聖日礼拝メッセージ
2013年1月5日 更新

聖 書 ヨハネ3:31〜36  (第20講)
   題 「永遠の命を持つすごさを味わっているか」


  (序)180度向き変わろうとしない中途半端さ

* 著者ヨハネは、バプテスマのヨハネが信仰の目を持って、神の御心に喜んで聞き従い、キリストのみあがめられることを望んで歩み続けていたのを取り上げてきたのですが、人々の目を上に向けさせようとした彼の働きは、十分な効果を上げることが出来ず、ほとんどの人々は、目を上に向けようとしなかったことを解説していくのです。

* 今日の箇所も、バプテスマのヨハネの言葉の続きであるのか、著者ヨハネの解説であるのか明確にしていない箇所でありますが、御子という表現を使っていることから、著者ヨハネの補足解説と見ていいでしょう。

* バプテスマのヨハネが、キリストの前に遣わされた先駆者としての働きにどれほど勤しんでも、多くの人々の目はなかなか上に向けられないという戦いを覚えながらも、世的生き方から180度向き変わらせることが出来なかったが、90度や120度ぐらいまで向き変わらせるところまでは出来たのです。

* なぜ180度向き変わらせることが出来ないのか、著者ヨハネはそこに解説を加え、180度向き変わろうとしない原因を明らかにしようとしたのです。このことは、人間の本質にかかわっている事柄であり、信仰を持つ上において、理解していなければならないので、補足の形で解説を入れたのでしょう。

* すべての信仰者も、180度向き変わり、神と正面に向き合うようにされてこそ神を信じ、よりすがり、神の助けを頂く歩みができるのですが、多くの信仰者は、気付かないまま90度や120度ほど向き変わってそれでよしとし、残りはなお世の方に思いを残している人が多いのです。

* だから思い通りに行かないと、神は働いて下さっていない、助けて下さっていないのではないかと思って神に失望し、世の方に心が奪われ,肉的に安心できる道を探し出そうとするのです。これは、世を残しているから、いつでも世に逆流しようとする力が働くのです。

* 信仰を持つと言うことは、これまで世の方に向き、世的生き方をしてきたその歩みをそこで立ち止まり、180度向き変わって世に対して背を向け、世の思いを後ろに追いやり、神の方に向かい、神のみを頼りとし、世に置かれていても、神を通して世を見るようになることなのです。

* この180度向き変わるということをしないと、信仰にも中途半端だし、世的生き方も中途半端になり、宙ぶらりんの生き方になるだけで、期待しては失望し、不満と疑いと不安がなくなることはなく、安定した信仰人生を送ることは出来ません。

* もちろん、人間の決心で180度向き変わることが出来るわけではありません。人間の本質に、180度向き変わらせようとしない原因があり、それに無知なまま、180度向き変わって神と正面に向き合い、信仰に生きることはできないのです。

* 著者ヨハネは、バプテスマのヨハネの弟子たちの中途半端さ、バプテスマのヨハネの宣教に触れた民衆の中途半端さを見て、人間の本質に問題ありと指摘し、しかし少数ではあるが、180度向き変わることが出来た人々の姿をも明らかにし、各々の信仰の報いについてまで語っていくのです。そのことについて、ご一緒に学んでいくことにしましょう。


  (1)サタンに属する者の闇の状態

* それではヨハネは、人間のどのような本質に問題ありと指摘しているのでしょうか。人間は、罪を犯す前は、天に属する者でありました。しかし、罪を犯したことによって、天に属する者から、地に属する者へと転落してしまったのです。

* 地はサタンの支配下にありますから、地に属する者とは、サタンに属する者になったということです。サタンに属する者の内面は、サタン色にされており、そこからは肉や世しか出てこない者となったのです。

* と言うことは、上から来る者や、上から来た者の言葉は、罪を受け入れない義の性質を持っていますから、罪を明らかにし、排除しようとするので、地に属する者は心を囲って、義に対して抵抗し、反発しようとするのです。

* 著者ヨハネは、これまでそれを光という言葉で表現し,すべての闇を照らし、闇のわざ、闇人間の汚れを明るみに出そうとされるお方としてキリストが来られたことを示してきました。その結果、「(まことの光である)彼は、自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかったと総括しています。(1:12)

* なぜ人々は、義に照らし出されないように心を囲おうとするのでしょうか。それは人に見られたくない闇を持っているからです。それを暴露されると言うことは、自分の人間性を否定されることだと思っているからです。確かに世において、自分の闇が明らかにされるならば、大手を振って歩くことができません。

* それでは、神は暴露趣味のある方なのでしょうか。そうではありません。心の中の闇を明らかにすることによって、義なるお方の前に立つのにふさわしくない者であることを徹底して示した上で、肉の心を砕き、光の下へ導き入れるために、闇を暴かれるのです。

* と言うことは、自分の闇を暴かれないままでは、サタンに属している者が、救われる道はないということを示すためであることが分かります。見えない自分の闇の状態が見えるようにされた者のみが、サタンに属する者になっている恐ろしさを自覚し、義なるお方の前に立つことのできない自分を知らされるのです。

* にもかかわらず、人間の本質は、サタンに属し、闇人間となっている恐ろしさに気付こうとせず、何とか闇を覆い隠そうとして、自分の心を囲い、自分でもその心の中を見ないようにしている霊的盲目であると言うことです、

* その硬い殻を何とかして砕き、闇の部分をこじ開けて光を入れようとされるために、上から来られた方は働きかけ、義の言葉を語り続けて下さるのです。

* しかもヨハネは、上から来られた唯一のお方である御子は、また聞きのような不確かな証言ではなく、ご自分の目や耳で直接見聞きされた、神の義の基準に沿った確かな内容を証ししておられるので、他の人の証言を必要としないと言うのです。

* ヨハネがここで解説しようとしたことは、とても硬くて、砕かれそうに見えないサタン色になった岩盤を砕こうとして、義の鉄槌を持って、神の下から来られた御子が、天からの言葉を語られ、繰り返し繰り返し働き続けて下さっているという恵みの光景を思いなさいと言うことでした。

* しかし結果的には、そこまで何とかこじ開けようとして働き続けて下さったキリストの働きかけも、多くは無駄になり、ごく少数の者だけは闇を暴かれ、砕かれ、義の証しを受け入れるようになると言っているのです。

* 無駄に見える愛の労力が尽くされ、ほとんどは実を結ばず、地に落ちてしまうことが分かっているにもかかわらず、たとえ少数でも愛の労力が報われ、実を結ぶことが出来るので、神はその働きかけをとどめられないのです。そうして下さったからこそ、今日の私たちが救われることができたと言えるでしょう。

* あれほど信仰深いユダヤ人たちも、上から遣わされたお方と、その御言葉を聞こうとしなかったのは、自分たちの闇を照らし出されたくなかったからで、180度向き変わることを望まず、罪が暴かれないままでの信仰を考え、すなわち90度程度の向き変わり方でよしとしていたから、義なる神の前に立つことが出来なかったのです。


  (2)人間の生き死にの権限をゆだねられた御子

* 神は少数であっても、御子の証しを受け入れる者がいることを見通しておられたので、ほとんどは無駄になることを承知の上で、御子を遣わされたのです。御子の証しを受け入れるという行為は、神が真実なお方であることを承認したことになると言います。

* 認めたと訳されているこの言葉は、「証印を押す」「印を押す」と意味で、これは間違いありませんと全面承認の印を押す様を描く言葉が使われているのです。

* 神が真実なお方であるとは、天から御子を遣わされ、天上の目撃者としての証言をするように、この世に遣わされたというこれらの事実は、神は真実な御心を持って罪人を招き、まずその罪を暴露した上で砕き、義なる神の前に立つことが出来るように導いて下さったという御心を受け入れたことを指しています。

* パウロもTコリント書でこう言っています。「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子私たちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」と。(1:9)すなわち、信仰を持つということは、神が真実なお方であると承認の印を押すことなのです。

* ということは、まず私たちの闇を暴かれるということが、義なる神の前に立たせるための真実なる神の第1になさることであり、罪深い自分の姿を見せられ、砕かれることによって、世に対して背を向け、神の方に180度向き変わって、正面に立つようにされるのです。

* その上で、御子の確かな証言として示された神の御心を疑わず、そのまま受け入れ、義にふさわしくない者があわれみの故に、義なるお方の前に立つことができる道が用意されていることが示されているのです。

* 著者ヨハネの目には、このようにして上から遣わされたお方は、一瞬一瞬の聖霊の満たしを受けて立てられた預言者たちのように、少しの聖霊の導きを受けて、神の言葉を取り継がれた方というのではなく、この方には途切れることのない聖霊の働きかけが溢れていて、神の御心をすべて受けとめておられるお方として立っておられることが見えたのです。

* このことを、あえてここで解説しているのは、神のお言葉、神のお心についての証言は、すべて聖霊のお働きに属するものであることを示されていたからでしょう。そのことが後にイエス様の口から、御霊が神の真理を解き明かす存在であることが明らかにされていくのです。(14:17,16:13)

* ということは、預言者の働きは、聖霊による突発的な働きかけによるものでありますが、イエス様においては途切れることのない連続性のものであることが分かるのです。

* しかも、上から遣わされたお方は、聖霊の途切れることのない働きかけを受けて、天上の証言者として立っておられるだけではなく、35節では、父は御子を愛して、万物をその手にお与えになったと言われ、人間の生き死にの権限をすべて御子にお与えになり、御子が不用品だと判断されれば滅び、大事だと判断されれば生かす権限が任されていると言うのです。

* 人間の側に、自分の生き死にの権限がなく、御子にゆだねられていることをここで明らかにしているのは、義なる神の前に立つことが出来る道は、神次第であり、御子次第であることが宣言されているのです。

* それでは、人間に任されていることは何なのでしょうか。御子を通して示された神の御心を、自分にとってなくてはならないものとして、全面承認の印を押すか押さないかの一点であることが分かります。全面承認の印を押した者は、御子の手にゆだねられ、その権限の下で義なる神の前に立つ生きる道が与えられるのです。


  (3)御子に従う道と従わない道

* 著者ヨハネが、解説を入れて言おうとしたことが見えてきます。それがまとめの形で36節において語られているのです。それは、御子の証しを受け入れて信じる者は、永遠の命を持つことが出来るが、御子に従わない者は、永遠の命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその人の上に留まった状態のまま滅びると言うのです。

* 御子を信じる者とは、これまで学んできたように、御子が上から来られた神なるお方であり、このお方の語られたすべてのことは、聖霊のお働きによるものであり、わずかの間違いもない真実な神のお心であることを全面承認し、受け入れ、その用意された道を喜んで従っていく向かい方のことであります。

* そのためには、自分の中の闇が暴かれ、義なるお方の前に真に砕かれた者として、世に背を向け、180度向き変わって、神に対して正面に向いていることが前提となっているのです。

* 自分にとって都合のいい一部分だけや、良いところだけをつまみ食いする承認の仕方ではなく、全面承認をすることが御子を信じる信仰であって、永遠の命を持つことが出来ると言うのです。

* ここで言う永遠の命とは、永遠なる神の前に立たせて頂き、神と直結させて頂くことによって、神が持っておられるすべての祝福が流れ込んでくる人生にして頂くことで、それは一時的な祝福ではなく、永遠に続く奔流のような力強い命を指しています。

* すなわち、御子を信じることによって、もはやサタンすら手を出すことができないほどの勢いある永遠の命が流れ、神と結び付いて、世においてこびりついていた汚れをすべて押し流し、きよい命にして頂けると言われているのです。

* しかしそれは、ごく少数の者しか選び取らない道であり、世の大多数の人間は、義なるお方から遣わされた存在が煙たく、その証言が耳障り良くなく、反抗と反発を表すようになるのです。

* そのような御子に従わない者たちは、世においてこびりついていた汚れをすべて押し流す勢いある永遠の命にあずかることはないばかりか、神の怒りがその上に留まり続けると言うのです。

* もちろんこれは、脅迫的な意味合いで語られているのではなく、神が用意して下さった道を軽んじる者たちの行く末について明らかにすることによって警告を発しているということが分かるのです。

* 警告は、警告に耳を傾ける余裕さえあるならば、それは有効に働くのです。しかし警告を聞き流すならば、自ら滅びを刈り取るしかないのです。

* 神の怒りがその上に留まり続けるとは、いつも神の裁きの手の中に置かれた状態であることです。すでに死刑が宣告されているので、何時処刑され、この世から抹殺されてもおかしくない状態だと示しているのです。そこには神のあわれみの心は届かない場なのです。


  (まとめ)

* どうして人は、180度向き変わるということが難しいのでしょうか。それは、罪の故にサタンに属する者となり、内面はすべてサタン色になってしまっているのに、世に背を向けて神に対して正面に向かうということは、奇蹟にも等しいと言えるほどだからです。

* 世の方に思いを残し、180度向き変わろうとしないから、御子を信じる信仰も中途半端になり、永遠の命の勢いある流れを感じ取ることが出来ず、そのすごさに圧倒されることもなく、神と直結して、神から流れ込んでくる祝福の素晴らしさを味わうことができないのです。

* 最初の一歩が180度になっていないので、神の方向から少しずれ、神の前に立ち切れず、御子の働きをすべて受けとめることができず、その証言もそのまま入ってこないのです。

* 自分の闇の部分が暴かれ、主の前に何一つ隠れているものはないことを認め、主の前に砕かれた時、自分に完全に失望し、世から背を向け、神の方向に180度向き変わることが出来るようにされるのです。

* 90度や120度などそれ以外の角度では、必ず神から離れていき,神と直結する歩みにはなりません。神と直結しなければ、神からの永遠の命という奔流が罪を洗い流してくれる、勢いある信仰の歩みにはならないのです。



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