(序)この箇所は誰の言葉か
* イエス様が、ニコデモに対してお語りになったお言葉はどこまでなのか、大きく2つの意見に分かれています。一つは21節まで、すべてイエス様が語られたものだと見る説、もう一つは15節までで、16節から21節までは著者ヨハネの解説だと見る説です。
* 確かに、すべてイエス様のお言葉だと取れなくもないのですが、これまでのイエス様の記事を踏まえて、特にイエス様が語られた15節のお言葉の深い意味を十分に受けとめてほしいと願って、ここに、著者ヨハネが解説を書き加えたと見る方がいいと思われます。
* 1:1〜16に記されてあった序言も、イエス様の言動を福音として取り上げる前の、導入として、福音理解の助けとなる解説を入れて、福音書を読む者に、正しい身構え、態勢を取らせようとして書かれたものでありますが、この箇所のように、途中においても、大事な点に目を留めるように補足解説していると受けとめることが出来ます。
* ヨハネは、なぜ解説を入れる必要を感じたのでしょうか。共観福音書のように、イエス様の言動をそのまま手を加えずに提示して,読者がしっかりと自分の霊で受けとめるように、読者の手にゆだねる手法もあるのですが、ヨハネは、正しく受けとめてもらえない危惧を感じて、理解しやすいように補足したのです。
* すなわちそれは、ヨハネが聖霊の助けを頂いて、イエス様の言動をどのように受けとめたのか、自らの信仰告白として、福音書の意図をはずさない程度に書き加えたのだと考えられます。それは、福音書記者の上にも神が働きかけ、御心を明らかにする証人として、神が用いておられると信じていたからでしょう。
* 一般の解説でもそうでしょう。正しい解説と言うのは、偏った自分の思いで感じたこと、思ったことを言うのではなく、出来る限り私見を挟まず、正しい情報解析と展望の解明など第3者的分析を提示することでしょう。
* 信仰の解説となると、それ以上のものが求められます。神の御心理解の妨げとなる肉の思いを入れ込んだ解析と解明は、人間的な解説に過ぎません。神のお心は、御霊以外に知ることはできないと言われていますから、信仰の正しい解説は、聖霊の助けなくして出来ません。
* ヨハネは、その度を越えることなく、イエス様の御心を受けとめ、それを読者に届けるために必要な解説をし、聖霊の助けを頂いてここに加えたのでしょう。ですから、これを理解することは、イエス様の御心を理解することであり、神の御心を理解することだと確信して解説しているものと考えられます。それ故、イエス様の語られたお言葉かヨハネの解説か、明確に分けようとしていないのでしょう。
(1)霊の目が開かれて受けとめるべき第1のこと
* 前回は、ヨハネが示そうとしてきた神のお心、すなわち、霊によって生まれ、霊で聞き、霊の目が開かれることが何よりも大事なことだと、その一点だけに目を向けてきたので、イエス様が、ご自身のことを神的存在者であることを示された点については、軽く触れた程度にしました。
* しかしこのことも、著者ヨハネにとっては、福音書を通して明らかにしようと考えていた大事な点ですから、イエス様が、ご自身のことを何もしない神的存在者としてではなく、モーセが荒野でへびを上げたように、人の子も十字架に上げられるために来られたこと、そしてそれは、私のためであると信じる者に、永遠の命を与えるためだと語られた内容に焦点を当てようとしたのです。
* すなわち、イエス様が教えられたこの大事な13節〜15節の内容が、霊の目が開かれて受けとめるべき第1のこととして、そこに著者ヨハネが解説を加えて、神のお心の深みを説いていくのが今日の箇所です。
* イエス様が十字架に上げられるという光景が、何を意味するのでしょうか。ヨハネはそのことについて解説せずにはおれなかったのでしょう。
* これは、神のほとばしる愛の行為に他なりません。しかも、信じた者を愛される愛ではなく、神から離れ、汚れに満ちた世そのものとなっている人々に対する愛であったと言うのです。
* ここで語られている対象の世が、地に落ちてしまって、全く愛する価値のない全人類のことを指していることは明らかです。それは、モーセの記事においてもそのことが明確にされています。
* 旧約時代は、全人類を招かれる前段階の、選民に対する働きかけでありますが、神がモーセを用いてイスラエルの民をどれほど愛し、忍耐し、導き続けられたか、それは半端ではなかったのですが、民はそれでも神とモーセとに対してつぶやき、不信仰を表したので、もはや愛する価値なしと判定され、へびにかまれて人々は死んだのです。
* その時に、モーセに青銅のへびをさおの上に掛けるように示されたのは、愛してもどうにもならない、見込みのない人間たちに対してでありました。この例証がここに取り上げられたのは、あの不信仰な選民が、全く取り柄のない世そのものであったように、神から離れたくだらない世の人々を愛するために、神はご自身の大事な御一人子を与えて下さった。これが神の愛だとヨハネは訴えるのです。
* こう聞いても、私たちは神の愛がどのようなものか、なかなか捉えにくいのです。私たちは神の愛がどこまで分かっているでしょうか。神の愛とは、無償の愛だと言われます。分かりやすい言葉で言うならば、相手に要求しない愛と言ったらいいでしょうか。
* 人間の愛は、相手に要求する愛、返ってくるものを求める愛です。しかし神は大事な御子を与えることで、その結果、あなたは価値があるよと言って下さる愛です。たとえ人から見て、また自分から見て、また神から見て価値があると思えないような者であっても、神は御子を与えて、一方的に価値ある存在だと断定し、受け入れて下さる愛だと言うのです。
* そこまでの愛を示されるのは、神がお与えになった御子を信じる者が、人間的にどんな問題があろうと、一人も滅びないで、永遠の命を得ることができるようにするためだと言っています。
* ここであえて、永遠の命と正反対の状態である滅びについて言及しているのは、一人も滅びないようにしたいと考えておられる神の愛の深さを示そうとするためであったことが分かります。ここで言う滅びとは、神が、これは存在価値が全くないと断定されることです。
* 御子を信じさえするならば、全く価値のなかったこの私たちを、価値ある者として永遠の命を与え続けて下さると言われているのです。
* しかし、信じるならば、という条件をつけているのは、相手に要求する愛になっているのではないかという疑問が残ります。けれども考えてみると、御子を信じない者にとって、神から価値ある者と判断してもらうことは、そんなに大事だと思わないし、神の愛を受けとめることは決してありません。
* だから御子を信じる者が、永遠の命を得るとは、条件つきの愛として語っているのではなく、御子を信じる者にならない限り、神が用意して下さっている永遠の命を大事に思うことはなく、与え続けられるように願うことがないので、御子を信じる者だけが、神の驚くべき無償の愛を受け取ることが出来ると言っているのです。
(2)世を救いたいと願っておられる神
* ヨハネは、16節において、神の愛の深みを示すだけに終わらず、17節では、御子が世に遣わされ、十字架に上げられるのは、世をさばくためではなく、世を救おうとされるためだと言いました。これは不思議な表現です。
* 世をさばくためではないと言うのは、価値なしと判定して、世を切り捨てるためではないと言うことですから、愛の深い神のお心として、この意味は納得できます。しかし、世のただ中にいる者の中から、御子を信じる者を救い出すためだと言わないで、世を救うためだと言うのです。これはどういう意味でしょうか。
* これは、世という表現で,サタンに引き込まれて罪人となり、世の思い、肉の思いの毒が全身に回ってしまっている人々のことを指していると言えます。もちろん、それは特別の人のことを指しているのではなく、全人類のことなのです。このままであれば全人類は、神のさばきを受けて滅びるしかない存在であったのです。
* しかし、神は世をさばいて滅ぼすことを願われたのではなく、大事な御一人子を世に遣わしてまで、世に永遠の命を与えるチャンスを与え続け、世を救いたいと真に願っておられたのです。
* それ故、御子を信じることができそうな者を探し出して、救い上げ、それ以外のものは全く人間としての価値がないとして、切ってしまわれたのではありませんでした。世と呼ばれている、罪の毒が全身に回ってしまっている全人類に対して、救われるチャンスを残され、そのために忍耐し続け、何とかして世を救いたいと願って下さったのです。
* すなわち、神の側においては、どれほど価値なし、無駄な存在でしかないと見える人間に対してでも、簡単に、不用との判定を下されない忍耐深い愛が、この一言の中に無限に示されているのです。
* しかも、御子を信じて救い出された者の思いの中において、なおも罪の毒が全身に蔓延したままの状態が解決したわけではないので、その毒性に影響されない歩みが出来るように、永遠の命という毒消しを処方して下さるのです。
* 罪の毒がすべて全身に蔓延している状態から救い出そうとして、御子を世に遣わし、あがないのみわざを完成させて下さったのです。今御子を信じることができる者だけではなく、いつか、霊から生まれる者になる可能性のあるすべての人間、すなわち、世のすべての人を救うことが神の願いだと示しているのです。
(3)自ら神にさばかれる方を選び取るやみ人間
* しかし、この後の18節では、これまで語ってきたことを覆すような表現で、信じる者はさばかれないが、信じない者はすでにさばかれていると言うのです。これは一体どういうことでしょうか。
* その後の言葉から考えて見ますと、神の側がさばかれたというのではなく、人間の側が自分でさばかれる方を好んで選び取ったと言っていることが分かります。
* 第1の結果として、神の一人子の名を信じるということがどれほどすごい恵みへの招きであるか分かるように提示されているのに、霊の目を自分の方から閉じて何も見ないようにし、信じないようにしているという姿に明らかになっていると言うのです。
* なぜ神の一人子の名を信じることを避けようとするのかと言いますと、肉の思いに従う歩みを続ける上において、都合が悪く、きよい生き方は大変だと感じるから、楽に生きたい人間にとって、肉の思いに逆らわない道を選び取ろうとするからです。
* 第2の結果として、第1の結果とつながっていますが、やみの生活を愛する者になってしまっており、光を嫌い、光に照らされ、明るみに出されることを避け、やみの生活の方が魅力を感じるようになってしまっているから、光の生活を望まなくなってしまっていて、自らさばかれる方を選び取っていると言うのです。
* やみの部分は、私たちの中にも残っています。明るみに出されたくない心、陰口を言う心、人を見下げる心、人をさばく心など、マルコ7:21,22には、人の心の中から出てくる悪い思いとして取り上げられています、「不品行、盗み、殺人、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」などと記されています。
* 実際の盗みはしなくても、人よりも自分の方が多くもらえるように考えたり、口には出さなくても、思いの中で人を見下げたり、不平を言ったり、愚痴ったりする心など無数のやみの心が人間関係を崩していきます。
* それ以上に、内面すべてを照らし出そうとされる光なる神の前に、平然と出ることが出来ない真のやみを見させられることがあるのです。やみの生活をよしとしている人は、内面が光にさらし出されるのを極度に恐れ、光を避けるだけではなく、光を憎むようになると言われています。
* このように、やみの生活を愛する者たちは、神のひとり子の名を信じることをせず、内面を照らし出されないように、やみを選んで歩こうとしますから、神の側では最後まで、すなわち、終わりの日まで救われるチャンスを与えておられるのですが、人間の側が光を避け、やみの生活を愛する生き方をすることで、自ら進んで神のさばきを受け取り、人間としての価値がない存在だと判定される側を選び取っているのです。
* このような人は、やみの生活がもたらす恐ろしい結末をあえて見ようとせず、肉欲に生きる楽な人生を選び取ることによって、自ら滅びを望み、神の恐ろしいさばきを好んで受け取ろうとするのです。
(結び)サタンからの独立宣言を信じているか
* それでは、光の下に照らし出されることによって、自分がいかにやみに覆われ、罪の毒性で身も心も腐敗し、霊までも押しつぶされかけている状態であることを知らされた信仰者において、そのやみがどのようにされると言われているのでしょうか。
* 光の下にいく者とされることにより、神が忌み嫌われるやみの部分がすべて暴露されるようになります。それは心に大きな痛みが伴うのですが、修理され、再生してもらうためには通らなければならないのです。
* もしやみの部分が暴露されないままであるなら、光の下に行っていることにはならず、修理も再生もされない独りよがりのクリスチャンで終わってしまいます。それでは救い出されたことにはならず、サタンに引き込まれたやみの生き方のままで終わり、永遠の命を頂いた者としての歩みとは言えないのです。
* けれども、ここで考えておかなければならないことは、御言葉によって神の光に照らし出され、やみの部分が暴露されたら、即座にやみはなくなるのかと言えば、そうではありません。やみは残り続けます。それでは信じた意味がないではないかと思うかもしれません。
* ここを正しく受けとめていなければなりません。「御子を信じる者はさばかれない」と18節で語られている言葉を味わう必要があります。光の下に行くという言葉は、御子を信じるという言葉と同義語として使われています。神の前に、自分のやみの部分を隠そうとせず、すべて明らかにされることを求めることによって、神は御子の十字架によって赦して下さったのです。
* すなわち、信仰者の内に残っているやみは赦されたやみなのです。もちろん、だからそのままでいいと言われているのではなく、赦されたやみは、神の御力によってきよめの処理を始めて下さり、神に用いられる再生品にしようとして下さるのです。それは具体的には、内住して下さる聖霊のお働きによることが14章位から語られるようになるのです。
* 信仰者は、光の下に行き、光に照らし出されることによって、やみを処理して頂いた者とされたので、もはや自分の内に残っているやみを恐れたり、やみを楽しんだりしなくなります。すでに赦して頂いたやみとして自分を主にゆだね、主がきよめ、再生して下さると、期待と信頼を表し続けていけばいいのです。
* そういう向かい方をすることによって、聖霊が驚くべき力をもって働きかけ、霊から生まれた者、霊で聞く者、霊の目が開かれた歩みをする者へと整え、養い、育てて下さるのです。そうすれば、やみの部分は残っていて、絶えず私たちをやみの中へ引き込もうと働きかけてくるけれども、光の下に置かれているが故に、私たちに対してやみは力を発揮できないのです。
* 信仰者のこのような歩みを、ヨハネは真理を行っている者という言葉に置き換えました。真理を行うとは、光の下に来て、やみを暴露され、そのやみを処理するために御子が来て下さったと信じて光の中を歩むことを指していると分かります。
* あえて真理という言葉を用いたのは、神が真理なるお方であることを強調するためであり、このお方から発される真理のお言葉が驚くべき偉大な力を持って修理、再生のわざをなして下さることを示すためでしょう。
* やみに毒された私たちの人生は、滅びに向かっている虚偽の人生であったのですが、真理なるお方と向き合い、真理によってやみが処理され、真理なるお方の下に行く歩みをすることによって、やみに振り回されない歩みが出来るようにされるのです。
* 3:16は、小聖書と言われるぐらい、この1節で聖書全体の内容を要約していると言われています。このお言葉の持つ深みに触れる時、どうにもならないやみ人間の代表のようなこの私が、神の愛の対象とされ、光の中に包み込み、やみを処理し、やみから解放された歩みが出来るようにして下さったとの宣言は、サタンからの独立宣言として、高らかに鳴り響いているのです。
* しかも内側に与えられた永遠の命は、やみが残した恐ろしい毒の毒消しをしてくれるだけではなく、神のいのちと力にあふれ、霊の喜びに満たされ、御国を保証し、神にある幸いを最大限に味わわせてくれるのです。