聖日礼拝メッセージ
2012年9月2日 更新

聖 書 詩篇22:1〜5   (第1講)
   題 「呻き叫ぶ状況の中で信仰を回復させた詩人」


  (序)神に見捨てられたと感じた者の呻き

* この詩人が、どれほどの苦しみの中にあって、悲愴な呻き声をあげているのか、最初の2行において、見事なほどに言い表しています。そして、それが十字架上のイエス様の口から漏れたお言葉だと思うと、この詩人の激しい苦悩を受けとめられたイエス様が、同じ苦悩のただ中にあって叫ばれた悲愴な思いがひしひしと伝わってきます。

* なぜ詩人が、これほど嘆き悲しんでいるのか、その状況が分からなければ、呻きもがいている詩人の思いを理解することが出来ず、それを読む私たち信仰者にとっても、自分たちにかかわりのある御心がそこに記されているということも分からないまま、表面だけを読み過ごしてしまうことになります。

* この詩の内容から読み取ることが出来る部分をまず見てみましょう。自分の思い通りにならないからと言って、神の力不足に不満を漏らし、神をこき使おうと考えている傲慢な信仰者としての嘆きではなかったと言うことが、6節の言葉からはっきりと分かります。

* 彼は、自分は人として愛される価値ある存在だとは思ってはおらず、それどころか虫けらに等しいと自覚していました。自分の人間的欠陥が人々の嘲笑の的となっており、信仰に立つ生き方が、神を動かすことのできない、信仰の足らない者と見られており、力なしの神と、神まであざけられる姿を現していると意識していました。決して傲慢な部分はなかったのです。

* しかも、彼は10節で、生まれる前から神に選ばれ、主にゆだねられ、育てられてきた者だとの強い信仰認識を持っていました。言わば、今に至るまで神の養いの手によって愛され、守られ、導かれてきたとの信仰に立ち続けていたのです。

* けれども、その信仰に歩んできたこの私の信仰が、神によって否定されているのではないかと思わされる状況の中に追い込まれていて、どうしてここまで信頼しているのに、神は私のことをあわれんで下さり、助けて下さらないのか、神に見捨てられているとの思いが心を覆っていたのです。

* その厳しい状況を比喩的な表現で,恐ろしい獣に取り囲まれ、精神的にも、肉体的にもボロボロにされ、敵は、私のものさえ奪い取っており、全く解決を見出すことが出来ない状況の中で、神の助けも感じられなくなり、霊的にも八方塞がりの状態であった様子が見えます。

* そのような中でこの詩人は、主に向かって呻き叫んでいるのです。もし詩人が、これまで本気で神にすがる経験をしてこなかったならば、このような状況に落とされると、神に向かって呻くよりも、助ける力のない神に失望して心が離れて行ったでしょう。

* 詩人は、神が、どんなにすごいお方か知っていたし、神の助けなくして人生を歩むことができないと本気で受けとめていたのです。そのような信仰者であった彼が、どれだけ神の助けを願っても、神から見捨てられたのではないかとの思いに包まれ、落ち込んでいたのです。

* そのような中でのこの詩人の呻きが歌われているこの内容が、今日の私たち信仰者にとって、どのような御心が示されているのか、共に考えたいと思うのです。


  (1)絶望的な思いに支配されてしまった詩人

* 分かる範囲で、この詩人の状況を見ましたが、彼の口から漏れた「わが神、わが神、何ゆえわたしを捨てられるのですか」という、搾り出すような呻きは、彼の信仰のどのような状態を示していると言えるでしょうか。

* この詩人は、自分の願い通りになるように、よく働いてくれるしもべなる神を要求するという、恐れ多い傲慢な信仰を持っていたわけではありませんでした。

* それでは、「あなたに信頼するこの私をどうして見捨てられるのですか」と訴えたのでしょうか。この思いを理解するためには、詩人が神から見捨てられたと受けとめた神理解は、どういうものだったのかを見る必要があります

* この詩人の神理解は、神の民として歩んだ先祖たちに対して、失望させられないお方であって、ご自身に信頼し、従う者たちに対する真実と愛とをもって応答して下さる神でありました。幼い時から学んできた神の民の歴史、その歴史の上に働かれた神を素直に信じ、その神が、今も同じように真実と、愛とをもって働き続けて下さるお方だと学び、自らも信仰体験し、神の助けの素晴らしさを味わってきたのです。

* 単なる昔話として聞いてきたのではなく、先祖たちの上に働かれた神が、今も変わりなく働いて下さるお方として、アブラハムからダビデに至るまで、裏切られない神を学び取り、こんな私に対しても、真実と愛とをもって働き続けて下さっていると確信してきたのです。

* これまでは、その信仰は全く揺るぐことなく、主にある平安を頂いて歩んできたのです。しかし、詩人の今置かれている状況は、私を強くするために神が通しておられる道だと思ってこれまで耐えてきたのですが、神は何の助けの手を伸ばして下さらず、平安な思いがわずかも残ることがないほどに、つらく厳しい戦いが続き、信仰をもって生きることがつらいだけと思わされるようになっていたのです。

* 全く何の問題もないように、すべて解決の道を与えて下さいと祈ってきたわけではありません。どんな厳しい道であっても、そこに神の守りと助けとを感じ取ることができ、精神的、肉体的につらい状況に置かれていても、霊的には平安が完全に消えることなく支えられているなら、神に見捨てられたとまでは思わなかったでしょう。

* しかし、この時の詩人は、この世で単なる八方塞がりだと言うのではなく、もっとも大事な上なる神との結びつきにおいても塞がり、上下、四方八方塞がりという、全く逃れ場のない究極の戦いの中にあり、しかもそれがいつ終わるとも先が見えない状況で、神はこの私を見捨ててしまわれたと考えるしかない状態であったのです。

* すなわち、詩人のこの呻きは、今まで持ってきた神信仰、神理解を根底から崩してしまうほどの霊的な戦いをもたらし、主に従い、主を信頼するこの私の、霊を強くし、養い育てて下さる神の働きかけと受けとめていたのが、そうではなく、神はこの私を見捨てられたのだという絶望的な思いに支配されてしまったのです。

* なぜ詩人は、そこまで霊的な絶望感に襲われたのでしょうか。どうして神の助けの手、守りの手を全く受けとめることが出来なくなってしまったのでしょうか。どうして信じる者に対する約束を守って下さる神の真実を信じることができなくなり、愛とあわれみとを持って、ご自身の民を守り導いて下さる神の愛を信じることができなくなってしまったのでしょうか。

* これらのことについて理解することは、私たちが信仰を持って歩み続ける信仰人生を歩む上において、必ずと言っていいほど通される苦難の道において、どのような信仰に立っていなければ支えられないか、そのことを学び取っていく重要性が感じられるのです。


  (2)つぶやきの霊を引き出させないためのコツ

* この詩人は、ただ呻き叫んでいたというのではなく、主に祈り続けたのです。それをここでは昼、主を呼んでも主は答えられず、夜呼んでも平安を得ませんと言っています。

* この後半部分は、口語訳では分かりやすいように意訳しています。原文では、「夜もまた、私に沈黙はない」と言っています。黙っておることが出来ず、主に祈り続けたと言うのです。ここに見える詩人の信仰は、自分の力によってこのような苦境を乗り越える力がないと悟っていたので、主の助けを求めるしか道がないと、主に祈り続けたと言うのです。

* しかし、祈っても祈っても答えられず、どれほど信頼しても、信仰で乗り越えることが出来る勝利感が与えられず、唯一の拠り所である主にさえそっぽ向かれている思いがして、全く内なる平安が失われる最悪の結果になっていたのです。

* この詩人にとって、祈りとは何だったのでしょうか。自分に頼らず、力ある主に頼ることだったのです。自分の力によって解決できると思わず、神の助けと導きとがなくして、信仰による勝利がないとの思いで祈り続けたのでしょう。

* 信仰による勝利とは、神の力によって自分の願っている通り実現に導かれることではありません。それはうっかりすると、自分の願いを実現してくれるしもべとなるように、神に要求する傲慢な信仰になりかねません。

* ここで言う信仰による勝利とは、神が私の歩みに伴って下さり、その歩みを支え、苦難、戦いをも、そこに主の助けがあることを信じて乗り越え、現実には自分の願い通りになっていなくても、神の深いご計画の中で導かれているとの確信と平安を得ることだと言えます。

* しかし、この詩人は、夜昼かまわず主に祈り続け、自分に頼らず、力ある主に頼る向かい方をしたのです。にもかかわらず、信仰による勝利を得ることができず、神はこの私を見捨てられたに違いないと感じた、と言うのです。

* 主は、信頼して祈る者の声に耳を傾けて下さると信じて祈ってきたのに、なぜ神は答えて下さらないのか、確かに私は愛される価値のない者に過ぎない。けれども、私の側の価値によらず、主によりすがる者に対して、神はあわれみ深いと信じていたのです。

* 神が、神の民をあわれまれるのは、価値があるからではなく、「アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約の故に、イスラエルを恵み、これをあわれむ」と言われているように、(列王記下13:23 旧541)価値があるなしではなく、結ばれた契約を重んじて愛しあわれんで下さるのです。

* それでは、傲慢な信仰によってではなく、ただあわれみによってよりすがる者の祈りに耳を傾けて下さると信じて祈っているのに、この詩人は、どうして神に見捨てられていると感じ、祈りが全く神の耳に届いていないと思ったのでしょうか。

* 信仰に生きる難しさはここにあります。信じてよりすがって、心から祈れば、神が必ず答えて下さるということが真理であるにもかかわらず、必ずしもすぐ実感として与えられるとは限らず、信仰による勝利として受けとめることが出来ない時もあるのです。

* それは、神が気まぐれだからなのでしょうか。そうではありません。それは、ヨブ記を見ると分かります。あれほど主を信頼し、主の偉大さをほめたたえ、神を畏れ、信仰を堅く守ったあのヨブが、半端ではない試練を受けたことによって、呻き叫ぶようになり、主に祈り続けても全く応えられなかった様子を見ると、不信仰だから祈りが聞かれなかったとは必ずしも言えないと分かります。神の御心はどのように働いているのか、人間がそれを測るのは非常に困難の極みです。

* ヨブ記の結論を見ると、ヨブにある一つのことを学び取らせるためであったことが分かります。そのために長い戦いを通され、神は祈りを聞いて下さらず、ヨブが、「神は私を見捨ててしまわれた。私のいのちなど早く消滅すればいい」という思いになるまで落とされたのです。

* その一つのこととは、何があっても、どんな状態になっても、信じるしかない。つぶやくな、不満を漏らすな、神の手の中にある人生を最後まで信じ続けよ。頭で信じるのではなく、霊で信じよ、と言うことでした。

* その記事から見えることは、ヨブのような信仰深い者でさえ、心の奥底にはつぶやきの霊が潜んでいたのです。それが、長い先の見えない戦いの中に陥った時に引き出され、神と論争する思いさえ引き出したのです。恐ろしいのは、このつぶやきです。

* パウロも、その恐ろしさをTコリント10:10でこう語っています。「ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはいけない。つぶやいた者は『死の使い』に滅ぼされた」と、警告しているのです。

* この詩人の中にもつぶやきの霊が潜んでいたのを主は見られたのでしょう。もちろん、すべての信仰者の中にもこのつぶやきの霊が潜んでいます。それが引き出されないようにするためには、“でも信”あるいは“ても信”がもっとも効果的だと思われます。

* “でも信”とは、どんな状態「でも信」じる。神が聞いて下さっているように思えなくても信じる。信仰による勝利感がない時でも信じる。人々からそんな信仰など意味がないと言われても信じる。一旦信じると決めたら何があっても信じる。この頑固さが、つぶやきの霊を引き出させないためのコツでしょう。


  (3)御言葉をよく学んでいた詩人

* この詩人のすごい所は、あれほど呻き叫び、精神的、肉体的にボロボロになっていただけではなく、霊的にもボロボロの状態になって、神に見捨てられているとの思いにまでなったのに、また、どれほど祈ってもその解決を見出すことが出来なかったのに、自分がこれまで信仰に立って歩んできた信仰の基盤となっていたものを思い起こし、信仰を回復させていることです。

* そこまで落ち込んでいた者が、信仰を回復させるのは非常に困難なことでありますが、この詩人は、自分の信仰を再確認しようとしたのです。私はなぜ主を信じるようになったのか、小さい時から、歴史上において働いてこられた神が、今も同じように生きて働き続けておられると信じた、ということを思い起こしたのです。

* 先祖も、いつも神の働きかけが実感できるようにされていたわけではありませんでした。しかし、信仰者に対して、神の接し方にはすべて深い意味があり、そこからしっかりと御心を学び取る向かい方をしなければ、同じ試練、同じ戦いを、大事なことを学び取るまで何度も通されるのです。

* この詩人は、先祖たちの信仰が記されている御言葉をよく学んでいたから、神の助けが見えなくなった時にも、完全に信仰をなくしてしまうことなく、神の御心を受けとめようとし、一時的にはつぶやきに近い呻きと叫び声をあげてしまいましたが、信仰を回復し、神の働きかけをどこまでも信じ続ける向かい方に引き戻されたのです。御言葉を学ぶ者には信仰の変形から引き戻す力がいつも働くのです。


  (結び)信仰とは、ただ信じること

* 非常に暗い闇を経験した詩人でありました。理由が分からずもたらされた神との交わりの断絶は、絶望と不安と苦悩でしかありませんでした。

* ただ人間のために苦しみ、死ぬためにこの地上に遣わされたことを認識しておられたイエス様でさえ、死は恐れなかったものの、一時的ではあっても、神から見捨てられることの恐ろしさに震え、この詩篇の呻き叫ぶ内容を引用して、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれたのです。

* これは、神と切り離されることの恐ろしさがどんなものか分かっておられたから、それは生身を引き裂かれるようなもので、人間が受けるように定められていたもっとも恐ろしい刑罰を、イエス様が代わって受けて下さり、あの叫び声を上げて下さったのです。

* この詩人の場合は、他の人のためにではありません。自分が、神から見捨てられていると感じた、その震え上がる霊的事実に耐え難くなって呻き叫んだのです。

* しかしそれは、神の助けを実感できないからと言って、今に至るまで働き続けて下さっている神を疑うことになる怖さを知っている必要があります。「どうしてですか」、と自分の願い通りにならない状況に立たされ、苛立ってつぶやいたり、不満を漏らしたりすることは、神理解にどこかに問題があるとしか言えないでしょう。

* 信仰とは、ただ信じること。つぶやかず、不満を漏らさず、神をこき使おうと不遜な思いを抱かず、ただ信じること。神が今もなお働き続けて下さるお方であることを信じることです。実感できなくても信じること。神が今もなお働き続けて下さるお方であることを信じること。御言葉に記されている神の働きかけを信じること…。

* このことを、霊において受けとめることが出来れば、試練のただ中に置かれていても、祈りが聞かれていないと感じる状況にあろうと、呻き叫ぶ境遇にあろうと、神の働きかけを信じて待ち望むことができます。

* そして、神の大きなご計画の中にあって、神に信頼した先祖の信仰者たちの上に働かれた神が、今も変わることなく働き続けて下さっていると信じて平安を得ることができるのです。最も注意すべきはつぶやきの霊だと肝に銘じていなければなりません。



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