(序)摂理信仰を見失わなかった詩人
* 詩人が、苦しみのどん底にありながらも、それによって神を疑うことも、信仰を失うことも、神に対して失望することもなく、なお信じて、よりすがり、神の助けがあることを期待して歩み続けることが出来たのは、主によりすがった先祖たちの信仰に応えられた神を信じる、摂理信仰を失わなかったからだと見てきました。
* 先祖たちの信仰に対して、驚くべき御力を持って応えられた神と言っても、詩人は、それを目で見たわけではなく、御言葉に記された内容を、真理であり、真実であると受けとめる信仰に立っていただけでありますが、詩人は、先祖の上に働かれた神が、今も働き続けて下さっていると信じる信仰を崩さなかったのです。
* 現実には、音を上げそうになるほど周りからのいじめ、迫害が押し迫り、身も心もずたずたになり、神はこの私を見捨てておられるのだろうかという、最後の拠り所である霊の部分さえ、今にも崩れかねない状況にあったのですが、そこでぐっと踏みとどまることが出来たのは、失わなかった摂理信仰の故でした。
* 私たちの人生においても、時には厳しい道があり、音を上げそうになる時も起きてきます。しかし、最後の所で、この摂理信仰によって支えられるのです。信仰に踏みとどまることが出来るか、それとも神を疑い、神に失望し、信仰を失うかどうかはここにかかっていると言えるでしょう。
* 生まれた時から選び、導き、育てようとして、神の驚くべき深いご計画とお計らいの中に生かされており、神の導きの中にない時はひと時もなく、見える、見えないにかかわらず、あらゆる働きかけを惜しまれないで御手を差し伸べて下さっている神への信仰に立っていれば、信仰が崩されることはないのです。
* そのような、主を畏れる摂理信仰に立っていた詩人の信仰を受けとめて、神はあわれんで下さり、信仰の目を持って見れば、見えるように助けの糸口を見させて下さり、苦境から脱したわけではなくても、神の助けの御手を見て前進出来るようにされたのです。
* なんとこの詩人は、その信仰体験を、完全な勝利を得たかのような信仰体験として受けとめ、それを自分の胸の内にだけとどめておくのではなく、同胞の集まる集会の中において証しをし、神が応えて下さった時に、喜びを共にしてもらいたいとの誓約を立てていたので、主への感謝のささげものをし、その一部を同胞たちにも分け、食事をしてもらったと歌っていたのです。
* このような姿に見られるこの詩人の信仰とは、すべて自分の思い通りに導かれて、信仰熱に浮かされてはしゃいでいるというようなものではなく、神による助けの働きかけを信仰によって受けとめたなら、その思いを2度と落とさないように、しかも、それを同じ信仰に立っている者と喜びを共にしたいという強い願いを持った確かな信仰に立っていたことが伺われます。
* そして、自分が体験した信仰体験の証しが、主の御栄えを現すためにどれほど広く伝えられていき、自分の思いを越えて、主のみわざのために用いられ、主があがめられる働きとなって活用されるか、単に願望としてではなく、強い確信として、神のみわざのすごさを歌っているのです。それが、今日の私たち信仰者にとって、どのような意味を持っているのか考えていくことにしましょう。
(1)神によって与えられた証しの思い
* 詩人は、主が与えて下さった信仰による喜びは、自分一人の胸に内にとどめておくものではなく、同信の友と分け合い、共有するものだと受けとめていたので、多くの人々に、一度に証し出来る大集会の時を選んで、その前において、主にある喜びや幸いを証ししたのです。
* もし、主にある喜びや幸いをもたらしてくれた、神による助けという信仰体験が長続きしないで、線香花火のように、一時的にパッと美しく燃え上がってすぐに消えるようなものであったとしたら、それは神による助けという信仰体験ではなく、一時的な思い込みにすぎなかったものとして見られ、証しどころか主を引きおろすものとなってしまったでしょう。
* もし、詩人のこの証しが、一時的なものであったとしたら、次世代、更に後の世代に至るまで私の信仰体験が証しとして用いられると大胆に語ることが出来なかったでしょう。
* 神の助けの全体を見ることができなくても、その助けの一部を見て全体を悟り、神の摂理の中に置いて頂いている事を疑わず、主の助けを確信して人々の前で証しすることを、少しもためらわなかったのです。
* もし、主の助けが、一時的な自分の思い込みではないかと思う心が残っていたり、もっと見える形で主の助けの全容を見ることができたらと思う心があったり、人に証しをした後で、神の助けを確信する思いがなくなったりしたらどうしようと思う心があるならば、大集会において証しをすることが出来なかったでしょう。
* 彼が証しをしたのは、自分の思いの中に、証しするように、神がその思いを起こして下さったと確信していたから、ためらうことなく、誓約していたことまで明らかにして、主にある私の喜びを、共有してほしいと願って証しをしたのです。
* どんな苦境から救い出されたか、神のすごさを兄弟たちの前で力強く証した結果、その証しが集会全体に賛美を引き起こし、すべての民が神の恵みに共にあずかり、人々の霊が生き生きとしたと言うのです。
* すなわち証しとは、自分がどう思ったかを話しすることではなく、主が信仰体験をするように導いて下さった上で、それを信仰の友と共有するように、神から与えられた思いと確信を持って、神の御栄えが現されることを願って語ることです。
* 27節の地の果ての者とは、その後の「思い起こす」「立ち帰る」という言葉から考えて見ますと、神を知っている人々が、当時の地の果てと言われる所まで離散していたのでしょう、そのような人々にも、私が受けた信仰体験の証しが伝わり、思いが主から離れていた人々も、主に立ち帰るきっかけとなると言うのです。
* もちろん、証しにはもう一つの使命があります。それは未信者に対するものです。未信者に対しては共有ではなく、提供でありますが、あなたにとってもなくてはならない偉大な神がおられ、神の助けを頂くことのできる信仰人生の素晴らしさがあることを伝えることです。
* 後半の「もろもろの国のやから」とは、神を知らない異邦の民のことだと考えられますから、どういう経路を辿るかまでは歌われてはいませんが、何らかの形で、異邦人にまでその証しが届き、御前に伏し拝む者が起こされると言うのです。
* すなわち、その証しは、その集会だけに留まらず、地の果てに散っている同胞の民にも伝わり、神の偉大さを思い起こすことによって、主に立ち帰り、そればかりか、異邦の民にまでも、神の偉大さが伝わって、主の御前にひれ伏す者が起こされるようになると言うのです。
* なぜ詩人は、自分の証しが、離れかけた信仰者たちばかりか、未信者の人々にまで届き、自分の証しを通して、そこまで人々を根底から変えてしまう、その一つの道具にされると確信を持って言うことができたのでしょうか。
* これは、詩人が実際はそうでないのに、勝手に思い込んでいる傲慢な信仰者だったから、私の証しは力あるものだと思い、だから神によって用いられると思ったのでしょうか。
* そうではありません。彼は、自分は虫けらだと言った人です。これは謙遜ぶって言ったわけではありません。主のあわれみを受けるにふさわしくない存在だと考えていたのです。そのような人が傲慢になるわけがありません。
* これは、神の助けを体験し、それを喜び、その信仰の思いを伝えたいという思いが、神によって与えられたものだと信じる者の証しは、神が、ご自身の御栄えを表す道具として用いようとされると言うことです。
* そのことは、使徒行伝を見れば分かります。「無学なただの人たち」(使徒4:13)だと思われていた弟子たちの証しが、多くの人の心を揺さぶり、キリストに従いたいと願う人々が無数に起こされ、後の時代の今日に至るまで、その証しは神のみわざとして用いられ、多くの人々の魂を造り変えているのです。
* 彼らの言葉に、人を造り変える力があったわけではありません。神によって証しをする思いを起こされた人々の証しは、神が用いて下さると信じていただけなのです。
(2)私の人生の主権は神にある
* 彼が証ししたことは、自分の信仰体験だけではなく、その信仰体験を通して学び取った信仰理解についてでありました。すなわち、28節で言われている「主権者は神である」ということでした。
* 口語訳では、「国は主のもの」と訳していて、分かりにくくなっていますが、国とは王国、支配、主権を意味する言葉ですから、主権は主のものという表現で、国は王が治めているのでも、人間が治めているのでもなく、神が主権者だと言っているのです。これは、イスラエルの国だけのことではないことが、次の表現で、神は、異邦の国々を含めた全世界を支配しておられるお方であるとの告白です。
* 人は、自分の主権は、自分にあると思っています。しかし、助け主なる神の下に置かれている者は、主権は神にあることを認めることから信仰人生がスタートするのです。それを認めるまでは、すなわち、主権を神にお渡ししない前は、信仰を持っていると思っていても、それは見かけ信仰に過ぎないのです。
* 神は、預言者イザヤを通して、民に向かってこうはっきりと言われています。「あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)これは、神の民がどのような思いで、神の前に立たなければならないかが明言されている内容です。
* 人は、自分の人生を自分のものだと思っている心がありますから、その思いで神の前に立つならば、思い通りにならない時には、神様どうしてなんですかと文句をつけようとするのです。
* 詩人は、これまで、神の主権を認める信仰に立っていたと思われますが、あまりにも苦難の道が続き、先が見えない状況が続いたので、主よ私をお見捨てになったのですか。どうしてこのような状態を放置されるのですかと呻き叫ぶ思いが内側から出てきて、主権を神にお渡しし切れない思いが顔を覗かせようとしたのです。
* 主権を神にお渡しするとは、「神様、あなたはすべてのことを見通され、すべてのことを御心に沿う形で成し遂げることのでき御力をお持ちで、しかも私たち信仰者を愛し、あわれみの心をかけられ、もっとも良い道に導こうとして下さるお方ですから、すべてあなたの御心のままになさって下さいと、神の主権を認め、自分を明け渡すことです。
* 人間は、自分の思いが強いが故に、神の主権を認め、自分を明け渡すということは大変な作業になります。というのは、心の奥底には、もっとこうしてほしい、こうして下さればいいのにと願っている自分の思いが強く残っていて、明け渡す思いをとどめようとするからです。
* 詩人は、この苦難の道を通され、主のあわれみによって神の助けの糸口を見させて頂いた、その信仰体験を大事に思い、自分の思い通りでなくても、御心に沿って、導いて下さっている神様を信頼することが出来たのです。
* 彼は、私の願い通りにして下さるのが、神の助けだと、自分の都合のいいように考えていたのではありませんでした。神の奥深い御心とあわれみに満ちたお計らいの中に置かれていることを知り、たとえ願い通りでなくても、神のお心に沿って助けて下さることを、そのことを通して受けとめたのです。
* そして、信じて従うということは、たとえ自分の思いが強く残っていたとしても、その思いに振り回されず、私の主権は神にあって、神の御思いのままに導いて下さることが、私にとってもっとも幸いな人生であると告白して向かうことなのです。
* 詩人は、今回の信仰体験を通して、この私は神のもの、神に主権があるという信仰をしっかりと受けとめたのです。たとえ自分の意に沿わない状況に置かれようと、私を支配する主権を持っておられるのは神でありますから、助けようと思う時は、神が主権を持って定められるのです。神が私たちのことを、ご自分に属する大事ないのちとして見て下さっていることが分かれば、安心しておることが出来るのです。
(3)個人から群へ、群から世界へと発信される証し
* 詩人は、自分の証しを用いられる神を見ていたので、自分の受けた勝利の信仰体験を告白することが、また、その時に示された明確な信仰理解を告白することが、これからの信仰人生の大きな支えであると共に、それが自分のためだけではなく、群として、集会として賛美の思いに導かれ、その祝福を共有することによって、群全体の証しとして発信され、神のみわざが進められていくと見ていたのです。
* 私たちは、自分の証しが、どのように用いられるのか見えるわけではありません。神は、ご自身が直接、ご自身の偉大さを示し、信頼すべき対象であることを示されるのではなく、一人に働きかけられ、群に働きかけられ、一人の証言、群の証言を用いて、ご自身のみわざを進めて行こうとされるのです。
* そのために、信仰体験をするように導き、信仰理解を確立するように導かれ、一人から群へ、群から全世界へと、信仰に生きることの素晴らしさと幸いとを証ししていくように整えて下さっているのです。
* しかし、どのような信仰体験も、その場限りのものにしてしまったならば、証しに結びつかず、昔、神の助けを経験したことがあるという程度の昔話で終わってしまいます。
* また、その時に、信仰理解を確立するように導かれているのに、何も受け取らず、あの苦難の時は大変だったとの苦労話で終わってしまい、せっかく与えられたチャンスを無駄にしてしまいます。
* 詩人は、この信仰体験を、単なる昔話や苦労話としてではなく、人生の終わりに至るまで、神は御手の中に置き続けて下さっているとの確信に至ったのです。
* それは、預言者イザヤが、神の言葉として民に告げたように、「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4 旧1010)との神の確かな保証を受け取ったのです。
* そして、私の人生は私のものではなく、神のものだ。神に主権があるという信仰理解を受けとめ、それを群として共有するように証しをし、群から全世界へと証しを発信していくようにされた事実を受けとめたのです。
* この詩人は、霊的無駄をしない人であったと言えます。神が一人に臨み、霊を強め、群として共有するように導き、神の代理人、神の器として用いて、みわざを進めていこうとされているのに、信仰体験が証しに結びつかず、群として共有する恵みを受けなければ、群として証しを発信することもなく、全世界へとみわざを進めるために、神の器として用いようとしておられる御心を無駄にすることになってしまいます。
(まとめ)神のものとしての強い意識
* つらい経験を、ただつらかったで終わらせず、そのことを通して受け取っていくべき信仰体験と、信仰理解の確立と、そのことを群として共有することにより、群から神の偉大さを知らせようと発信し、全世界へと、また後の世代へと受け継がれていくのです、神のみわざが進められていく思いが与えられ、それを歌にして示したこの詩人の信仰は、信仰の厳しさを乗り越えた強さを感じます。
* もちろん人間的強さというのではなく、目に見える状況に惑わされず、サタンの働きかけに振り回されず、どこまでも主の御手を見て、主の助けを信じ、主によりすがっていこうとする霊の強さを感じるのです。
* 霊が強いとはどういうことでしょうか。自分に失望せず、肉の思いを大事に持っている間は、肉が強いので、肉の知恵で考え、肉の行動を起こすのですが、自分の内に居座っているこの肉の思いに失望し、霊に働きかけて下さっている神に全面信頼を置くならば、霊は強くされ、神を疑ったり、不平を言ったり、導きが見えなかったりすることはなくなります。
* 詩人は、この私は私のものではなく、神のもの。神が私の主権者だとの信仰に立ち、それがどんなにすごい事実であるか証しせずにはおれなかったのです。
* パウロやペテロが、自分はキリストの僕だ(ローマ1:1他、Uペテロ1:1)との強い自覚を持っていたのは、神が私の主権者であって、主権者なる神の思いのまま動いている僕に過ぎないと言い切っていました。それは、神のものであるとの強い意識があったからです。
* この私は神のもの、神が私の主権者です、と告白し続けて歩んでいるならば、神はご自身の大事な子として私たちを見て下さり、ご自身の大事な仕事を担わせ、みわざを進めさせようとして用いて下さるのは確かです。神はご自身の証し人を大事にされるという事実を見失わないことが大切です。