(序)霊で信じる信仰に切り換わらないのはなぜか
* 著者ヨハネは、2:23〜25の所で、これまでのまとめの形で、信仰には心で信じる信仰と、霊で信じる信仰とがあることを明らかにし、心で信じる信仰から、それ以上に進もうとしない民衆信仰を、イエス様は信用されなかったことを示してきました。
* 誰しも、最初は心で信じる信仰から入っていくものです。すなわち、第6感を含めた肉の感覚によって、これは信じることが出来ると確認して信じるのです。しかし、そこから“見ないで信じる信仰”へ、すなわち霊によって信じる信仰へと育てられていくことが、民衆信仰から弟子信仰に変えられていくことだと見てきました。
* 肉の感覚で確認して信じる民衆信仰は、しるしが見えなくなるとすぐ失望する信仰であって、それは、イエス様が信用しておられない信仰であり、主が求めておられる信仰は、神と神のお言葉の確かさの故に、感覚で確認できなくても信じていく弟子信仰であることが示されてきました。
* しかし、当時のユダヤ教信仰は、心で信じる信仰以上に進もうとしていなかったので、キリスト教信仰へと移行していく用意が十分にできていなかったのです。
* 心で信じる信仰にも、主に対して忠実に向かう信仰と、儀式的、形式的、律法的な、いのちのない信仰とに大きく分かれていました。
* パリサイ人、律法学者たちは、ほとんどが儀式的、形式的律法的な信仰になっていましたが、その中にも、主に対して誠実に、忠実に向かっている人は多くいました。その代表的な一人として、著者ヨハネが取り上げたのがニコデモでありました。
* 彼の信仰は、心で信じる信仰以上に進んでいなかったので、誠実に、忠実に向かっていた信仰者であり、日々主を見上げ、律法を守り、人々の信仰を導き、教師として敬われていた人であったにもかかわらず、神の御心が見えておらず、神の約束に対して確信が持てずにいたのです。これはどうしてでしょうか。
* これは、肉の感覚によらず、ただ霊によって信じる信仰へと、まだ切り換わっていなかったからです。主に対して誠実に、忠実に向かい、主を見上げて歩んでいたのに、どうして霊によって信じる信仰へと切り換わらないままでいたのでしょうか。
* 心で信じる信仰と、霊で信じる信仰は、同じ信仰の入り口から入っていくものですが、大きく異なっています。最初は心で信じる信仰であったとしても、信仰が育てられることによって、全く別の領域である、霊で信じる信仰へと変えられていかなければならないのです。
* 霊で信じる信仰へと飛躍するためには、自己中心の肉の思いによって神を信じようとする向かい方から、神の御心を中心にし、神の御思いが真実で確かだと信じる大きな山を越える必要があるのです。これは簡単なようで簡単ではありません。
* 預言者たちは、神の御心の方に思いを向けさせようと必死に仕え、(イザヤ1:2他)主の語っておられるお言葉に耳を傾けさせようとしたのです。それによって彼らを霊で信じる信仰へと導き続けたのですが、指導者たちも、民衆たちも、肉の思いが強かったので、神のお言葉よりも自分の思いや感覚の方を大事にし、神の御声に聞き従おうとしなかったので、霊で信じる信仰へと切り換わることがなかったのです。
* 主に対して誠実に、忠実に向かおうとせず、信仰を形式的なもの、世的なものに引き落としていた指導者たちや民衆は問題外ですが、真剣に主に向かい、主を見上げ、主の約束を待ち望んでいた人々までが、なぜ霊で信じる信仰へと切り換えられなかったのでしょうか。この問題について、更に具体的に取り上げている今日の箇所をご一緒に見ていくことにしましょう。
(1)ニコデモの内側に持ち続けていた信仰上の疑問
* なぜ切り換えられないのか考えて見ますと、自分の中にある自分の感覚、思い、知恵、人間性などが世において形造られたものであることを知って、砕かれ、それは私を引き落とすものでしかないと気付かされ、主の御前にくず折れ、主にだけに期待するという一点を越えることのできないかたくなさが、人間の中に残っているからなのです。
* 人間の奥深い所にどっしりと居座っているこのかたくなな心があるという事実を認めて、明け渡そうとしない肉の心が強く、このことに対する問題認識が足らなかったので、素直な信仰を持っていても、何時まで経っても、心で信じる信仰以上に進むことはなかったのです。
* ニコデモは、イエス様が行われたしるしを見て感銘を受けていました。宮きよめの事件のことも聞き知っていたと思われますが、それが障害になってはいませんでした。
* ニコデモには、ユダヤ教の指導者にありがちな特権階級意識や、ユダヤ教の権威を脅かそうとする新たな権威に対する、自己保身本能から出る反撃やねたみを現す人ではありませんでした。
* 神を見上げる素直な信仰の思いから、イエス様の現されたしるしを見、このお方は神から遣わされたお方だと素直に受けとめ、ぜひ教えを受けたいと、夜イエス様に面会を求めた記事が今日の箇所です。
* ニコデモは、ユダヤ人の指導者であったと言われています。これは、サンヘドリンと呼ばれているユダヤ最高自治機関であるユダヤ人議会の一人であり、宗教的指導者の一人として尊敬されていたことが伺われます。イエス様との会話から考えてみて、老人と言われる年齢であったことが分かります。
* 普通ならば、人々から尊敬される立場にあり、老齢になっていれば、心は頑固になっており、新しい教えを受け付けなくなっているものです。しかしニコデモの心は柔らかく、心に引っかかり続けている重要な疑問を、何とかして解決したいとの思いが強かったのでしょう。
* 自分が目の当たりに見たいくつかのしるしから、このようなことができるお方は、神から遣わされたお方に違いない。先には、バプテスマのヨハネの言葉にも耳を傾けていたことがあったと思われますから、このお方が、ヨハネが指し示していたメシヤなのか、深く考えたことでしょう。
* そこで出した結論が、「実際にお会いしてみよう」であった。神から遣わされたお方であるなら、私の疑問を解いて下さるかもしれないと思い、また、ユダヤ人指導部の評判があんまり良くないことを考えて、目立たないように夜に訪問したのです。
* 驚くべきしるしを見たことによって、このお方は、神から遣わされたお方だと判断を下したニコデモは、心で信じる信仰ではありましたが、誠実に、忠実に主に向かい、主の導きを信じて歩む信仰に立っていました。2:23で信仰を現した民衆たちと同じ所に立っていたのです。
* 彼らよりも、もっと明確に、この方は「神から遣わされた教師」だと理解していたのです。もちろん、あがめるべき対象としてではなく、神の御心を解き明かしてくれる教師として見たのです。
* ニコデモが持っていた疑問とは何だったのでしょうか、彼が問う前に、イエス様はその心を読んで答えておられるのです。その疑問とは、第1に神に選ばれた民であり、第2に今主を信じて向かっているこの信仰によって、この私は、神の国に入れて頂くことが出来、永遠の命にあずかることが出来るのかというものでした。
* すでに長い年月信仰に生きてきた人であったのに、どうしてこのような初歩的な疑問が、彼の思いを捉えていたのでしょうか。それは、これまで幼い時から信仰をもって歩んできたにもかかわらず、どうしても、神の国に入れて頂けるとの確信が持てなかったのです。たとえ若くても、神の権威を持ったお方が来られれば、ぜひ聞いてみたいと思い続けていたのでしょう。
* しるし信仰しか持つことができないニコデモの信仰を見つつ、イエス様は、心の中にある疑問に答えられたのです。「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。あなたが不安に覚えるのも当然だ。新しく生まれることなくして神の国を見ることはできないと。
* イエス様は、新しく生まれる必要があることを強調されました。生まれ変わったつもりになりなさいとか、強い意志を持って心を入れ換えなさいと、気持ちの上で変えられることが大事だと語られたのではありません。全く新しい人として生まれ変わらなければ神の国を見ることができないと言われたのです。
* イエス様が新しくと語られたこの言葉は、「再び」とか「上から」という意味を持った言葉で、今までの古い私が死に、上からの力によって全く新しい人間として生まれるひつようがあるという意味を込めて、新しくと言っていることが分かります。
* しかし、この言葉は、肉の体を持った人間にとっては、そう簡単に理解できる言葉ではありません。見た目に何一つ変わらない私たち人間にとって、新しい人間にして頂いたという実感を持つことはできないし、神の力によって新しい人間にして頂くことだと言われても、全く見当もつかないし、イメージを抱くことも出来ません。
* ニコデモが、ちぐはぐで幼稚な受け答えをしたのも、雲をつかむようなイエス様のお言葉に対して、どう反応すればいいのか分からなかったからでしょう。
* 上からの力によって新しく生まれるという言葉を、どのように受けとめているかが、信仰をどこまで正しく捉えているかどうか明らかになる重要な言葉の一つだと言えます。このことをもう少し考えて見ましょう。
(2)水と霊によって新しく生まれるとは?
* もう一度母の胎に入って生まれることですかという、ニコデモの頓珍漢な受け答えに唖然とされたイエス様は、イスラエルの宗教的教師の立場にいるはずのあなたにとって、これぐらいのことが分からないのかと言って、新しく生まれるということがどういうことなのか解説されているのが5節です。
* 誰でも水と霊とから生まれなければ,神の国に入ることは出来ないと言われているのです。分かりやすく解説されたのかと思えば、余計に分かりにくくなっています。水と霊とから生まれるとはどういうことでしょうか。
* ある人たちは、水とは洗礼のことであり、霊とは聖霊が降ることであると言います。水によって生まれるとは、バプテスマを受けることによって新しく生まれたとみなされ、聖霊が注がれることによって、新生を確かなものにするという意味だと言うのです。
* これは、もっと霊的な意味だと考えるべきでしょう。水ということで、水のバプテスマの持つ意義、霊ということで、御霊によるバプテスマの持つ意義を受けとめるように示しているのでしょう。
* 水のバプテスマは、古い私が死んで、新しい私が生きることであり(ローマ6:4)その前にバプテスマのヨハネの水のバプテスマを通して、罪を悔い改め、罪から神の方に向き変わることだと示してきたのです。
* そのようにして、水のバプテスマを通して、主に御前に砕かれた者となることによって、聖霊のバプテスマを受ける状態にされ、そこに聖霊が注がれ、聖霊の内住を頂いた者とされることによって、全く新しい人間へと造り変えられると言うのです。
* それ故、ここで中心として語られているのは、聖霊のバプテスマのことであって、それが新しく生まれ変わるための最大の要件であることです。これから後、水のバプテスマについて言及されることはなく、霊から生まれることが強調されていることからも分かります。水のバプテスマは、聖霊のバプテスマに導くための前段階の措置であって、罪を悔い改め、古い私が砕かれることによって、聖霊が注がれる踏み台が築かれたと見るべきでしょう。
* それでは、聖霊によるバプテスマはどのように確認できるのでしょうか。これは、霊なる神を受け入れ、信頼し、霊的にしか確認出来ない事柄です。感覚では分かりません。聖霊が注がれ、内住して下さっているとの御言葉を信じるだけです。
* それ故、イエス様がニコデモに示されたことは,聖霊のバプテスマを受け、それによって全く新しい人とされること。それによって、初めて神の国、すなわち神の支配を見ることができるのだという、今まで聞いたことのない驚くべき福音でありました。
* 霊的な事柄を、霊で聞くということができなかったニコデモは、その語られた意図を全く理解することが出来ず、ぽかーんとしていたのでしょう。心で聞き、心で信じる信仰を抜け出ることができなかったから、その真意を受けとめることが出来なかったのです。霊で信じる信仰へと切り換えて頂くことができないことほどあわれなことはありません。
* しかし、ニコデモの良い所がありました。理解できないから信じることが出来ないという、自分の理解や納得を神とする、かたくななところがなかったので、霊で聞く聞き方ができるようになりさえすれば、霊で信じる信仰へと切り換えて頂けるチャンスを残していたのです。
* 現に彼は、この後7:50や19:39においても登場し、そこでは、イエス様に反抗する者としてではなく、イエス様を擁護しようとしたり、イエス様の遺体を葬る協力者になったりしており、霊で信じる弟子信仰に切り換わっていると言えないまでも、育て始められていたことが伺われるのです。
(3)聖霊によって新しく生まれ変わった者
* 全く霊で聞く聞き方ができていなかったニコデモに対してイエス様は、その助けとなるように、肉から生まれる者は肉でしかなく、霊から生まれる者は霊である、という霊的事実を理解するための一つの例証として、「風」を取り上げ、風の持つ特質を用いて、霊で聞く聞き方のヒントを与えられたのです。
* 風は思いのまま吹いており、どこから来て、どこへ行くのか分からない。目に見えない霊的な事柄というものは、そのような風の特質によく似ていると言うのです。すなわち、人間の目で確認できるものではなく、ただ存在しているという事実は確かであり、どのような働き、行動をしているか知ることはできないが、信仰によって味わい、体験することができるようにされていると言うのです。
* イエス様が、風にたとえて教えようとされたことは、霊から生まれるということがどういうことか分からせるためでありました。この霊とは、冠詞がついていますから、御霊のことを指している言葉です。
* 御霊が注がれるとか、内住して下さるというのではなく、御霊が全く新しい私を生んで下さると言うのです。これはもちろん、もう一度肉である母の胎の中に入って生み直してもらうことではないという言葉に関連して、肉から生まれるなら肉でしかない、御霊から生まれた者だけが霊だと言って、霊で聞き、霊で信じる者になることが出来る新しい人は、御霊が生んで下さる以外には決してないと言っているのです。
* 御霊から生まれるとは、言葉を補って言うならば、御霊が人間の母親に替わって産んで下さると言うのではありません。御霊が内住して下さり、御霊の支配の中に置いて頂くことにより、全く新しい誕生を見ることが出来るとの比喩的表現で語っているのです。
* もちろん、肉の感覚で受けとめることが出来るものではありませんが、御霊の驚くべき支配力によって、罪に汚染された古い私が排除され、きよめられた新しい私として生きる者とされるのです。
* 御霊が支配して下さると言っても、人間の意志を無視して強制的にということではなく、私たち信仰者が、御霊に支配されることを望み、その支配して下さる働きかけに自分を明け渡し、御霊が支配して下さることを疑わず、信じることが、御霊の支配を妨げない重要な条件になってきます。
* こうして、御霊によって生んで頂いた者は、霊で聞き、霊で信じることができる全く新しい人として歩むことができるようになるのです。
* ということは、この新しく生まれるとは、これまで罪から出てくる肉で生き、肉でものを考え、肉で歩んでいた者が、霊で聞き、霊で信じ、霊で生きる全く新しい人として見て下さる者となったという神のご判断による、神の目から見た表現であることが分かります。
* 人間の目から見て、肉で聞き、肉で信じ、肉で歩んでいた者から、霊で生き、霊で信じ、霊で歩む者への変化というのは、生まれ変わったと感じ取ることが出来るほどの大きな変化のようには思えないのですが、神の目には、根底から生まれ変わった者と見て下さる変化なのです。
* このように、御霊によって支配された霊で聞き、霊で信じ、霊で生きるようにされた新しく生まれた人だけが、神の国を見ることが出来ると言われたのです。この「見る」とは、5節では入ると言い換えられていることから、ただ目で見るということではなく、神の支配の中に置かれた者としての幸いを味わい、その恵みにあずかり、神の国の住民にして頂いたという霊的体験をすることが出来ることを意味しているのでしょう。
(結び)最高の根拠を持つ確信を持って生きる
* イエス様は、まだ心で聞き、心で信じる向かい方しかできず、神のお言葉の真意を受け取ることが出来ないニコデモに対して、霊で聞き、霊で信じるようになる新しい人に生まれ変わらなければ、あなたが確信できないでいる神の国に入ることも、永遠の命を頂くことも出来ないのだよと教え諭しておられるのです。
* ニコデモが確信できないでいたのは、彼が心配性だったからでも、考えすぎだったからでもなかったのです。正直に自分の信仰を見つめ、この信仰では神の国に入れて頂ける確信を持つことはできないと思っていたということは、正しい受けとめ方であったのです。
* ある役人が、イエス様に、「よき師よ、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」(ルカ18:18)と尋ねたのも同様です。いくら信仰に生き、主によりすがっていても、心で聞き、心で信じる信仰を越えることができなかったならば、確信を持つことができないのは当然のことで、この役人は正直な信仰者であったと言えます。
* 多くの人は、その確信を持つことができる信仰を持っていないのに、新しい人に生まれまわらないままで、信仰を持っているから、洗礼を受けているから天国に行ける。神は私を受け入れて下さっていると考えようとしています。
* しかしそれは、思慮の浅いおとめたちのように、終わりの日に主の御前に出た時、「はっきり言うが、わたしはあなたを知らない」(マタイ25:12)と主に言われることになるとしたら、これはなんとみじめなことでしょうか。
* 根拠のない確信を持つよりも、確信できない自分の信仰のどこが問題であるのか、早く気付かされ、新しく生まれ変わることなくして、神の国を見ることが出来ないというこの一文にしっかりと心を留めている必要があるのです。
* 聖霊の支配を受けて、聖霊によって新しく生んで頂いた者としての自分を見つめる時、初めて私たちは、恐れや不安から解放され、確信を持って神の国の住民にして頂いていると喜びの声を上げることが出来るのです。
* 古い心で聞き、古い心で信じてきた向かい方から、霊で聞き、霊で判断し、新しい人とされた霊で信じる信仰によって歩み始めるなら、私たちの状態が、人間の見た目で何ら変わっていないように見えたとしても、全く新しい人に生まれ変わった者として確信することができ、聖霊の支配を喜び、神の国に入れて頂く確信に満ち溢れることが出来るのです。それは、神のお言葉という最高の根拠を持つ確信ですから、揺らぐことはないのです。