(序)霊によって御言葉を聞き取っていく
* ニコデモは、誠実な信仰者でありましたが、心で信じる信仰を越えることができず、神の御言葉を、人間の知恵で理解できる範囲内に押し込めていましたから、神の御心は、彼にとって小さなものでしかありませんでした。
* 天地万物を造られた神を信じ、アブラハムを選ばれ、愛し導かれ、神の力を持って助けられたという、父祖たちの信仰が確かなものであることを信じ、モーセが率いた民を、エジプトの奴隷状態から救い出し、驚くべき奇蹟を持ってあがない出されたということなど、何度も何度もくりかえし学んできたし、信じてきたのです。
* また、預言者の言葉を学び、律法を守り、礼拝を重んじ、供え物を欠かすことなく、あのザカリヤのように、神のみまえに正しい人であったのでしょう。(ルカ1:6)
* そのような、信仰を重んじ、御言葉を教える教師として、長年、人々から尊敬を受ける指導者として歩んできたのに、霊の事柄について何も理解できず、受けとめることが出来ないというようなことがあるのでしょうか。
* これは、霊によって御言葉を聞き取っていくという訓練を積まない限り、信仰を持って歩んでいるだけでは、人間はサタンの提供する世的知恵に毒されており、霊的な事柄を理解する理解力が封じられてしまっていることに気付かないまま、長年、神のみまえに正しい人として生きることはできるのですが、霊の事柄を何一つ受けとめることの出来ない信仰者のままで、終わってしまうことになりかねないのです。
* これが、信仰者の内にある罠というものです。信仰を持って忠実に生きることだけでよしとしてしまい、霊の事柄を理解することができず、霊によって新しく生まれるという、人間にとってなくてはならない事実の大事さに気付くことが出来ないようにされてしまうのです。
* 信仰を持って従っていたペテロに対してイエス様は、「サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで。人のことを思っている」と叱責されたことがあります。(マタイ16:23)なぜ、弟子として従っていたペテロの心の中にサタンが宿るというようなことがあるのでしょうか。
* 彼は、イエス様に導きを頂いて、霊によって御言葉に聞き従っていく訓練を受けてきているのですが、それがまだ十分機能せず、神のことよりも、人のことを思う心が出てきた時、サタンの入り込む余地を作ってしまったことになるのです。
* 信仰を持って歩んでいるだけでは、霊の事柄を正しく受けとめることが出来ず、サタンの入り込む余地を絶えず作り出し、信仰が落とされるのです。これは、霊の事柄を聞き取っていく向かい方が出来ないなら、サタンの提供する世的知恵、判断が、その人の内側から妨げなしに出てくるようになるのです。
* この信仰者の内側にある罠に、ニコデモも落ちてしまっていたから、本来なら霊の事柄を受けとめて歩む教師としての立場に立っていながら、何一つ分かってはいないというようなことが起きてくるのです。
* 霊の事柄を受けとめて歩むためには、霊の目で見、判断する必要があります。しかし人間は、もともと霊の目が開かれてはいないので、見ることも判断することも出来ません。それ故、霊の目で見、判断することの出来る神から遣わされたお方の証言を受け入れるという信仰が必要になってくるのです。そのことがどういうことか、イエス様のお言葉から共に考えて見たいと思うのです。
(1)霊の目が開かれる訓練とは?
* ニコデモは、イエス様がなさったしるしを見て、神から遣わされたお方だと言いました。しかし、神から遣われたお方であると告白することの真の意味を受けとめていませんでした。
* もし、神から遣わされたお方であることに、わずかの疑いも持っていなかったならば、そのお方の言葉を聞いて、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と語られた内容に異議を唱えるようなことはしなかったはずです。
* 神から遣わされたお方の言葉に異議を唱えるということは、神や神のお言葉に対して異議を唱えることであり、自分の理解力や理性から考えてみて、それは受け入れられない内容であって、その価値は低いと断定していることになるのです。
* 序論で取り上げた祭司ザカリヤの例も、そのことが明確に示されています。「妻エリサベツが男の子を産むことになる。その子は、エリヤの再来として、キリストの先駆けとなる」との御使いの御告げを聞いた時、「どうしてそんなことが、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と答えることによって、あなたの御告げを信じることはできません。理性から考えてみて、そんなことは不可能ですと、御使いの言葉を否定することによって、神の御心を否定してしまったのです。
* そんなザカリヤに対して、即座に裁かれず、しばしの罰を与えられ、神のお言葉に対する不信の罪の恐ろしさに気付くように導かれ、妻エリサベツから男の子が誕生した時に、神のお言葉に対する信仰が回復したので、その罰が解かれたのです。
* 信仰者だからと言って、また、忠実に神の御前に正しく生きているからと言って、霊の目が開かれているとは限りません。それどころか、霊の目が開かれていない人の方が多いのです。
* それは、信仰を持ってもなお、人間の知恵、理性の範囲内でしか物事を考えようとしない人が多いからです。それは、霊の目が開かれるようになるために、霊によって御言葉を聞き取っていくという訓練を積もうとしないで、信仰を持ってさえいれば、自然と神のお心が分かるようになると気楽に考えているお気楽信者が多いからです。
* なぜ信仰者は、霊の目が開かれるようになるための訓練に、目を向けないのでしょうか。信仰とは信じてよりすがることで、訓練とは無縁だと思う心があるからでしょう。確かに聖霊の助けによらずして、霊の目は開かれないのですが、霊の目が開かれるように訓練する向かい方の中に聖霊が働いて下さり、導いて下さるということに気付く必要があります。
* ゆだねてすがるというのは、何もしないで与えられるようにじっと待つことではありません。聖霊が働いて下さることを信じて、霊の目が開かれる訓練をしていくことが重要なのです。それでは、霊の目が開かれる訓練とはどのようなものか、そのことを考えて見ることにしましょう。
* 第1は、神のお言葉を聞く時、自分の知恵や理性の範囲内で聞こうとせず、その枠を取り外そうとする強い意志を働かせることです。そして、「人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈する」(Tコリント2:13)ことが大事だと知ることです。
* 第2は、人間の視点から物を見ず、考えず、判断せず、神の視点に立ち、神の視点から物を見、物を考え、判断していく訓練を積んでいくことが必要です.(イザヤ55:9 旧1025)
* 第3は、私たちの状態をすべてご存知である神が、その時にふさわしい語り掛けをして下さり、聖霊の助けによって、それを受けとめることが出来るように働きかけて下さっていると信じ、目をそむけず、先延ばしにせず、今この私に対して語りかけているものとして受け取っていく訓練を積んでいくことです(詩篇139:1)
* ニコデモは、イエス様を、神から遣わされたお方だと告白したにもかかわらず、神から遣わされたお方の言葉を、霊によって聞き取ることが出来なかったから、“どうしてそんなことが”と異議を唱えることになり、不信を現してしまったのです。祭司ザカリヤの時のように口が利けなくなるという罰が与えられなかっただけでも幸いでした。
(2)主のお言葉に対するニコデモの反応を推測する
* そのような不信を現したニコデモに対して、唖然とされながらも、イエス様はあわれまれ、更に彼の霊が働き始めるようにと語り続けられるのです。
* 私のこの証言は、神の深いお心によって導こうとしておられる霊的な事柄であって,人間の目には見えないが、この私は、霊の事柄のすごさを知っている者として証しし、目撃した者として証言していると言われました。
* 自分の知恵や理性によって生き、肉の感覚を頼りとしている人間は、信仰を持つようになっても、霊的な内容は捉えどころのない空想話のように思う心が残っており、全知、全能、遍在、永遠なる偉大なる神の深いお心から出た霊的な内容として受けとめようとしない愚かさを現すところを持っています。
* それは、人間の知恵や理性では理解できない内容、目視確認できない捉えどころのない内容に対して現れる拒絶反応が、世的生き方をしてきた人間の内側に作り出されてしまっているからです。
* 人間には理解できず、目視確認できない霊の事柄、ここで取り上げられている具体的な内容で言うならば、霊から生まれるという事柄ですが、霊の事柄をそのまま受け取ることができなかったニコデモに対して、人間には見えないこの霊の事柄を、私は霊の目で見ているとイエス様は言われたのです。
* すなわちこの私は、霊の目で見て、確かな事実であると知っており、目撃した証人として、今ここに証言していると言われることによって、霊の目が開かれていない者が、霊の目が開かれた目撃者の証言に対して、異議を唱えるという愚かなことをしてはならないと叱責されているのです。
* 限界があり、また頼りにならない自分の知恵や理性に、また、目視できなければ安心出来ない思いに固執しようとするその愚かさを表すことは、自分の霊の目が開かれておらず、自分が霊的無知であることを言いふらしているようなもので、それは、霊的愚か者のすることだと厳しい指摘がなされているのです。
* ここで、「私は」と言わないで、「私たちは」と複数で言われたのはなぜでしょうか、考えてみる必要があります。これにはいくつかの解釈がありますが、考えられることは、霊的な事柄の目撃証言という意味では、これまでも多くの神から遣わされた者がいたが、私は神から遣わされた者の本命、あるいは最終代表として証言しているという意味だと考えられます。
* あるいは、イエス様お一人の言葉であるが、その証言に重みと威厳を持たせるための用法として、複数で語っていると考える人もあります。どちらにしても、確かな目撃証言であることが強調されているのでしょう。
* この言葉に、ニコデモはどのように反応したのか、ここにはニコデモの言葉が何も記されていませんから、分からないのですが、後のニコデモが、イエス様から思いが離れていないことを思うと、語られた内容を全部理解できたとは思えませんが、自分の知恵や理性、また感覚で感じ取る向かい方しかしてこなかった愚かさを自覚し、イエス様が語られた霊の世界、霊の事柄について受けとめる大事さに、目を向け始めたと考えられます。
* イエス様は更に、この上、地上のことを語っても、簡単に受け入れようとしないのだから、天上のことを語っても、あなたにはちんぷんかんぷんで、信じるどころではないだろうと言われました。
* 地上のことと言っても、世的なことという意味ではありません。端的に言うならば、人間のこと、神の前に立つ人間のあるべき姿のことを指している表現です。また、天上のこととは、神に関すること、神のお心、神のご計画、神の国や神の支配など、神に関わることを天上のことと言ったのでしょう。
* 霊によって新しく生まれ変わるという地上のことが理解できなければ、天上の事柄である神について何も分かっていないと言い切っているのです。
* 信仰者にとって、地上のこと、天上のことの両方を、霊によって受け取り、信頼を現していくということがいかに大切であるかを語ろうとしておられるのです。
* それは、車の両輪のようなもので、地上のことを霊によって受けとめることが出来ないなら、更に奥深い天上のことは何ひとつ受けとめることが出来ないでしょう。どちらも重要な内容として受けとめていなければ、信仰の歩みはないのです。
(3)神的存在者であることを宣言されるイエス
* イエス様は、ここまで語られた上で、ご自身が神から遣わされた者の一人というよりも、直接天から降ってきた者であり、この地上に降るまでは天上にいて、天上のことをすべて知っている者であったことを語られ、ご自身が天的存在者であったことをはっきりと示していかれるのです。
* これは、私の証言は、人間の証言ではなく、天上のことをすべて知っている神的存在者としての証言なのだということを明確にしようとして語られたことが分かります。
* すなわち、私こそ、神的存在者として、神の許から地上に降ってきた者であるから、あなたがたが待ち望んできたメシヤに他ならないと言われ、このメシヤの他には、天に上った者は一人もいないと、復活後昇天される事実を、過去の出来事であるかのように語られたのです。これも時間を超越しておられたお方だからこそ言い得た言葉です。
* そのような神的存在者だから、すべて見て知っているのは当然だと言おうとされているのです。しかもそれだけではなく、ご自身が、人を霊から生まれる者にするという、霊の事柄実現の主人公であることを示していかれるのです。
* それは、モーセが荒野でへびを上げたという、あの旧約の予型として示されている出来事を取り上げ、神的存在者であるこの私は、へびのように、十字架に上げられるために来たのだ、それによって予型が実現し、神がご計画なさった新生についての奥義が完成すると言われたのです。
* すなわち、神的存在者としての確かな目撃者であるというだけではなく、その重要な霊の事柄を実現するために、ご自身の命を投げ出し、人間にとってもっとも重要な新生の奥義を完成しに来たと言われたのです。
* ニコデモに、これらのことがどこまで理解できたか分かりませんが、真剣に神の国に入れて頂きたいと願っていた彼の思いをあわれんで、驚くべき神の深いお心と、メシヤとして来られたご自身のあがないのみわざについてまで明らかにされ、新しく生まれ変わることがどれほど大事な霊的事柄であるか、秘伝中の秘伝であるかを、ニコデモに解き明かされたのです。
* そして、メシヤを信じることによって、永遠の命を持つことができるようになる。これがあなたの持ち続けてきた疑問に対する解答だと締めくくられたのです。
* ニコデモは、神から遣わされた人から、自分の疑問に対する解答を得たいと願ってやってきたのですが、イエス様が、ニコデモに示そうとされたことは、あなたは自分が確認できる結果を求めているが、それは世的願望に過ぎない。あなたが求めるべきことは、神が提供されている霊の事柄をそのまま受けとめ、霊によって新しく生まれ変わるという、あなたの肉では確認できない新生の奥義を、自分のものとして味わうことだと言われているのです。
* 新生の奥義を、自分の信仰人生の重要な部分として受けとめ、聖霊によって新しく生まれ変わらせて頂いたことを確信し、その喜びに溢れて歩むことが出来なければ、神のお心が分からない信仰者としての歩みしかないのです。
(結び)霊の目が開かれ、目標目指して走っているか
* 心で信じる信仰から、霊で信じる信仰へと切り換えられていなかったニコデモは、自分の思いや感覚で納得できる答えを求めて歩み続けてきたのですが、それでは、確信も、平安も与えられなかったのです。
* しかし、イエス様から話を聞く機会が与えられ、自分に足らないものは、霊の目が開かれ、霊的な事柄を、霊によって受けとめ、聖霊によって新しく生まれ変わることなくして、神の国に入ることの出来る確信を持つことも、永遠の命を頂いて喜び溢れることも出来ないと指摘され、自分がいかに肉的な、自分の思いを中心とした信仰しか持ってこなかったかを知らされ、目が開かれる思いがしたのです。
* しかし、目が開かれる思いがしたけれども、それで、霊の目が開かれ、聖霊によって新しく生まれ変わることがどういうことか分かるようになり、霊の事柄が見えるようになったわけではありません。
* ニコデモは、イスラエルの教師であったにもかかわらず、熟年となってから、初心者のように、新たな第1歩を踏み出した状態であり、霊の目が開かれる訓練を始めたばかりだと言えるでしょう。
* しかし、それまでの肉的な信仰しか持てなかった者が、霊で受けとめようとし始め、神の御心を歪めず、そのまま受け取っていこうとし始めたのですから、その向かい方ができるようになったと考えられ、そこには天と地ほどの違いが出てきたと言えるでしょう。
* 霊の目が開かれる大事さに気付かない人は、いつまで経っても、長年信仰人生を続けても、全く別の、肉の道を歩み続けているのですから、神に到達することはあり得ず、神の前に立たず、人の前に立つ生き方しかできないままで終わってしまうのです。
* 聖霊によるバプテスマが何のことか分からないまま、新しく造り変えられないままで信仰人生が終わったとしたら、どうでしょうか。それは、目標地点を誤ったままマラソンをしてきたようなもので、本人は、これが信仰人生だと信じて一生懸命走っているのですが、やっと着いたと思ったら、そこには神の国も、永遠の命もなく、サタンがほくそえんで待っているのです。これはなんと最悪でしょう。
* 著者ヨハネが、ニコデモの面会の記事を取り上げたのは、どれほど多くの信仰者が、古い心で聞き、古い心で信じ、それでよしとして歩み続け、聖霊によるバプテスマを受けて、霊で聞き、霊で歩むようになるという新しく生まれ変わった者としての歩みに目を向けることをせず、目標地点を誤ったマラソンをしている人たちのことを思って憂えていたからです。
* 信仰者はどうして歪みやすいのでしょうか。素直に主に向かって信仰を持って歩んでいるにもかかわらず、目標地点に到達できない人が多いのはなぜでしょうか。これは、そのような信仰者が、聖霊によって新しく生まれ変わっていないからであって、霊の目が開かれていないからなのです。
* パウロは、こう言いました。「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ目標目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」と。(ピリピ3:13,14)
* ヨハネの表現で言うならば、「聖霊によって新しく生まれ変わり、霊の目が開かれた者として育てられつつ、完走者に与えようとしておられる、御国に迎え入れるという恵みを思い、その目標を見つめ、目標から逸れることがないように走り続けよ」と言っているのです。
* 人間は、救われたからと言って、即座に霊の目が開かれ、すべてが分かり、目標地点がはっきりと見えるようになるわけではありません。霊の目が開かれる訓練を受けながら整えられ、育てられていき、霊の目が見えるようになった者として、目標からずれることなく走り続けることができるのです。
* このように走っていれば、本当に目標地点まで到達できるのかとか、途中で脱落しないのかと不安を覚える必要はありません。正しい目標目指して走るならば、神が必ず助け、聖霊の励ましを受け、キリストが大祭司としてとりなして下さり、完走できるようにして下さるからです。