聖日礼拝メッセージ
2012年12月3日 更新

聖 書 詩篇23:5,6   (第3講)
   題 「逃れ場のすごさを味わい知った詩人」


  (序)2つのたとえを通して示そうとしたこと

* 2回に分けて、この詩人が、羊飼いと羊とのたとえを通して、自分が立っていた信仰の原動力となった信仰の思いを、絵を描いていくかのようにして歌い綴ってきた詩人の信仰から、神の御心を学んできました。

* 羊の弱さ、足らなさ、無力さなどすべてをご存知である牧者なるお方が、羊のことを大事に思い、羊の思いの中に、牧者を見上げることによって、すべて充足していると思うことができるという思いを起こさせるように導かれた点について告白したのです。

* 現実には、物質的、精神的、霊的にも厳しい状況の中にあったと考えられる中で、安心できるような状況に導かれているということを感じ取って、主は満たして下さっていると告白したのではなく、状況は変わらなくても、私を知り、私を導いて下さる牧者の存在が充足感を与え、このお方を見上げるだけで安心していた、そんな彼の信仰が十分に告白されていました。

* そして第2の点は、そのような信仰に立っていたこの私は、現実には弱さを感じ、無力さを感じて、気力は萎えさせられそうになっていたが、主はその活力を回復させて下さり、しかも、ご自身の名にかけて、神の御前に生きることができる義の道へと導いて下さっていると確信していた信仰が告白されていました。

* すなわち、私のすべての歩みに主が伴って下さり、人間的に考えれば、わざわいだとしか思えないような道を通されるようなことがあっても、主が大手を広げて敵の攻撃を防ぎ、恐れやすい私を覆って下さり、内側に信仰から発される驚くべき神のエネルギーがあふれ出し、前進する力を与えて下さったと確信して告白している、詩人の信仰がよく浮き出ていました。

* この2つの点から、詩人がどのような信仰に立って、自分の人生を主におあずけし、前向きに歩んでいたかが十分に歌われていたと思われるのですが、その後で、全く別の比喩を使って歌っているのはどうしてでしょうか。

* 羊飼いと羊のたとえでは表し切れない彼の信仰の思いを、別のたとえを通して、しかも前のたとえとの関連を考えながら、そこに新たな信仰の思いを歌い綴っていこうと書き加えられたのでしょう。

* すなわち、これまで歌ってきた信仰に合わせて、更に、次のたとえを通して、神の下に置かれている幸いな事実を受けとめているならば、それがどんなに祝福に満ちた信仰状態になるかを歌おうとしているのです。詩人が告白している内容の深みを、ご一緒に見ていくことにしましょう。


  (1)ご自身の下に逃げ込んだ者を歓待される主

* 詩人は、敵の存在があることについて言及していますが、この敵が、詩人に対してどのような害をもたらそうと迫っている存在であったのか、この文面だけでは推測しにくいと言えるでしょう。

* ある学者は、強盗に追いかけられた旅人が、ある天幕に逃げ込み、その天幕の主人が旅人を保護し、歓待してくれたという状況を想定しています。

* この敵が、強盗のような突発的な存在であったのか、それとも、詩人を困らせ続ける継続的な敵対存在者なのか、ここでは判断しかねるのですが、この詩人が描いたイメージは、敵に追い回されて神の天幕に逃げ込んだ人が、神の庇護を受け、そればかりか、大歓迎され、宴会まで設けて、これ以上ないと言えるほどのもてなしをしてもらった様子が描かれているのです。

* 状況が正確に分からなくても、自分の力で立ち向かうことの出来ない強い敵に追い回されているという構図は、間違いがないでしょう。詩人は、自分で何とかしようとするのではなく、神の天幕に逃げ込んだのです。これが彼の信仰的行為でありました。

* 旧約の信仰では、サタンの存在がそれほど強調されていないので、この詩人が敵の背後にいるサタンに思いを向けていたかどうかはよく分かりませんが、今日の信仰者において言えば、引き落とし、害を与えようとする敵は必ずおり、その敵の背後にはサタンがいて、信仰者を追い込み、引き落とすまで働き続けるという、しつこい存在がいることが分かっています。

* その敵に対抗するだけの力が私たちにはなく、唯一の解決策が、神の天幕に逃げ込むことであるということを、信仰によって受けとめていた詩人の信仰が、ここにはよく言い表されています。

* しかも、ただ逃げ込んだというだけではなく、その天幕の主人である神は、敵の手から、また敵の策略からも守り、かばって、害を受けないように覆い隠して下さったと言うのです。

* これはもちろん、空想話ではなく、実体験の告白ですから、実際には、この神の天幕というのは、6節で主の宮と言われていることから考えてみますと、神殿の中に逃げ込んだことを指していると思われます。

* 神殿を建てたソロモンは、建堂の祈りにおいて、「…敵のために町の中に攻め囲まれることがあっても、…もし、だれでも…この宮に向かい、手を伸べるならば、どんな祈り、どんな願いでも…天で聞いてゆるして下さい」(T列王記8:37〜39 旧490)と祈りました。

* それに対して神は、「…この宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く、わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう」と言われました。(9:3)この私を信じて、よりすがってこの神殿に逃げ込むならば、この私が守ると言われているのです。

* これは、形としての神殿ではなくても、神の下に逃げ込み、そこを逃れ場として、神の下に隠れるという信仰的行為だと見ることも可能でしょう。神の下に隠れようとする者を神は守られるという内容は、羊飼いの守りの中にいる羊として構図においても語られていたものですから、前のたとえとそのつながりが感じられるのです。

* 詩人は、その内容に加えて、神の下に逃げ込んだ者に対して神は喜び迎えられ、宴会を設けてもてなして下さり、その光景を敵に見せて、敵に地団太を踏ませられると言うものでありました。これは必要以上ではないかと思えるほどの歓待の仕方で、惜しむことなく、溢れる恵みを注いで下さると言うのです。

* 詩人は、神がどうしてそこまでして下さると告白できたのでしょうか。そこまでして下さるほど人間的に価値があると思えませんし、大事にしなければならない理由があるとも思えません。ただご自身の下にすがってくる者、助けを求める者を、神は義とされ、神の目にかなった者とされるが故に、どこまでも愛し、必要以上に祝福を注ぎ、ほまれを受けた者として下さると言うのです。

* これは、旧約、新約を通して語り続けられている福音です。そのことをパウロはローマ書4:3〜5で、「アブラハムは神を信じた、それによって、彼は義と認められた。…不信な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのであると言っています。

* 詩人は、主を信じ、よりすがって主の下に逃げ込んだ時、ただその姿を見られ、神はご自身の目にかなった大事な者、義なる者として受け入れ、敵の手から守って下さるばかりか、敵をあざ笑うかのように、その前で大歓迎し、すべての祝福を持ってもてなし、あふれさせて下さるお方であることを体験したのです。それが具体的にどのような体験であったのか、もう少し考えてみることにしましょう。


  (2)神はどのようなもてなしをして下さったか

* 羊飼いと羊とのたとえでは言い表せなかった内容として、御許に逃げ込んできた者を、大切な客として迎え入れ、最高のもてなしをして下さる天幕の主人の姿が描かれていますが、そのもてなしとはどのようなものであったのか、2つの点が記されています。

* その前半は、「わたしのこうべに油を注がれる」と言うことでした。これはどういう意味でしょうか。

* 詩篇133:2,3を見れば、頭に油が注がれ、その油がひげに流れ、衣の襟にまで流れるさまは、主の祝福があふれて、その人をうるおす姿を指していると語っています。

* ルカ7:46では、イエス様を迎えておきながら、自分にとって大切な客として歓待しようとしなかったパリサイ人に対して、「あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかった」と言われたことが記されています。形では歓迎しているように見せかけても、心にはそのような思いが見られないと責めておられるのです。

* しかし神は、神の下にしか逃げ場がないと判断して逃げ込んできた者を、神の義にかなった者として受け入れ、心から喜び迎え入れて、最高の祝福を惜しげもなく注がれたと詩人はその歩みの中で受けとめたのです。

* もちろんこれは、見える形で頭に油を注がれたのではありません。霊的な事柄としてこのように表現したのです。それでは詩人は、神からの祝福があふれて私を潤したという霊的体験をどのようにしたのでしょうか。

* 考えられる第1のことは、受け入れて下さった天幕の主人である神を思い浮かべることにより、敵の存在に対する恐れから解放され、思いが振り回されなくなり、あふれる神の祝福の中において頂いたからだと思うことが出来たのでしょう。

* 第2のことは、神の下にあって平安と喜びに満たされ、与えられた信仰人生が最高の人生であり、不足も、恐れもないと告白できる祝福された歩みが提供されたと思うことが出来るようになったのでしょう。

* 苦痛や戦いがなくなるわけではありません。神の下に逃げ込んでいるとの強い意識を持って、それらをも乗り越えることのできる者にして下さるのです。

* パウロは、エペソ1:3で「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福を持って、わたしたちを祝福して下さった」と言っています。それは、神による守り、支え、励まし、養い、育て、強め、喜び、平安、希望などのあらゆる神の祝福のわざによって、御許に逃げ込んだ者を祝福して下さっていると言うのです。詩人は、霊においてそれを受け取ったのです。

* 後半の「わたしの杯はあふれます。わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴う」と言った点について見てみましょう。詩人は、霊においてすべての祝福に満たされ、強くされただけではなく、具体的にわたしの杯はあふれると言って、目に見える形においても、必要を満たし、安心して歩むことが出来るようにして下さったと言っているのです。

* ここでの杯は、象徴的な意味で語られていると言うことが分かりますが、逃げ込んできた者が、天幕の主人から客として迎え入れられ、最高のものを持ってもてなす姿を、杯を満たすという表現で言い表しているのでしょう。それは、その人に今必要なものを満たし、幸いを得ることができる象徴として示されているのです。

* それが、具体的にどのようなことであったかは推測するしかありませんが、敵がこれ以上攻めてくることが出来ないように、何らかの働きかけをして下さり、主が守って下さったと感じる出来事などがあったのでしょう。

* そして更に、身も心も霊も疲れ果てた時に、周りの人々からの手助けや、励ましや、支えとなる働きかけや、考えられないような展開があって、主はこの私を元気付けて下さっていると感じ取ることが出来るような出来事があったものと考えられます。

* 主は、この私の杯をあふれさせて下さっている。こう確信して歌っている詩人の心境は、こんな弱い私に、ここまで愛し、御手の中に守り、目を留め、どこまでも祝福し尽くそうと臨んで下さっている神の熱いお心に感動していたのでしょう。

* それ故、「私の生きている限り、神からの恵みといつくしみとが伴うでしょう」と言いました。口語訳のこの訳は、詩人の思いを十分に伝えてはいません。「伴う」と訳されたこの言葉は、「追いかけてくる」という意味の言葉で、敵が執拗に追いかけてきていたが、それ以上に、神の恵みといつくしみがこの私を捉えようとして追いかけてくると言ったのです。

* 人間の側から求めたのではなく、神の側から、恵みといつくしみとを持って追いかけ、満たしてしまわれると言っているのです。神の側からの働きかけのすごさに圧倒されている詩人の思いがよく表れています。


  (3)逃れ場に帰り、そこから出て行く歩み

* このような、神の恵みといつくしみとに追いかけられる体験をしてきた詩人は、信仰者として現すべき姿勢を、私も積極的に現していきますと、信仰的決意を表し、「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と言ったのです。

* 「住む」と訳されている言葉は、読み替えによるもので、そのように訳している翻訳も多いのですが、元のまま訳せば「帰る」という意味です。主の宮に住み続けるというよりも、生涯かけて絶えず主の宮に帰るという信仰的向かい方を大事にしたいという詩人の決意だと、ここは考えた方がいいように思われます。

* 神の天幕に逃げ込んだ詩人は、自分の力で敵に対抗しようとすることをやめたのです。主にすがる信仰的生き方に活路を見出した詩人は、「とこしえに主に宮に帰ります」と言うことにより、私は生涯この生き方を私の生き方にしますと言ったことになります。

* すなわち、神の御許を唯一の逃れ場とし、そこが、平安と喜びと希望があふれている場であるから、この逃れ場に帰ってきて、またここから出て行くという信仰による生き方を生涯続けていきますという、信仰的決意を表している表現であることが分かるのです。

* 信仰者であっても、即座に天国に導き入れられればいいのですが、そうはいかず、世において生きなければなりません。それは敵の住処であり、そこには敵がひしめいており、落とし穴や罠が無数に仕掛けられており、安心できる場ではありません。サタンがあらゆるものを用いて働きかけてくるからです。

* しかし、世にあって生きる歩みの中において、唯一の逃れ場が置かれているのです。それをここでは主の宮と呼ばれていますが、それは、神の御許のことであります。そこは身も心も霊も、神の恵みといつくしみによって養われ、育てられ、時には訓練され、世において主の守りを頂きつつ歩むための原動力を得る場であります。

* そして、それをもっとも顕著な形で受けとめることが出来るのは礼拝だったのです。礼拝において、神の伴いが感じられ、神の力を味わうことができ、霊が満たされ、神の恵みといつくしみとにあふれさせて頂ける場なのです。

* 詩篇31篇の詩人はこう歌いました。「わたしのために逃れの岩となり、わたしを救う堅固な城となって下さい。まことにあなたはわたしの岩、わたしの城です」と。(31:2,3)

* そこに行けば、間違いなく逃れ場として、神の恵みといつくしみとであふれさせて下さる場であるから、そこに行くことによって、世にあって生きるためのよろいを得、かぶとを得て、サタンの攻撃から守られ、弱りそうになったら、また逃れの岩の下に行き、主をたたえ、主の御力を味わった上で、世に送り出されるのです。

* 詩人は、自分が守られていることを告白するだけではなく、世において生き続けなければならない私たちが、神の恵みといつくしみとにあふれさせて頂き続ける者として、積極的に、神の御許に帰り続ける向かい方をしていきますと言ったのです。


  (結び)逃れ場を持っている信仰者として

* 羊飼いと羊のたとえから、伝えることのできる内容だけにとどまらず、更に奥深い神の働きかけのすごさを示すために、天幕の主人と旅人のたとえを用いたのです。

* 神は、私たちが神の御許を唯一の逃れ場として信頼し、よりすがったことだけで、神の目にかなった者として受け入れて下さり、もっとも大切な者として扱い、最高の祝福を用意して歓待して下さったと言ってきたのです。

* そればかりか、私たちが、恵まれるように必死に追い求めてやっと与えられるというのではなく、神の側が恵みといつくしみを持って私たちを追い掛け回し、私たちを祝福で満たさずにはやめられないほど、私たちのことを大事に思って下さっていると体験的告白をしてきました。

* 詩人は、自分が特別だと思っていたわけではありません。詩人が特別なのではなく、神が特別なのです。人間的に、あるいは世的に見れば価値があるようには思えない、そんな私たち人間を、ただ神の御許が唯一の逃れ場だと信じて向かう者を義として受け入れられると言うのですから、神がいかに特別なお方であるかが分かってきます。

* それ故、私たちも一回限りや気まぐれにではなく、生涯かけて、ここだけが神の恵みといつくしみとに覆われて、世に生きるためのよろいやかぶととなって、敵に落とされない歩みをするために、神の御許に絶えず帰る向かい方をし、そこから押し出されてはまた帰ることによって、身も心も霊も活力が与えられた状態を保ち、たとえその道が厳しい道であっても、主の伴いを信じて一歩ずつ歩むことができるのです。

* この詩人が言い表した体験的告白は、なんと力強いものでしょうか。帰るべき所を持っている人であり、力を得、活力を回復させて頂く場をちゃんと握っている人であり、不満も恐れも取り去ってもらえる場を持っている人であったのです。

* それ故、これは詩人自身の強さを表しているのではなく、世において、信仰者としての生き方をするための原動力を得る場を持っている強さであり、神による強さであることを表しているのです。

* このことは、私たちにおいても同様でしょう。形としての礼拝をすればいいと言っているのではありません。神の御許に行く度毎に力を頂き、強くされるという信仰を持って、神の御許に返り続けるのです。



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