(序)祈りをどのようなものとして受けとめていたか
* 詩篇には、技巧を施したいろは歌がいくつかあります。しかし、技巧を施しているからと言って、うわべだけの言葉遊びをしていると言うのではありません。自分の内側にある思いを、アルファベット順に言葉を選んで用いているだけです。
* なぜそんな技巧を施して歌う必要があったのか、それを理解するのは難しい問題でありますが、推測できることは、この時代は、今日のように聖書を個人で持つことのできない時代であったから、聞くだけで記憶に残りやすい工夫がなされたのかもしれません。
* この詩人の置かれている状況は、詩人にとって敵対してくる存在がいて、何らかの形で虐げようと迫ってきており、そんな中、助けてくれる者がなく、一人で悩み苦しんでいたと言うのです。しかも彼の周りには、手を緩めることなく網を張り巡らし、憎しみをぶっつけてくる敵は一人ではなく、多くの敵がいたと言っています。
* このような孤立無援の状態の中にあって、詩人が目を向けていたのは、必ず助けて下さると信じることのできる神に対してだけであったのです。その意味では人間に依存することなく、神にのみ目を向け続けた人であったことが分かります。
* その意味で彼にとっては、祈りが唯一の逃れ場であり、神だけを自分の保護者だと受けとめ、神にのみすがるしかない状態であったのです。しかも彼は、自分の力で何とかできると思うほど、自分に自信を持っていた人ではなく、自分の貧しさを知り、主が道を切り開いて下さることを願い求め、神は信頼する者の願いに耳を傾けて下さるお方だと確信していたことが見て取れます。
* それ故、この詩人にとって、神に祈るということは、どのようなものだったのか、見えてくるのです。祈ることによってどのような解答を得ていたのか、祈ることによって、彼の精神状態は、また、霊性状態はどのようになっていたのか、これを数回に分けて学んでいくことにしましょう。
* そして、彼の特殊状況の下で受けていた戦いを乗り越える方法が、今日の新約時代に生きる私たち信仰者にとって、そこから何を学び取り、何を自分の問題として受けとめていくべきなのかを考えたいのです。
(1)神の下に自分の魂を挙げた詩人
* 今日はその第1部として、1節〜3節の所から見ていくことにしましょう。彼は最初に、「主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます」と言いました。口語訳で、仰ぎ望みますと訳しているこの言葉は、(上に)挙げるという意味の言葉を使っています。これを意訳しないで、そのまま訳した方が詩人の歌っている意図が感じられます。
* 手を上に挙げるように、自分の魂を上に挙げると言ったのです。魂すなわち、自分の心、思い、自分のすべてを挙げると言うことです。どこに挙げるかと言いますと、神の下に挙げると言っているのです。
* 物のように、人間は自分の魂を上げ下げできるわけではありません。これは、これまで自分の手許においていた自分の心、思い、自分のすべてを、信仰によって神のおられるその御許にまで挙げるという、信仰的行為であることが分かります。
* ここに、この詩人の明確な信仰が伺われます。人は自分の置かれている状況の中で生きていますから、そこで受ける思い、心の中から湧き上がってくる思いに捉われ,振り回され,魂を上へと動かすことができない人は、自分の位置にとどまり続けるしかないのです。
* このような人は、自分の目で見、肌で感じ、自分の思いで判断する位置に魂があるので、自分の思いから抜け出ることができないのです。このことが分かっていた詩人は、信仰によって、自分の魂を神の位置に挙げ、神の下にある位置から自分の状態を見、理解し、判断する向かい方をすることの大事さを知ったので、信仰によって自分の魂を神の下に挙げますと言ったのです。
* 信仰を持ったら、魂は、自然と神の下にまで挙げられるのではありません。信仰的意志を働かせて、神の下に挙げる必要があるのです。それは、信仰を持っても、自分の位置に魂を置いた状態のままであれば、人間的状況判断しかできず、信仰的判断ができないからです。
* 詩人の置かれている状況は、具体的にはよく分かりませんが、詩人の周りには、彼を虐げ、引き落とし、恥じさせようとする敵が多くいたと言うのです。これは、単なる彼の人格や言動に対して異常反応している憎しみのようなものではなく、主を待ち望む信仰的生き方、その証言に対する反発から来ていた虐げであると考えられるでしょう。
* 彼は、自分が人格的に優れていて、問題がなく、罪を犯さない人間だと思っていたわけではありませんでした。それどころか、7節では若い時に犯してきた罪ととがを思い出さないで下さいと願っており、18節では、今もなお犯し続けている罪をお赦し下さいと願っており、罪に対する認識が強いことを歌っています。
* 自分の魂の位置を、自分の位置に置いたままであれば、このような厳しい状況も、自分の罪深さが招いたものかもしれないと思ったり、自分は何も悪くないし、憎まれることもしていないのに、このように虐げられるというのは理不尽で、虐げる彼らの方に問題があり、悪心があるからだと思ったりしようとするのです。
* それは、あたかもいじめに会っている子供が、自分を責める思いを持つか、相手を責める思いを持つかになるのと同じようなものだと言えるでしょう。完璧な人間がいないので、自分を責めるか、相手を責めるかしかないのです。
* 詩人は、そのような判断しかできない自分の位置に、自分の魂を置いたままにすることは、信仰者として自殺行為であると感じていたので、自分の魂を神の下に挙げることによって、自分を責めるか、相手を責めるかという、解決にならない人間的判断に捉われている状態を乗り越えようとしたのです。
* それでは、自分の魂を神の下に挙げたらどうなるのでしょうか。即座に神の知恵を頂いて、神による判断をすることができるようになるのでしょうか。それはあり得ません。ただ、世的判断がとどめられ、これまで受けてきた御言葉が土台となって、神の視点からの判断をしていくようになるのです。
* そのためには、信仰的意志を働かせ、自分の位置にとどまろうとする、自分の肉の内に働く肉の思いを振り切って、神を見上げ、神の下に自分の魂を挙げようとすることが大事になってくるのです。そうすれば、神はその信仰の思いに働きかけて下さり、徐々にではありますが、神の知恵による判断ができるように助けて下さるのです。
* 詩人は、このことがもっとも大事なことだと考えていたので、開口一番、「主よ、わが魂をあなたの下に挙げます」と歌ったのです。その結果出てきた神の知恵による判断の第1が、2節と3節の内容だと言えます。
(2)主に対する信頼が揺るがない信仰
* 魂を神の下に挙げたことによって、自分を責めるか、相手を責めるかという肉的判断から出る思いの枠から解放され、信仰的判断ができるようになったのです。それは、この私の人生は私のものでありながら、神の手の中にあるものであるという思いがひらめいたので、「わが神よ、私はあなたに信頼します」と歌わずにはおれなかったのです。
* ここで呼んだ神は、わが神という表現で,私のことを知り、私のことを受けとめ、御手の中に置いて導いて下さっているお方という思いで呼んだと分かります。すなわち、私のことをご自身の大事な子として愛し導いて下さっているお方だと信じていたから、そこに自分の魂を挙げることができたのです。
* すなわち、自分の魂を神の下に挙げたことによって、主が私の状況を見て、どのように働いて下さるか、それを必ず実感できるとは限りませんが、間違いなく神は私の歩みを導き、子としての歩みを守り助けて下さると信じることができたので、私はあなたを信頼しますと告白できたのです。
* 「わが神よ、私はあなたに信頼します」という告白の祈りは、問題が何も起きていない時、日々の歩みに苦しみうめいていない時にはたやすく告白することはできます。しかし、この告白が、どのような状態の中で告白された祈りであるかを考えますと、なかなかこのように告白することができないと分かります。
* というのは、この詩人の置かれた境遇は、日々、敵の辱めを受け、神を信じる私の姿があざけられ、どうしてこれほどに苦しみを味わわなければならないのかとうめく毎日であったのです。
* そんな中にあって彼は、私のことをすべてご存知であるお方という意味で、わが神よと呼び、「私はあなたを信頼します」とどうして言い得たのでしょうか。
* これは、先ほど考えたように、もし自分の魂を自分の位置に置いたままであったら、そして、そこから神を見上げているとしたなら、神よ、あなたを愛するこの私を、どうして悪の手から助け出し、苦しむことのないように守って下さらないのですか、と自分の状態をあわれに思って、神の助けの足らなさを嘆くしかなかったはずです。
* しかし、彼は自分の魂を神の下に挙げ、その至近距離から、神の導きを見るようになったことによって、神のお心が分かるようになり、自分の今の状態だけを見て、神の助けが不足しているなどと思うことなく、もっともふさわしい助けと導きとを与えて下さっていると受けとめることができたので、あなたのお心のままに導いて下さいという思いで、私はあなたに信頼しますと告白できたのです。
* すなわち、告白の祈りができるのは、神のお心に不満を覚えず、その導きに不足を覚えず、神のなされることは皆その時にかなって美しいと告白したあの伝道の書の著者と同じ信仰に立つことができる者のみです。(伝道3:11)
* この詩人が、最初に、主への信頼を表す告白の祈りをしたということに大きな意味があります。それは、私が現状を述べなくても、あなたはすべてを知って下さっており、私が願わなくても、その思いをご存知であり、どのように導くことがもっともふさわしいことかを知って、すでに働いて下さっているとの信頼があったから、目に見える部分では厳しくつらい現状であったとしても、主に対する信頼が揺るがないことを示しているからです。
* これが、神の求めておられる信仰姿勢であると言えるでしょう。神に対して不満を覚えず、不足を訴えず、私の現状を見ておられないのではないかとの神の無知を非難することをせず、神の全知、全能をどこまでも信じ、愛に満ちた神の働きかけに信頼を表していく、このことを歩みの前に置くことが何にもまして重要であることを示しているからです。
(3)勝利、支配は主のものである
* このように詩人は、自分の魂を神の下に挙げたことによって、神のお心を受けとめるようになり、自分の肉の思いで判断することをやめ、もっともふさわしい働きかけをして下さる神に対して、信頼を告白したのです。
* これで十分だと思うのですが、ここから具体的な祈りをしていくのです。この第1部には2つの関連する祈りが記されています。そのひとつは、私を辱めないで下さいとの祈りであり、もうひとつは、敵に勝ち誇らせず、彼らを辱めて下さいと言うものでした。
* これは単に、自分を苦しめる敵をつぶして下さいという、自分を苦しみの中に置こうとする敵を排除して下さいと願う問題解決を願ったものではありませんでした。というのは、詩人が受けていた敵の攻撃は、唯一神信仰に立っていた詩人の信仰を攻撃するものであったからです。
* だから、詩人が受けていた辱しめは,神に対しての辱しめであったと言えるのです。イエス様も、72人の弟子たちを宣教に遣わされた時にこう教えられました。「あなたがたに聞き従う者は、私に聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。そして私を拒む者は、私をお遣わしになった方を拒むのである」と。(ルカ10:16)
* ここに、神が信仰者の事をどう見て下さっているかがよく言い表されています。あなたがたの誇りは私の誇り、あなたがたの恥は私の恥、あなたがたが辱められたり、苦しめられたりすることは、私が辱められたり、苦しめられたりしていることなのだと言われ、神と信仰者が一体であると言われているのです。
* こんな罪深い、弱く、惨めな、肉の思いが強い私たちを、神はどうして一体関係と見て下さっていると言えるでしょうか。神が働きかけようとして下さる者は、完璧な人に対してなのではありません。それは主の御前に義と認められた者だけなのです。
* たとえ罪深い人間であっても、信頼すべき神を信じることによって、神は義なる者と認めて下さるという神のあわれみの法則があるから義人とされ、神の働きかけを受ける者とされ、神は、あわれみによって義とされた者を、欠けだらけの者であってもご自身と一体と見て下さるのです。
* だから、この信仰に立っていた詩人は、人間的に言えば厚かましいと言える、このあわれみの法則を本気で信じ、私が受けている恥は、あなたに対してのものですから、この私が、信仰者としての辱しめを受けたままに放置しないで下さい。それを放置されると、力のない神としてあなたが見下げられることになります。私にはそれが耐えられませんと言うのです。
* 詩人は、自分が人間的に何の問題もないと思っていたわけではありませんでした。にもかかわらず、神に義とされ、神の御前に立ち、神を前に置いて生きる者とされたことを確信していました。だから神が、力なしの神だと見下げられることは、これ以上の屈辱はなかったのです。
* また、自分が辱められないようにと願うだけではなく、敵に勝ったと思わせず、彼らを辱めて下さいとも言いました。これは、勝利者なる主に対する詩人の信頼でありました。勝利者なる主が敗北されるなら、神でなくなるからです。
* すなわち。神が神であられることを表して下さい。勝利、支配は主のものであって、神を侮る敵が勝利、支配権を得るのは似つかわしくありません。勝利者に望みを置く者を恥じさせないで下さい。恥を受けるにふさわしい者は、神を見下す者ですと言って、人間を、勝利を受ける者と恥を受ける者との2つに分けたのです。
* 神を信じる者=義と認められる者=勝利者に望みを置く者=勝利を受ける者となるという公式が成立し、これに反して、→→神を見下す者=不義なる者=勝利に背を向ける者=恥を受ける者となる、という公式も成立し、この信仰の公式を本気で信じる者、これが信仰者だと言えます。
(まとめ)信仰的技術を習得する
* このように詩人は、開口一番、「主よ、私の魂をあなた(の下)に挙げます」と言って、信仰によって自分の魂を神の下にまで引き上げたのです。これが、この詩人の信仰を現している重要なポイントでした。彼はその向かい方を大事にした人だったのです。
* しかし、自分の魂を上に挙げようとしない信仰者は多いと言えるでしょう。自分の魂を、自分の位置に置き続けたままだから、信仰によって生きていると思いながらも、人を前に置いて、自分の目線で人を見、人を裁き、人の目に振り回され、人の言葉に一喜一憂しているのです。
* もちろん、同じ自分の目線で、自分の状態を見、自分を裁いたり、納得させたり、心の中で、自分の思いを延々と思い巡らせ続けているのです。それは、神を前に置いて生きる生き方が分かっていないからです。
* もし詩人が、人を前に置く生き方を続けていたなら、自らの厳しい境遇に対して、神はどうしてこんな敵を放置しておられるのだろうか、どうして助けて下さらないのか、どうして力を惜しんでおられるのか、思いが定まらないまま自分の思いと向き合って、あーでもない、こーでもないと思いを駆け巡らせ続けるのです。
* 信じようと思っては疑い、また信じ、期待しようと思っては、いつかは気持ちが萎えてしまい、思い通りにいかない状態が続くと、信じることもしんどくなったり、あきらめきったり、忙しく思いが巡って定まらず、心を揺らし続けて、疲れ果てているのです。それはあたかも、解答の出ない問題をあてどなく続けているようなもので、心身、霊共に疲れてしまいます。
* 信仰によって自分の魂を上に、神の下に挙げることによって初めて天国人としての生き方ができるのです。それは、神の下に挙げた魂を持って自分を見、状況を見、人を見、人を判断し、神のお心が何よりも正しいと受けとめた上で、もっともよい導きを与えて下さっていると信じることによって、思いを定めるのです。そうすれば心はもう揺れることもなく、神に対して期待と信頼とを表し続けることができるのです。
* ということは、信仰に生きるということは、自分の魂を上に挙げるという信仰的技術を習得することが何よりも大事なことだと考えさせられるのです。