(序)絵画のような美しさを感じさせる詩篇
* この詩は、その感性の豊かさ、信頼の深さ、神の守りに対するゆるぎない確信を強く感じさせ、その光景をイメージさせ、そして、神の守りの中にあることがどんなにすごい事実であるのか、見事に描き出している不朽の名作として人々に親しまれてきた詩です。
* なぜそのように親しまれてきたのでしょうか。この詩は、読む者に心温まる豊かなイメージを思い浮かべさせる絵画のような美しさを感じさせるからでしょう。羊をどこまでも愛し、養い、導く、羊飼いのイメージに込められている神の包み込むような愛と、どこまでも信頼してついていく羊との深い結びつきが感じられ、信仰の喜びが見えてくるからでしょう。
* しかし、単なる理想を描いたイメージではなく、どのような生活の座で、詩人はこのように歌ったのか、本当に心底そのように信頼し切っていたのか、上からのどんな力を感じ取って、このように歌うことができたのか、これらのことは、この詩に込められている詩人の思いを読み取って行かなければ理解できず、そこに示されている神の御心を受けとめることができないでしょう。
* この詩は、前半1節〜4節において羊飼いと羊との比喩が描かれ、後半の5,6節において、客をもてなす主人の比喩へと変わっていくのです。
* この2つの比喩の間にどのようなつながりがあるのか、そして、それを理解することが私たち信仰者にとって、どのような意味において、私たちへの神からの語りかけとして聞き取ることが出来るのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみることにしましょう。
(1)主はわたしの牧者として立って下さっている
* まず1節において、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と歌いました。口語訳では、主はわたしの牧者であるから、わたしには乏しいことがないのだという、乏しくないことの理由を示すために、主がわたしの牧者であることを示しているように受け取ることが出来る表現に訳しています。
* しかし、ヘブル語本文では、「主はわたしの羊飼い」という名詞文となっており、単体の表現と見ることが出来ます。もちろん乏しくないことの理由の意味も含めていると言えるでしょう。すなわち、この詩人が開口一番口に出した言葉は、主はこの私にとって、私を養い導いて下さる羊飼いだと告白したのです。
* 旧約においては、神が羊の群である神の民を愛され、神の民を牧する牧者を立てられたことが多く語られています。しかし、ほとんどは神と群、指導者と群という1対1集団との関係として言及されています。
* この詩人は、神と私という1対1の関係として羊飼いと羊との関係で向き合って頂いていることを告白したのです。詩人にとって羊飼いとは、どのようなイメージを抱いた存在だったのでしょうか。この時代においては、ごく普通に見られる光景であったのでしょう。それはイスラエルにおいてはきわめてなじみが深い家畜であったからです。
* 羊は攻撃能力を持たない弱い、無力な動物であり、牧者がいなければ道を誤ったり、迷ったりする動物であるが、その反面、従順であり、忍耐強さを持っています。
* 羊飼いは、そのような羊のために絶えず牧草を求めて移動し、盗人と獣とから命をはって守らなければならず、相当労苦が求められる職業でありました。
* 羊飼いと羊との親密な関係から、神と神の民との関係を表す比喩として用いられてきたのです。しかし詩人は、それを神と私との1対1の親密な関係として捉え、羊のような弱い、迷いやすいこの私を愛し導くために目を配り、外敵から守って下さるお方を思い浮かべたのです。
* 詩人の職業が羊飼いであったと考えられなくもありません。1節〜4節までが移牧を示し、5節は定住を示し、6節はエルサレム神殿における礼拝を重んじた信仰者であったと見ることも出来ます。けれども、おそらくは羊飼いであったというより、羊飼いと羊を比喩として、神がこの私をどんなに大事に思って下さっているかを歌ったものでしょう。
* このことを比喩として用いたのは、自分の弱さ、無力さを感じていた詩人は、イスラエルの民全体を牧して下さる神としてではなく、この小さな私に目を留め、愛し導いて下さっている牧者がいて下さるとの、強い確信に溢れていたからでしょう。
* もし、自分の弱さや自分の無力さ、惑わされやすく、自分は防御能力を持ち合わせていない者だと思うこともなく、自分の力を過信し、頑張りで乗り越えることが出来ると思っている人には、牧者の必要性は感じなかったでしょう。
* 詩人が、どういうことから弱さ、足らなさ、無力さを感じ取っていたのか、十分把握できませんが、ここに歌われているいくつかの言葉をヒントに考えて見ますと、もし神がおられないなら、自分で自分の人生を支えることも守ることも出来ない貧弱な人生であり、心が満たされることはないと感じ取っていたのでしょう。
* 死の陰の谷と表現されている言葉から考えて見ますと、自分で自分を支えきれない苦しみ、戦い、悲しみなどが襲ってきた時に、それを自らの力で跳ね返すだけの力がなく、押しつぶされそうになる者でしかないことを、体験してきたのでしょう。
* 5節には、敵の存在を示していますから、自分の人生を妨げ、襲いかかろうとする敵の存在に悩まされていたのでしょう。敵は必ずどこにでもいます。その敵の強さを感じさせられ、自分には、敵を排除し、前に進んでいくだけの力がないのを痛感させられたのでしょう。
* そのような弱さ、足らなさ、無力さを覚えるしかないこの私に、主は目を留め、大事な存在として見て下さって、支え、励まし、強め、愛し導こうとして下さっている、そんな私の牧者がおられる。これがこの詩人の拠り所であったことが分かるのです。
(2)3つの面における乏しくない状態
* 詩人は、2番目に、わたしには乏しいことがないと言いました。これは何において乏しくないと言ったのでしょうか。これは、3つの面すべてについて語ったのだと考えられます。第1は、物質的な必要の面、第2は、精神的満たしの面、第3は、霊的な結びつきの面について乏しいことがないと言った意味を考えてみることにしましょう。
(その1)物質的な必要の面
* 第1の物質的な必要の面について見ていきましょう。主は、信じる者に対して、その誠実さや信仰を見て、報酬として、信仰者が経済的にも、物質的にも裕福になり、この地上において、人々もうらやむような豊かな、何も問題もない人生を送らせて下さるように導かれると保証されているわけではありません。
* この世的には、人生の幸いイコール何の問題もない豊かさだと考えられているのですが、まして神は、人間の誠実さや信仰に対して、報酬を与えようと考えられ、世が望む裕福さと生活の安定を、信仰者に与えようとしておられるわけではありません。
* にもかかわらず、詩人は、わたしには乏しいことがありませんと歌っています。これは、私を裕福にして下さり、生活に安定を与えて下さっていることを喜んでいる表現なのでしょうか。そのことを考えて見る必要があります。
* 私たち人間の信仰と言うものは、いい加減な信頼度しかなく、十分に主に仕える姿を現しているとは言えない信仰でしかありません。神はそんな私たちの姿をご存知でありながらも、すがってくる者をあわれみ、愛し導いて下さる愛の深いお方なのです。
* それでは、すがってくる者をあわれんで下さる神が、物質的に、乏しいことがないと本気で言えるようにして下さるのは、どのような状態が考えられるでしょうか。
* パウロの人生を考えて見ましょう。彼は、伝道者として、神に仕えることだけを考えて生きていた人であったと言えるでしょう。そんな彼が証ししている内容がUコリント書11章に記されています。
* 伝道者としての歩みの中で、「投獄され、むち打たれ、死に面したこともあった。難船したこと、盗賊にあったこと、あらゆる人々から苦難を受け、眠れない時、飢餓の時、寒さに震えたこともあった」(11:23〜28)と、その歩みがどれほど厳しい状態であったか、経済的、物質的にも十分でないことも度々あったと言っているのです。まして、問題の起こらない時がないほど、戦いの中におり続けていたと言うのです。
* どうして、これほど主に仕え、主の御栄えを現すためにだけ生きているパウロに対して、世的な表現で言うならば、神の祝福や満たしや守りのないように見える信仰人生を送らなければならなかったのでしょうか。これでは、神の祝福を頂いている信仰者の人生とは言えないのではないかと思わされるのです。
* しかし、彼は別の所でこう告白しています。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と。(ピリピ4:11)また、「信心があっても足ることを知るのは、大きな利得である」(Tテモテ6:6)とも言いました。
* パウロは、今の自分の必要をすべてご存知であるお方が、その必要を満たして下さっていると(マタイ6:32,33)信じていたので、どんな境遇にあっても乏しいことはない、満たされていると告白したのです。これは、本当は、経済的豊かさや、問題のない精神的に安定した人生を送りたいとの思いを持ちながら、やせ我慢で言っているのでしょうか。そうではないでしょう。本音で、「十分です。乏しいことはありません」と言っているのです。
* それは、パウロにとって、世的な視点で言う充満と、神がすべての必要を満たし、乏しくない生き方をさせて下さると確信できる信仰の視点から言う充満との違いをよく知った上で、告白できる人であったからです。
* この詩人にとっても、世的な視点で、裕福で、問題のない人生を送っていたわけではないでしょう。死の陰の谷などのわざわいを感じる時もあり、敵の存在もあったことが歌われていますから、何の問題もなかったとは言えません。けれども乏しいことはないと言い得たのです。
* 彼の信仰による受けとめ方は、世的な視点で言う豊かさ、安定ではなく、必要を満たして下さる神にある豊かさですから、羊飼いなる神がいて下さることが乏しいことがないと言える状態なのです。
(その2)精神的満たしの面
* 第2の精神的満たしの面について考えましょう。詩人が、自分の信仰人生を羊飼いの下にいる羊にたとえましたが、羊の持っている特性のことを考えずにたとえたとは思えません。羊は弱さ、足らなさ、無力さを持ったものだとすでに項目(1)の所で見ました。
* そのような特性を持っていたということは、人生の歩みの中で、精神的に戦いを覚えることも、つらく感じることも、心が落ちることも、多々あったでしょう。信仰を持ったことによって、瞬時に精神的に強くされ、落ち込むことも、気力が奪われることも、心が折れることもなくなったわけではありません。
* しかし、この私には、私を愛し導いて下さる羊飼いがいて下さると分かった時から、自分の力や頑張りで物事を乗り越えていかなければならなかったこれまでの精神的に折れやすい歩みから、愛し導いて下さっている主の手の中に置いて頂いているとの安心感、充実感は、精神的な満たしとなり、わたしには乏しいことはありませんと言い得たのでしょう。
* 信仰に立つことによって、精神的に強くなったというのではなく、精神的な面も、主によって支えて頂くようになったと言えるのです。私は、心が折れると落ち込むような者であっても、そんな私を支えて下さっているお方がいて下さっているとの安心感が、乏しいことがないと言い得た理由であったのです。
(その3)霊的な結びつきの面
* それでは、第3の霊的な結びつきの面について見てみましょう。旧約においては、神の選民であって、神の御声に聞き従う信仰者に対して、神はその人と深く結びついていて下さり、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と言われるのです。(エレミヤ7:23他 旧1058)
* このような、神との結びつきを頂いた者は、神からの祝福が流れ込んできて満たされ、神の守りと助けの中に置かれ、神と共にある者として、神の恵みに溢れ、喜びと平安と希望に満ちた者とされるのです。
* 旧約においては、まず神と神の民(集団)との関係で語られていますが、その中の一人として神と1対1での結びつきを受けとめたのがこの詩人の信仰でありました。
* もはや霊的に乏しくなることはあり得ないのです。この意味で詩人は、わたしには乏しいことがないと告白することによって、神から見捨てられることも、見放されることもない、満たされた人生を送ることが出来ると確信を表明しているのです。
* それ故、霊的な面で、わたしは乏しいことがないと告白することは、神がこの私を捉え、落ちていかないように守り助けて下さると信じて、言い切っていることなのです。
* 新約においては、集団としてではなく、神と1対1の関係として見られ、神との結びつきを頂いた者として集団(教会)の中に組み込まれるように計画されていることが分かります。
* それ故、一人の人間として、キリストのあがないのみわざを信じることによって、神の選民とされ、神の御声に聞き従うことによって、聖霊の内住を頂き、神と直結して頂いた驚くべき恵みを味わい、神からの命に満たされ、もはや神から離れることはあり得ない最高の人生を歩ませて頂くことが出来るようにされたのです。これが霊的な面における乏しくない姿です。
* 霊的に乏しくなる人は、神とのつながりの部分に問題があり、確信がなく、神からの祝福や恵みを十分に味わうことができず、物質的な豊かさや、問題など起こらない精神的安定が見える状態が与えられない限り、神の守りと助けとを信じることができず、結合部分が何時切れてしまうか分からない状態だと言えるでしょう。
* 詩人は、神との直結を味わっていた人であったと考えられますから、わたしには乏しいことがないと言い得たのです。この意味で、新約時代の恵みを先取りできた人であったと言えるでしょう。
(結び)神への不満の思いが解消されているか
* 2節は、牧者の下に置かれている羊の一人として乏しくないと言えるのは、私の必要をすべて知って整えて下さる牧者が、羊のために、いのちをはぐくむ牧草と水のある所へと導くように、養って下さっている主がいて下さるからだと歌っています。
* ここには、羊のすべてを知っているが故に、飢えることも、渇くこともないように、外敵から守り、安心して歩むことが出来るように、心を尽くしている牧者の姿が描かれています。これは、詩人の抱いている、牧者なる神に対する明確な信仰でありました。
* この言葉は、神様ならこうして下さればうれしいのにという願望の思いが強ければ出てこないし、本当に神ならばこうしてくれるはずだという要求の思いからは出てきません。これは、神はこの私を大事な羊として養い、育て、守り導いて下さった牧者ですという体験的信仰告白であり、揺るがない信仰から発した言葉であったのです。
* 信仰者の内側にも、神様はもっとこうして下さればうれしいのにと、要求まではしないが、少しもの足らなさを感じて、不満の思いを残し、「十分です。乏しいことはありません」と言い切れない思いを残しやすいのです。
* この思いを正しく処理していなければなりません。物質的、精神的、霊的すべてにおいて、わたしには乏しいことがありませんと、本音で告白できているでしょうか。それは、不満の思いを少し残している心を、どう処理しているかが重要になってきます。
* それでは、「もっとこうして下さったらうれしいと思う」その思いがどのようなものか、ここで考えてみることにしましょう。信仰を持った私たちは、神様はきっとこうして下さるという強い期待を抱いて望んでいます。生活上の事柄において、主に仕えることにおいて、信仰の事柄においてなど、その期待には、どうしても肉の思いが入り込みます。自分にとって安心できるようになること、喜べること、うれしく思えること、励みとなることを願う心が入り込むことによって、神の御思いに沿わなくなり、聞かれなくなるのです。
* ただ神のみが正しく、神の御心がなるようにと願う思いになればいいのですが、完全な心を持てない人間には無理なことです。箴言でこう言われています。「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」と。(19:21)
* 自分の心に何も思わないようにしなさいと言うのは無理な注文でしょう。だからこそ、ただ主の御旨のみが堅く立つことを信じ、自分の思い通りにならなくても、期待通りにならなくても、主の御旨が堅く立っていることが最も幸いなことであり、それが現実において、物質的、精神的、霊的に満たされているように見えなくても、神の御旨においては満たして頂いている状態であり、乏しくないようにして下さっていると受けとめることです。
* これは、不満の思いを納得できないまま押さえつけよと言うのではなく、私たちの願いそのものに肉の思いが入り込んでいるのを認め、完全で正しく、誤りのない主の御旨だけが堅く立つ、信仰によってこの主と直結させて頂いていることのすごさを思い、その信仰に立っているなら、わたしは乏しいことはないと言えるのです。
* この詩人が確信してきたことは、この私には、必要を満たして下さる牧者がいると言う一点です。イザヤ書でこう言われています。「主は牧者のようにその群を養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものを優しく導かれる」と。(イザヤ40:11 旧997)
* 必要な時には、かいな(腕)に抱き、ふところに入れて携えて下さる。だから私たちは乏しいことはなく、不満もありません。主の御旨だけが堅く立っているので、すべては私たちにとって益となるようにされていると信じることができるのです。
* もちろん勘違いしてはならないことは、乏しいことはないと告白するのであれば、満たされているはずだから、何一つ飢え渇いて求めるようなことをしてはならない、それは不信仰だと言うのではありません。飢え渇いて求めることは不満の思いから出るものもあるのですが、主への期待と信頼から出るものがあるからです。
* 乏しいことはありませんと告白しつつ、神が必要なみわざを更に推し進めて下さるように願い求めることは、不満の思いから出たものではなく、神の御栄えが現されることを願って求める信仰の思いだからです。
* 大事なことは、どうしてもっと思い通りに、期待通りにしてくれないのかという不満の思いを、必要を満たして下さる牧者なる主への信頼と期待を示すことによって、正しく解消していることだと言えます。