聖日礼拝メッセージ
2012年10月14日 更新

  聖 書 ヨハネ2:1〜11  (第13講)
   題 「より優れた上質の弟子信仰にされる主」


  (序)弟子信仰を訓練し、育てるしるしとして

* イエス様が、宣教の第1歩としてお考えになられたのは、弟子を選ぶことでした。このことをいかに重要視しておられたかは、弟子たちを必死に育てようとしておられるイエス様のお姿が、福音書にちりばめられていることからもよく分かります。

* 弟子たちの何を育てようとされたかを理解していることが大事であります。彼らの人間性や知識を育てることが目的であったのではありません。弟子にとってなくてはならないこと、それはイエスが神であり、人間を罪から救い出すみわざをなされるお方であるとの信仰を育てることが目的だったのです。

* それは簡単なようで、簡単ではありませんでした。その信仰は絶えず揺らぎ、イエスが神なる存在であるとの信仰が確立するには、多くの訓練を通される必要がありました。

* 特にイエスが十字架にかかられることになった時には、弟子たちの信仰も、風前の灯のようになってしまうことが目に見えていました。それ故、揺らいでいても、復活を通して回復させ、聖霊が注がれることによって信仰が確立する道を、ちゃんと用意しておられたのです。

* イエス様が、弟子たちをどのように訓練し、育てようとされていたかを、著者ヨハネはこれから具体的に明らかにしていこうとするのです。これらのことを学んでいくことは、神が私たち信仰者一人一人に、どのような弟子信仰に訓練し、育てようとしておられるかを理解し、受けとめていくために役に立つと言えるでしょう。

* ヨハネは、この福音書の中に7つの奇蹟物語を書いていくのですが、彼はそれを奇蹟とは言わず、しるしと言いました、すなわち、単に人を驚かす超自然的行為としてではなく、イエスが神の子キリストであることを証明するしるしとして記したのです。

* それらは、すべて弟子たちの信仰が育てられるためのものであったと言って過言ではありません。それでは、まずその7つのしるしがどのような弟子信仰を教えようとするものであるか、簡単な概略を見てみることにしましょう。

* 第1のしるしは、水をぶどう酒に変えられるというしるしです。2:1〜11、これは、今必要なものに変換されるという、質の変化をもたらされる主について記しています。

* 第2のしるしは、役人の息子のいやしです。4:46〜54、これは、目の前にいる人に対してではなく、遠く離れた所にいる人間をいやされるという、空間を超えた神の御力を示す主について記しています。

* 第3のしるしは、ベテスダの池にいた病人のいやしです。5:1〜9、絶望していた人間に信仰の道を示され、すべての人の悩みを知り、慰めを与えて下さる主について記しています。

* 第4のしるしは、実質1万人以上の人の食を満たされるしるしです。6:1〜14、わずかのもので全員満腹になるほどの量に増やされ、養い主である主について記しています。

* 第5のしるしは、湖の上を歩かれたというしるしです。6:15〜21、弟子たちの内側に起きていた肉の思いが、信仰を引き落としていたので、ご自身を受け入れることしか弟子信仰が育たないことを示しておられる主について記しています。

* 第6のしるしは、生まれつき盲人だった人のいやしです。9:1〜12、不幸な境遇や、苦しみの中にある者に、その目的を示し、人間は、すべての事柄を信仰の目を持って対応するように示しておられる主について記しています。

* 第7のしるしは、死んだラザロをよみがえらせるしるしです。11:1〜44、死をも支配しておられ、いのちを握っておられる主、肉体のいのち以上に魂のいのちを与える主について記しています。

* それでは、今日は第1のしるしである質の変化をもたらされる主のすごさを明らかにし、弟子たちの内に信仰の思いを引き起こさせ、イエスを信じるとはどういうことかを学ばせようとされた点を受けとめ、私たちが弟子信仰を表していくということはどういうことか、ご一緒に考えてみることにしましょう。


  (1)神の時は何時来るのか

* ナタナエルが弟子となってから3日の後に、ガリラヤのカナにおいて婚礼があって、イエス様と弟子たちとが招待されたと言うのです。

* なぜ招待されたか推測できることは、婚礼の手伝いに母マリヤがそこに来ていたということから考えて、マリヤの親族か、友人の家族であったと考えられ、その関連からイエス様とその弟子たちも招待されたのでしょう。

* 婚宴は通常新郎の家で行われ、1週間から、長いのは2週間にも及ぶ時もあると言います。そこでは、招かれた者たちには十分な肉やぶどう酒が饗応されたと言います。途中でぶどう酒がなくなったというのですから、あまり裕福な家庭の婚礼ではなかったのでしょう。

* そこにイエス様は何日もおられたのか、何時頃ぶどう酒がなくなると思ったのか、記されている内容が簡潔すぎて、よく分かりませんが、接待係として行っていたマリヤが、ぶどう酒が足らないことを感じたほどですから、事態が切迫していたのでしょう。これでは、若い二人の門出に大きな傷がつくと思ったのです。

* マリヤは、イエスなら自分の気持ちを察して何とかしてくれるのではないかと考えたのです。この時には、イエス様は人々の目を惹くような行動はなさってはいなかったのに、マリヤはなぜか、何とかしてくれると思ったのです。

* それは、イエスには人には出来ないことをなす力があると信じていたからです。もちろんそこには情により、何とかしてくれるのではないかという根拠のない淡い期待を持っていたと言えるでしょう。

* この時の、マリヤの信仰がどのようなものであったか理解するのは難しいですが、結婚前から、イエス様が生まれた頃までの記事を見れば、素直に神を信じ、厳しく感じても、神の御心をそのまま受け取る信仰があり、神に仕え、神のためならばどんなに苦境に追い込まれても恐れなかった信仰を持っていました。(ルカ1章、2章)

* それから30数年経ったこの時、多分夫ヨセフを早く亡くし、困難な生活を強いられてきたことでしょう。しかし、神から生まれたイエスの成長を楽しみとし、主に信頼して生きてきたある時、その子イエスが、神に仕える公生涯を歩むと宣言して家を出たのです。

* 母マリヤにとっては、そう簡単に、神によって生まれた子であったから、神に仕える者として、自分の許から離れていくのが当然だとは、なかなか思えなかったことでしょう。

* それは、人間には情があるから、母子の情はそう簡単には切れないので、マリヤの思いの中には、イエスは、母の頼みなら聞いてくれるのではないか、そう思っていたことでしょう。それが、ぶどう酒がなくなったので、何とか方法を考えて手助けしてほしいと願う言葉の中ににじみ出ていることを感じます。

* 神から一時期育てるようにとお預かりしたものを、神にお返ししなければならないのに、渡しし切れないマリヤの思いが見られるのです。そんな母に対して、イエス様は何と冷たい言葉で、母と呼ばずに、「婦人よ」と呼び、「わたしと何のかかわりがありますか」と言われたのです。

* 孝養、忠義の情を重んじる日本人には、この表現は、親を敬わない、道徳観の低い言い方に感じられ、受け入れづらいものです。なぜこう言われたのでしょうか。母マリヤの信仰を身近で見て知っていたからこそ、神から生まれ、神の下に帰って行くことになったこの私に対して、もう母子の情から見るのではなく、神の下にお返しした意識を強く持つ必要があるように示されたのでしょう。

* イエス様が「婦人よ」と呼ばれた上で、もうわたしとの母子のつながりは優先されないとの意味で、何のかかわりがありますかと言われたのは、母子の情で私を見、私を動かそうとすることはできません。もうその時は終わったのです。あなたの思いでは、私はもう動くことが出来ません。公生涯に入った私は、神の動かされるまましか動けないと断言されたのです。

* 霊が鋭くされたマリヤは、その言葉の意味する所を受けとめることが出来たのでしょう。ただ母子の情によってではなく、婚礼の当事者たちのために、この場の窮地を救ってあげてほしい、イエスにはその力があると信じたマリヤは、給仕係たちに、「彼があなたがたに指示することは何でもその通りにして下さい」と言ったのです。

* これは、自分の思いでイエス様を動かそうとしたのではなく、子ではあっても、今では神の子として立っているイエス様として、その持っておられる権威と御力に信頼しておゆだねしたのです。婚礼の当事者たちだけのことを思い、また、情によらず、神の子に対しての信仰を持って、神の時を期待したのです。

* それ故、私の時はまだきていませんと言われたにもかかわらず、マリヤの信仰を見られて、神の時が到来し、神の子としての第1のしるしを表されることになったのです。

* 私たちにとっての神の時はいつ来るのでしょうか。それは、神の権威を認め、御力を信頼し、自分の人生をお任せし、自分で自分のことを心配しなくなり、神がもっともいいと思われる時にあわれみの働きかけを見せて下さいと願う時であると言えるでしょう。


  (2)求めた願い以上に応えられるキリスト

* イエス様は、母マリヤに頼まれたからではなく、母マリヤの信仰に応えられる形で、給仕係の者たちに、ユダヤ人のきよめの儀式用に置いてあった石の水がめ6つを指して、「これをすべて縁一杯まで水を加えて一杯にしなさい」と言われたのです。

* マリヤの言葉もあったので、給仕係の人たちは、何も言わずに言われたとおり、井戸から水を汲んできて、石のかめ6つ共一杯にしたのです。彼らは何のためにそんなことをするのかと考えなくもなかったでしょうが、疑問に思いつつしたことでしょう。

* しかも、それが済んだら、ここから汲んで宴会長の所へ持って行きなさいと言われたので、疑問が解けないまま、それを汲むと、ぶどう酒の香りがほのかに香ったのです。これはどうしたことかと思いながら、ぶどう酒に変化した水を宴会長の所へ持って行ったのです。

* ここには、給仕係の人たちの反応が省略されています。宴会長の反応だけで十分意が通じるので、省略したのでしょう。どれほどの分量のぶどう酒を持っていったのか分かりませんが、このぶどう酒が、石のかめ6つ分あることを伝えたことでしょう。

* 宴会長は、もうなくなると思って心配していたと思われますが、上質のぶどう酒が沢山あると分かって驚いたのです。

* こういう婚礼の宴会に慣れていた人であったのでしょう。このような宴会では、最初に上質のものを出し、酔いが回って味に対して鈍感になってくると、品質の悪いぶどう酒にするのが普通なのに、こんなに上質のぶどう酒を取り除けておいたとは、と驚いたのです。

* わざわざ花婿を呼んで言ったと言うのです。花婿は何のことかさっぱり分からなかったでしょうが、面目が丸つぶれにならなくて済んだのです。

* イエス様は何のために上質のぶどう酒にされたのでしょうか。この時にマリヤが求めたのは、足らなくなったぶどう酒を補ってほしいという求めでした。同じ品質のぶどう酒に変えることも出来たと思われるのに、どうして上質のものに変えられたのでしょうか。

* 婚礼の当事者たちの面目を守るためになされたのでしょうか。そうではありません。母マリヤの信仰に答えるためであり、上質のぶどう酒にされたのは、主の権威を認める信仰に立って求めた願いに対して、それ以上のもので満たされるお方であることが、そこに示されているのでしょう。

* これは、信じてゆだねさえすれば、私たちの思いをはるかに超えた驚くべき恵みを見させて下さり、その素晴らしさに喜び躍ることが出来るようにして下さる神であることを表しているのでしょう。

* ただこの奇蹟には、多くの疑問が残ります。なぜ石のかめの縁まで一杯に満たす必要があったのでしょうか。何も一杯にしなくても、残っている水だけでもよかったのではないか。また、イエス様がかめの上に手を当てて祈られたのではなく、すべて給仕係の手に任せておられるのはなぜか。どうして人々に明らかにしないで、給仕係の者たちだけが分かるようにされたのか、確かに疑問は残りますが、それらの疑問がすべて解けなくても問題はないでしょう。


  (3)弟子たちの信仰の確信が強められるしるし

* このしるしは何のためであったのか、著者ヨハネは、11節の所で2つの目的を書いています。第1は、このしるしを通してご自身の栄光を現されたと言い、第2は、弟子たちはイエスを信じたと言っています。

* マリヤの信仰に応え、石がめに入っている水をぶどう酒に変えられたというしるしは、イエスが神として持っておられる大能の力のすごさと、物質をあるものから別のものに変換するという神にしかなしえない、より有意義なもの、より上質のものへの変換という、神の介入を明らかにすることが、神としての栄光を現していると言うのです。

* これは、ユダヤ人のきよめの儀式に用いていた水でありました。不浄だと言われるものに触れる度に、きよめの水で洗わなければなりませんでした。それ故、頻繁に洗うので、多くの水が用意されていたのです。それを守ることが、きよい神の前に歩むためになされなければならないこととして、律法に定められていました。

* その水を一部ではなく、全部ぶどう酒に変えられたという点を考えて見ますと、きよめの水を不要とし、きよめの儀式に縛られていた人々の心を解き放ち、より有意義な、より上質なぶどう酒に変えられ、より神に役立つ者に造り変えようとされている神の御心がそこに示されており、律法より、より優れた福音に変えるために来られた神の子としての使命を、このしるしを通して表されたということができるでしょう。

* 同じ液体のものがあったから、変換しやすいということで、また、偶然そこに水があったから、水を用いてぶどう酒に変えられたと言うのではありません。すべてのものを造られた主であり、無から有を造り出すことの出来るお方でありますから、何もきよめの水でなくても良かったのです。

* と言うことは、その水を変えることにも意味が込められていたのです。きよめの水を不要とされたこのしるしは、より優れたもの、より有意義なものに変換して下さるという、イエスがもたらして下さった福音を指し示していることが分かります。

* しかも、これらのことは、出席しているユダヤ人全体に明らかにしようとしてなさったのではなく、隠されたままであり、これらはすべて弟子の信仰を訓練し、信仰を育てるために、すべて弟子たちの見ている前でなさったのです。

* ナタナエルに示された、神と直結している地上の場所、すなわち異空間ベテルが、この私において実現するのを見ると教えられたことを証明していく一つのしるしとして、水をぶどう酒に変え、旧約の束縛から解放し、より有意義な、より優れた上質のものに変えるという、新約の福音の幕開けをここに見させられたのです。

* 一緒にいた弟子たちは、アンデレともう一人の弟子、ペテロ、ピリポ、ナタナエルの5人であったでしょう。彼らがこのしるしを目の当たりに見て、どこまで理解したのか分かりませんが、このお方が、神から遣わされた神の子だとの確信が強められるしるしとなったことが、イエスを信じたという言葉に表されているのです。


(まとめ)スイッチが切り換えられているか

* イエス様が神であることのしるしとして、このような驚くべき奇蹟を、人々に分かるように示そうとなさらなかったのはなぜでしょうか。このしるしを表されるきっかけとなったのは、情がからんだ母マリヤの願いでありました。

* 私と何のかかわりがありますかと一度突っぱねておられながら、その願いを聞いて、ご自身が神の子であることを一部の人に対してだけではありましたが、示そうとされたのはなぜでしょうか。

* 冷たくあしらわれているように見えるイエス様の対応でありますが、母マリヤの信仰を引き出し、母子の情を持って見てはならないことに気付かせ、子であっても神なるお方として信じるように導かれた様子が伺えます。

* イエス様は、公生涯に入られた時、完全にスイッチを切り換えられ、神の子としてのみ立たれ、与えられた使命を完遂するために弟子を選び、弟子の信仰を訓練し、育てることを何よりも優先し、神から託された使命に全生命をかけて向かっておられるのが分かります。また、母マリヤにも、神の子の前に立つ一人の人間として、スイッチの切り換えを求めたのです。

* そして、ここにいる弟子たちにも、あなたがたをより優れた上質な弟子に変換していくことが私の願っていることだと暗に示され、神の子の前に立つ弟子として、スイッチを切り換えるように、このしるしを通して教えておられるのです。

* それは、どこまでも私たち弟子を有用な、役に立つ、上質なぶどう酒に変える事が、イエス様にとって重要な使命の一つであって、そのためには、ご自身の身代わりの死をさえ覚悟して向かって下さっているのです。

* このイエス様の思いに応えるには、私たち自身も、すでに神に属する者、神用に役立つ者にされているとのスイッチに完全に切り換え、弟子信仰に立たせて頂いている者として向かうことが大切だと言えるでしょう。

* このスイッチの切り換えが出来ないままの信仰生活は、情を引きずり、世の思いを引きずり、平安がないままで向かうことになり、弟子信仰が育っていかないのです。



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