聖日礼拝メッセージ
2013年2月3日 更新

聖 書 詩篇25:4〜7   (第2講)
   題 「信仰によって乗り越える生き方をしているか」


  (序)神はどのように教え示して下さるのか

* 前回の所で詩人は、自分が一番大事にしている信仰姿勢として、自分の魂を自分の思いの位置にとどめず、神の下に挙げる向かい方であることを最初に示しました。それは、自分の思いを中心にせず、神の御思いを中心にした歩みをしますとの告白であったのです。

* そのような信仰姿勢を現す者の第1になすべきこととして、子として養い導いて下さっている神の愛の働きかけに対して、ただ全面的に信頼を寄せればいいという思いが与えられたのです。

* 現実には、多くの敵に、自分の信仰的生き方をなじられ、厳しい状況に立たされたままであり、何の解決も見通せない状態でありましたが、詩人は、神は私のことをご自分のことでもあるかのように、辱められるまま放置されるとは決して思わず、勝利者なる主の御手の中に置いて頂いていると確信できたのです。

* そんな彼が続けて祈ったことは、「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えて下さい」でした。なぜこのように祈ったのでしょうか。自分の知恵や判別力では、どのような道を進むべきなのか正しい解答が出ないと分かっていた詩人は、神の知恵によって正しい道を教えて頂く以外にないと思ったのです。

* もし神が、ご自身の優れた、しかも先を見通すことのできる知恵と能力を持って、正しい道をこの私に教えて下さるお方だと思えなかったなら、このような祈りはしなかったでしょう。

* しかしここにひとつの疑問が残ります。たとえ神が優れた知恵と能力とを持っておられたとしても、どのように人間に教え示して下さると詩人は考えていたのでしょうか。

* 預言者サムエルの少年時代の話ですが、直接「サムエルよ、サムエルよ」と呼ぶ天の声を聞いた時に、それが神からの声だと分からなかったサムエルは、祭司エリの下に行き、「はい、ここにおります」と返事をしたのです。そのことが3度あって、それが神からの声であると気づいた祭司エリは、サムエルに、次呼ばれた時、「しもべは聞きます。主よお話下さい」と言いなさいと教えられ、その通りにすると、神からの言葉があったのです。(Tサムエル3:2〜14 旧386)

* しかし神は、すべての信仰者に対して、直接このような御声をかけて下さる訳でも、教えて下さる訳でもありません。信仰者がそのようなことを期待していると失望するしかないでしょう。

* それでは、この詩人はどのように神は教えて下さると思っていたのでしょうか。直接御声があると信じているようなふしは見当たりません。

* それではどうだったのか考えて見ましょう。今日においても、祈りが空疎な、無意味なものになってしまわないために、神がどのように私たち信仰者に教えて下さると信じることができるのか、私たちは自分のこととして考えていなければならないことです。

* このことが分かった上で、主よ、あなたの道を示し、鈍いこの私に教えて下さいと祈る必要があるのです。詩人の祈りの向かい方から考えてみましょう。


  (1)肉の思いによらず信仰によって乗り越える

* 4節の「大路」と「道」とは異なった単語を使っていますが、意味はほとんど同じだと考えていいでしょう。ここでは、置かれている厳しい状況の中で、それを乗り越える方法という意味で、どのような向かい方をするべきか、その道を教えて下さいとの祈りだと考えられます。

* 自分が選び取るべき道、神が導いて下さっている道を教えて下さるようにと願っているのです。詩人は、自分の人間的な知恵、判別力では、信仰者として正しい道を選び取ることができないので、神の深い知恵による信仰者としての、正しい乗り越え方を教え示してほしいと祈ったのです。

* これは、自分の知恵や判別力ではどうしたらいいか分からないと思っていたのではなく、肉的な思いですぐ乗り越えようとしてしまう自分の思いが信用できず、どう考え、どう判断し、どう乗り越えようとするのが、信仰による乗り越え方かを、神のお心に問うているのです。

* そして、驚くべき知恵を持って、あなたはこの私を導いて下さるお方ですと信頼を表し、自分の肉の思いに惑わされず、あなたが示して下さる真実な、正しい道を教えて下さい。あなたは私にとって救いの神ですから、その真実な道を選び取らせて下さい。私はただそのことだけを切実に待ち望んでいますと言ったのです。

* 人間は、肉の思いが強く残っているがゆえに、即座に自分の知恵や思いで反応し、敵を憎んだり、仕返しをしようとしたり、自分の境遇を嘆いたり、その境遇につまずいたり、その人の正義感や、性格や、知恵などで向かってしまい、余程心しないと、信仰によって反応しないまま向かってしまいやすいのです。

* 詩人は、そのような自分をよく知っていました。自分の正義感や、性格や、知恵から出た反応は、ともすれば神を信じる者にふさわしくない対応をしてしまうことが分かっていましたので、神の驚くべき知恵によって真実な道を教え示して下さいと祈るしかなかったのです。

* ただ自分が弱いというのではなく、肉の思いが強いことを知っており、肉で向かいやすい自分を知っていたので、自分の魂を上に挙げ、天国人としての正しい対応ができるように、神のお心を求めたのです。

* これは、救われても肉の思いの強さを持ち続けている信仰者にとって、対処すべきすべての事柄を、肉で対処しようとする誘惑に引っ張られずに、自分の魂を上に挙げて、神のお心を受けとめ、神の導きを頂いて対処していくことの重要さを示していることが分かります。

* それでは、直接神の御声が聞こえてくると期待していなかった詩人は、どのように神が教えて下さると思っていたのでしょうか。聖霊による助けがまだ明確にされていない旧約の時代にあって、どう受けとめていたか、推測するしかありません。

* 10節では、契約とあかしが示されていることが語られており、14節においても、契約について述べている所から考えてみると、これは神が示して下さった律法について言及していることが分かり、律法の中に、神は道を教え示して下さっていると考えていたことが分かるのです。

* 詩人にとって、律法は空虚な規則集ではなく、神のお心が明らかにされており、信仰者として進むべき道を指し示してくれる道しるべであったのです。

* 同じ詩篇の119:105では、「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と歌っています。もちろん律法を読んでいたら、この道を選びなさいと記されてあるわけではありません。律法に生きているならば、この道を選ぶようにとの霊のひらめきが与えられると考えていたのです。詩人は、それを神がこの私に教え示して下さる方法だと受けとめていたのでしょう。

* 新約時代においては、より完成された福音の御言葉が明らかにされており、そればかりか、霊のひらめきを引き出す聖霊の働きかけも、より明確になっていますから、御言葉を学び、御言葉に生きているならば、信仰によってどう判断し、どう対処していくべきか、聖霊の助けを願いつつ向かっているならば、霊にひらめきが与えられ、それを神の示し、神の教えとして聞き取っていくことができるのです。

* 直接的な神の御声を聞くことができない歩みの中で、神が示し、教えて下さる方法として、この聖霊の助けによる霊のひらめきが非常に重要だと言えるのです。

* 肉の思いによらず、信仰の思いによって、神がこのような道を選び取るように導いて下さっていると受けとめていくのです。これができない人は、神が教えて下さるように願うことも、その導きを受けとめることもできないのです。


  (2)神の働きかけの多様性

* 詩人は、これまでにも霊のひらめきによって、神の導きと教えとを受け取ってきたと思われます。というのは、進むべき道をどのように教えて下さるのかという、教えて頂く方法にはまったく触れず、ただあなたの示して下さる道を教えて下さいと願い、今の状況の中でどのように対応することが、神の示して下さっている道か、それを教えて下さいとのみ願っていることから分かります。

* その願いをする上において、詩人は、自分がそう願って導きを受けるにふさわしい存在だと思っていたわけではなかったのです。それどころか、ふさわしくない者だと自覚していたのです。だから6節で、「あなたのあわれみといつくしみとを思い出して下さい」と言ったのです。

* ふさわしくない者に対しても、神はすがる者に対してはあわれみを持って接して下さるお方であり、また、いつくしみの心、すなわち弱い者を大事に思う心を持って接して下さる方だと信じていたので、ふさわしくない自分のままで、道を教えて下さいと願ったのです。

* ここに詩人の祈りの姿勢がよく現れています。自分の願いをどうぞ聞き入れて下さい。聞き入れて下さらなければ、あなたは神として失格ですと、自分がそのような要求のできるような、そんな立場にないことを認識していました。

* たえず不信の思いをにじませることもあり、肉の汚れを現してしまう者でしかないこんな私を、本来なら見捨てられ、放り出されても当然な者に過ぎないのに、あなたはそのような私に対しても、あわれみのお心を持って、また、いつくしみのお心を持って、ふさわしくない者を愛で包み、魂を上に挙げる私を大事にして、その願いに耳を傾けて下さっている、そう確信していたのです。

* 詩人にとって、神が助けて下さるのは、神の側の一方的なあわれみのお心によるものであり、弱さを持つこの私を大事にして下さるいつくしみのお心によるものだと受けとめていましたから、祈りは、神のあわれみのお心といつくしみのお心にすがるものでありました。

* しかし、これは私だけが感じ取ったものではなく、神に愛され導かれてきたすべての人々にとっての事実であり、いにしえから変わらない神のご性質であられると言い切ったのです。これは、詩人の深い聖書理解から出た言葉だと言えます。

* 先祖の民もみな、信仰を持って歩む中で、不信をにじませる時もあり、肉の汚れを現して神のお心を悲しませてきたこともあります。しかしそのような民を、神はあわれみのお心といつくしみのお心を持って、ある時は諭し、ある時は叱責し、ある時は赦し、大事な民として養い導いてこられた。この私の上にも変わらない愛を持って接して下さると、聖書の歴史を通して働かれた神と、自分の上に働いて下さる神とを重ね合わせて信頼していたのです。

* この意味で詩人の信仰は、御言葉の上に立ったものであり、聖書の歴史を通して働かれた神の働きかけを疑わず、この私の上にも同様に臨んで下さると確信していたことが分かります。

* これは、聖書信仰の基本であります。たとえば、アブラハムとかダビデなどの上に働かれた神の働きかけを真実だと受けとめ、それと全く同じ形の働きかけが私たちの上に注がれると期待することが聖書信仰なのではありません。

* 彼らの上に示されたあわれみといつくしみが、その時代のその人にふさわしい形で示されたものですから、今の時代に生きる私の上にも、同じあわれみといつくしみを注いで下さり、この私にふさわしい形で教え示して下さると信じることが聖書信仰なのです。

* 神のあわれみといつくしみとを信頼することが信仰なのであって、特定の聖書人物に対する助け方、導きと同じもの期待することは信仰とは言えません。ここを勘違いしてはならないのです。

* 神が注いで下さるあわれみといつくしみとは同じであっても、その助け方、導き方、教え方は、状況により、時代により全く異なったものとなるのです。神の働きかけの奥深さは計り知ることはできません。


  (3)主のあわれみといつくしみに対する絶大な信頼

* このように詩人が切に待ち望んでいたのは、いにしえから変わることなく、主にすがる者に注いで下さる主のあわれみといつくしみとが、今この私の上に注がれるようにということだったのです。

* しかし詩人は、7節で「わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないで下さい」と言いました。なぜ急にこのようなことを願ったのでしょうか。詩人の今受けている多くの敵からの虐げが、神から与えられた試練だと考え、若い時に罪と、とがを現してきた罰として与えられているものだと思ったのでしょうか。

* 神が古い証文を取り出して、借金の取立てをされると思っていたのでしょうか。もしこのように考えていたとしたなら、若い時の罪と、とがと言う表現で,信仰が安定せず、たえず不信仰な思いを持ったり、肉の汚れに思いが引っ張られたりした若い時の借金を、今取り立てられていると考えると、すべての信仰者は、最初から、全面信頼を表すことができていないものですから、同じように、神からの罰というか、試練を受けなければならないことになります。

* 神は、そんなにしつこく覚えておられるお方なのでしょうか。預言者エレミヤやイザヤは、神は罪を忘れて下さるお方だと言っています。エレミヤ書には、「私は彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」と。(31:34、イザヤ43:25)

* 信仰者は、生活上で何か苦しいこと、つらいことが起きると、神による試練だと思おうとすることがあります。思い違いをしてはいけません。ヤコブ書でこう言われています。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神から来たものだ』と言ってはならない。神は、・・・自ら進んで人を誘惑することもなさらない」と。(1:13)神は、罰として人を誘惑されたり、試練を与えたりなさるお方ではありません。

* それでは詩人は、どうして若い時の罪と、とがとを思い出さないで下さいと言ったのでしょうか。考えられるひとつの理由は、今では主のあわれみといつくしみとに対して、全き信頼を寄せています。それ故、信頼し切れなかったあの若い頃の信仰は忘れて下さいという確信に満ちた告白だと考えられます。

* それは、7節の後半で、『あなたのいつくしみに従って、私を思い出して下さい』と歌っていることから分かります。そのような若い時の不信仰と肉の汚れとが消え去らなかったあの頃でも、あなたは私に対してあわれみといつくしみとを持って導き続けて下さいました。

* 今では、あの若い頃と違って、あなたを信頼し、あなたが注いで下さっているあわれみといつくしみによる助けや導きを疑うことなく、罪ととがとはなくなってはいないが、それらは処理されたものとして信仰の妨げにはならず、あなたにすがり続けています。あなたは若い時の借金の証文で取り立てるようなお方ではないことを信じていますという思いを込めて歌ったのでしょう。

* それ故、このことを通して言おうとしたことは、あなたのいつくしんで下さるお心に従って、私のことを心に留めて下さい。あなたは私に対して、ふさわしい働きかけをして下さり、道を教え示し、助け導いて下さるお方ですからという信頼の告白だと言えます。

* 神は、私たちの不信仰と肉の汚れを多く現していた若い頃の信仰を覚えておられ、いつまでも根に持っておられ、忘れた頃に古い証文を取り出して請求なさるようなお方ではありません。

* それ故、私たちもその頃の事を思い出したり、引きずったりしてはなりません。神の側が全部忘れて下さっているのに、いつまでも覚えていることは、神のお心をないがしろにしていることになります。


  (まとめ)信仰によって乗り越える歩み

* 自分の魂を上に挙げた詩人は、自分の知恵による判断力から出た思いはすべて肉の思いだから、それでは正しい判断ができず、信仰によって乗り越えるために、神の知恵によって正しい対処の仕方をしたい、そう願っていたので,主に祈っているのです。

* これは、主があわれみといつくしみの心を持って必ず教え導いて下さると確信していたから、祈ることができた内容だと言えます。

* 聖書信仰に立つ生き方を大事にしてきた詩人は、神が愛する民に示してこられた働きかけは、間違いなく真実であり、そのあり方は、その時代その人に応じた異なったものであっても、そこに示されている神のあわれみといつくしみのお心は同じで、いにしえから変わらないお方であるとの動かない信仰がありました。

* この時の詩人にとって、もっとも大事だと思っていたことは、今どんなに苦しい状況であっても、肉の思いで対処し、乗り越えることをしないで、神の教えて下さる道を聞き取り、信仰によって乗り越えたいと思うことだったのです。

* もし肉の思いで乗り越えたら、人間的な解決をすることによって、肉の思いが強くなるだけで、何の益にもならません。神が教え導いて下さる道を聞く霊の耳を持ち、信仰によって乗り越えたならば、霊が強くされ、神の手の中で安心することができるのです。

* 今日の私たち信仰者は、もっと明確な聖霊の助けを頂く者にされています。御言葉に立ち、御言葉に生き、そこから神の教え導いて下さる道を、聖霊の助けによってしっかり聞き取って、信仰によって乗り越えていく歩みを続けていきたいと思うのです。



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