(序)詩人の、信仰による対応の仕方
* 前回、1,2節の所で、物質的、精神的、霊的に必ずしも十分だと言えない厳しい状況の中に置かれていたと考えられる中で、詩人は、牧者なる主を見上げ、このお方がいて下さるということが私の充足を表しており、わたしには乏しいことがないと心から告白していたという姿から、彼の信仰を学びました。
* 信仰者となっても、なお肉の思いが強く残っており、ともすれば、どうして神様はもっとこうして下さらないのかという不満の思いが出てきやすいものですが、これを正しく処理しないまま放置していれば、牧者なる主に対する期待と信頼とが薄れ、「十分です。わたしには乏しいことがありません」と本音で告白することができなくなります。
* 牧者なる主に直結している信仰に立っているならば、世が提供するものよりもはるかに勝った神からの祝福といのちとに溢れ、必要な時にはかいな(腕)に抱き、ふところに入れて携えて下さっていることが分かって、満たされた歩みが出来ると確信していた詩人の姿が、とても印象に残ったのです。
* この後、今日の箇所で、直結した主から流れ込んでくる祝福といのちとがどのようなものであったかを続けて歌っていくのです。ここに、ただ理想のイメージを描くことを目的としていなかった詩人の、体験的告白を語る真骨頂と言える信仰を見ることが出来ます。
* これは、私たち信仰者も、この詩人のような告白が出来ないとしたなら、信仰は形だけのもの、驚くべき信仰体験をしていないいのちのないものに終わってしまうでしょう。
* この時代の社会的状況と、今日の私たち信仰者が置かれている状況は全く異なるものですが、信仰による対応の仕方は同じだと言えるでしょう。そこに、神からの語り掛けを聞くことができます。その点について、ご一緒に考えてみることにしましょう。
(1)弱った者の活力を回復させて下さる主
* この詩の特徴は、体験的告白にあると言うことです。告白には、体験的告白と期待的告白との2つがあると言えます。「あなたは必ずこのようにして下さるお方です」と今後の歩みにおいて必ず働いて下さるとの強い確信を持った告白が、期待的告白ですが、これは、これまでの信仰的体験や御言葉に対する絶対信頼から表していくものです。
* それと対比して、過去と現在において、「あなたは間違いなくこのようにして下さった」との信仰によって確信した事柄を思い浮かべ、この信仰的体験が、自分の信仰を動かないものにし、更に、今後も導き続けて下さる主に期待と信頼とを現していくのが体験的告白だと言えるでしょう。
* 羊飼いと羊とのたとえから、このお方は私にとってどこまでも養い導いて下さる牧者であって、羊のいのちと安全とを守るお方として立って下さっていることを、これまで体験してきました。それは、詩人が自らの弱さ、足りなさ、無力さを感じていたが故に、主の助けなしに歩むことができないと分かっていたからです。
* このような信仰的体験をさせて頂いていたので、自分は欠けだらけであっても、牧者なる主を見上げているだけで、わたしには乏しいことがないと告白し得たのです。
* しかしその歩みは、必ずしも平坦ではありませんでした。それを、羊飼いと羊とのたとえによる表現で、「主はわたしの魂をいきかえらせて下さった」と言いました。
* ここで、「わたし」と言わずに、「わたしの魂」と言っていますが、これはどういうことでしょうか。これは、聖書独特の表現ですが、たとえば、詩25:1では、「わが魂はあなたを仰ぎ望みます」と言い、詩31:5では、「わが魂をみ手にゆだねます」と言い、詩103:1では、「わが魂よ、主をほめよ」と言っています。このような表現が無数に使われています。
* この魂という言葉は、体とは別の部分を指す言葉ではなく、「息」という概念が根底にあって、息は生き物の命を表していますから、ここでは、生かされている人間全体を指す言葉だと言えるでしょう。それ故この原語は、生きた者、いのち、思い、心、生命力、活力などと多くの言葉に訳されています。
* この詩人の意図する意味を考えて見ますと、牧者の下で養われている羊であると受けとめていた詩人でありましたが、牧者の下にいれば、確かに必要を満たされ、外敵からも守られるのですが、それだからと言って、それは楽な道行だと考えていたわけではなかったのです。
* 羊飼いの導きのまま、いのちの源となる牧草や水を得るために移動し続けなければならず、時には、疲れて活力を失いそうになる時もあったのです。口語訳で「いきかえらせ」と意訳されているこの言葉は、「回復させる」「呼び戻す」という意味の言葉です。
* すなわち主は、牧者を見上げて歩む信仰者が、信仰の歩みの中で、ともすれば疲れて活力を失って気力が萎え、元気が出なくなるような厳しく、つらい道を通る時があることを想定しておられ、主の驚くべき配慮と導きによってその活力を回復させ、呼び戻して下さると言ったのです。
* これらのことから考えて見ますと、主の御前に生きる私を、第3者的に見て、わが魂と言うことによって、自分を見つめていると考えられます。つらい道を通ることによって、主の御前に生きる活力(信仰の活力)を失いそうになったこの私を、主は配慮と導きを持って、その活力を回復させて下さる。再び主の御前に喜んで生きる姿を表すことができるようにして下さったと体験的告白をしているのです。
* 信仰者の歩みは、主の守りと導きの中にあるにもかかわらず、必ずしも歩きやすい道が用意されているわけではありません。山あり、谷あり、岩場あり、ぬかるみあり、時には疲れを覚え、気力が萎える時もあります。なぜ主は、平坦な、楽な道を用意して下さらないのでしょうか。
* その理由のすべてが分かるわけではありませんが、救われた者であっても、主を見上げる歩みよりも、平坦で楽な道を求める肉の思いが強く残っている人間であることをご存知であります。
* 罪に落ちやすい人間が、唯一主に従う歩みをする道は、一足ごとに主を見上げ、それによって主の御前に生きる活力を得て歩むしかないことを教えられるためであると言えるでしょう。それ故、楽に肉の思いで歩むことが出来ないように、厳しい道も、つらい道も通されるのでしょう。
* もし、主の御前に生きる私が、活力を失ってしまったならば、信仰に生きる喜びがなくなり、牧者の下に置かれている幸いも感じられなくなります。そうならないように、主は配慮と導きとを与え、活力を回復させて下さると歌ったのです。この体験できることが、牧者なる主を頂いていることの特権だと言えるでしょう。
* イザヤは、このような信仰者の状態を見通しておられる神からのお言葉を伝えています。(イザヤ40:30,31 旧998)
* 「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはってのぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」ここで言う「主を待ち望む者」とは、この詩人の表現で言うならば、「牧者なる主を見上げる者」と言うことでしょう。私は絶対弱ることなどありませんという傲慢な信仰者にはこの恵みを味わうことはできないでしょう。
(2)ある信仰の力に捉われていた詩人
* 信仰者の歩みは弱りやすく、疲れやすいのです。そんな私たちに魂に、神は神の息吹を吹きいれ、活力を回復させて下さるというだけではなく、み名のために、わたしを正しい道に導かれると歌いました。この正しいとは、義のことで、神がよしと認めて下さる義の道のことです。
* ここでただ義の道に導かれると言うのではなく、御名のためにと言いました。これは、羊飼いが自分のプライドにかけて、すなわちプロ意識にかけて、羊を義の道へと導いく光景が描かれており、神がご自身の栄誉のために、必ずなして下さると言ったのです。
* 神に義と認められた者以外は、神の御前に生きる道はどこにもありません。すなわち、神の御前に生きることができるように、主はご自身のプライドにかけて導いて下さると言うのです。
* 羊飼いが羊のために、どの道に導こうと考えて連れて行っているのか、羊にはその道が正しいかどうか分かりませんが、羊飼いが、羊にとって最もよい道だと考えて導こうとしてくれているので、それが最善の道であると信じてついて行くのです。
* もし羊が、羊飼いを信じられなかったならば、羊はすべて自分で判断しなければならず、いいと思った道であっても、必ず正しい道とは限りません。それゆえ、羊飼いを信じるしかないのです。そうすれば、神が羊である私たちのために、最もよい道へと導いて下さると言っているのです。
* このことを信じることができない人は、自分が羊であって、弱さ、足らなさ、無力さを持った人間であることが自覚できず、自分の力で正しい道を探し当てることが出来ると錯覚しているだけです。
* そのような人は、すべて自分の知恵と判断力によって道を探し、進まなければならないのです。それによって神の御前に生きる道へと行くことが出来るわけではありません。
* 道ならどれでもいいというわけではありません。義の道でなければ、神の御前に生きることができず、神が人間にもっとも幸いな歩みを用意しておられるという最善の道を歩むことが出来ないのです。
* 義の道に導いて下さるのは、牧者である主だけです。なぜなら、エレミヤ書で言われているように、どこに導こうとしているか、神はすべてをご存知の上で、ご計画して下っており、その道へと導く力をお持ちだからです。(エレミヤ29:11 旧1094)すなわち、神が導いて下さる道は、平安を与えて下さる道、将来を与えて下さる道、希望を与えて下さる道だと言うのです。
* この詩人には、そのような牧者なる主が見えていたのです。私のことをすべて知った上で、ご自身のプライドを守られるために、ご自身の御栄えのために、私たちを義の道へと導かれ、平安と将来と希望を与え、信仰人生の素晴らしさを味わわせようとして下さっているのです。
* 詩人はこれまでにも、そのような牧者の導きを体験してきました。だから、最後まで責任を持って導いて下さる牧者なる主を見上げることによって喜びが溢れたのです。
* もちろん、その道は何の障害もない、妨げもない、苦痛もない道だとは言われてはいません。それどころか、死を覚悟させられるような死の陰の谷を歩まなければならないし、そこで受けるわざわいも覚悟しなければなりません。
* しかし詩人は、大胆に言ったのです。「私は、たとえわざわいが襲い掛かってきたとしても決して恐れません」と。詩人は、格好をつけてこう言ったのでしょうか。そうではありません。一つの動かない信仰の力というものが、彼の思いを捉えていたからです。
* これが、この詩人の信仰を特徴付けるものです。それは、「あなたがわたしと共におられる」という信仰です。これは、聖書全体を貫く、非常に大事な信仰内容として示されているものでありますが、詩人はそれを単なるお題目にせず、力として、真の拠り所として受け取っていたのです。そのことについてもう少し考えてみることにしましょう。
(3)神が共にいて下さるという信仰とは?
* 旧約においても、信仰者を力づけ、励まそうとされる時、神は、「わたしはあなたと共にいる」と語りかけられています。新約においては、そのお方が肉の体を取って、この地上に来て下さった時、このお方はインマヌエルと呼ばれたと言うのです。(マタイ1:23)
* そして十字架にかかられ、復活されたイエス様は、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られて昇天されたのです。(マタイ28:20)すなわち、主がこの地上に来て実現して下さったことは、神が共にいて下さるという、とんでもない霊的事実を分からせることであったと言えます。
* 耳にたこが出来るほど聞いてきたこの霊的事実が、本当に自分のものとなり、力となり、たとえ死の陰の谷と呼ばれるような厳しい状況に追い込まれ、世の支えというものが何もないように思えるようなことがあったとしても、「私はわざわいを恐れません」と言い得るでしょうか。
* 私たちの思いの中には「主よ、わざわいが来ないように助けて下さい。出来れば楽な道を、問題や戦いのない道に導いて下さい」と願い求める心を持っています。そのように願っていても、いろいろなわざわいや戦いや問題がやってきたら、「主よ、どうして問題が起こらないように導いて下さらないのですか」と不満の思いが出てくるのです。
* 何もない時には、神が共にいて下さっているということを疑わないのですが、しかしそれは、その人を支える力になっていない場合もあるのです。すなわち、自分にとってわざわいだと思えるような事柄が迫ってきた時に、そのことが明らかになります。その時に、「私はわざわいを恐れません」と告白できるならば、神が共にいて下さるという霊的事実が、その人を支え、力づける信仰の力となっていると言えるのです。
* 私たちは、わざわいに弱いものです。だから、神が共にいて下さると聞いたら、ホッとするのです。しかしホッとするだけではまだ信仰の力にはなっていないのです。実際にわざわいが来た時に、恐れませんと言い得なければ、一時的な慰めでしかありません。
* 信仰の力として受けとめることが重要です。以前も取り上げたヨシュア記1:5を見てみましょう。「わたしはあなた共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない」とヨシュアに対して語られ、この信仰を力として受けとめるように示されました。今日はその後を見てみますと、「強く、また雄雄しくあれ」と言われているのです。
* 神は、私が敵を無力にし、あなたが戦わなくてもいいようにするとは言われませんでした。「この信仰を力として前進せよ、恐れるな、心を強く持って戦え」と勧められたのです。
* もしヨシュアが、「神が共にいて下さる」という信仰の所で止まっていたら、その導きを受けとめることはできなかったでしょう。神が共にいて下さるという霊的事実、これが私の力となり、助けとなる、そう信じて、この信仰を力として前進したのです。
* 信仰が自分の中で驚くべきエネルギーとならなければ、単なる美しい言葉、慰めに満ちた言葉、ホッとできる言葉以上になることはできず、何のわざわいもない時だけの支えとなるだけで終わってしまいます。
* しかし、ヨシュアの信仰は、また同じ所に立っていた詩人の信仰は、一時的な慰めを得る言葉としてではなく、それを、神に従って前進していくためのエネルギーとして受けとめたのです。そして、そのエネルギーを確信し、味わいつつ前進したのです。
* ヨシュアとヨシュアに従った民は、厳しい戦いの道に突入して行きました。この詩人も、具体的な状況は分からないのですが、詩人にとって死の陰の谷と思える、自分にわざわいが降りかかってくる道を恐れず前進したのです。ただ、共にいて下さる神を見上げることで、乗り越えることができると信じて歩んだのです。
* 神が共にいて下さるという信仰は、簡単なものではありません。本気で信じて前進することが要求されているのです。しかも、人間的な安全が保証されている道ではありません。ただ、共にいて下さる神のみを見て前進することができるか、新約の信仰で言うならば、内住して下さっている聖霊が、私たちの思いをきよめ、その歩みを導こうとして働き続けて下さっていると信じて前進できるかが問われているのです。
(結び)自分の人生をお預けして安心できているか
* この詩人は、肉の思いから起きてくる神への不満の心をも正しく処理し、「わたしには乏しいことはありません」と言っただけではなく、あなたが共にいて下さるので、私の通るべき道がたとえ死の陰の谷であろうと、あなたの導きと助けと、これから導こうとして下さっている先を信頼しているので、何も恐れませんと言い切ったのです。
* 言葉上の美しさだけを見ている信仰者にとっては、この信仰の深みは分からないでしょう。神は、何の問題もない信仰人生を提供して下さるとは言われないし、人間的な目で安心できる安全を保証して下さるわけでもありません。共にいて下さる神だけを見上げて、神を信頼してついていけるか、そう言われている内容だと見てきました。
* 共にいて下さる神を見上げて歩んだ詩人は、時には、信仰的に弱ったり、疲れたりしたこともあったのでしょう。また、これで大丈夫なのかと不安が押し寄せてくることもあったのでしょう。しかし、自分を第3者的に見ると、そのような中から不思議と回復力が与えられ、神のみを見上げて歩んできてよかったと、多くの体験を得させて頂いて、喜ぶことができたのです。
* しかも、この道の先は、神が受け入れて下さる、そのような神の御前に生きることができる義の道だと確信し、神の名にかけて、最後まで責任を持って導いて下さるという神の御心を信じることができたのです。
* この牧者なる主は、私を導くのに、その御手にはむちとつえとを持っておられると言いました。それは、迷いやすい羊を軌道修正させるためであり、外敵から守り、信仰者の歩みを整え、逸れることがない歩みをさせようして下さっている光景だと歌っているのです。
* この詩人にとって、牧者なる主は、自分の人生をすべてお預けして安心できるお方。このお方の導きを信じて安心できる歩みだと確信して、現状は必ずしも良いとは言えなくても、それに目を奪われず、共にいて下さる主を見上げつつ歩むことが出来たのです。そして、それが詩人にとって最高の信仰人生だと確信できたのです。
* 時代も、状況も全く異なっている今日の私たち信仰者においても、詩人と同じような信仰的対応が出来るか、そこに自分の最高の信仰人生を見ることが出来るか、その点が問われている詩篇であると言えるでしょう。