(序)疑心暗鬼の思いをどのように処理するか
* 前回学びましたが、この詩人の置かれている状況は、神への熱い信頼を現してきたにもかかわらず、その厳しい状況は耐え難く、精神的、肉体的にボロボロになるほどのものでありました。
* それ以上に厳しかったのは、神に見捨てられたのではないかとの思いに包まれ、霊的にもボロボロになる一歩手前まで行っていたことです。
* ここでは、詩人は、神様にどうしてですかと文句をつけて呻いているのではなく、このような状況を、信仰によってどのように受けとめればいいのですか、との疑問と言ったらいいのか、神に向かって問いかけるように呻いているのです。
* 自分がこれまでもってきた信仰は、歴史上に働きかけられた神への信仰で、先祖たちの信頼に応えられる神の働きかけを,今日においても事実だと受けとめる信仰でした。これまでも、苦難の道はあったと思われますが、その信仰は揺るぐことはなかったのです。
* しかし、ここに至って先の解決がまったく見えない状況が続く中で、神の助けも全く期待できない思いに囚われてしまった詩人は、神に対してつぶやきが出掛かったのですが、一瞬の内に、これまで自分が立ってきた信仰の基盤を思い起こすことによって、先の解決が見えなくても、主の助けを信じてつぶやかず、不満を漏らさず、ただ信じるしかない思いにされ、断崖から落ちる一歩手前の所で留まったのです。
* 心が揺れ動かない人であるならば別ですが、信仰を持って歩んでいても、人の心には、時には疑心暗鬼が生じてくるものです。見えないが故に、本当に神はおられるのか、神は私に目を向けて下さっているのか、私のことを助けようとして下さっているのか。実感できる何かがあれば、疑心暗鬼も吹き飛ぶのですが、それもないので、どうしても揺れ動く心を安定させることは出来ないのです。
* 疑心暗鬼という言葉は、元々、疑う心があると、何でも鬼に見えるという意味ですが、疑い始める人間の心の中に悪魔が入り込んだ状態を指している言葉です。この心を出さないためには、なぜ自分は信仰を持つことができたのか、その信仰の基盤を見失わないことが最も重要だと言えるでしょう。
* この詩人が、断崖絶壁の一歩手前で踏みとどまることが出来たのは、御言葉を学んで、先祖たちの信頼に応えておられる神の働きかけを真実だと受けとめ、この神は永遠なるお方、時間を超越し、全く変化のないお方であるが故に、今の私の上にも同じ真実を持って、私の信頼に必ず応えて下さるとの信仰を持つことができたからです。それが彼の内に生じた疑心暗鬼の思いを吹き飛ばしたのです。
* ある意味で信仰者は、この疑心暗鬼の思いとの戦いだとも言えます。復活されたイエス様が、疑心暗鬼の思いに囚われたトマスに対して、あわれみによって実際に出会って下さった時に、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい、…あなたはわたしを見たので信じたのか、見ないで信じる者は、(その方がもっと)さいわいである」と言われたのです。(ヨハネ20:27,29)
* 疑心暗鬼の思いが生じない人は一人もいないと言っていいでしょう。それを信仰によってどのように処理するか、正しく処理できる人だけが、見ないで信じる信仰に立ち続けることができるのです。人々から、力のない信仰者だとあざけられ、お前を助ける神がいるなら、それを証明として見せろと侮る人たちに、この詩人はどのような信仰を持って対処したのか見ていくことにしましょう。
(1)深い罪意識を持っていた詩人
* この詩人は、まず神の前における自分の立ち位置を明確にしました。私はあなたに助けを要求できるような存在だとは思ってはいません。あなたの目から見られるなら、何の価値もないような虫けらであって、あなたが造られた人間としての価値を持っている者ではありませんと言ったのです。
* これは、単に自分を卑下して言っている言葉ではありません。彼は、神の前における自分の価値がどれほどのものか自覚していたのです。この自覚は、罪深い人間としての自覚です。彼は、主に信頼し、主をあがめる生き方をしていましたが、神の選民の一員だから罪はないなどとは思ってもいませんでした。
* この詩篇が歌われた当時の神の民の思いが正確に分かるわけではありませんが、預言者エレミヤの時代の人々のことを例に挙げてみますと、思いが神から完全に離れていたにもかかわらず、「わたしには罪がない。彼(神)の怒りは、決してわたしに臨むことはない」と言い切っていたのです。(エレミヤ2:35)これは、神に選ばれた民であるという自覚だけが、そのような思いを持たせていたことが分かるのです。
* しかし、この詩人はそうではありませんでした。神の前における今の自分が何者かを考えた時、神に愛され、導かれ、守られて当然の民だとは到底思えなかったのです。主にとって私という存在は、虫けらに等しいと思っていました。神に愛されるにふさわしい人間などと思いもできなかったのです。
* どうして詩人は、自分のことをそのような存在だと思ったのでしょうか。それは、神の前における罪深い存在であると認識していたからだと考えられます。
* 当時の人々のように、アブラハムの子孫という選民思想で、罪はないと楽観視できるほど,神の前における罪を軽く見ることができず、自分の罪が恐ろしく見えたのでしょう。神を、私にとっての神として本当にあがめていると言えるのか。
* 人間は、罪を犯してから自己中心の存在となり、自分を中心に世界が回っているように考える者となってしまいました。そんな人間が、神中心の世界を受けとめ、神に最高の位を明け渡すと言う、神を神としてあがめる信仰姿勢を表すことは簡単ではなくなってしまったのです。
* 心の中からすぐに肉の思いが出てきて、自分の思いに沿わない状況、受け入れたくない状態などが目の前に襲ってくると、神を神としてあがめ、神のなさることはすべて正しいと告白する思いが失われそうになり、もっとよくして下さってもいいのではないかとつぶやきと不満が出てこようとするのです。すなわち、自覚あるなしにかかわらず、罪がムクムクと出てこようとするのです。
* この詩人は、主を信頼し、主に従う歩みをしてきたにもかかわらず、自分の内側に残っている肉の思いが、神を神としてあがめない罪として内側に座り込んでいると意識したのです。
* 他の人々は、自分には罪はないとうそぶいている中にあって、この詩人は、どうしてここまで深い罪意識を持っていたのでしょうか。詩人の背景はよく分かりませんが、自分の視点で見るならば罪を意識することはないのですが、詩人は、神の視点から見る信仰に立ったことによって、自分がどれほど罪深いかが見えたのです。
* それ故、この私は虫けらだ。神の目から見て、何の価値もない者だ、本来なら神に喜ばれる存在であった人間の価値が、罪ゆえに失われ、人間ではなくなったという神の目から見た人間観を抱くようになっていたのです。これは、当時の人々が持っていなかった理解で、預言者の指摘していた人間観だったと言えます。
(2)死んだ信仰が継承されてきた歴史
* このような、神の前に深い罪意識を持っていたこの詩人の信仰は、同族の人たちから異様な目で見られていたようで、彼らは、詩人の人間的欠陥をそしり、その信仰もまやかしだとあざけり、あなどっていたのです。
* どうして詩人は、ここまで周りの人々から疎まれていたのか、その詳細は分かりませんが、この当時の、周りの人々の信仰が薄れてしまっており、そのような生き方は信仰者としてふさわしくないことを指摘したのかもしれません。
* 当時の預言者は、人々の不信仰を指摘し、主に立ち帰るように示せば示すほど、人々から憎まれ、嫌がられ、迫害を受けることすらあったのです。この詩人も周りの人々に、信仰を回復してほしいと願って語ったから反発を受け、逆襲を受けてあざけられたのではないかと推測されます。
* と言うのは、お前が言う、そのような力ある神、罪を忌み嫌われる神がいるなら、その神にすがって助けてもらえ、その神は、お前の信仰を喜んでおられるのだから、救い出してもらえと皮肉って語っている言葉から、詩人の信仰とその生き方に反発を覚えている人々の言葉だと考えられるのです。
* 預言者の中で、涙の預言者と言われているエレミヤは、預言者としての務めを果たせば果たすほど、人々から憎まれ、疎まれ、辱めを受け、挙句は穴に放り込まれて餓死寸前まで追い込まれた人でありました。(エレミヤ33:6〜9)
* それ故エレミヤは、嘆いて主に訴えているのです。「ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人々はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう。」(エレミヤ15:10)
* わたしは一日中物笑いとなり、人はみなあざけります。…もしわたしが主のことは重ねて言わない…と言えば、主の言葉が私の心にあって、燃える火の、わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを抑えるのに疲れ果てて、耐えることができません」とも言っています。(エレミヤ20:7,9)
* 人々の不信仰を指摘すれば、人々は反発して憎み、あざけり、迫害をしてくるので、語ることに何の意味もないと考え、語るのをやめようとすると、今度は神が内側に火を閉じ込めているような、耐え難い思いにされて、語り続けるように仕向けられる。進むも地獄、退くも地獄という経験をしたことが記されています。
* この詩人の場合も、それに近いような経験であったと考えられます。自分だけ信仰を持って喜んでいるには何の問題もなかったと思われますが、他の人も信仰に立って歩んでほしいと願い、主の助けを信じて、そのことを語れば、人々は、お前が言うそのような神がいるなら、まずお前が助けてもらえと全身であざけり、怒り狂った様が描かれているのです。
* なぜ人々は、「信頼する者を神が助けられると言うなら、おまえ自身でそれを証明して見せろ」という言い方をしたのでしょうか。これは、人々にとっては、すでに力ある神、今も生きて働いておられる神を信用しなくなっていたからです。
* 彼らにとっては、先祖伝来の信仰にしか過ぎず、形は残ってはいるが、彼らの生き方にかかわってくる信仰ではなくなっていたから、その信仰が本物なら、神が助けて下さるということを自分自身で証明して見せろという言い方をしたのでしょう。
* イスラエルにおいては、生きた信仰が継承されていくはずであったのに、なぜか途中でその信仰が腐っていき、死んでしまい、死んだ信仰が継承されていくという最悪のリレーとなってしまったのが、この当時の多くの信仰者だったのです。
* 生きた信仰が継承されなかったのは、神の摂理に対する信仰が失われてしまっていたからです。詩人は、この信仰を何とか継承していきたいと願っていたのです。
(3)摂理信仰に立っていた詩人
* 詩人が持っていた信仰は、生まれる前から私を選び、母の胎内から私を取り出し、母親の乳を飲んで養われ、育てられるようにして下さったのはあなたです、と人生の最初から神が摂理と深いご計画を持って導いて下さっていると信じた摂理信仰でありました。(摂理とは、全宇宙を支配する神の計らいと意志のことです)
* これは、信仰者の歩みの中で、神とのかかわりのない時はひと時もないという徹底した信仰理解です。自分たちの思い通りに助け導いて下さる時だけが,神がご計画を持って働いて下さっている時なのではなく、生まれる前から、生まれてからも、どのように成長していき、どのように導かれていくか、神はその歩みすべてにかかわって下さっているのです。それ故、神の深いお心に沿って、私たちにとってもっとも祝福となる道へと押し出し、導き続けて下さっていると信じる信仰です。
* この摂理信仰に立たないならば、神の導きのない中で人生を送り、時々神が働いて下さるという程度の神のかかわりしか信じていないことになります。神は、私たちが生まれるように親を選び、母の献身と愛の中で育つように、そこにも神が働いて下さっており、10節で、「わたしは生まれた時から、あなたにゆだねられました」と歌うことによって、母の胎から取り出して神の御手の上に置かれたと言いました。
* この「ゆだねる」という言葉の原意は、「投げ出された」という意味です。いわゆるボールが母の胎から神の御手の方に投げられ、神は御手の中に、私の人生をすべてキャッチして下さったと言うのです。
* 預言者エレミヤの例をもう一度取り上げて見ましょう。エレミヤが預言者として召命を受けた時、神の語りかけがあったと言うのです。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」と。(エレミヤ1:5)
* ここに、生まれない前に聖別したとありますが、これはどういうことでしょうか。聖別とは、神用に選り分けることですから、エレミヤの人間性を見て、神用により分けたと言うのではなく、神の選びは、エレミヤの意志にかかわりなく、神用にするために、神の側でエレミヤが生まれる前から、もちろん生まれたからも、あらゆる働きかけをなされ、導き、養いをなして下さって、神の驚くべき計らいの中で、聖別された者にふさわしく育てて下さるという神の御心がそこに示されているのです。
* これは、エレミヤだけが特別であったのではなく、この詩人も同じであり、今日の私たち信仰者一人一人も同じであります。もし神が、生まれる前から、生まれてからでも全人生にかかわって養い導いて下さらないならば、誰が神信仰を持ち、神用に聖別されること出来るでしょうか。
* 人間の頭や知性では考えられないような、驚くべき神のお計らいの中に生かされていると信じる摂理信仰に立っているならば、この当時の人たちのような、形だけの死んだ信仰になることはありません。
* 更に詩人は、10節後半で、「母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました」と歌っています。これは、神の御手の中に投げ出されたというだけであるなら、そこには自分の意志とはかかわりのないままのように聞こえるのですが、驚くべき神の摂理信仰に立つことによって、自ら強い信仰的意志を持って、「あなたは紛れもないこの私の神です」と告白する者にされていくのです。
* しかし、詩人の置かれている状況に、何かよい兆しが見えてきたわけではありませんでした。けれども、詩人はここにおいて、「私を聖別し、養い育て、神用の者として下さるあなたが、この私の神としていて下さることが私の拠り所です」と告白しているのです。
* そう告白しながらも11節においては、主があわれんで下さるようにと求め、「私から遠く離れないで下さい、悩みが近づき、私にはあなたのほかに助ける者がないからです」と言います。これは要求ではなく、主のあわれみを求めて、訴えているのです。
(結び)日々生き生きとした信仰人生となっているか
* 信仰者の心の内に疑心暗鬼の思いが生じた時に、どのように対処していくことが出来るか、非常に重要な問題としてこの詩人に押し迫ってきたのです。これを正しく処理することが出来ないと、その信仰は非常に不安定なものとなってしまい、すべての物事、目の前に起きてくる事柄を正しく判断することが出来なくなります。
* 今日の箇所は、詩人がそれをどのように対処したのかを見ることができる、とても参考になる箇所だと言えるでしょう。彼が取った対処法は、第1に神の前における自分の立ち位置を確認することでありました。
* 深い罪意識を持っていた詩人は、神の目から見たら、この私は虫けらに過ぎず、神の造られた素晴らしい人間性を持った人間だとはとても言えない、自分の中に、神を神としてあがめていない罪が、肉の思いとなって外に出てしまう惨めな者に過ぎないことを自覚していたのです。
* 第2に、私の信仰をあざけり、力ある、今も生きておられる神を信じようとしない、死んだ信仰を持っている人たちからの非難に対して、御言葉の正しい受けとめ方、正しい神信仰のあり方などを示そうとすると、預言者や証人は、死んだ信仰を持っている人たちから反発を受けるのが当然だと受けとめたのです。
* ただ神が遠く離れておられると感じる状況が続くことに対しては、神のあわれみを求め、あなた以外に助ける者はないので、この私をあわれんで下さいと祈り願ったのです。
* 第3に、自分が今こうして神信仰に立つことが出来るようにされているのは、生まれる前から選ばれ、母の胎から引き出し、母の献身と愛の中で育つように神が働かれ、すべて神の御手の上で神用により分けられたからであって、全人生が神とのかかわりの中で生かされているという摂理信仰に立つことによって迷いが消えたのです。
* これらの対処が出来た詩人は、信仰による歩みが、たとえ厳しい道を通されることがあっても、疑心暗鬼の思いが生じないようになり、神用にされ、この方こそ私の神だと告白し、強い信仰的意志を持って歩むことができるようにされたのです。
* 私たち一人一人も、各々異なった信仰人生が用意され、神用に聖別された者としてこの地上にあって生かされているのですが、ともすれば、内側に起きてこようとする疑心暗鬼の思いを軽く考えず、しっかりと信仰によって対処し、日々生き生きとした信仰人生を歩みたいと思うのです。そのためには摂理信仰の大事さをしっかりと刻み込んでいる必要があると言えるでしょう。