聖日礼拝メッセージ
2013年1月13日 更新

聖 書 詩篇24:1〜6   (第1講)
   題 「礼拝者として受け入れられている幸い」


  (序)礼拝者にとって重要な2面

* この詩は3つの部分からなっており、第1部は、主への讃美、第2部は、主の聖所に立つことのできる人は誰かと問答形式で歌っており、第3部は、主が聖所に入られる時の問答が歌われています。

* 特に第2部と第3部の内容は、まったく異なった主題によって歌われており、別の作品を後の編集者が一つに合わせたのではないかと考える学者もいます。また、その具体的な背景を想定するのは非常に困難な詩だと言えます。

* しかし、正確な背景を想定できなくても、そこで歌われている2つの異なった内容に、ある意図が込められているということさえ分かれば。それは別々の内容ではなく、御心の大事な2面を示そうとしたものであることが分かるのです。

* この歌の作者は、恐らく聖地に巡礼していた巡礼者の一人であったのでしょう。自分には神の聖所に入る資格があるのかとの問いかけをし、それに対する祭司の答えを受け取っている光景が歌われています。決して儀式的なものとして形式だけで終わるものではなく、信仰的、倫理的な問答となっています。

* 別々の主題のように見える第2部と第3部ですが、第2部では、信仰者が礼拝を守ろうとしてエルサレム神殿の門の所で、聖所に入る資格試験のように示されていますが、一人一人の礼拝者の資格をその場で判定できる内容ではなく、聖所に入る者の心構えとして示され、それを判定されるのは神であることを、暗黙のうちに示しているのでしょう。

* 第3部は、栄光の王なる主が、エルサレム神殿に入場して下さる。このお方をどのようなお方として迎え入れるかという、神の民としての迎え入れる姿勢を歌っているのです。

* それでは、第2部と第3部との連結を考えて見ることにしましょう。第2部は、人が神に近づき、礼拝するには資格が求められていて、それは礼拝者の重要な一面でありますが、それだけでは不十分なので、第3部は神の側が人の方に近づいて下さることに目を向けられ、神の民としての迎え入れ態勢が、礼拝の重要なもう一面であることを示そうとしたのでしょう。

* 私たちが近づき、私たちの方に近づいて下さるお方、そのお方は、私たち信仰者にとってどのような存在であると信じているかを、第1部を歌っていると考えると、この詩人の思いが見えてきます。今日はその前半部分を学ぶことにしましょう。


  (1)詩人の抱いていた神観

* 第2部において、人が神に近づこうとしている状況が描かれていますが、その神は、どのようなお方だと讃美しているのか、1,2節から見ていくことにしましょう。心からの礼拝をささげようと思う者は、神をどのようなお方として受けとめ、更に神に対する自分の立場をわきまえ知っていることが大事で、それが土台になければなりません。

* この詩人は、自分が主と仰ぐお方を、2つの内容で示しました。それは、第1は、世界の所有者であられること、第2は世界の設計者、建築家であられることでした。

* この詩人にとって、神はこの私を造り、私が生きるために必要な万物を造って下さったという、神による天地万物創造の驚くべき御力を信じ、それは造ったものをすべてご自分の所有になさったお方だと信じていたのです。

* これは、預言者イザヤが神のお心を明確に示していますが、次のように語っておられる神のお心を信じて神を仰いでいたが故に、神への信頼を歌ったと言えます。

* 43:1で、「あなたを創造された主はこう言われる。・・・私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ。・・・私はあなたと共におる。・・・私はあなたの神、主である」と。

* 神がお造りになったものは、神にとって最善のものであるが故に、大事な所有物であり、たえず名を呼び、共にいて、あなたの造り主としてあなたに向かっている。造られたあなたが私の所有物であることを認め、自分の名を呼ばれる声に聞き従うなら、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(43:4)となると言われているのです。

* 詩人にとって、この私は神の大事な作品として見て頂いていると確信していたのです。神は、決して自分と関係のない遠い存在の創り主だとは思っていませんでした。この私をご自身の大事なものとして、御手の中に握り続けようとして下さる、非常に近いお方としての存在であったのです。

* この意味で、天地万物の創造主とは、私とのかかわりの薄い、遠くにおられる偉大なお方というのではなく、私を造り、私を導き、私を育て養うために、万物を造って下さった近い神であられるのです。

* しかも2節で、世界の礎を大海の上に据えられ、揺れ動く大川の上に築かれたとあります。これは創造の記事を思い浮かべさせられます。天地が創造される前は、やみが淵のおもてにあり、混沌としていたのです。(創世記1:2)

* 言わば、混沌の世界の上に確かな足場を造り、更に建築するという、不義が充満していて混沌としている世界を足の下に踏み、被造物である人間が住むことのできる確かな世界をその上に形造られたと言っているのです。

* すなわち、神が設計士であり、建築士であると言うことは、造った人間が、最高の環境におることができるように神が設計され、築いて下さり、ご自分の所有として下さったという思いが込められているのです。

* なぜ、混沌の世界の上に築かれたのか、不思議に思うのですが、それは、虚無の世界の上に、すべての点において意味のある最高の驚くべき世界が造られたとの創造信仰が明白に示されているのでしょう。

* ここから見える詩人の神観は、私を価値ある者として造られ、最高の世界に置き、ご自身の大事な所有物として、御手の中に握りしめて下さり、虚無を足の下に踏み、すべてが有意味であり、有意義な歩みをさせようとして下さる神であることが示されており、この神に近づくことを願っていたことが感じられるのです。


  (2)礼拝をささげる者としての資格

* 詩人は、自分の人生を意義あるものとして下さる神を仰ぎ見て、神の御許に近づきたいと願い、遠い地からエルサレム神殿に向かい、その門の前に来て、神を礼拝する資格があるかないかを選定する門番の祭司を前にして歌ったのが3節であったのです。

* エルサレム神殿は、標高790mの台地にあり、北を除く三方は谷に囲まれていて、神殿の丘がシオンの山と呼ばれ,聖なる山とも呼ばれています。それ故、ここで主の山に登るとは、エルサレム神殿を目指し、その前に立つということで、そこに臨在して下さっている神の前に行くことを指しているということが分かります。

* もちろん、ただその前に出て行くことではなく、礼拝者として、神を仰ぎ、赦しを願い、神を褒め称え、6節の表現で言うならば、主を慕い、み顔を求める姿を現し、主の僕として、自分を明け渡すことを指しています。

* 以前学びましたが、詩篇15篇の詩人も、神の御前に出る礼拝がどれほど重要なものかを歌っていました。礼拝は、自己都合や自己満足のためにするものではなく、神の御心のまま、この私を取り扱い、私を形造り、あなたの道具として用いて下さいと自分を差し出すことであり、それが愛に満ちた神に応答することであり、礼拝者としてのこのような姿を神が求めておられることだと学びました。

* 詩篇24篇の詩人も、同じ信仰に立って、主の御前に出て、主をあがめ、主を礼拝できる者は誰ですかと問いかける言葉で、この私は、私の造り主であり、所有者であられる主に心からの礼拝をささげたいのです。門を開いて、礼拝者として入れて下さいと願ったのです。

* それに対して、門番の祭司は、主を礼拝できる者は、手が清く、心がいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者でなければならないと言い、さらに偽って誓わない者でなければならないと言いました。

* 手が清くとは、普通に考えて見ると、行いにおいて神に汚れていると見られない姿のことを指しており、心がいさぎよい者とは、思いにおいて神に汚れていると見られない姿のことであり、むなしい事とは、ここでは偶像に心を向けていない者のことを指していると考えられます。偽って誓わないとは、信じている振りをして告白してはならないと言う事でしょう。

* けれども行いにおいても、思いにおいても、神から汚れなきも者と見られる者は一人もいないのですから、倫理的な汚れを指しているとは考えられず、それどころか、そのような罪を犯す愚かさを認め、主の赦しを願いつつ御前に出て、主のあわれみと助けとを願う者として礼拝をささげるべきですから、倫理的な清さを保っている者が、主の御前に出ることのできる資格だとは考えられません。

* これは、信仰的な意味の汚れだと考えるべきでしょう。すなわち、神が望んでおられない行動、思い、偶像的なものに心を向け、信仰で生きていないのに、信仰者らしく見せかける者、すなわち、信仰によらない歩みをしている者のことを指していると考えられ、これはふさわしくない、日常生活の中に主が伴って下さっていて、ご自身の大事なものと見て下さっているという信仰に生きている者こそ、御前に出て、礼拝をささげる者にふさわしいと言っているのでしょう。

* これは、祭司がそのように応えていると想定することにより、御前に出る者にふさわしい姿はこのような人々だと、詩人の考えていた信仰としてこのように歌ったのでしょう。問答形式の技巧を用いることによって、印象に残る歌にしたのでしょう。

* もちろんこれは、旧約的な信仰の告白ですが、今日の私たちが信仰を持って御前に出で、心からの礼拝をささげることのできる資格というものがあるのかどうか考えさせられるのです。

* 救われても肉の弱さを持ち続けている私たちは、御前に出る者にふさわしくないと思われますが、イエス様は、他の条件をまったくつけられないで、「霊とまこととをもって礼拝すべきだ」と教えられました。(ヨハネ4:24)また、それが礼拝する者の資格だと言われているのです。

* すなわち、霊なる神に対して応答できる霊を与えられた者として、また霊なる神がこの私のことをすべて知り、受けとめて下さっているお方として、そのお方に誠実な心を持って向き合おうとする者、このような者だけが礼拝できると言われているのです。そのような者をきよい者として見て、深い結びつきを見せて下さるのです。


  (3)礼拝する者に恵みとして与えられる祝福と義

* 主の御前に出たいと真剣に求め、信仰によってきよくされた者として主を見上げ、礼拝をささげている者に対して、詩人が歌っている内容は、5節「このような人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける」と言っています。

* これは、旧約的な意味の祝福と義であるから、その意味で考えてみる必要があります。祝福とは、申命記28章から見ると、すべての事柄における繁栄、安全、守りなどを意味しています。すなわち、その人が幸福だと感じ取れる状態に置かれることを指しています。

* 義とは、単に法的な意味の正しさや正義というだけでは十分ではなく、神の本質が義であるという信仰的概念を忘れてはなりません。義を与えるとは、法的に罪を犯さない人間にするということではなく、義なる神の前に、義なる者として出て、神に受け入れて頂いている喜びと平安にあふれて生きることができる者とされると言うのです。

* 主の御前に出て、主を見上げ、礼拝をささげる者に対して、主はこのような祝福と義を与えるという形で応えて下さると言うのです。

* 主の御前にあって生きる者でなければ与えられないこれらの祝福と義が、喜んで主に礼拝をささげる者に対して、一方的な恵みとして祝福と義とを与えて下さると信じていたのです。

* 詩人はここでも、祭司が語っている形で、祭司の口を用いて自らの信仰告白として、このように歌ったのだと考えられます。詩人は、どうしてそのように言い切れたのでしょうか。礼拝をささげることによって祝福と義を実感できたのでしょうか。その辺の状況はよく分かりません.しかし確信していたことは事実です。どうしてそう確信できたのでしょうか。

* それは、働いて下さる神を本気で信じていたからでしょう。きよくなくても、信仰によってきよく見て頂いていることを信じて、主を見上げ、主を慕い、主を求めて礼拝をささげている者に対して、神は必ず応えて下さるお方であることを疑わなかったのです。

* 自分の感覚で、祝福と義が十分に与えられたと思えたからではなく、神は与えると約束されたら必ず与えて下さるお方。聞かれる時が早いか遅いかの人間の判断に沿わなくても、神は約束を反故にされることは決してあり得ません。必ず実現して下さると信じ切っていたから、このように歌えたのでしょう。

* 今日の私たち対して、主を見上げ、礼拝をささげる者に対して、神は新約的な意味において祝福と義を与えようと約束して下さっていると言えるでしょう。

* 礼拝をささげるとは、パウロがローマ書で言っているように、アブラハムの信仰に立つことであると言えるでしょう。「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(ローマ4:20,21)のです。

* 神はその信仰に応えて約束を実現し、祝福と義とを与えて下さるのです。新約における祝福とは、神との深い結びつきにより、神からの霊的祝福をすべて受け続け、義はキリストのゆえに罪のない者として神に受け入れられ、信仰による義人として生きる最高の歩みをさせて下さることだと言えるでしょう。


  (結び)霊とまこととを持って礼拝する者に

* この詩人は、神の御前に出て礼拝することをどのように思っていたのでしょうか。彼にとっては最高の恵みにあずかる場であり、時であると考えていたと思わされます。それは、詩人の神観によく表れていると言えるでしょう。

* この私のために世界を造って下さり、虚無でしかなかったものの上に、深い意味と意義を持つ世界を築いて下さり、もっとも有意義な存在として生きるように、しかも神の作品、神のものだと言って恥じられることのないものとして下さった、そう確信していたのです。

* それ故、神の御前に出ることは喜びであり、限りなく奥深い神の慈愛に応答する子としての感謝の思いがあふれる時であり、受けている祝福と義のすごさに心が躍り上がる時であり、人として生かされている幸いを味わう時でもあったのです。

* それは、あたかも自分の大事な子を胸の中にしっかりと抱いて、その愛を、わずかも惜しむことなく子の上に注ぎ続けようとする母親の手の中で,安心し、すやすやと眠る幼な子のように、母親の愛がすべて分からなくても、その手の中にある居心地よさを体で味わうことが、幼な子にとって母親に応答する姿であるように、神の御手の中で安らい、あふれるばかりの愛に包まれ、大事な子、尊い子としていつくしんで下さる神を思うことが、礼拝の恵みとして感じ取っていたのです。

* もちろん詩人は、日常生活においても、主が伴って下さっていて、大事な子として導いて下さっているという信仰に生きていたので、倫理的に言えば、きよい者だと言えなくても、主のあわれみによって、礼拝をささげる者にふさわしいと判定して下さっていると確信していました。

* 新約時代に生きる今日の私たちにとっては、そのような愛に満ちた神に対して、正しく応答することができる霊を与えられた者として、誠実な心を持って神に向き合おうとするだけで、他に何の資格も要らず、神はそのような心からの応答を受けとめて、礼拝をささげることができる者として下さると信じていることができるのです。

* そのように、愛されている子としての喜びを持って応答していくならば、報酬としてではなく、恵みとして、神からのあふれるばかりの霊的祝福と、神の約束を受け取っていく義とを与えられる者として受けとめて頂けるのです。

* このように、詩人にとって礼拝は、神の御手の中に抱かれていることを味わう時であり、喜びと感謝に満ち溢れる時であったので、遠い巡礼の旅も苦にならず、エルサレム神殿にやってきたのです。

* けれどもイエス様がおいでになったことによって、エルサレムでない所で、父を礼拝する時が来る(ヨハネ4:21)と言われ、今日の私たちは、どこにおいても主を見上げることができ、主の御前に出で、主を礼拝し、神の御手の中で安らい、あふれるばかりの愛に包まれる時を持つことができるようにされたのです。これは何という幸いでしょうか。いつでも、どこでも御手の中で安らうことができる人生とされているのですから。



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