(序)幾つかの疑問が残る内容
* バプテスマのヨハネに与えられた使命は何だったのでしょうか。それは、彼が宣教し始めた時から、一つのことに徹して向かっていたその姿から明らかです。霊的に神のいない荒野と化してしまっていた神の民に対して、神に立ち帰るように呼びかけ、メシヤを迎える準備としての悔い改めのバプテスマを授けることでありました。
* その宣教のただ中においてメシヤに出会ったヨハネは、このお方こそ約束されたメシヤ、神の小羊だと、救い主であることを指し示すだけではなく、罪人の罪をあがない、犠牲としてご自身をささげるために来られたことまで証しし、悔い改めのバプテスマを授けることによって、メシヤを迎える、準備された神の民を造り出そうとしたのです。
* 確かに、最初の数人の弟子たちや、幾人かの人をメシヤの下に行くように仕向けたと思われるのですが、メシヤの方に向かわせようとした宣教の実はそれほど多くはなく、バプテスマのヨハネの下に留まった人たちがほとんどだったのでしょう。
* どうして、バプテスマのヨハネがあれほど明確にメシヤ到来を宣言し、メシヤの下に行くように示したにもかかわらず、人々は全く聞いていないかのようにヨハネの下に留まり続けたのでしょうか。
* 25節で、ヨハネの弟子たちという表現と、26節の「あなたがあかししておられたあの方」という表現から考えてみると、ヨハネの証言を聞きながらも、なぜかヨハネの下に留まるほうがいいと考えた多くの人たちがいたと伺われます。
* ヨハネの弟子になっていた位ですから、聞く耳がなかったとは考えられません。また、神の民として、メシヤ待望の思いを持っていなかったとも考えられません。
* 唯一考えられる理由は、預言者らしき風貌をしていたヨハネには、神からの権威を感じていたが、イエス様に対しては、メシヤらしからぬ普通の人のように思えて、ヨハネの証言があっても、イエスの下に行く気が起こらず、ヨハネの下の方が信仰の箔が付くように思ったのでしょう。
* 今日においても、有名な牧師、有名な海外の神学校を出た牧師の教会に行っているだけで、信仰の箔がついているかのように思う信仰者があるようなものです。育ち、経歴、風貌などに心を奪われる肉の思いに引っ張られるのは、世的信仰者の常です。
* ヨハネの下に留まることは、バプテスマのヨハネが望んでいたことではありませんでした。彼は、ただ神と神が与えて下さった使命にしか目を向けてはいなかったからです。そのような彼の本意とは異なった弟子たちの姿を見させられ、真理の方に目を向けさせることができない無力さを感じていたことでしょう。
* それでもあきらめることなく、強制的にではなく、信仰によってメシヤの方に目を向けるように、忍耐を持って語り続けていたことが分かります。
* しかし、ここにはいくつかの疑問が残ります。バプテスマのヨハネは、弟子たちを教えるのにもっとも早い道だと思える方法、すなわち、自らイエス様の傘下に入り、弟子ごとイエス様の下に行って、その宣教の手助け、あるいは協力させてもらう道を選ばなかったのはなぜなのか、メシヤが来られたのに、どうして何時までもメシヤ来臨に備える悔い改めのバプテスマを授け続けていたのか、理解しがたいことです。
* イエス様がなさっていたわけではなかったが、イエス様の指示の下で弟子たちがバプテスマを授けていたというのは、ヨハネと同じ悔い改めのバプテスマを授けていたのか、それとも、今日の私たち信仰者が受けている救いを得るバプテスマだったのでしょうか。
* バプテスマのヨハネの宣教方法を受け継いで、2代目のようにして行われているのはどうしてなのでしょうか、多くのなぞが含まれていますが、これらの点について考え、それがどのような意味を持ち、そこにどのような神の御心が示されているのかを見ていくことにしましょう。
(1)御言葉に取り扱われなかった人たち
* 共観福音書の方では、ヨハネが投獄されてから、イエス様の宣教活動が始められたとあるのですが、著者ヨハネは、まだヨハネが宣教活動している時に、イエス様の宣教活動が始められ、しかもヨハネのバプテスマ運動を受け継ぎ、直接ではなかったのですが、弟子たちが人々にバプテスマを授けていて、その活動が、別の場所において並行してなされていたことを伝えています。
* 共観福音書の記事を知っていたと思われる著者ヨハネが、あえてこの記事を書き加えたのは、バプテスマのヨハネからイエス様へとバトンタッチされ、人類救済事業が次の段階へと進められていることを示そうとしたのだと分かるのですが、なぜイエス様までが、バプテスマ運動を継続されているのか理解しがたいことです。そのことについて考えて見ることにしましょう。
* バプテスマのヨハネが、熱心にバプテスマ運動を展開していても、まだまだ神の民の間に、メシヤを迎える備えが出来ていないと考えられたので、イエス様は、ここではメシヤとしての宣教活動ではなく、ヨハネの運動の手助けとして行っていく必要性を感じておられたのでしょう。
* なぜなら、イエス様が来られたからと言って、ヨハネはバプテスマ運動をやめようとしなかったことを考えると、まだイエス様にバトンタッチできる状態になっていなかったと感じていたからでしょう。
* 分かりやすいたとえで言うならば、駅伝マラソンで、第1走者であるヨハネが、最終走者であるイエス様にバトンを渡そうとする時、受け取る準備が出来るまで、しばらく並走して受け取ろうとするようなもので、イエス様の側が少し協力して並走区間を長めにされたようなものだと言えるでしょう。
* この並走区間は、神の民がまだ十分に備えられていないので、バトンを渡し切れないことを意味し、バトンを完全に受け取って一人で走ることが出来るようになった時、第1走者は走るのをやめ、最終走者も並走ではなく、本格的に走るのです。
* 4:2では、その時が来たことを受けとめられたイエス様は、バプテスマ運動の手助けをやめられ、その後なさることはなくなったのです。ある学者たちが言うように、これがイエス様によって定められたバプテスマであるなら、この後も続けてなさったことでしょう。
* バプテスマのヨハネは、神から与えられた使命を、いつも前に置いていましたから、その使命を果たして、バトンをイエス様にお渡しすることしか考えていなかったのですが、ヨハネの弟子たちは、師の言葉に耳を傾けているようで聞いておらず、自分の思いの方を重んじて、御言葉に取り扱われようと自分を明け渡すことをしなかったのです。
* 信仰者は、神の御言葉を聞いているようでいて、御言葉に取り扱われるように自分を差し出すということを、なかなかしません。師ヨハネの口から語られる言葉を聞いていながら、いいとこ取りしかせず、神のお心に自分を明け渡さなかったので、彼らはヨハネの弟子として留まり、御言葉に取り扱われる所まで行かなかったのです。
* だから、ユダヤ人との間できよめのことで論争した時、師ヨハネの2代目であるイエスのバプテスマ運動の方が、よりきよめ効果があるのではないかと言われ、師の心を受けとめようとせず、肉の思いから妬み心が起きてきたのです。
* 言わば、創業者の店よりも、のれん分けしてもらった2代目の店の方がはやるのを見て、創業者の店に勤めている者たちは面白くなかったのと同じようなものです。しかもヨハネのバプテスマを、きよめられるためのものとして受け取った弟子たちは、ヨハネ先生の運動の方が下火になり、きよめの効力がないと判断されたと思わされ、余計ねたましくなったのでしょう。
* 御言葉に取り扱われる経験をしようとしないヨハネの弟子たちは、肉の思いでしか反応できず、神の御心を受けとめることが出来ない信仰で終わってしまっていたのです。いくら御言葉が正しく語られても、受け取る側が、御言葉を選り好みしないで、御言葉に取り扱われるように、自分を差し出さない限り、いくら神様でも、霊的な生き方をするように造り変えることは出来ないのです。
(2)人の前に立つ信仰から神の前に立つ信仰へ
* バプテスマのヨハネは、自分の置かれた状況を正しく判断できる人でした。なぜなら、自分の思いよりも、神の御心の方を正しいとし、御心に従うことを最優先していたからです。それ故、自分の面子やプライドを重んじることなく、主が御栄えを表されることのみを願った人でした。
* 弟子たちが、「あなたがあかしされたあの方がバプテスマを授けておられ、みんなそちらの方に行っています」と言って、本家はあなたなのに、どうして分家の方が栄えるのかという思いで語った言葉に対して、ヨハネは、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることは出来ない」と答えたのです。
* ヨハネは、自分の保身を図ろうとする思いは全くなかったのです。神が与えられる立場、使命、役割、神のご計画が何にも勝っていたからです。それ故、神が与えて下さった立場、使命、役割、神のご計画が、ヨハネの人生にとって最高のものでありました。他の人との比較の中に生きてはいなかったのです。
* ヨハネの弟子たちは、その信仰に立つことが出来なかったので、先代の面子がつぶれるような結果を見て、神の低い待遇に対して納得が行かなかったのです。彼らは、そのような思いを持つことが、肉そのものの姿であることさえ気付こうとしていないのです。
* そのような彼らに対して、ヨハネはどこまでも忍耐強く教え続けます。「『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先に遣わされた者です』と言った(言ってきた)ことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である(ではないか)と言ったのです。
* 本家と分家として比較して妬むために、あなたがたは私の下に残っているのか。神から与えられた立場、使命、役割、神のご計画を大事にする私の信仰と同じ所に立ち、キリストを指し示す先駆者としての働きに徹する私の働きに加わって、同じようにキリストを指し示す手助けをするために、私の下に置かれているはずではないかと言ったのです。
* ここに、ヨハネの動かない信仰を見ることが出来ます。しかも、ヨハネの下に弟子として留まっているのは間違いだとして、みんなをイエス様の方に無理に向かわせようとしなかった彼の思いを見ることが出来ます。
* ヨハネの弟子として留まった者は、ヨハネの使命を受け継ぐ者、手助けする者としての立場と使命とが与えられている神のご計画があると信じていたヨハネは、弟子たちを追い出そうとはしなかったのです。
* 先程のたとえで言うならば、みんなが最終走者になる位置を求めなくてもいいのです。第1走者の役割、使命を与えられている者は、第1走者としての働きをすることによって、神のご計画の一部を担うようにされているのです。
* パウロのたとえで言うなら、みんなが足や手でなければならないのではありません。(Tコリント12:15〜18)他の肢体としての役割が与えられているならば、それを果たすことが、神のご計画の一部を担うことであり、その人にとって最高の人生となるのです。
* ヨハネが弟子たちに教えたことは、キリストが栄えることを願う、先駆者としての働きに加わるように、あなたがたが立てられていることを忘れてはならない。キリストが栄えるのを見ることが、あなたがたにとって最上の喜びとしなさい。あなたがたも私と同じように、神から与えられた立場、使命、役割、神のご計画を何よりも重んじる信仰に立っていてほしいと言うことでした。
* ヨハネの弟子たちは、非常に純粋な信仰を持って、ヨハネに従っていたことでしょう。しかし、それは肉的な純粋さであって、肉の思いから抜け切れていないので、神から与えられた立場は何か、使命は何か、役割は何か、神のご計画はどのようなものか、御言葉によって取り扱われる経験をしなかったので、人の前に立つ信仰のままだったのが見られるのです。ヨハネはそれを何とかして、神の前に生きる信仰に変えたいと願ったのです。
(3)信仰の目で見たままの生き方をする
* 神の前に生きる信仰、それは、神から与えられた立場を喜び、神から与えられた使命を、自分の人生において最も大事なものとし、神から与えられた役割を果たすことを生きがいとし、神のご計画の中に組んで頂いているパズルのピース(一片)として用いられていることを確信して向かうことだと言えるでしょう。
* このことを教えるために、ヨハネは自らの立場、役割、使命などを一つのたとえを通して証ししていくのです。これを理解し、ヨハネの弟子として歩むことがどれほど大事な役目として、上から与えられたものであるか、霊で受けとめる者となるように語っていくのです。
* 私は花婿の友人であって、花婿であるキリストと、花嫁である信仰者との間を結びつける役目を与えられた者であって、私は決して花婿になろうとしているのではない。神がこの私に与えられた立場は、花婿の友人であり、私は花婿の声を聞いて、その役目を果たせたことを心底喜ぶ者とされていると言いました。
* このたとえを通して、ヨハネは自分の立ち位置を明確にし、あなたがたは、私に、花婿の友人以上の期待をしてはならない。花嫁は花婿キリストと結びつくことだけを願っている。花婿の友人は、その間に割り込むことはしない。友人としての使命を果たすことが最高の喜びなのだ。あなたがたは、花婿の友人の使命を受け継ぐ者であることを知ってほしいと言っているのです。
* このように語っているヨハネの心境はどのようなものだったのでしょうか。それを、彼は30節で次のように言い表しています。「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と。ヨハネは、神に与えられた霊的状態を識別できる目を持っていたのです。それは、そこには肉の思いが入り込まない目でありました。
* 彼は、自分が落ち目になっていく悲しさを抱えて、悲壮感を持ってこのように言ったのではありません。バトンタッチして、私の使命が終わるのは虚しいことではなく、神から最高の務めを果たした者として見て頂けることだと思っており、もし使命を果たし終えたのに、何時までも引きずっているならば、それは肉の思いに過ぎない。私にとって衰えることは、私の使命の完成を意味し、バトンを受け取って下さったキリストが栄える番になったことを意味している。
* 神のご計画のすごさの中で、いとも小さき人間であるこの私が、第1走者として走ることを任して下さり、最終走者である神なる存在キリストに、バトンを渡すことが出来るようにして下さった驚くべき神のなさり方に、ヨハネは喜びに打ち震えていたのです。
* これは、確かにヨハネだけに、特別に神から与えられた最高の任務でありました。それ故、イエス様も、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」(マタイ11:11)と言われているほどです。これは、ヨハネの人格の大きさというより、ヨハネに与えられた使命の大きさであり、それを忠実に果たし得た信仰の大きさの事を指していることが分かります。
* このことを、ヨハネが弟子たちに示したのは、ヨハネの使命を受け継いでいく者として、あなたがたにも花婿キリストと花嫁である信仰者を結びつける役割が与えられている。肉の目で見ることをやめて、信仰の目で見、花婿の声を聞いて喜ぶ信仰に立ち続けなさいと教えるためであったと考えられます。
* ヨハネが示し続けたのは、信仰の目を持て!肉の目で動くな!そうすれば自分に与えられた立場、使命、役割、神のご計画の中における自分の位置が見えてくる。その信仰の目で見たままの生き方をすることを、神はあなたがたに託しておられる。それを果たすことを喜びとしなさいということでありました。
(結び)肉の目を信用せず、信仰の目を信用する
* 霊的な事柄を正しく見通すことの出来る信仰の目を持っていたバプテスマのヨハネは、人間と神との違いを明白に区別することが出来たから、人間は、人間としてどれだけ偉大だと思われる者であっても、滅びに向かうしかない存在であるが、メシヤは神であり、永遠なる存在であるから、その輝き、栄光が限りなく続き、栄えていくお方だと見えていたのです。
* どうしてヨハネは、このような信仰の目を持つことができたのでしょうか。もちろん、ヨハネは特別に神に選ばれた存在であって、母の胎内にある時から聖霊に満たされており、(ルカ1:44)幼な子の時代から預言者として人々の前に立つまで、荒野にいて、神にのみ向き合って生きてきたから、その信仰の目は養われたということは間違いがないでしょう。
* それでは、信仰の目はこのような特別な人にしか持つことのできないものなのでしょうか。そうではないでしょう。神はすべての人に信仰の目を与えようとされ、肉の目によらず、信仰の目によって自分のありのままの姿を見、神の偉大さを見、その神の前に、いかに生きるようにされているのかを見ることが出来るようにされるのです。
* その一つの実例を見てみましょう。シメオンという信仰深く、聖霊が宿っていた人がいたと記されています。彼はある時、御霊に感じて神殿に行くと、そこに幼な子を抱いた両親を見たのです。その時、彼は神をほめたたえ、「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言いました。(ルカ2:25〜30)彼は、信仰の目を持って見ていたので、全く無力な赤ちゃんを見て、全人類の救いの光景を見たのです。
* ここに、信仰の目を持つ秘訣が記されています。それは、神と向き合う時を大事にして生きている者の上に、聖霊が宿って下さり、聖霊の助けによって見るようにされることです。確かに肉の目も働いています。しかし聖霊が働いて下さっていることを信じているならば、肉の目で見た判断を選び取らず、信仰の目を持って、そこに神がどんなに偉大な御力を持って働きかけて下さっているかを見て、平安を得、喜びを得ることができるのです。
* 神が介入して下さる光景を見ることが出来ない肉の目は、現状に振り回され、落ち着いた人生を送る事が出来ません。聖霊の助けにより、神がどのように介入して下さるか、信仰の目を持って見る時、肉の目で見ることのできない霊的な事柄を見て、有意義な人生を送る事が出来るようにされているのです。
* バプテスマのヨハネは、この信仰の目を持って、自分に与えられた立場、使命、役割、神のご計画における自分の位置を見つめて、花婿の友人として、花婿と花嫁とが結びつくように全力を注いだのです。ヨハネは肉の目を信用せず、信仰の目を信用して歩み通した人であったのです。
* 私たちは、信仰の目を持っていると言えるでしょうか。信仰の目を信用して歩んでいるでしょうか。それとも、肉の目で見たことを、肉の思いで判断して向かったヨハネの弟子たちの向かい方をしているでしょうか。バプテスマのヨハネの記事を通して示されているこの重要な内容を、私たちも自分のこととして受けとめていく必要があると思わされるのです。