聖日礼拝メッセージ
2012年9月16日 更新

聖 書 詩篇22:12〜21  (第3講)
   題 「主に信頼しつつ、主に訴える信仰」


  (序)どうしてつらい現状を述べる必要があるのか

* 今日の箇所は、自分の置かれている現状が、どれほど耐え難いものであるか、その受けている苦悩を一つ一つ取り上げ、そこに主が働いて下さるようにと必死に訴えている内容であります。なぜ主が、何もご存知でないかのように、このように訴えているのでしょうか。その意図を知るためには、これまで歌ってきた内容を復習し、そのつながりを見ていく必要があるでしょう。

* 最初の所で、詩人が呻いたのは、なぜ、あなたに信頼を寄せているこの私をお見捨てになったのですかと言う、これまで学び取ってきた信仰からは理解できない神様の仕打ちに対して、つぶやきに近い思いによって呻き叫んでいる詩人の姿でありました。

* 詩人の信仰理解では、神様はこの私が苦しまないように、また、願い通りになるように私のために働いて下さるお方だと思っていたわけではありませんでした。また自分が愛されるにふさわしい人間だと思っていたわけでもありませんでした。

* ただあわれみによって、契約の中に置かれている者として、先祖が信頼し、その信頼に真実と愛とを持って応えて下さっている神を信じ、その神が、今も真実と愛とを持って働き続けて下さっていると信じていたのです。

* しかし、これまでは厳しい道であっても、そこに神の守りと助けとを感じ取ることができ、支えられて歩んできたのですが、今の状況は、八方塞がりであるだけではなく、そこには全く、神の守りと助けとを感じることができず、神から見捨てられたのではないかとの思いに包まれ、霊的絶望感に襲われたのです。

* けれども、御言葉から離れなかったので、自分が信仰に立つようになった信仰の基盤とも言える、先祖たちの信仰に応えておられる神に対する信仰に引き戻され、霊的絶望感から解放され、つぶやきの霊に引き落とされないで済んだのです。

* しかし、それで厳しい状況が改善されたわけではなく、神に対する疑心暗鬼の思いが完全に生じない状態にされたわけでもありません。それどころか、先の解決が全く見えない状況が続いていたので、見えない神と、その働きかけに対する信仰が揺れ動く余地が残っていたのです。

* そこで信仰を安定させる対処法として3つのことに目を向けたのです。第1は、虫に過ぎない者という、神の前にどれほどの罪深い存在であり、愛されるにふさわしくない者であることを認識することでした。

* 第2は、世に置かれているが故に、信仰を示す生き方をすれば、周りの人々から憎まれ、嫌がられ、反発を受けることが当然であると受けとめることでした。

* 第3は、神は驚くべき深い摂理を持って、生まれる前から選び、育て、神用に選り分けられ、この方こそわたしの神だと告白できるようにして下さり、強い信仰的意志を持って向かうことができるように示されている、摂理信仰に立つことでした。

* このように、信仰を安定させるための対処をすることによって詩人は、動じない姿を現しました。しかし、霊性は支えられても、現実の問題は解決の糸口すら見えない状態であったので、前回最後の所で、主のあわれみを求め、私から遠く離れておられるのではないかとの思いに悩まされることがないように助けて下さいと、具体的な助けを願ったのです。

* 現実の戦いは残っても、信仰における勝利を得て、安定した信仰で歩み出したのに、この後、今日の箇所で、どうしてつらい現状を詳しく述べて、主に訴えようとしているのでしょうか。

* すなわち、詩人は、主に訴えることを信仰上において、どのような意味を持っていると考えていたのか、その信仰理解が分からないなら、今日の箇所は、ただ具体的な解決を求める御利益信仰となってしまいます。その意義をご一緒に考えてみることにしましょう。


  (1)飢え渇いた魂を満ち足らせて下さる主

* この詩人が、自分の置かれている現状を詳しく述べているのは何のためでしょうか。生まれる前から知り、生まれてからも御手の上に置いて導いて下さった神であるとの摂理信仰に立っていたので、神はこの私の状態を何もご存じないと思っていたわけではありません。

* 私の状態ばかりか、私がどのような思いでいるか、その内面まですべてご存知であるとの信仰に立っていたはずです。なのに、自分のことを何も分かってもらえていないかのように、その悩みについて詳しく述べているのはなぜでしょうか。

* これは、主に向かって愚痴っているだけなのでしょうか。あなたを信頼しているこの私が、どうしてこのようなつらい境遇に耐えなければならないのかという不満を言うためでしょうか。そうではありません。そのことは摂理信仰において処理できていたはずです。

* 呻き苦しみ、主に訴えるという信仰は、主の働きかけを必死になって飢え渇いて求めることにつながっていることを知っていた詩人は、主に向かって叫び、訴えることは大事な信仰的行為だと受けとめていたのです。

* 呻き苦しみ、主に訴えるという姿は、何としてでも主の働きかけを頂いて、主の助けを得たいという強い思いがなくして表すことはないでしょう。

* それでは、ご利益信仰と、詩人が現した主に訴える信仰との間に違いがあるのでしょうか。ご利益信仰は、自分の思い、願いが中心です。自分の思いを満たしてくれない限り、力のない神としか思えないのです。

* しかし、主に訴える信仰とは、私の状態をすべてご存知である神に対して、どれほど飢え渇いて求めているか、その信仰を表すことであり、聞かれるか聞かれないか、どのように聞いて、どのように導いて下さるか、後は神様の御思いに沿ってなされることであって、要求は出来ないのです。

* それならば、主はすべてご存知であるのだから、主に訴える必要がないのではと思う人もありますが、言葉を持って信仰を表していくことが大事なのです。

* たとえば、「父なる神は、私たちが求めない先から、必要なものはご存知である」(マタイ6:8)と言われていますから、祈る必要がないと言えるでしょうか。そうではありません。主に祈ることがいかに大切であるか教えられているばかりではなく、イエス様も絶えず祈られたのです。

* それと同じように、自分の置かれている状態を思い、呻き苦しみ、主に訴えるという行為は、主が求めておられる行為だと言えます。と言うのは、主に訴える信仰は、主のあわれみを引き出すための大事な向かい方であるからです。

* 主のあわれみとは、主ご自身の一方的な思いによって愛を現されることでありますが、主の内側にそのようなあわれみの思いが起こされるには、私たちの側に、主のあわれみを引き出す姿が必要なのです。これが、何としてでも主の助けを願う、主への訴えであると言えるでしょう。

* 士師記に次のような記事があります。(2:11〜18 旧340)イスラエルの人々は、主の前に悪を行い、偶像に仕えたので、神の怒りを引き起こしました。それ故、主は彼らをかすめ奪う者たちの手に渡されたので、人々はひどく悩み苦しんだのです。自分たちをしえたげ悩ました者たちによって呻き苦しんだので、主はそれを見て、さばきづかさを起こし、救い出されました。それは、主が彼らをあわれまれたからです。

* 詩人は、自分の置かれた状態を見て、主があわれみをかけて下さるように、真剣に飢え渇いて求めたのが、主への訴えとなったのです。そこには、どうして助けて下さらないのですかという、不満の思いから訴えたのではなかったのです。

* 霊においては、摂理信仰に立っていたので、主から見捨てられているのではないかという思いからは解放されたのですが、肉体的、精神的には、いじめを受けている状態が全く改善することはなく、耐え難くなっていたので、主よ助けて下さいと訴えたのです。これは主のあわれみを求める大事な信仰でありました。

* 詩篇107篇の詩人はこう歌っています。「主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良い物で満たされるからである」と。(107:9)これは、単なる人間の願望の声としてではなく、主は飢え渇いた魂の真実な訴えの声に耳を傾け、必ず満たして下さるという信仰体験が歌われ、それは確信に満ちたものであったのです。


  (2)主に対するつぶやきと訴えとの違い

* それでは、この詩人が主に向かって訴えた内容について見ていきましょう。ここには、動物の比喩が何度か使われており、それがどのような敵を意味するのか明らかではありません。その理解の助けとなるように、解説を入れた解釈訳を書いてみます。

(解釈訳)

12(私がこのように呻き、あなたの助けを求めるのは)私の周りに多くの雄牛(強力な敵)が私を取り囲み、バシャン(ゴラン高原)の猛牛は私に押し迫っているからです。

13彼らは、獲物を前にして、今にも引き裂こうとしてほえたけっている獅子のように、私に向かって大きな口を開けています。

14(対抗する力を持たない)私は、水のように(無抵抗のまま)注ぎ出され、骨格が崩れ、心までも蝋が溶けるように、溶けてしまっています。

15私の力は、土器の破片のように使いものにはならず、舌もあごに張り付いて(言葉で対抗することさえ出来ず)、あなたは私をちりの上にさらされました。(もはや守るものが何もない状態である)

16何と犬までもが(小さな敵)、私を取り囲み、悪を行う者たちが群となって襲い掛かってきます。彼らは獅子のように私の手足を襲う。

17(やせ細ったこの体は)自分の骨を数えることが出来るほどです。彼らは(無力な)私の様を見つめてあざ笑っています。

18死につつある私の衣服をみんなで分けようとしてくじを引いている。

19しかしあなたは私の神です。私から遠ざからないで下さい。(見捨てないで下さい)私の力なるお方よ、急いで私をお助け下さい。

20私の魂を、(私にとどめを刺そうとする)剣から救い出して下さい。私のもっとも大事なものを犬の手から救い出して下さい。

21獅子の口から、雄牛の口から私を救い出して下さい。

あなたはこの私に応えて下さった。

* ここから分かることは、詩人は敵対する人々から、精神的、肉体的に耐え難いいじめを受けていた様子が伺えます。その理由は、前回にも学びましたが、詩人の持つ信仰が目障りであったのか、それとも信仰的言い方が気に食わなかったのか、そのいじめも激しかったようです。

* しかも、限られた人たちだけではなく、雄牛や獅子という表現で示されている強力な敵もいれば、犬という表現で示されている小さな敵も群となって襲い掛かっていたと言いますから、ある集団の人々からの敵対行為を指していると思われます。

* そのようないじめや集団からの敵対行為が長く続き、「私は水のように注ぎ出され」という表現で、無抵抗のまましえたげを受けて、力を失い、体も壊し、精神的にも押しつぶされて立ち上がれないようになっていたと言っているのです。

* 獰猛な雄牛や、肉を引き裂こうと狙う獅子を前にして、何の抵抗も出来ないまま、心は押しつぶされ、自分がいかに無力であるかということを思い知らされ、舌もあごに張り付いて、口で対抗することさえも出来ず、ちりの上に放り投げられた者のように、守る者が全くない状態を露見してしまったのです。

* そのようないじめを受け続けることによって、17節において、自分の骨を数えることができるほどに体は痩せ細って、体力的にも限界になっており、その私の様を見て、敵対している人々があざ笑っている様子を歌っています。

* 詩人による自己分析は、「もうこれ以上、この厳しい状態が続けば、私は敵の思惑通り完全につぶされてしまう」と理解したのです。それ故、私の魂を剣から救い出して下さい。急いで助けて下さいと願ったのです。

* 人間は、自分の限界が見えるわけではありません。見えなくても、自分の思いにおいて、もう限界だと思った時、自分のすべてを主に明け渡すようになるのです。このように主に訴えるとは、自分の限界を感じ、自分の力が何の役にも立たない無力なことを知らされ、すべてを主に明け渡すようになることです。

* 自分の思いで何とかしようとする思いが残っている限り、本気で、すべてを明け渡して主に訴えるということはしないものです。

* 主はこのように、私たちがすべてを明け渡す者となることを求めておられるのです。訴えるという行為は、主に信頼している者が現すべき行為ではないように思うのですが、ここで分けているべきことがあるのを知らなければなりません。

* 肉体的、精神的に限界を感じ、解決の見通しもつかない中において、主が私を見捨てておられるのではないかとの霊的八方塞がり感を持った時、信仰者は、大きな失望感と、主に対する期待の喪失が起き、信仰者に絶望感を与えます。

* しかし、前回学んだ深い罪意識と、死んだ信仰者たちからの反発を受けることが当然だと受けとめ、神の御手の上で最後まで養われると確信する摂理信仰に立つことによって、霊的な面において解決を得たならば、肉体的、精神的な戦いを和らげて下さるように、抑制して下さるように、乗り越えさせて下さるように助けて下さいと主に訴えることは、決して悪いことではありません。主に信頼しているからこそ訴え、神の助けを願うのです。

* 主への信頼を疑って、どうして早く何とかして下さらないのですかと要求するつぶやきとは次元が異なっているのです。

* 肉体的、すなわち病気や怪我、肉体的苦痛を感じるすべてのこと、精神的、すなわち失意感、喪失感、気力を奪われ、精神的圧迫や傷つけられる言葉や行為を受けた時など、精神的ストレスを感じるすべてのことなどについて、主があわれんで助けて下さるように訴えることは、大事な信仰的向かい方であります。


  (3)どのような信仰的対応を表すか

* この詩人の、主への訴えが、主に対する強い信頼から出た信仰的向かい方であると理解することが出来たならば、逆に、主に訴える信仰に立とうとしないのは、信仰に徹していないことになると言えます。

* もちろん、この詩人のような耐え難い苦しみに、みんながみんな会うわけではありません。しかし大なり小なり人は何らかの戦い、苦しみ、苦悩を味わい、呻き苦しむことがあるものです。その時に、その人はどのような対応をしているか、そこに信仰者としての姿がはっきりと出てくるのです。

* 自分の頑張りや性格によって、すなわち、あまり考えないようにしようとしたり、他の事で紛らわせたり、苦しいと思わないようにしようとしたり、あらゆる工夫で乗り越えようとするのでしょうか。

* それとも、苦しみや困難と直接向き合って、主の助けによって、と言ってもすぐに解決が与えられるわけではありませんが、必ず、神がそこに働いて下さり、乗り越えることが出来るようにして下さると信じて立ち向かうか。

* あるいは、苦しみが与えられているのにも、神の深いお心があると受けとめて、そこから学び取るべきことを受け取っていくことにより、霊的に解決しようとするのか、これは、詩篇119:71に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことが出来ました」とあるように向かおうとするのか。

* それとも、この詩人のように、摂理信仰に立つことによって霊的に解決した上で、現状の厳しさに呻いて、主の助けを願って訴えることによって乗り越えようとするのか。

* また、パウロがピリピ書で言っているように、「あなたがたはキリストのために、ただ信じること(信じて喜ぶため)だけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている」(1:29)と言われているので、嵐が過ぎ去るまでは、じっと耐え忍ぶ向かい方をするのでしょうか。

* またペテロがTペテロ書で「キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪から逃れたのである」(4:1)と言っているように、この世に迎合されなかったキリストと同じ向かい方をすることにより、肉において苦しみを経験するならば、その時には、心の武装をする時として受けとめ、神の武具を身に着けて歩むことに心掛けることによって、罪から逃れることができると信じて向かうのでしょうか。

* 人によって置かれる境遇、環境、あらゆる事情の違いがありますから、どのように対応するか異なってくるでしょう。人間的な方法によらず、主の助けと導きとを求め、そこから必要な御心を学び取り、主に訴えるのか、忍耐するのか、覚悟をするのか、その経験を通して霊が強められるのか、どちらであれ、信仰によって対応するならば、主はそこに働いて下さるでしょう。

* この詩人の取った信仰的対応は、その中の一つに過ぎないと言えるでしょう。彼は、自分の取るべき信仰的対応として、霊的な面における解決を得た上で、それでも現状のあまりの厳しさに耐えかねて、主のあわれみにすがり、主の助けを訴えたのです。

* これが御旨にかなった向かい方として神が認めて下さり、その訴えに応えて下さったと21節の後半で告白していますが、口語訳ではそのように訳されてはいません。最後にそのことについて少し触れたいと思います。


  (結び)すべてを益にして下さる主

* 口語訳の21節後半は、「苦しむわが魂を野牛の角から救い出して下さい」と訳されていますが、ここは、古くから論議されてきた箇所です。一番最後の単語アニーターニーは字義通りには、「あなたはわたしに応えて下さった」となります。

* しかし、これでは文のつながりが切れるので、70人訳(ギリシヤ語訳)では、少し言葉を変えて、「惨めである、貧しい、謙遜である」などの意味を持つ言葉に置き換え、野牛の角から救い出して下さいという意味に捉えたのです。

* 20節の助け出して下さいという動詞が、「犬の力から」「獅子の口から」「野牛の角から」の3つの言葉にかかっていると見て、最後の動詞は、これだけを切り離して、22節からの、これまでとは全く基調が異なる主を賛美し、主をたたえる内容に変化する理由として書かれたと見るべきだと考えられます。

* 詩人は、主が私の状態を見て、私の信仰に対してあわれみによって応えて下さったと告白したのです。具体的には、主がどのように応えて下さったのか記されてはいませんが、私の訴えが御旨にかない、主のあわれみによる働きかけを受けて慰められたのです。

* その内容は分かりませんが、肉体的、精神的にホッとできる状況を見せて下さったのでしょう。たとえば、いじめていた人たちをとどめる何らかに出来事があったとか、弱っていた体が少し元気になったとか、主が働いて下さったことが明確ではなくても、詩人は、これが主のあわれみによる助けだと信仰を持って受けとめたのでしょう。

* 必ず、目に見える形で現れるとは限りませんが、それでも主が私の訴えに対して応えて下さっているということが、信仰によって受けとめることが出来たならば、神のご計画の中にあって、霊も心も体も神用に選り分けられた者としての摂理信仰に立つことが出来、苦しみに会ったことも無駄にならず、神のあわれみに満ちた働きかけを受けとめる時となったことを喜ぶことが出来ます。

* 私たちは、何のために今の道を通されているのか、それがたとえ厳しくつらい道であっても、そこを通すことによって私たちを強め、育て、信仰を高めるために通して下さっているということが分かれば、その時は苦しく、主のあわれみを求めて訴えるしかないのですが、すべてを私たちの益になるようにして下さっているという、主の御心を信じることができるのです。(ローマ8:28)



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