(序)イエスの第2の使命、ユダヤ教の矯正
* イエス様は、ご自身が神の子であると目覚められた時から公生涯に入るまでに、ユダヤ教信仰が本筋から離れて突き進んでいる様子を、絶えず見て来られたことでしょう。どうして、いのちある信仰を形式的、儀式的ないのちの通わない信仰に引き落としてしまっているのか、強い憤りを覚えておられたと分かります。
* マタイ23章には、ユダヤ教の主流であり、指導者層を占めていたパリサイ人、律法学者の信仰が、肉の思いで向かう、神のおられない信仰に心を奪われており、人の目だけを意識し、偽善的な信仰に終始している姿を指して、盲目な案内者たちと、激しく糾弾しておられるイエス様の様子が記されています。
* 公生涯に入られる前に、自分に与えられた使命を果たしていくためには、何をしなければならないか、十分に祈り、思いを整えて向かわれてきたと思われます。
* そこで、まずお考えになったことは、福音が終わりの日に至るまで、永続的に全人類に及び、力ある信仰として人々の思いを捉え、人類救済事業を展開していくために、第1に重要なことは、弟子養成プログラムを進めることでありました。すでにその働きは着手されたのです。
* もう一つ、ご自身の使命を果たす上で必要だと思っておられたことは、全く、新しい教えを展開していくことが目的なのではなく、神がこれまでレールを敷いてこられたユダヤ教路線を完全に排除されることではなく、その路線を完成させることにあったことを強く意識してこられました。(マタイ5:17)
* しかし、ユダヤ人たちは、いつの間にか、神の敷かれたレールの上を走ろうとせず、自分たちが作り出した別のレールの上を走り出しており、それは、神の御思いから遠く離れた方向に向かうレールであるのに、それで神に向かっているかのように思い込んでいるという、おめでたい信仰になってしまっていたのです。
* イエス様が、ユダヤ教と全く異なる新しいレールを敷かれることを目的としておられたなら、ユダヤ教に対して、強い怒りを表される必要はなかったのですが、イエス様のお心はまず、正規のレールから逸れてしまったユダヤ教の愚かさを指摘し、矯正した上で、そのレールを完成させる必要があると考えて臨まれたのです。
* それ故、今日の箇所においては、ユダヤ教の何が、神の御思いから遠く離れたレールとなってしまっているのか、言葉だけではなく、行動をも伴って、激しい神の怒りを表すことによって示されているのです。
* ともすれば、イエス様は柔和な愛に満ちたお方であるという一面だけを受けとめたいと思う信仰者がいますが、そのような人は、ここに記されているような、怒りを顕わにされる乱暴なイエス様の言動に対して拒否反応を覚えるのです。私たちは、神の御怒りを受けとめることが出来ない片寄り信仰者になってはいけません。
* 旧新約を通して、神は一方では愛でありつつ、もう一方では義であり、この2面を併せ持ったお方であることがはっきりと示されています。罪、汚れ、不信仰に対して激しく怒られる義なる神の御心を、イエス様もそのまま表しておられるのです。
* それは、今日のキリスト信仰においても同じです。ユダヤ教を土台とし、それを完成されたキリスト教のレールが、キリストのあがないの恵みによって出来上がっているのに、世的、感覚的な思いを満たそうとする、神の御思いから遠く離れた別のレールの上を走ろうとする惑わされた信仰になってしまっている人たちに対して、イエス様は追っ払い、ひっくり返し、ここから立ち去れと激しく怒られるということを心に留めなければならないのです。
(1)神の領域を侵犯してはならない
* 宮きよめと呼ばれるこの出来事は、共観福音書にもあるのですが、記されている時期が著しく異なっているのです。共観福音書においては、公生涯の終わりに近い頃の出来事とし、その結果、ユダヤ教の指導者たちはイエス様を憎み、殺そうと考えるようになった出来事として取り上げているのです。
* しかしヨハネによる福音書では、公生涯の初めにおいてなされた出来事として取り上げ、共観福音書の方では祭司長や律法学者たち指導者層の激しい殺意が生まれたと言うのですが、ヨハネにおいて、問い詰めようとした人々は、そこに集まっていたユダヤ人一般を指しているのです。
* それ故、一つの解釈として、公生涯の初めと終わりに宮きよめを2度行われたと考え、それぞれの福音書記者は違った出来事を取り上げていると見る見方です。
* しかし、共観福音書の方では、この事件をきっかけに、イエスに対する殺意が指導者層に公然と現れてきているのに、ヨハネの記事では、それほど当局の激しい反撃が見られないのです。考えられることは、イエス様の活動がまだ大々的にされていなかった時期ですから、イエス様に対する当局の認知度が低かったので、警戒感を持たれていなかったから、見逃されたとも言えます。
* 他の解釈もあって、難しい問題ですが、もし著者ヨハネが、共観福音書の記事を知っていながら、あえてここに宮きよめの出来事を記したのであれば、公生涯の初めにおいて、ユダヤ教の矯正に乗り出されたことを、この事件を通して明らかにしようとしたことが分かります。
* ユダヤ教においては、毎年過越の祭りの頃には、数多くのユダヤ人が、各地からエルサレムに集まってきて礼拝をささげるのですが、イエス様も弟子たちを引き連れてエルサレムへと上られたのです。
* 神殿の庭において見る光景は、あまりにも世的汚れが充満し、これがきよい神の神殿の光景と言えるのか、イエス様の目には、神の御心をないがしろにした、そこには、信仰の香りがしない、肉の思いしか感じられない光景として写ったのです。
* 確かに、遠い地からエルサレムに来て、供え物をささげる人たちのために、羊や牛や鳩が購入できるように心配りがなされ、また、神殿において献金する貨幣として指定されているユダヤのシケル貨幣を持っていない、各地から礼拝に来た人々のために、ローマのシケル貨幣と両替する店があることは必要なことであったでしょう。
* それでは、イエス様はどこに世的、肉的香りをかがれ、その汚れにぞっとされたのでしょうか。これらは、すべて神殿における礼拝のため、神にささげるためのものとして、律法に定められているので、忠実な信仰者であるならば、必要なものであり、便利な仕組みであり、遠い地からはるばる羊や牛などを連れてこなければならなかったとしたら大変だから、手数料が必要だとしても、ここで購入する方が助かるのです。
* それ故、これはユダヤ教当局の許認可を得た合法的な制度であり、これがなければ、各地から宮もうでに来る人たちにとっては、不便であり、困ったことになります。イエス様は、この制度そのものが世的であり、肉的であると見られたから、やめさせようとしたのでしょうか。
* イエス様がどう思われていたか、イエス様が語られたお言葉から見ていく必要があるでしょう。16節で、「これらのものを持って、ここから出て行きなさい」と言われました。
* この言葉は、「ここから別の所へ移動させる」、「ここから取り除く」という意味の言葉で、ここにおいて、すなわちわたしの父の家においてこのような商売をせず、ここから外に出なさい。ここはきよい神の領域であって、そのようなことを行う場ではないと、神の領域と世の領域とを線引きされたのです。
* ユダヤ教の当局も許認可していたから、民衆も、何の問題も感じていなかったのですが、それは、何が肉的なことであって、何が霊的なことか見分けがつくように教えられてこなかった民衆には、その判断が出来なかったのは当然と言えば当然のことです。
* 民衆は、当局が認めたと言うことは、神が認めておられることだと、何の疑いを持つこともなく、必要な制度として見ていたのですが、イエス様は、それを神の領域を汚す、神に対する罪だと指摘されたのです。
* もう一つイエス様が指摘されたことは、「わたしの父の家(領域)を商売の家とするな」と言うことでした。共観福音書の方では「強盗の巣にしている」と激しい表現で語られています。(マタイ11:13他)
* すなわち、人々に便宜を図るためという口実を使ってはいるが、主にあって奉仕するためにではなく、金儲けのために行っており、ユダヤ教の当局においても、許認可を与えることによって、商人たちから利益に応じて上納させていたのでしょう。これらのことを見抜いておられたイエス様であったからこそ、神のものを横取りしようとする強盗となっていると言われたのです。
* 神の領域以外の所で商売することは何の問題もありません。神に仕えるためではなくても、また、金儲けのためにしても問題はないのです。世の領域ですからそれは当然のことです。その向かい方であれば強盗とは言われません。正常な売買契約に基づく商売であります。それがたとえ供え物に使うものであっても、金儲けをすることによって神のものを盗んだとは言われません。
* しかし、神の領域内において商売をすることは、神を汚し、神のものを盗むことだと見られているのです。それでは、今日において神の領域とはどこを指しているのでしょうか。教会堂でしょうか。そんな狭い意味ではありません。教会堂と神殿とは全く異なったものです。
* 信仰者は、世の領域においても、神と向き合いつつ生きているのですが、世の領域においては、商売も金儲けも何の問題もありませんし、仕事によっては、そのことを抜きにして向かうことが出来ないものです。
* しかし、神を中心として向き合う時は、すべて神の領域であり、どこにあっても商売をせず、金儲けを考えないことです。そうでなければ、私のものを盗むなと神から言われることでしょう。まして慈善の名の下に、教会堂でバザーなど、もってのほかです。教会の名を使って決して商売すべきではありません。教会堂は、神を信じる者たちが集い、主をたたえるために建てられたものだからです。
(2)キリストの復活による霊的神殿の再建
* 弟子たちは、イエス様の言動、人々の反応を見て、詩69:9にある、「あなたの家を思う熱心が、私を食いつくすであろう」と書いてあることを思い出したと言うのです。
* これは、イエス様が、父の家はきよくあるべきだとの強い熱意を持っておられたから、汚れている神殿に対して、神の怒りを示すことにより、人々から反撃を食らうことになるという意味として思い出したことが分かります。
* この時にいた人々は、ユダヤ教の指導者たちではなかったから、この神殿制度を否定されることによって供え物をささげる私たちが困ることになると考えて、「あなたはどんな権威を持ってそのようなことをし、ユダヤ教の当局が認可しているこの制度を破壊しようとするのか、私たちに納得出来るしるしを見せてくれ、と言ったのです。
* 人々は何が便利で、どうあってほしいかという自分の観点からしか物事を見ることができないから、神の家を商売の家とするなと言っておられるイエス様の言葉の意味が理解できず、神は神殿においてどのような言動を忌み嫌われるのか、考えることもしなかったのです。
* 人々は、神殿制度を取り決めたユダヤ教の当局の姿勢が、神に喜ばれるものだと盲目的に思い込んでいたので、その制度を破壊しようとする者は、神に対する反逆者であると考えていたのです。もし、本当にそれが神に忌み嫌われるものだと言うのなら、神による判断である証拠を出してほしいと言うのです。
* もしここで、彼らが求めるような奇蹟を行って、神から遣わされた者の証言であることを証明することによって、ユダヤ人たちを納得させようと思えばすることも出来たのです。そして、ご自身がメシヤであることを宣言することも出来たのに、なぜかイエス様はなさらなかったのです。
* これは、人間的に納得させようとすることが、イエス様のなさりたいことではなく、言葉を聞いて、神のことを深く思い、自分の言動を見つめる目を持たせ、今のユダヤ教が矯正される必要のあるものであることに気付く者が起こされることを願われていたのです。
* それ故イエス様は、人々が納得できる言葉ではなく、人々が気付きもしない神の深い御心を示されたのです。どうしてこんなことを話されたのでしょうか。これは、後になって、この私が神殿だということを気付くように、弟子たちの信仰を育てるために語られたと言うことが分かります。
* それでは、キリストの復活が、なぜ霊的神殿の再建だと言われたのでしょうか。これは、神殿の持つ意味を正しく受けとめないと分からないことです。ソロモン王は神殿を作った時、「見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることは出来ません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と言いました。(列王上8:27 旧489)
* 神はそのような建物に入れることのできない偉大なお方でありますが、この宮にあなたの名を置き、目を開いて下さいと祈り、神殿は、神の臨在を示すしるしとして神のお心にかなったと言われているのです。
* しかしその神殿は、いまや神のおられない所、神の忌み嫌われる所となってしまっていたのです。神の領域を大事にしようとせず、その中に世の領域が割り込んで入ってきており、商売が平然となされることによって神の臨在を押しやり、肉の思いが自由にうごめく場と化してしまっていたのです。
* 当時の人々は、目に見える神殿だけが、神が臨在して下さる所だと考え、そこでしか神と出会うことが出来ないと考え、仲介者である祭司の働きにより、神との深い結びつきを妨げる罪から赦されるために、供え物をささげ、主に自分を差し出し、仕えるために献金をささげ、神との深い結びつきを真に望んだのです。
* しかしイエス様は、神殿は、単なる予型であり、それが示す本体はこの私であり、十字架のあがないのみわざを成し遂げ、3日目によみがえることによって、霊的神殿が完成し、この私を通して、神との深い結びつきを頂くことが出来るという真の神殿の意義を示されたのです。
* 人々はいつも目に見える神殿にだけ目を奪われていました。当時の神殿は、ヘロデ王によって修復に修復を重ね、威厳を感じる、荘厳、壮大な建築が46年経ても、なお続けられていたと言うのです。
* しかし霊的現状は、汚れた信仰が横行し、商売の場となっているのに何とも思わず、そこはすでに、神の臨在が感じられない所となってしまっていたのです。そのことに気付かせようと行動を起こされたのです。形は立派であっても、そこは神がおられない所となっていた。それがユダヤ教信仰の実情だったのです。
* その言葉を受けとめることが出来たのは誰もいませんでした。ただイエス様がよみがえった後、この言葉を思い起こした弟子たちが、予型として示されている神殿の本体は、復活されたキリストであり、そこが神の臨在を得る唯一の場所だと悟ったのです。このことが意味するものは非常に重大だと示されているのです。
(結び)神のきよさに疎くなっていないか
* なぜユダヤ教の指導者たちも、民衆も、神殿の庭において、供え物を商売として売り、両替で利潤を得ようとする世そのものの光景を見ても、そこに何の問題も感じず、当然のこととして受け入れていたのでしょうか。
* イエス様の目から見れば、それは神の領域を汚している大逆罪であり、神の御思いをないがしろにする(軽く見る、馬鹿にする)不敬罪であって、神のきよいご性質を認めようとしない、神を低く見る侮辱罪であることが明らかです。
* なのに、どうして人々はそれを感じ取ることが出来なかったのでしょうか。その理由は明らかです。霊が働いていないからです。神を愛し、神を喜び、神との結びつきを大事にし、神の御前に立って歩むことが、人としてのあるべき姿であることを教え導く部分として、人間には霊が与えられたのです。
* しかし、罪を犯した結果、この霊が働かなくなったのです。信仰を持つことによって、霊を回復して頂いたのですが、十分働かず、鈍いままの信仰者も多いのです。
* 当時のユダヤ人たちは、礼拝を大事にして守ってはいましたが、きよい神の御前に立っている者という意識が欠けており、神の領域を平気で侵犯していても、それを罪だということを意識しない鈍い霊を放置したままにしているから、きよい神の御前に立つ歩みになっていなかったのです。
* きよい神の御前に立つとは、神のきよさを意識し、神の領域を重んじ、それを侵犯しないように心掛けることです。そうすれば、どういうきよさを重んじなければならないか、神の領域とは何を指していることなのかが見えてくるようになります。
* 私たち信仰者は、キリストを信じることによって、霊を回復して頂き、神がどんなにきよさを求めておられるお方であるかが、分かるようにされました。もちろん、私たち自身に、きよい神の御前に立つことのできるきよさがあるわけではありません。キリストの血によってきよめられて、初めてきよい神の御前に立つことが出来るようにされたのです。
* イザヤは、きよい神の御前に立つことが出来ない自分の汚れを認識していたので、神の臨在をそこに感じた時、自分は滅びるしかないと思ったのです。その時「セラピムのひとりが火ばしを持って、祭壇の上から取った燃えている炭を…わたしの口に触れて言った。…あなたの罪は赦された」と。(イザヤ6:6,7 旧950)
* 私たち信仰者も、自分の汚れを思うと、滅びるしかないと思わされますが、キリストの十字架の血が私たちの上に流されたことによって罪赦され、きよい者とされたので、きよい神の御前に立つことができるようにされたのです。
* しかし、救われた私たちも、汚れになお疎い所があり、不信、疑い、不満、恐れ、怠慢などを垂れ流していることに気付かないでいたり、また、神の領域を侵犯し、神がなして下さる領域を、自分で心配しようとしたり、神が働き、助けようとして下さる領域を受けとめようとせず、無駄にしたりする神の領域侵犯罪が無数にあるのです。
* 主のあわれみがなければ、すべての人は侵犯罪で神の怒りを受けなければならない霊的に鈍い存在でしかありません。よみがえられたキリストが、神の臨在を感じ取る霊的神殿となって下さっていますから、その信仰に立ってさえいれば、主との結びつきは失われず、キリストのきよさを頂いた者として、御前に立つことが出来るのです。
* 当時の人々の霊が、いかに神のきよさに疎くなっていたかを示しているこの事件は、今日の私たちに対する警告でもあります。神の領域を侵犯する歩みをするな。きよい神が働こうとして下さっている領域を受けとめ、世の思い、肉の思いをそこに入れ込もうとするなと語りかけています。
* きよい神の領域を意識することの大事さを、私たちも受けとめていなければならないと思わされるのです。