(序)信仰には2種類の信仰があることを理解する
* 信仰には、心で信じる信仰と、霊で信じる信仰と2種類あるということを知っている必要があります。これが分かっていないと、信じますと言っても、信じるということがどういうことか分からないままの不安定な信仰になってしまうことがあるのです。
* 復活されたイエス様が、トマスに現れてこう言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。(ヨハネ20:27)その信じ方にも2つあって、復活されたイエス様を見たことによって信じた信じ方と、見ないで信じる信じ方があることを語られました。
* この違いはどこにあるのでしょうか。肉の目で見て信じる信じ方は、肉の感覚で確認して信じるのですが、見ないで信じる信じ方は、目で見えなくても、肉の感覚ではなく、霊で受けとめて、霊で信じるのです。
* それでは霊で信じるとは、どのような信じ方なのでしょうか。霊感のようなひらめきによって、確かにいて下さると霊にピンと感じて信じることなのでしょうか。分かっているようでいてこのことがよく分かっていない信仰者が多いのです。
* 霊で信じるとは、神の約束の御言葉を信用し、神が私の内側に信仰の思いを起こして下さると信じて向かう時、霊感のようなひらめきがあろうがなかろうが関係なく、神の御言葉の確かさの故に、信じることなのです。
* たとえば、神が臨在し、私の傍にいて下さっているという霊的事実を考えてみることにしましょう。いくら霊感のひらめきを得ようとして、神の臨在を感じ取ろうとしても、いて下さるように思える時もありますが、そう感じ取ることが出来ない時もあって、信じることができたり、信じることができなかったりします。これも霊感という、肉の感覚よりもレベルは高いのですが、感覚を頼りにしようとするという点では、頼りない信仰に変わりはありません。
* 霊で感じ取ることではなく、霊で信じるのです。すなわち、神からの語り掛けを感じ取ることが出来るかどうかではなく、神から私への語り掛けだと、何の疑いも差し挟まずに信じることです。
* たとえば、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア1:5 旧301)とのヨシュアに語りかけられた主のお言葉が、この私に対しても語りかけられている霊的事実であると信じるのです。この霊で信じる信じ方は揺らぐことがないのです。
* もちろん、肉の思いが出てきて、本当だろうかと疑いの思いを引き起こさせたり、安心できないようにさせたりします。不安がる思いが全く出なくなるというのではありません。その時に、神の御言葉に間違いはなく、この私に語りかけられた霊的事実は動くことはないと信じて、出てくる肉の思いを排除する必要があります。それが霊で信じるということなのです。
* イエス様は、弟子たちを育てることだけを考えて行動してこられましたが、今日の短い要約のような記事においては、民衆に向かっておられる時のことが描かれています。
* しかし、そこにおける、イエス様の向かわれ方は、弟子たちに対するものとは大きく異なっていて、民衆の信仰が、肉によって信じる信仰でしかないことを明らかにしておられるような記事になっています。
* 著者ヨハネは、そこに何を感じ取ったのか。また私たちはそこから、イエス様が求めておられる信仰とはどのようなものなのかを学び取っていく必要があるのです。
(1)民衆の信仰を信用されなかったイエス
* この箇所の内容の難しさは、前回の内容との整合性をどう見ればいいかという点です。前回の所では、「こんなことをするからには、神の権威を持っていることの証拠を見せてくれるのだろうな」と迫って要求してきた人々に対しては、彼らの要求に応える形で、奇蹟を行われるのかと思えば、奇蹟を行われずに、人々の理解できない預言でかわされたのです。
* しかしこの後、過越の祭りの間、エルサレムに滞在され、イエス様は人々の前で驚くべきしるしを見せられたと言うのです。これはどういうことでしょうか。神の権威を見せろとの要求に応えてしるしを見せられるということは、人々の信仰を引き出すことにはならず、ただ反感を買うしかないことが目に見えていたのです。
* それ故、そこではしるしは行わず、すべての人々の内側に信仰の思いを引き出そうとして民の方に向かわれるために、数々のしるしを人々に見せられたと言うのです。イエス様に信頼して従おうとして向かってきた人々に対してではなく、今はまだイエス様に対して全く無関心であった人々の目を神の方に向けさせるためでありました。
* それ故、人々の反応は、目に見えるしるしに対するものであって、イエス様がどなたであり、信頼すべきお方であると分かって信じたのではなかったのです。肉の感覚で受けとめることができるしるしを見たので信じたのです。これは、目で確認できるしるしを信じたのでありますから、見えなくなると信じる思いが薄れ、なくなってしまいます。
* それでも人々の目は、イエス様の方に向き始めたと言えます。それは言わば、信仰の初期的段階に過ぎないのですが、人間は、誰しも最初から弟子信仰に入ることは出来ません。そのことが分かっておられたイエス様は、信仰の目を少し開く程度の初歩的信仰を起こさせようとして、人々の目を奪い、不思議に感じるしるしを現されて、思いを神の方へ引き寄せようとされたのです。
* 反感を持ってしるしを見せろと迫ったユダヤ人たちに対しては、信じたい思いから神の御力を見せてほしいと願って言ったのではなく、神のきよさを汚していると、宮きよめの理由として、神殿の庭における供え物の売買や両替を厳しく糾弾したイエスに、何とか一泡吹かせる手がかりを得ようとして求めていることが分かっておられたので、しるしを現されることはありませんでした。
* しかし、過越の祭りのために集まってきていた多くのユダヤ人たちに対しては、信仰の入り口とも言える、見て信じる信仰のきっかけを与えようと、数々のしるしを見せられたのであって、そこには、イエス様の一貫したお考えによって、事をなしておられるということが分かります。
* ユダヤ人たちは、信仰を持って礼拝をささげるために、各地からエルサレムに集まってきているのですが、イエス様の目から見れば彼らの信仰は、神信仰から遠く離れ、形だけ、あるいは自分の思いを納得させるだけの、いのちのない信仰に明け暮れていた人々の姿が見えていて、不信仰とは言えないが、信仰の道から逸れた歩みでしかないと見ておられたのです。
* そこで、正しい信仰の道へと引き戻す信仰の入り口となる「見て信じる信仰」へと招くために、イエス様は人々の前で、ご自身が神の子キリストであることが分かるしるしを数々示されたのです。
* それを見た人々は、イエスの名を信じたと著者ヨハネは簡単な一文で締めくくっています。しかし、この信仰が信用できるほどの信仰でなかったことが、その後の言葉によって示されています。
* 「しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」と言われていることから分かります。お任せにならなかったと訳されているこの言葉は、信じなかったという意味で、彼らの信仰を信用されたわけではなかったと言っているのです。
* 彼らは信じたつもりでいたが、自分の肉の思いで納得できるしるしを見たから、これはすごいと思って信じただけであって、このお方が神から遣わされたメシヤだと信じたわけではなく、イエス様に完全に信頼を寄せたのではありませんでした。少しでも気に入らない部分が見えたら、即座に信じたことを解消できる程度のものであったのです。
* そのことは、イエス様による5000人の給食と言われている奇蹟を見た人々は、イエス様を王として担ぎ上げ、(ヨハネ6:15)イスラエルを再び独立国にしてくれる指導者となってくれることを望んだのですが、その思いに応えようとされず、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことの重要性を語られたことを聞いて、不可解なことを語る変人として、即座に人々が不信をあらわにして去っていったという、その光景によく現れています。
(2)肉による信仰と霊による信仰との違い
(その1)肉によって信じる信じ方とは?
* イエス様には、人間がどのようなことを望んで、それを得るために信仰を持とうとしているか、すべてその心が見えていたのです。これが、神として持っておられる驚くべきご性質であられました。
* 人間は、罪を犯した存在になってからは、信仰を持つと言っても、肉でしか信じることができなくなってしまっていることを理解していなければなりません。素直な思いでキリストを信じたとしても、その信じ方は、自分の思いが中心であって、意にかなったから信じ、意にかなわなければ信じないという向かい方でしかありません。
* 肉の思いが強い人間は、自分の心を信じているのであって、キリストを信じているのではないのです。というのは、自分の望んでいる言動を現して下さるならば、イエス様を神の子メシヤだと信じ、私を愛し、導いて下さると確信するのです。
* しかし、自分の望んでいない言動を現したり、そうあってほしくないと思われる言動を見たりする時には、拒否反応を起こして信じることができなくなります、すなわち、自分の意にかなっているかいないかが、信仰の判断基準になっているのです。
* これは、信仰を持つと言っても、人間は自己中心の肉の思いから抜け切ることが出来ないから、肉の思いの範囲内でキリストを信じているのです。これが肉による信じ方です。キリストはこのような信仰を決して信用されないのです。
* なぜなら、人の思い、人の心は移り変わりやすく、あれほど真剣に信じて向かっていると思っても、すぐにころっと心変わりして信じなくなってしまうということがあるのです。これは、この時代のユダヤ人の姿であったのです。
* それでも、全くの不信仰ではありませんから、しるしを見たり、助けて下さっていると感じたり、導いて下さっていると思えたりすると信じて喜びに溢れるのです。しかし、それは決して長続きせず、神が働いて下さっている、助け守って下さっていると感じ取れないような厳しい状況の中に置かれたりすると、信じることができなかったり、喜びがなくなったりして、めまぐるしく変わるのです。これが肉による信じ方の特徴です。
* それでは、イエス様が求めておられる弟子信仰とはどのようなものでしょうか。それは、霊によって信じる信仰で、これは一旦信じると、その信仰はなくなりません。
* 本来なら肉なる人間には持つことができない信仰ですが、神が働いて、私たちの思いの内に信仰を起こして下さり、霊によって信じる信仰を持つことが出来るようにして下さったのです。
(その2)霊によって信じる信仰とは?
* ここで、民衆の信仰は信用されなかったが、弟子たちの信仰はどうだったのでしょうか。彼らの信仰も、確かに完璧な信仰とは程遠いものでありましたが、彼らの信仰を信用されなかったとは言われないのです。それはなぜでしょうか。そこには異なっている一つの大きな違いがあることに気付かされるのです。
* それは何か、弟子たちの信仰は、自分の意にかなったから、イエス様を信じ、従うようになったという点では同じです。すなわち信仰の入り口は一緒です。しかしそこに留まらず、自分の思いによらず、キリストのお心に沿って生きていこうとし、その導きや助けを受けることによって、イエスが神のご性質を持っておられるメシヤだと受けとめていくようになり、イエス様のお言葉を生きる糧とし、いのちとして生きていくようになって行ったのです。
* 初めは、肉による信仰以上のものではありませんでしたが、イエス様を見上げ、そのお言葉を神からのものとして受け取っていくようになって、霊による信仰へと育てられていったのです。
* しかし、民衆たちの信仰は、自分の意にかなって信じることができると思ったものの、更について行って、他の教えに触れることによって、意に沿わない部分が見えてくるようになると、思いが離れて行ったのです。
* これは、肉によって信じる範囲内での信仰以上に育てて頂こうと、自分を明け渡すことをせず、自分の心を第1に置き続けたまま、変わることがなかったからです。だから意にかなわないと失望して去っていくのです。
* 自分の心が、どんなに信用できない代物であるか、罪に犯された心の頼りなさを知ろうとせず、それを後生大事に持ち続けようとする思いが強いから、肉による信仰から霊による信仰へと移行していくことがないのです。
* それでも、肉による信仰を持ち続けている間は、チャンスが残されているのですが、肉による信仰は、そこには失望が付きまといますから、長続きせず、歪むか逸れてしまい、思いが主から離れていくようになる危険性が大です。
* そのことをパウロは、Tコリント書において、肉の人、霊の人という表現で示しています。(Tコリント3:1〜3)肉による信仰に留まっている人は、何時までも飲みやすい乳しか飲まず、自分の心を中心としているので、世の人間のように歩んでいると言っています。
* 霊による信仰へと移行した人は、聖霊の導きを大事にし、キリストのお言葉を生きる糧とし、いのちとして生きていくようになり、神と神の御言葉とを信じ、自分の心を中心とせず、自分の思いや感覚を判断基準としないで、主を見上げ、主に全生活を賭け、全き信頼を現すようになっていくのです。
* 肉による信仰から霊による信仰への移行がなされなければならないということに気付かない人は、何時までも信じたり、疑ったり、自分の心に振り回され、主に全き信頼を現すということがどういうことか分からないまま、揺れ動き続けるのです。
(結び)霊による信仰に歩み出しているか
* 25節でヨハネは、「人についてあかしする者を必要とされなかった」というイエス様の思いを分析しています。これは、人間の証言がなくても、イエス様は人間のすべての心を見抜いておられるお方だと言っているのです。
* その人が、自分の心を信じて、肉による信仰を現している者なのか、それとも、そこから移行して、自分の心は頼りにならないもの、正しい判断を下せないものとして切り捨て、決して変わることのない神と神のお言葉、そこにすがっていく、霊による信仰を現す信仰者として歩もうとしている者なのか。イエス様の目にはすべて明白であると言うのです。
* これが、イエス様が信用できないと言われている民衆の信仰と、弟子信仰との違いであることを、一つ一つのしるしがどのようなものであったかを詳しく述べないで、まとめの形で明らかにし、イエス様の求めておられるのは、この弟子信仰だと示しているのです。
* イエス様が信用されなかった民衆信仰は、自分の思いを満足させ、自分の思いを納得させてくれるから信じるという、自分の心を信頼している信仰に過ぎませんでした。
* しかし弟子たちの信仰は、まだ十分育ってはいないのですが、弟子たちが持つようになった弟子信仰は、この方は神だから、この方の語られることだから信頼することができるという信仰であって、それが自分の思い通りにならなくても、自分の心に納得できないことであっても、信じてすがっていく信仰に立ち始めたのです。
* 弟子信仰とは、完成されたものではなく、主を見上げ、主によりすがりつつ、肉による信仰ではなく、霊による信仰を持って向かっていこうとする歩みを始めることです。
* もちろん私たちの内側から、肉の思いがすべてなくなるわけではありません。けれども肉の思いの元である、自分の心を信じることがいかに愚かなことであるか気付かされ、確かな、変わることのないものは、神と神のお言葉だけであることを知って信じてすがっていく、これが霊によって信じる信仰であり、イエス様が求めておられる弟子信仰だと理解していることが大切なのです。