが霊的素直さを表すことによって、神の語り掛け、神の導きを霊で受けとめることができるようにされており、霊が活発に活動し、神の祝福で溢れるようにされることを体験していきたいのです。




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