(序)神の側から人間の方に近づいて下さる恵み
* この詩人は、自分のために世界を造り、最高の環境の中に置いて、有意義な人生を送らせようとして、私たち人間を造って下さったことを信じていました。そのような創造主なる神を見上げ、そのような神を礼拝できることを、何よりも喜びとしていた人であったのです。
* しかし神が、そのようなお心で建て上げて下さった世界であるのに、神と向き合って生きる最高の世界を受けとめることができず、意味ある人生から外れてしまうならば、それは混沌とした虚無の世界に落ちることになり、虚しい人生が待ち受けているのです。そのことを、大海、大川の上に世界を築かれたと表現していました。それはあたかも、天国から脱落した者は、そこは地獄だと言うことです。
* このことがよく分かっていた詩人は、有意義な人生を送るように、私たち人間を造って下さったと信じる信仰者にとって、人間の側から神に近づくという礼拝者の行為が、霊なる神に応答していく最も大事な姿であると受けとめていたのです。
* 旧約信仰に生きていた詩人でありましたが、旧約の信仰の枠を超えた信仰に生きていた人でもありました。神の選民であるからと言って、必ずしも神に受け入れられる、有意義な人生を送ることができると考えていたのではありませんでした。
* 選民であっても、自分たちを創造し、自分たちを選んで下さった神を慕い求め、御顔を求めて真剣に礼拝をささげ、神の愛のお心に喜んで応答する者だけしか、神に受け入れられないと考えていたのです。
* ヘブル書の著者は、旧約の表現を使って、新約の福音を語り、旧約と新約との深い結びつきを明らかにしようとした人でありましたが、10:19〜22において、「私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕を通り、私たちのために開いて下さった新しい生きた道を通って入っていくことができる・・・、真心を持って、信仰の確信に満たされつつ、御前に近づこうではないか」と言いました。
* イエスの血によって切り開かれた道を通って、大胆に御前に近づこうではないかと勧めることにより、礼拝者として積極的に、大胆に御前に行き、心からの礼拝をささげることが、神に応答する姿であることを伝えています。
* 詩篇24篇の詩人も、このことを歌ってきたのです。神は、私たちのために世界を創造し、私たちを選んで下さったお方であることを確信し、礼拝者として大胆に御前に近づいていこう。これが神に応答する者のあるべき姿だと。
* けれども、詩人はその重要性を語るだけでとどめず、第3部として、神の側から人間の方に近づき、いつも臨在して下さる驚くべき愛に満ちたお方であることを示し、群としてお迎えしているかを問答形式で歌っていくのです。
(1)栄光の王としてお迎えしなさい
* 礼拝者にとっては、第2の面の方がより重要な事柄でありますが、この詩の中心主題は第3部にあると言ってもいいでしょう。まず王であられる神が入場しようとしておられると伝令者が門の所に来て叫び、それに応答する形で、門の内側にいる民の代表としての祭司が「栄光の王とは誰か」と問いかける光景が描かれています。
* まず王の伝令の言葉から考えて見ましょう。栄光の王が入場される。さあ出迎えなさいという意図で「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ」と言いました。聖所におるべき民が、勝利者である王をお迎えする状態を、門を開くという行為で示そうとしたものであります。
* しかし、ここでは門を開けと言わず、門を擬人化して、こうべをあげよと言うのです。あなたがたを支配し、治める王として喜び迎えよという意味だと分かるのですが、あえてこうべをあげよと言ったのは、ただ迎えるのではなく、悲しみ沈んでいないで、勝利者なる王を見て、勝利にあずかる者とされたことを知って喜び、こうべをあげよと言って、力を得た姿を表せと言っている事が詩篇110:7などの用例から分かるのです。
* なぜ、王の入場の前に伝令がやってきて、勝利者なる王を出迎えるように伝える必要があったのでしょうか。これは、キリストがこられる前に、バプテスマのヨハネが遣わされ、民の心を備えさせようとされたことと同じであることが分かります。
* 王を迎える心構えが求められているのでしょう。勝利者なる王の入場を待ち望み、王の支配を心待ちにすることなくして、王を迎える心備えのないまま迎えたならば、思いが伴っていないので、迎え損なうことになります。
* これは、私たち人間の側が御前に出て、心からの礼拝をささげるにしても、それだけで真に有意義な人生を得ることができるわけではなく、神が、私を支配し、栄光へと導く力ある王であることを認識して、その王である神を、私の支配者としてお迎えする心備えができていなければならないと言うのです。
* 私たち信仰者は、神を自分の内に、栄光の王としてお迎えしていると言えるでしょうか。ともすれば、自分の側から私の人生をこうしてほしいと願って、その思いをかなえてくれる神を求めているだけで、この私を、神のお心のままに支配して下さいと願う、王の迎え方ができていると言えるでしょうか。
* もちろん、神のお心よりも、自分の願いの方が正しいと思っていれば、神のお心のままに支配して下さいと願うことはないでしょう。人間の思い、判断は奥行きが浅く、その場限りで、先も見えない、知恵も乏しい、そんな自分の願いが、時間を超越して、すべて先までご存知であり、全能であるお方のお心よりも勝っていると、どうして考えることができるでしょうか。
* 私を支配する力を持っておられる神が、今入場しようとしておられる、心してお迎えしなさい。私を支配して下さるお方として自分を差し出してお迎えしようとしなさい、と伝令者は伝えるのです。
* この心備えをするようにとの意味で「門よ、こうべをあげよ」という表現で示されているのです。もうひとつの「とこしえの戸よ、あがれ」との言葉は、とこしえとは具体的に何を意味しているのか分かりにくい言葉ですが、門よ、こうべをあげよという語りかけを、さらに別の表現を用いて強調している言葉であると伺われますから、心をふたさずに喜び迎えよとの意であることが分かります。
* とこしえという言葉をあえてつけているのは、永遠に閉じ続けている戸という意味は考えられませんから,永遠なるお方を迎え入れる戸と考えられ、戸を開けと言わないで、戸よあがれとは、聖所の垂れ幕のようなものであったのではないかと考える学者もいます。
* それがどのようなものであっても、この表現で言おうとしていることは明白です。勝利者であり、栄光に満ちた偉大な神を、心をふたすことなく、心の底から喜び迎え入れるようにと歌っているのです。
(2)栄光の王として臨在して下さる神
* この詩人は、神を迎え入れよと言わないで、「栄光の王が入られる」と言いました。伝令に対して応答する、門の内側から発した言葉は、「栄光の王とはだれか」という問いかけでありました。この表現から分かることは,栄光の王という表現が珍しく、すぐに受けとめることができない表現だったのでしょう。
* 旧約聖書には、主の栄光が現れるとか、神に栄光を帰すなどの表現は多く記されているのですが、神を、栄光の王と呼ぶ例はまったくありません。栄光という言葉は説明しにくい言葉ですが、一言で言うならば、神が神として持っておられる威厳、重み、輝きだと言っていいでしょう。
* それ故、詩人が栄光の王と表現したのは、神の神たる威厳と輝きを持っておられる王として、民の中に臨在しようとして下さるお方として示そうとしたのです。民が、栄光の王とは誰のことで、どのようなお方なのかと問いかけたのは、民の状態が、まだ栄光の王を迎え入れる状態になっていなかったからです。
* もし神を、自分たちにとって、なくてはならない栄光の王として迎え入れることの重大さが分かっていれば、問いかけることはしなかったでしょう。本来なら迎え入れていなければならない栄光の王の入場を妨げ、門を閉め、戸を下ろしていたのです。
* それ故この問答は、今あなたがたの内に、栄光の王が入ろうとして下さっている、このお方を、神の神たる威厳と輝きを持ち、その輝きを受け入れた者をも輝かせ、神の栄光を現す者にしてしまわれる力を持っているのだから、門を開いて頭を上げて喜び迎え、下ろしていた戸を引き上げて、どうぞここに入って下さいと、受け入れ態勢が整っていることを示せと言っているのです。
* この詩人は、巡礼者の一人であったのではないかと前に言いましたが、もしそうであったとしたなら、創造主を慕い、私の人生を意義あるものに形造って下さった神の御前に出て、心からの礼拝をささげたいと願った詩人は、門の内側にいて、神の臨在の恵みにあずかっているはずの人々に対して、栄光の王を受け入れていないのではないか、このお方の威厳を認め、喜び迎えるようにと、神からの伝令の一人として言葉を発したと見ることができます。
* エルサレムの聖所の内側にいるにもかかわらず、神の威厳とその輝きのすごさに触れることもなく、そのお方が臨在して下さっているということがどんなにすごい恵みであるか味わっていない人々がいたと考えられるのです。
* そのことは、今日のキリスト教会においても、また信仰者一人一人においても同様だと言えるでしょう。週毎に教会に通い、礼拝を守り、クリスチャンらしい生活をしていながら、教会や一人一人の内側に、栄光の王をお迎えしておらず、いつまでも自分自身を王として据え、栄光の王が、私たちの内に臨在して下さっているという恵みのすごさを味わうこともなく、自分の肉の思いで神を信じ、礼拝し、信仰者として生きている人が多いのと同じだと言えるでしょう。
* なぜ栄光の主と言わないで、栄光の王と言っているのでしょうか。これは、戦いに勝利した王が、凱旋将軍として国に帰ってくる光景が想定されていると共に、王という言葉で支配を表し、栄光に輝く神に支配して頂こうと、自分を明け渡して迎え入れることをしなければ、真の礼拝者とは言えないと言おうとしたのでしょう。
* これは、形だけの信仰を戒め、信仰が偽善的になってしまっていたパリサイ人、律法学者たちの信仰の愚かさを、厳しく指摘されたイエス様の信仰的語りかけに似ていると言えるでしょう。(マタイ23章)彼らの内には、神は臨在されてはおらず、あなたがたの家は見捨てられてしまうと言われているのです。(23:38)
* すなわち、神の臨在されていない、形だけの聖所における礼拝をしても、神の御前に出たことにはなりません。栄光の王を、聖所の中に、それは今日で言うならば教会(群)の中に、また、一人一人の中に迎え入れることによって、(Tコリント3:16.6:19)群を聖霊の宮にして、また、一人一人を聖霊の宮にして支配して頂く歩みをする時に、礼拝は神に向かってささげられ、神もその礼拝に応えて下さるのです。
(3)天の軍勢を率いて入って下さる栄光の王
* 栄光の王をまだお迎えしていない人々の問いかけに対して、答えている内容は、8節では強く勇ましい主、戦いに勇ましい主と答えています。これは、神の民としての歩みは、戦いの待ち受けている歩みであり、この当時においては、外敵に取り囲まれている中で、その戦いは避けられないことを示し、この戦いにおいて、主が戦って下さるという聖戦思想がその背景にあったと考えられます。
* 栄光の王に信頼を置く者は、強く勇ましく、勝利をもたらして下さる主によって外敵を排除し、その勝利者なる王の勝利にあずかって、王に信頼を置くだけで勝利の歩みができるのだから、この栄光の王を自分たちの中に喜び迎え入れようと言うのです。
* その答えに対して、再び「あなたの言う栄光の王とは誰のことか」と問いかけています。ここで繰り返し問いかけている意図は、「伝令者であるあなたが伝えている栄光の王とは、本当に栄光の王と言える方なのか」という疑いの思いが込められていると感じられます。
* 神を信じていると広言し、礼拝を守り、信仰者らしい生き方をしているが、神がその群の中心に、またその人の中心に座してはおらず、自分の思いによって必要な時に神を呼び出し、神においで頂いて導き助けてもらう、それ以外の時には、聖所の奥に鎮座していてもらうという迎え方しかしていなかった人々にとって、群を支配し、私を支配して下さるお方として、神の威厳と輝きの前にひれ伏して自分を明け渡すという迎え方をするようにと答えている答えは受け入れ難かったのでしょう。
* 神を信じる歩みにおいて、どうしてそこまで自分の思いを否定して、神の前に明け渡さなければならないのかという、自分の思いを中心にして生きてきた人たちにとっては、納得のいかない思いが、この問いかけの反復となったのでしょう。
* 神を正しい位置に迎えていなければ、それは迎えていることにならない。それ故、神の威厳と輝きの前にひれ伏し、私たちを正しく支配して下さる栄光の王として、神をお迎えしなさいとの答えに、素直に耳を傾けることができなかったのです。それは、自分の都合で神を動かそうとする思いが強くあったからです。
* 2度目の問いかけに対して、伝令はこう言いました。「万軍の主、これこそ栄光の王である」と。この万軍とは、天の万軍との表現で,御使いの軍勢を指して使われている例や(列王記上22:19 旧517)、同じ詩篇103:20,21では、主の使いを万軍と呼んでいることなどから、無数に存在する天使たちのことだと分かり、その万軍の主という表現で,力ある天使たちを統率し、その偉大な力を現される主を、万軍の主と呼んだのでしょう。
* この詩人が、エリシャの記事を知っていたかどうか定かではありませんが、預言者エリシャの存在が妨げになっていたスリヤの王は,一人を捕らえるために大軍を遣わしたと言うのです。エリシャの目には、自分の周りには火の馬と火の戦車に乗っている天使の大軍がいるのが見えていて、守られているので、敵の大群を恐れなかったという記事が記されています。(列王記下6:16,17 旧528)
* すなわち、万軍の主である栄光の王を迎え入れるということは、天の万軍ごと迎え入れることであり、その守りの下に置かれることであると示しているのです。
* また、イエス様の誕生の時には、夜、野宿していた羊飼いたちの前に、おびただしい天の軍勢が、彼らに語りかけた代表者の御使いと一緒になって、この時には天上聖歌隊として神を讃美したと記されています。(ルカ2:13)
* このように、天の万軍を遣わし、取り囲まれている外敵に対して戦って勝利をもたらし、時には天上聖歌隊にもなって神を讃美し、あらゆる働きをこなし、人間のために仕えてくれる存在がいると語られているのです。
* 新約の時代においては、サタンとその万軍である悪霊がいることを明らかにし、そのような恐ろしい敵に取り囲まれている世にあって、信仰者は、万軍の主の助けなしに、あのエリシャの時と同じように守られ、勝利者としての歩みをすることはできないと言うのです。
* 万軍の主こそ、栄光の王であると答えた伝令の言葉は、このお方は、天の軍勢を率いてあなたのただ中に入り、勝利を与えようとして下さるお方です、あなたがたはこのお方を迎え入れているかとの語りかけであったのです。
(まとめ)栄光の王という光源を頂いた者の輝き
* 詩人は、この歌の中で、私たちが神の方に近づいていくためには、まず神の方から私たちの方に近づいて下さり、私たちの群の中に栄光の王として入ろうとして下さっている。それを知って心を閉ざさず、喜び迎えよう。このお方は栄光の王であって、神の威厳と輝きとを持って、群を支配するお方として来て下さったと歌っているのです。
* 自分の思いが強い人は、栄光の王を迎え入れることができません。自分の思いという門を閉じたまま、自分の思いという戸を下ろしたまま、自分の思いを王として据えたままでいるから、栄光の王が入る余地はないのです。
* 栄光の王を迎え入れ、天の万軍も合わせて迎え入れ、群が、また私の中が万軍の主と、天の万軍とで満ち溢れているならば、こんなすごい臨在の恵みはないのでしょう。サタンも、その万軍である悪霊も、私の中に入ることは全くできないからです。
* この詩人が見ていた臨在の恵み、味わっていた臨在の祝福を、すべての信仰者は味わうことができると歌っているのです。
* このお方と比較できるものは何一つありません。そんな神だけが持っておられる威厳と輝き、更にこんな小さな者さえ驚くべき支配力を持って治めて下さり、最高の有意義な人生を送らせようとして下さっている、そんな栄光の王なるお方を私の中心の座に迎え入れたならば、その臨在の恵みではちきれ、変えられないはずはないのです。
* しかしそのことが分かっていても、簡単に栄光の王を迎え入れることができない人間の性質があるのです。人間の持っている肉の思いは強く、門をわずかしか開けず、戸をわずかしか上げようとしない心が働くのです。
* しかし、栄光の王を私の聖所に迎え入れようとする強い思いが起こされた時、臨在の輝きは私の内からもあふれ出るようになるのです。
* 私たち自身に輝く光源があるわけではありませんが、万軍の主と天の万軍とをすべて迎え入れることによって、パウロがピリピ書で語っているように、「彼ら(曲がった邪悪な人々)の間で、星のようにこの世に輝く」と言われているのです。(ピリピ2:15)、
* もちろん世的な輝きではなく,自分の思いを中心の座から引き下ろし、そこに栄光の王を迎え入れた時、栄光の王という光源を頂いた者としての輝き、神の子としての輝きを放つようにされるのです。