聖日礼拝メッセージ
2012年12月24日 更新

聖 書 ルカ1:46〜55  (2012年クリスマス)
   題 「マリヤの信仰から学ぶこと」


* 今年も、神による人類救済事業のすごさを思い、すべてを汲み尽くすことが出来ない、神の偉大なみわざの深みを再確認し、その恵みのみわざにあずかることを赦された幸いを思い起こすクリスマスの時を迎えさせて頂き、本当にうれしく思うのです。

* 今日はクリスマスの記事の中で、マリヤの賛歌と呼ばれている箇所から、主の恵みを味わって生かされてきた、私たちへの主からの語り掛けを学んでいきたいと思うのです。

* おとめマリヤが、突然に目の前に現れた天使ガブリエルから聞いた御告げは、この私の胎からイエスと呼ばれる救い主がお生まれになるという、考えられない事実でありました。最初驚いたマリヤも、そのことのために、こんな私が選ばれたという驚くべき事実に、深い感銘を覚えたのです。

* それは、厳しい先行きが予想されるものでありました。にもかかわらず、「お言葉どおりにこの身になりますように」と覚悟して受け入れたのです。

* その時に、マリヤの霊の思いにどのような思いが湧き上がってきたのでしょうか。マリヤは、その思いを歌わずにはおれなかったのです。このマリヤの賛歌と言われるこの歌の土台には、ハンナの歌があったと言っていいでしょう。(Tサムエル2:1〜10 旧383)マリヤは、日頃ハンナの歌をよく口ずさんでいたのでしょう。これを土台として、自分の思いを歌ったと考えられます。

* これは、親族であったエリサベツの家に訪問した時のことでありました。身重になっていたエリサベツが、聖霊に満たされて呼んだマリヤの名称は、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」でありました。

* この時、マリヤとの会話の中でエリサベツは、不安を持ちながら、御告げを何とか信じようとしているマリヤの姿ではなく、まだ見ることも実感することも出来ない中で、すでに神の子を宿したと確信し、御告げに何の疑いも抱いていないマリヤの姿を見たのです。

* これは、簡単なようで簡単ではありません。私たちは、御言葉が私の上に実現していると確信し、そこに何の疑いも挟まない生き方をしていると言えるでしょうか。まだまだ目で見なければ安心できない所があるし、確信できない思いが強く残っているものです。

* 何とか信じていこうと言うのではありません。そうであるならば、自分の思いが納得できないと信じることができなくなることもあるからです。

* たとえ目や感覚で実感できなくても、神が力あるお方であるから、神のお言葉イコール実現という信仰の原理に生きる者となっているか、信仰者はその点が問われます。エリサベツの目から見て、マリヤの信仰は、信仰の原理が確立していて、そこに何の疑いも挟まないマリヤの姿を確認したのです。

* そのマリヤから溢れた主への賛美、信仰告白が、今日の箇所に記されているのです。そこには4つの内容が歌われています。それを見て行くことにしましょう。

* マリヤが主をあがめ、神を喜ぶ第1の理由として、あなたにとって卑しいはしためでしかないこの私を心にかけて下さったという事実に、深い感銘を覚えて主をあがめ、神なるお方を喜んだのです。

* それはたとえるなら、人間にとって小さな、役に立たないと思える一匹の蟻に目を注ぎ、その歩みを導き、自分にとって価値ある存在であることを語り掛け、大事な存在として、手を添えようとするようなものです。なぜそんなことをするのでしょうか。50節では、主のあわれみのお心の故だと言っています。

* このあわれみという言葉は、無意味な存在に対して、何とかしてそこから救済したいと願って下さるお心のことです。他に理由があるわけではありません。マリヤは、当時の社会的立場の中で、物としてしか扱われず、人としての存在価値が認められていないはしため(女奴隷)と自分を呼び、神の前に、人として愛される価値のない者に目を留め、神の偉大なご計画の一部を担う者として下さった。この、神のあわれみのお心が強く迫ってきたのです。

* マリヤが、どうしてここまでの信仰に立ち得たのでしょうか。その理由は、闇の中でありますが、神のあわれみのお心が分かる鋭い霊性を持っていた女性であったことは疑いありません。そして、実は、神の御心を受け取って生きることが、信仰者としての生き方であることが、マリヤの信仰を通して示されている第1のことであると分かるのです。

* マリヤは、この信仰に立って揺らぐことがなかったから、私のことを聞いた人々は、信仰に生きている者はみなこの私ことを、最高の幸せ者だと言うようになることを確信していたのです。

* もちろん、神の母として称えられるなどと僅かも思わなかったのです。マリヤと同じ鋭い霊性を持って神のあわれみの御心を見ようとしない人々によって、神の母マリヤと崇められ、偶像崇拝につながる歪み信仰が作り出されてしまうのを、もしマリヤが聞いたら、震えおののくでしょう。

* 49節の後半で、主をあがめ、神を喜ぶ第2の理由として、マリヤは、力あるお方が私の上に大きなことをして下さったからだと言いました。神を、力あるお方と言うことによって、「神には何でもできないことはない」(マタイ19:26)と告白したのです。これは、口では簡単に告白できても、自分のいのちをかけてこのように告白できるかと問われるとなかなか出来ることではありません。

* なぜか、私たちの思い通りにことを行って下さる神ではないが故に、本当に何でもできる力を持っておられるのか、疑う心があるからです。もし何でも思い通りにして下さるお方であるなら、それを見て、いとも容易く、神には何でもできないことはないと言えるでしょう。

* ということは、人間の受けとめ方の問題であることが分かります。たとえば、出エジプトの民は、力ある神が、驚くべき御力を持ってエジプトから救い出して下さったということが分かった時、神がなされたみわざが、自分たちの思いと合致したので、力ある主をたたえ、主をあがめたのです。(出エジプト15:1〜 旧95)

* しかし、後になって、自分たちの思いが神の働きかけと合致せず、なかなかその力を現して下さらないことが多くなったことに対して不満を言い、力ある神を信じる信仰がどこかへ行ってしまったのです。これは自分の思い通りイコール力ある神の働きかけだと思っている根強い思いが残っているからです。

* マリヤはどうだったのでしょうか。まだ実現の兆候が見えないこの時に、神がお決めになったことを、神はなさらないはずがない。はしために過ぎないこの私の上に臨んで、神はとんでもないことをなさる。それは私の行く末にとって、願っている通りの事柄ではなかったが、私がもっとも幸いだと思える道へ導いて下さると確信したのです。

* これはマリヤが、神がご自身のご計画通り、もっとも正しいこと、もっとも良きこととしてなされ、それは、何がそこに待っているか分からない先行きであっても、私の人生を最高の人生に導いて下さる神の力ある働きだと確信する信仰に立っていたからです。

* マリヤが、大きな事をと言った具体的な内容まで歌われてはいませんが、人間の理性や感覚や思いを越えた驚くべき偉大なことをなさるという意味で、マリヤは、この私の胎に、聖霊によって子が宿るようになるという、考えられない事柄を指して言っているのでしょう。

* 主をあがめ、神を喜ぶ第3の理由として、49節後半から、50節にかけて、神のあわれみのお心は、私の上に注がれただけではなく、この私のことを聞くことによって、その証しがこれから後、主を恐れかしこむすべての人々に及び、主のあわれみのお心の故に、信じる者一人一人に目を留めて下さり。手を添えて下さり、大事に、大事にご自身の子として持ち運んで下さることが分かるようになると言いました。

* 自分の信仰の証しを通して、多くの人たちが、私が受けた神のあわれみの御心を、同じように受けとめることができるようになると言いました。そしてそのことが分かったならば、世々限りなく働かれる、力ある神の働きかけを本気で信じ、僅かも疑わず、人間の理性や感覚や思いを越えた偉大な神の働きかけを確信できるようになると言い切ったのです。

* まだ10代の半ばであったと思われるマリヤが、どうしてここまで確信して告白することができたのでしょうか。長年信仰に生き続けてきた律法学者ニコデモさえも抱くことが出来なかった確信、これは、信仰年数や年齢にかかわることなく、御言葉をそのまま受け取っていこうとする霊性の問題であることが、ここから分かります。

* 自分の証しが、後にどのように伝えられていくか全く分からない中で、信頼する者を、神が用いられないはずはないと思っていたのです。

* 力ある神を本気で信じる信仰を、神はどのように用いられるのか、私たち人間には分かりませんが、神が必要として必ず用いて下さる。そう確信していた力強いマリヤの信仰が、ここには伺われるのです。

* 主をあがめ、神を喜ぶ第4の理由として、51節〜55節の所において、主はその偉大な力を、見える形でも示して下さると歌います。もちろん即座にではないが、長い年月をかけて、神を認めようとしない高ぶる人たちは排除され、神に逆らう権力者たち、政治的指導者たちは引き落とされ、卑しくても、主を見上げる者は高く引き上げられる、と。

* たとえ、主に信頼を寄せていても、貧しく飢えることがあるかもしれない。しかし主のあわれみの働きかけは、そのような人々を大事に思い、必要な時に食を満たし、たとえ裕福な者であっても、心が主から離れている者は、飢えるようになる。イスラエルの民は、アブラハムとの契約の故に、あわれみ助けて下さると歌いました。

* もちろんここには、旧約信仰を越えることが出来ないのは当然だと言えるでしょう。しかし、ここには主のあわれみのお心がどれほど広い心であり、深い心であるかを歌い、即座にではないが、神は、信頼する者を放ってはおかれず、主から離れた人々は、神のあわれみのお心が分からず、見捨てられると言っているのです。

* こう言っても、必ず見える形で私たちの思いを納得させ、喜ばせて下さると言っているのではありません。私たちはこれをどう受けとめればいいのでしょうか。課題として残る部分はあります。

* このようにマリヤは、主をあがめ、神を喜ぶことができる4つの内容を、信仰告白として歌いました。彼女は、自分の人生が、神の手の中に置かれている人生であることを決して疑わなかったのです。どうしてでしょうか。

* その理由は、マリヤは、神を信頼することが出来たからです。この当たり前のことをするかしないか、ここにかかっているのです。これから先はどうなるのか、すべて神の手の中にあります。私たち人間には分かりません。でも神の手の中にあるのです。だから安心できるのです。

* マリヤは、神の御告げを疑いませんでした。御言葉を疑うことが出来るほど自分に過信していなかったからです。自分の目で確認できるか、感じることが出来るか、理性で納得できるかで判断するしか出来ない自分に過信しなかったから、御告げをそのまま信じたのです。御言葉をそこまで信じることが、神を信頼することなのです。



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