(序)神から与えられた新しい一年の歩み
* 神は、私たちに新しい一年を与えて下さいました。私たち信仰者は、時間も、体も、思いも、家族も、仕事も、生きる上において必要なものはすべて神から与えられたものだと信じて歩んでいます。それでは、どのような一年として与えられたのかを考えてみることにしましょう。
* そのためには、まず私たちはどこに立っているか、それをはっきりとさせている必要があります。また、どうしてそう言えるのか、その根拠を理解していることが大事になってきます。
* また私たち信仰者は、どこに向かって進もうとしているのか、その目指すべき目標は何なのか、天国人としての強い自覚と、意識を持ちながら、そのことを明確にしていることが、確かな歩みになると言えるでしょう。
* さらに、天国人とされた上で、この地上に置かれている私たちにとって、この地上での歩みにおいて、何を大事にし、何を排除していかなければならないのか、思いの中で見分けていなければならないと言えます。
* そして、私たちが天国人として何に期待し、最終的に何を受け取りたいと願っているのか、これらのことをはっきりとさせた上で、天国人人生を歩むように与えられた一年であることを思いつつ、大胆に前進していくことが大切だと思わされるのです。
* パウロは、コロサイにいるクリスチャンたちに対して、これらのことがぼやけたままの信仰に歩み、天国人としての強い自覚と意識のない不安定な信仰人生を送ってほしくないと考えて、これら一つ一つのことを明確にしていこうとするのです。
* このことは、今日の私たち信仰者においても、同様のことだと言えるでしょう。ともすれば、週毎に礼拝を守り、御言葉を頂きつつ信仰人生を歩み、その時々の励ましと助けとを得て歩むという、漠然とした信仰人生を送りやすいのです。
* 私たちはどこに立ち、どこに向かって進み、何を大事にし、何を排除し、何を期待し、受け取りたいと願って歩んでいるのか、そのことを明確にした上で、礼拝を守り、御言葉を受け、力づけられることがどんな意味を持つのか、考えていなければならないのです。
* もちろん、一人一人における具体的な適用については、各々の諸事情が異なっているので、同じではありませんが、その原則をきっちりと捉えた上で、今置かれている地上において、天国人としての歩みを確立していくことが重要になり、各自が信仰生活において、具体的に適用していくことが大切になってくるのです。
(1)キリストと共に復活した者との霊的事実
* それでは、私たちはどこに立っているのかという点から考えてみることにしましょう。パウロは、すでに2:12において、私たち信仰者はキリストを信じ、バプテスマを受けることによって、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらせて頂いたという霊的真理を受け入れ、罪赦された者になっていることを語ってきました。
* この霊的真理を土台にして、このようにあなたがたはキリストと共によみがえらせて頂いた者として、特別な生き方をするように導かれていることを知ってほしいと言っていくのです。
* 私たちは信仰を持つことによって与えられた特別な人生をどこまで理解して受けとめ、その与えられた位置に立って生きようとしているのか、まず問われるのです。
* 私たちは、キリストを信じたからといって、外見から見て、キリストと一緒に葬られ、死んだというわけではありません。見た目には何も変わらないのです。ましてキリストと共に復活したと言われても、実感できないし、それがどのような状態なのか受けとめることも出来ません。
* ですから、分かったようでいて分からないままになってしまいやすいのです。霊的な事実だから、それをそのまま受け入れるように言われ、受け入れたつもりになるのですが、自分の内からいつまで経っても出続ける肉の姿を見せつけられ、これで、キリストと共に復活した者だと本当に言えるのか、疑いの思いが消えないのです。
* これは、キリストと共に復活した自分の姿を正しく把握していないところから来る不安定さなのです。キリストと共に復活した自分の姿が、もし罪を犯さない人間になるとか、肉の思いが出てこなくなり、肉の思いに振り回されることがなくなるものだと考えているとしたら、それは失望にしかならず、キリストと共に復活したと言われても、何にも変わらない自分の姿を見せられ、これでは何の意味もないと思ってしまい、その霊的真理の素晴らしさが全く見えなくなってしまいます。
* それでは、キリストを信じることによって、キリストと共に復活したと言われている自分の姿をどのように捉えていればいいのでしょうか。ここで理解するために前提として受けとめていなければならないことは、霊的真理、あるいは霊的事実という表現の意味する所は、神の目から見て事実となったことを指している表現だと言うことです。
* すなわち、キリストを信じたことによって、私たちは、神の目から見て、キリストと共に死んで葬られた者となっており、キリストと共に復活した者と見て頂くようになり、完全な救いを頂いて、御国に入れて頂ける保証を頂いた者となったと見られているのです。
* しかし、外見上は全く変わらず、罪を犯さなくなったわけでも、肉の思いが出なくなったわけでもなく、人格的、性格的な弱さ、足らなさ、くだらなさが外に出なくなったわけでもないのです。だから、そんなことでキリストと共に復活したと言えるのかとの思いがついて回るのです。
* この惑わしに振り回されないことが大切です。神が事実だと証言して下さったことを、実感できない物足りなさから、キリストと共に復活させて頂いたという事実を否定することは、そう見て下さっている神を否定することであり、神を盲目扱いすることになるのです。
* すなわち、神の目から見て事実だと証言して下さった、「キリストと共に復活した者」という、特別に与えられた展望台に立って、すべての物事を見ていこうとすることが、天国人としてこの地上に置いて頂いた者の立つ位置であり、それは、人間が保証してくれるような、目で見える確かな状態ではないが、神が保証して下さるという点が、そう確信できる根拠であると言っているのです。
* これが、天国人人生として生かされているという強い自覚と、神がこの私を天国人として見て下さっているという強い意識を持って歩むことの出来る確信なのです。それでは、そのような確信を持って歩む者が、この地上にあって、何を大事にし、何を排除していく必要があると言っているのか、まずそのことを考えてみることにしましょう。
(2)上にあるものを探求し、地上のものを思うな
* パウロは、上にあるものを求めなさいと言いました。この求めると訳されている言葉は、「探求する」「追及する」という意味の言葉で、何としてでも探し出そうとして努力するようにとの意味が込められている言葉です。
* 上にあるものとは、この後、そこではキリストが神の右に座しておられると言葉を補っている所から考えて、神のおられる所を指していることが分かり、神と神に関するすべてのものを指していると考えることが出来ます。それをすべて受け取っておられる方がキリストですから、突き詰めて言うならば、キリストを求め、キリストにあって生きることを探求せよと言っていることが分かります。
* このことをあえて言う必要があると考えたのは、信仰者は、キリストを信じるという所で留まっていてはいけない、キリストをさらに深く追求し、キリストにあって生きることがどれほど素晴らしいことかを探求する向かい方が必要だと言うのです。
* もちろん、キリストを追求するとは、学問的にという意味ではなく、キリストの深い愛を味わい、キリストの助け、導きを体験し、キリストの偉大さを受けとめ、キリストがこの私の人生を捉えて下さり、養い育て、持ち運んで下さるお方であると受けとめて、絶対信頼を現して行く向かい方をせよと言うのです。
* このことは、言葉では簡単に言えるのですが、地上における人生の歩みにおいて、時には戦いが迫り、苦しみ、悲しみを経験させられ、導きが具体的に見えない、不安な中に置かれると、なかなか言えるものではありません。
* しかし、キリストに絶対信頼を置くこの私の歩みを助け、養い、間違いなく導いて下さると信じ、人間的に考えられない状況に置かれたとしても、キリストは責任をもって最後まで持ち運んで下さると信じて安心できないなら、キリストを探求した所で、何の意味もないでしょう。
* イザヤがはっきりと言っているように、「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまであなたがたを持ち運ぶ、わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(46:4 旧1010)と語られた言葉を信じ切って歩むのでなければ、キリスト探求の人生、すなわち、上にあるものを求める歩みは意味を成さないのです。
* キリストにあって生きることの素晴らしさを味わい、キリストに絶対信頼を現すことが、平安と喜びに満たされることであることを実体験していくことが出来ることの幸いを追求していく、これが、キリストと共に復活した者の現すべき大事な姿だと言うのです。
* しかし、それだけでは不十分だ、地上のものに心を惹かれる思いを排除していかなければならないとも言います。これは、なんと不可能な勧めでしょうか。
* この地上において、地上の事柄に触れながら、日々地上のことを思い、考えながら生きている者が、地上のものを思ってはならないと言うのです。そのような生き方ができるのでしょうか。
* ここで言われていることは、地上のことに一切触れないように、この世から逃避しなさいと言っているのではありません。地上のものとは、3節で死んだと言われている古い命のことを指しているのです。古い命、それは肉欲に従って生きてきた古い人としての命のことです.これは、キリストを信じた時に、キリストと共に死んだと言われているのです。
* すなわち、古い人は肉欲に従い、世を楽しみ、肉の思いを楽しませてくれるものを思い、追及し続ける存在でありました。それが死んだという意味は、キリストに心を向ける事によって、古い人は死んだとみなされ、死んだものに思いを残さない生き方をしなさいという意味であることが分かります。
* しかし、死んだとみなされていると言われても、絶えず私たちの内側から出てきます。出てきても、それは死んだものだと認識して、それに心を奪われないようにしなさいと言うのです。しかし、それでは肉の欲の思いが出てきても、これは死んだものだから気にしないというのは、あまりにもいい加減な向かい方ではないかとの思いが残ります。
* もちろん、きよくされ、肉の思いが出てこなければ一番いいのですが、それはあり得ません。そうすれば、出てきた肉の思いという亡霊に惑わされないように、それは死んだものだと自分に言い聞かせて,地上のものに心を奪われないようにするしかないと言えるでしょう。
(3)新しい命は神の内に隠されている
* このように勧めたパウロは、「あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されている」と言いました。何という理解しづらい表現で話を進めようとしていることでしょうか。しかしこのことが、パウロの示そうとしている重要な神の真理であると分かるのです。
* これを分かりやすくするように言葉を補って見ましょう。3節前半で、あなたがたはすでに死んでいると,これまで語ってきたことを再確認させようとして語っています。これは、あなたがたの古い人の命は、キリストと共に葬られて、すでに死んでいるという意味であることが分かります。
* 次に「あなたがたの命は」と言っているこの命とは、キリストと共に復活した新しい命のことを指しているのです。古い人の命が現実にはなお生きているように見え、活発に動き回っているように見えるが、キリストを信じた時、神の目から見て、それは死んだとみなされていることを知りなさいと言うのです。
* それでは、キリストと共に復活した新しい命が私の内に満ち溢れることによって、罪のない、きよめられた歩みができるようになっているかと言えば、ここでは、まだ外には現れてこない状態であり、キリストと共に神の内に隠されている状態だと言うのです。
* 別の表現で言うとするならば、まだ箪笥の引き出しにしまい込まれていて、その光は十分に外に現れていないので、人格的、倫理的にきよくなっていく効力は発揮できていない状態で、その新しい命が完全な状態で現れるのは、キリストが現れて下さる終わりの日であって、その時にはキリストと共に栄光をもって現れると言われているのです。
* それでは、光の子とされても、光が隠されている状態であるなら、結局、闇のままでしかないのでしょうか。そうではありません。神の目にはすでに光の子とされ、神の光を反映し、罪からも、古い自分からも自由にされた者とみなされ、何の問題もない者とされているのです。
* しかし、この地上に置かれている間は、光の効力がまったくないと言うわけではないのですが、時折覗かせていく程度に、きよい生き方に向かわされていくのです。それも際立って完成されていく姿が見えるわけでもありません。
* いつまで経っても内側から肉の思いがたえず出てくるし、世と世の事柄に頼ったり、楽しんだり、求めたりしようとする肉の思いを完全に抑えることができません。唯一の方法は、それは死んだものであって、私を動かす力があるように見せる亡霊に過ぎないのだと思うことにより、心を奪われないようにすることだけです。神はそれでいいと言われているのです。
* そのような、外に出てくる妨げが、内に頂いた神の光の反映をなくしたり、暗くしたりする力はないことを知ってほしい。惑わされてはならない。確かな新しい命が、キリストと共に神のうちに隠され、終わりの時に隠されていた新しい命を見て、神は栄光を与えて下さり、御国に迎え入れて下さると言われているのです。
* これを物足りないと思うか、神のあわれみに満ちた驚くべき真理だと受けとめるか、そこに、その人の信仰が明らかにされます。
* 物足りなさを感じながら生き続ける信仰で歩むのか。それとも、こんな愚にもつかない私のような者の内側に新しい命を与えて神の内に隠し,その状態が崩されないように,神が守って下さっており、終わりの日には、その新しい命のゆえに、御国に入れて下さるとの感謝にあふれた信仰に立っておることができるのか、神はそれを見ておられるのです。
(まとめ)私たちに用意された天国人人生とは?
* 神によって、もっとすごい変化を見せてもらい、喜びあふれることができる人生にされると期待していたのに、見た目に大きく変化させてもらえず、人目にも、人格的、倫理的に高くされたと言うことができない引け目を持ち、偉大であるはずの、神の教育と取り扱い力の物足りなさを感じながら、神に不満を覚え続けるようなものでしかなく、これが天国人人生なのかという失望に似た思いを持ち続ける歩みとなってはいないか。
* 神が、私たちに用意して下さった天国人人生とはどのようなものか、漠然とした信仰理解と、信仰生活で終わらせるのではなく、どこに立ち、どこに向かって進み、何を大事にし、何を排除し、何を期待し、何を受け取りたいと願って歩むように導かれているのか。私たちの肉の感覚で思う天国人人生ではなく、神が導かれた天国人人生を、今置かれている地上にあって受けとめていなければ、物足りない信仰の思いが出てくるのを抑えることができないまま歩むしかないのです。
* キリストを信じただけで、キリストと共に葬られ、キリスト共に復活し、新しい命に生きる者にして頂いた。これが私たちに与えられた天国人人生だと言ってきたのです。自分でそう思えるか思えないかではなく、神がそう見て下さっているという神の保証を信じるか信じないかが重要だと言うのです。
* こうして天国人人生を生かされているという強い自覚と、意識とをもって、キリストを求め、キリストにあって生きることを探求し、地上のものを思わない生き方をし、古い人が出てきても、死んでいるものとして心を奪われないようにしなさいと言ってきました。
* あなたに与えられた新しい命は、即座に、外側に十分現れてくるほどの効力は抑制されてはいるが、それは、神の内に隠され、その素晴らしさはなくなることはなく、天国入国保証書としての最高の効力を持っており、終わりの日には、もっとも重要な証書となると言うのです。
* この信仰理解を持った上で、今天国人人生を生かされ、その時々の神の助け、守り、祝福、幸いを受けながら、天国入国許可の神の声が聞けることを信じ、期待して向かうことが大事だと言われているのです。
* 私たちの天国人人生はどのようなものだと言えるでしょうか。確かに、いつまでも古い人に引っ張られやすい者でしかないと思わされるのですが、死んだものに惑わされず、驚くべき恵みをもたらす新しい命に生かされている事実をわずかも疑わず、前に向かって歩き続けたいのです。