(序)宣教の第1歩としての弟子選び
* 前回学んだ箇所は、バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレともう一人の弟子が、師ヨハネの導きを受けてイエス様に従い、一泊研修会を通して、このお方こそ自分たちが待ち望んできたメシヤであると確信し、アンデレはそのことを兄ペテロに伝えて、イエス様の所に連れて行ったという内容でした。
* 言わば、イエス様の方から行動を起こして弟子を探し求めたというのではなく、バプテスマのヨハネの下で準備されて、送り込まれてきた、転会弟子たちと、そのうちの一人の兄ペテロでありました。
* しかし、今日の箇所は、イエス様の方からピリポを見つけられ、弟子になるようにと招かれ、その友人ナタナエルのことを御許に来るまでに、すでにご存知であったと言われ、ピリポとセットで弟子として受け入れるようにご計画しておられたということが分かります。
* すなわち、ヨハネがイエス様の下に弟子を送り込むことが重要であると、神の導きを受けて考え、イエス様も、それが神のお心だと受け入れられ、自らも更に弟子を探し求め、引き寄せられたのは、まず主の兵士として弟子を集め、主のわざを始める臨戦態勢を整えることが、宣教の第1歩だとお考えになっていたからでしょう。
* けれども、何だか無造作に弟子集めをしておられるかのように見えるのはなぜでしょうか。人間的にことのことを考えるならば、弟子としてふさわしいかどうか、人格の面、家庭環境の面、信仰の面など十分調査をしなければ、危なっかしくて、正しい選定が出来ないと思うのですが、イエス様は、神としての洞察力と、先を見通す能力とを用いて、即座に判定しておられることが分かるのです。
* イエス様がなそうとしておられるあがないのみわざは、イエス様お一人がなされることですから、そのためだけであるなら、弟子は不要です。しかしイエス様は、そのあがないのみわざを、この当時の人々に、また後の時代の人々に宣べ伝える存在として弟子を選び、主の器となるように訓練し、育てていく必要があったのです。
* 霊的に育って、主の器となることができるかどうかは、イエス様の側で判断された上で、弟子を招き寄せておられるのです。神的洞察力と先見能力によって弟子を見分けておられることが弟子選びの前提となっています。人間の側から求めてきたようであっても、それは神の深いお計らいによる導きなのです。
* キリストの福音を宣教する存在として、弟子たちの存在は重要な役割を果たすことになるので、弟子選びを宣教の第1歩として位置づけられたのだと考えられます。
* この弟子選びの記事において示されている神の御心を理解することは、今日の私たち信仰者においても、大事な御心を受け取っていく上において非常に重要だと言えるでしょう。
(1)弟子としての招きを喜んで受け入れたピリポ
* その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたという表現の中に、最初の弟子たちが同行している様子が伺われません。アンデレともう一人の弟子、ペテロの3人は、まだすべてを捨てて従う弟子の形態ではなく、言わば、通い弟子だったのではないかと考えられます。
* それ故、この日はイエス様お一人が、多分ベタニヤ付近の宿から、ヨハネの活動場所から離れてガリラヤに向かおうとされたのです。どのあたりか分かりませんが、普通に考えるならば、ピリポがベツサイダ出身ですから、ベツサイダか、そこに行くまでの道中だと推測できます。
* イエス様は、ピリポを見つけられました。口語訳では「出会った」と訳し、あたかも偶然に出会ったかのような表現に訳していますが、この言葉は、特に努力して探した末に見出すという思いが込められた言葉ですから、イエス様の方から、弟子とする人間として選んで探し回り、探し当てたと言っているのです。
* イエス様が、ピリポのことをどうして知っておられて、探し回られたのか、ここの表現では、イエス様の驚くべき探知能力、弟子としてふさわしいかどうかを見分ける霊的洞察力が瞬時に働いて、探し出され、弟子として招かれたとしか言いようがありません。
* また、ピリポにとって、イエス様のことをどこまで知っていたのか不明です。もしピリポが、バプテスマのヨハネの下にいた弟子の内の一人であって、ヨハネが指し示したメシヤ紹介を聞いていた一人だったとすると、その時から、あのイエスという人が、メシヤかもしれないと思うようになっていたのでしょう。
* 直接イエス様から、「私に従ってきなさい」との招きを受けたピリポは、何の疑いもなく従ったのです。ちょっと話をしましょうと言って誘われたわけではありません。私の弟子となるために私に従ってきなさいと言われているのです。どうして彼は、いとも簡単に決断して従うことが出来たのでしょうか。
* この記事には、そのあたりのピリポの思いが何も記されてはおらず、従ってきなさいと言われて、彼が従ったという結果だけを記しているのです。このことは何を意味するのでしょうか。
* 日々信仰に生き、神の約束を、今か今かと待ち望み、素直に神に聞き従う歩みをしていなかったならば、即座に従うのがごく自然の如く記されることはないでしょう。
* それ故、このような簡潔な文章において示そうとしていることは、ピリポがいかに神の導きを大事にし、神の御心に対して素直に聞き従う信仰的向かい方をしていた人であったかが伺えます。
* どうして私なのですか?とか、もっとあなたのことをメシヤだと受けとめてからではダメなのですか?とか、あなたに従うということは、私の今の生活はどうなるのですか?とか、すぐに従っていく決断が出来ない理由を述べようとはしなかったのです。
* イエス様の招きを長い間待ち望んでいたかのように、即座について行っただけではなく、日頃信仰の交流があった友であるナタナエルも、同じように弟子に加えて頂けないかと思って、ナタナエルに語りかけているのです。
* これは、あたかも、ピリポ自身が自分に続く弟子としてナタナエルを選んでいるかのような書き方でありますが、イエス様も、ピリポのその働きかけが、神の御旨にかなっていると受けとめられ、ナタナエルも最初は、「ナザレ出身のメシヤなんて信じられない」と疑ってかかったのですが、弟子としての招きを喜んで受け入れることになるのです。
* ピリポは、メシヤの来臨を待ち望んでいたと考えられますが、自分がその弟子として招かれるとは夢にも思ってはいなかったでしょう。しかし、神の導きを受けた時、彼は何一つ拒むことなく、それを神の御旨として即座に受け入れ、友にもその恵みを共有するようにと願い、神が導いておられると受けとめて伝えたのです。
(2)主の偉大さに触れて弟子となったナタナエル
* ピリポが、イエス様の許を、何と言って離れたのか分かりませんが、自分が弟子として招かれて従ったのは、このお方が、古くから神が約束して下さっているあのメシヤであったと感じ取ったからです。それを自分だけの発見にとどめたくなかったので、ナタナエルを探しに行ったのです。
* イエス様が、ナザレ出身のヨセフの子であることを聞いた以外は、ピリポは、何一つ御許調査をしたわけではなく、イエス様からかもし出されている神の子としての威厳、その語られる一つ一つの言葉に、神から遣わされたお方からにじみ出る威光が溢れていて、それをピリポは感じ取り、このお方こそ約束されたメシヤだと疑わなかったのです。
* その確信が、ナタナエルに伝えている言葉に込められていました。出会ってからわずか数時間にしかならないと思われるのに、そこまで確信して、ナタナエルにもぜひそのことを伝えたいと思い、それをイエス様に、理由を説明して探しに行ったのでしょう。
* ピリポがナタナエルに出会ったと45節に記されていますが、ここも、努力して探した末に見出すという、イエス様がピリポを見出された時と同じ言葉が使われています。何としてでも、ナタナエルにメシヤ発見の大ニュースを伝え、彼をイエス様の所に連れて行きたいと強く思っている姿が伝えられています。
* しかし、当のナタナエルは、ピリポが「神が約束されているメシヤを発見した。それはヨセフの子、ナザレのイエス様だ」と言った所、ナタナエルは、この言葉を聞いて、冷めた目で、「ピリポ君、君、何を勘違いしているか知らないが、ナザレ出身者で、神から遣わされたお方が出るなどと聞いたことがない」と切って捨てようとしたのです。
* ピリポは、ただ「来て見れば分かる。」見もしないで思い込みで判断すると損をするよとでも言いたかったのでしょう。友の言葉を無下に出来なかったナタナエルは、半信半疑の思いでピリポについて行ったのです。
* ナタナエルのことも分かっておられたイエス様は、彼の思い込み、かたくなな心を砕く一撃は、すべてを見通すことの出来る先見能力を示すことであることをご存知であったから、まず先制パンチを食らわされるのです。
* 「見よ、あの人こそ本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」と。全く自分を知らないはずのイエス様が、私の信仰姿勢を見抜いておられると感じ、「どうしてわたしをご存知なのですか」と不審に思ったのです。口先だけで、分かっているかのように、当てずっぽうで言われたのではないかと思ったのでしょう。
* イエス様が言われた「ほんとうのイスラエル人」とは、神に選ばれた民としての信仰を重んじ、神を第1において生きている歩みを大事にしている人のことを指しています。そのような人たちは、いちじくの木や、ぶどうの木の下で黙想の時を大事にしていたようです。ナタナエルは、自分は、神に選ばれた民としての信仰に忠実に向かっていると自負していたのでしょう。
* 「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」とイエス様が言われた時、すべてを見通しておられる偉大な能力を垣間見て、それまで持っていた偏見の目、かたくなな心が一度に崩れ去り、「あなたこそ約束された神の子メシヤであり、イスラエルを治めるお方です」と告白したのです。
* イエス様に触れたことにより、何のしるしも、驚くべき能力を見なくても、即座に何の疑いもなく信じて従ったピリポと、その友人でありながら、偏見の目で見、驚くべき能力を示されて初めてかたくなな心が砕かれて信じて従ったナタナエルを、ここに対比して示しています。
* どちらであっても、主の前に偏見とかたくなさが砕かれて、主を信じ、従う姿を現すことができるなら、神の求めておられる弟子となり、訓練を受け、養われ、育てられる者として導かれるのです。
* ピリポもナタナエルも、主の前に砕かれました。しかし、人間はなかなかしぶとい偏見の心とかたくなな心とを持っているものです。しかし、イエス様に触れることによって、神の子としての威厳と、神から遣わされたお方からにじみ出る威光を感じ取ったならば、偏見の心と、かたくなな心から解放されます。そこから弟子としての歩みが始まるのです。
(3)天とつながっている祝福の人生
* イエス様の先見能力に触れて、一瞬のうちに砕かれたナタナエルに対して、イエス様は更にこう言われたのです。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いが人の子の上に上り下りするのをあなたがたは見る時がくる」と。
* 「よくよく」と訳されているこの言葉は、アーメンアーメンと2度語られている言葉で、どれほど大事なことか心してよく聞きなさいという意味で語られている言葉です。イエス様が来られたことによって、一体何事が起きるのか。ここに明らかにされたのは、ナタナエルが偏見の心を持っていたからこそ、語られることになったとても重要なことであって、驚くべき真理が明らかにされたのです。
* 聖書を知っている者であれば、それは、誰でもあの記事だと分かるものでした。それは、ヤコブが母リベカから兄エサウの殺意を聞いて、恐れて逃げることになり、ベテルで野宿していた時に見た夢の内容でした。
* 「一つの梯子が地上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしている光景でありました。その時に主の御声があり、「あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(創世記28:12〜17 旧36)との保証の声でありました。
* ヤコブはその夢を通して、ここは何と神とつながっている神の家、天の門だと言ったのです。すなわち、その夢の意味するところは、そこに立っていれば、そこがたとえ地上であっても、神とつながっており、御使いを通して助けが与えられるという異空間がべテルだと言うのです。
* 空間とは、この地上にある種々の現象が起こる広がりのことでありますが、この地上と天上とを結びつけ、神の介入があるという異空間がべテルであると示され、異空間べテルを持つことによって、この地上にいながら、天上とつながり、神の介入を得ることができるという驚くべき真理が示されているのです。
* 罪深い人間が、このべテルを探し当てるのは難しいことでありますが、イエス様は、ベテルを場所としてではなく、神は、メシヤであるこの私をベテルとされる。それは、この私が罪人の罪をあがなうそのみわざを成し遂げることにより、ベテルが完成すると教えられたのです。
* イエス様は、ご自身のことを人の子と言われ、その私の上に、天に通じる一本の梯子がかけられ、それが天にまで達しており、それを上り下りしている御使いを用いて、御言葉を語り、みわざをなし、恵みを注ぎ、祝福を与え、神の守りの内に置かれ、神としっかりとつながっていることが出来るようになる。これをあなたは見ることになると言われたのです。
* ナタナエルは、何時これを見ることになるのでしょうか。もちろん、イエス様が十字架にかかられ、よみがえって天に昇られ、栄光をお受けになった時であります。それによってイエス様が祈られたことが実現するのです。「聖なる父よ。わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」(ヨハネ17:11)
* この地上にあって生きながら、天とつながっている人生、しかも一人ではなく、信じる者が一つに結び合わされて、天とつながっている歩みをすることになる。こんな驚くべき光景をあなたがたは見るようになると言われたのです。
* 私の罪をあがなって下さったキリストを信じるということが、異空間べテルを持つことであって、天上とつながった祝福された天国人人生を送ることが出来るようにされたのです。もちろん終わりの日が来れば、異空間べテルの必要がなくなり、みな天上に引き上げられるようになるのです。
(まとめ)異空間べテルを味わい、確認する
* イエス様は、宣教の第1歩として、弟子選びを大事にされました。それは、主の進められるあがないのみわざが、多くの人々に届けられることによって実現するために、弟子は必要な存在であったからです。
* 全く疑いを持たずに従ったピリポも、偏見の心とかたくなな心が砕かれたナタナエルも、主を信じて従う者となりました。弟子として生きるようになった彼らは、異空間を体験し、霊なる神を見、神の恵みと祝福にあずかり、神の働きかけと導きとを受け、天上としっかりとつながっている者として、この地上にあって生きるようにされると明らかにして下さったのです。
* イエス様の直接の弟子とは違うのですが、私たちもキリストを信じることによって弟子とされ、弟子として生きるようにされているのです。
* 弟子として生きるとは、異空間べテルを持ち、日々体験し、天上とつながっている人生を絶えず確認し、天から流れてくる恵みと祝福を受け損なわず、霊的に喜びと感謝に満ちる歩みをすることです。もちろんこれは、肉的な意味で喜びと感謝に満ちる歩みが出来るとは限りません。
* こうして信じる者が一つに結び合わされ、天上に引き上げられる時まで、異空間べテルの素晴らしさを味わいながら前進していくようにして頂いているのです。これは何という幸いな弟子人生でしょうか。