聖日礼拝メッセージ
2013年2月11日 更新

聖 書 詩篇25:8〜11   (第3講)
   題 「詩人の確かな信仰の根底にあるもの」


  (序)信仰が動じないのは、根底にある神観による

* 自分の魂を神の下に挙げるという信仰姿勢を大事にした向かい方をしていた詩人は、自分の思いの位置に自分の魂を置かなくなったことによって、自分の思いから解放され、神の御思いを第1に考えるようになり、勝利者なる主の御手の中に置かれている平安を得ていました。

* しかし現実には、敵の虐げがやむことはなく、戦いの中におり続けていたのですが、つらいからと言って、苦難から解放されることを求めるのではなく、その戦いを信仰によって対処し、信仰によって乗り越える道を教えて下さるようにと求めたのです。そして主は、それに応えて下さると信じて切に待ち望んだのです。

* 詩人は、助けて下さいと祈り求めるのにふさわしくない者であることを、すなわち、不信と肉の汚れをなお覗かせる罪深い者であることを自覚していましたが、主はあわれみのお心といつくしみのお心を持って私を愛で包み、道を踏み外すことのないように、この私が、肉の思いで反応せず、霊の思いで反応させて下さるようにと願ったのです。

* 詩人が、このように主のあわれみを信じて向かうことができたのは、主が私にとってどのようなお方であるか、主の持っておられる特別なご性質を疑わなかったからだと言えるでしょう。

* 彼が信じていた主のご性質とはどのようなものだと歌っているのでしょうか。この神観が彼の拠り所となっていたと分かります。これを理解することが、詩人の信仰を理解することになると言えるでしょう。

* どのような神観を持って神を見上げ、神を信頼し、与えられたこの地上での人生を生き抜くか、信仰者は、この点が明確になっていないと、ただ現実の状況に振り回されながら生きていくしかないのです。

* その意味で、詩人が持っていた神観は、神ならばこうあって欲しいという自分の願望の思いから出たものではなく、神の下に自分の魂を挙げたことによって、神がどのようなお方であるのか、霊の目で確認し、取り扱いを受けて、体験した者としての告白であったと言えます。

* しかも、この私に対して、そのような神であって下さるという、この私のふさわしくない姿をご存知の上で、それでも大事な子として迎え入れて下さり、豊かなご性質を持って向き合って下さるお方として意識していたのです。

* この確かな神観が、詩人の信仰を動かないものにしていたと分かります。私たちにおいても、自分を捉えて下さっているお方がどのようなお方として受けとめているか、その神観に対する信仰が動かないものとなっているか、この詩を通して考えてみる必要があるでしょう。


  (1)表裏一体の相反する神のご性質

* この詩人が、今置かれている自分の状態において、神はどのようなお方としてこの私に向き合って下さっていると受けとめているのか、ここに2つのご性質を取り上げています。一つは、恵み深いお方だと言い、もう一つは正しいお方だと言っています。

* 第1の言葉から見てみましょう。口語訳で、恵み深いと訳しているこの言葉は、「よい」とか「楽しい」「喜ばしい」という意味を持っている言葉で、これは、神が善なるお方であることを示している言葉です。すなわち、神がよいとみられることが善だと言うのです。

* そのことは、天地創造の記事において、同じ言葉が用いられている用例から見ることができます。「神はその光を見て、良しとされた」(創世記1:4他)と言われたこの良いという言葉が、詩篇25篇において神のご性質として表現されているのです。

* 神は「良い」を実現されるお方、すなわち、私にとって良いと思えることをして下さるということではなく、神の善なるお心に沿って良いと思えることを実現なさるお方だと言っているのです。

* 詩人は、神の働きかけに何の不満を覚えず、神は「良い」をして下さるお方、たとえ自分の目に良い状況、幸いな状況だと写らなくても、神の深いお心から見て良しとされたことなのだと受けとめたのです。これは詩人が、神を、「良し」を実現なさるお方であることを疑わなかったことを指しています。

* なぜ詩人は、そのように思うことができたのでしょうか。人間の思いを超えた神の深い知恵が、聖書の歴史を通して示されてきたことを信じていたからです。

* 確かに、人間に都合のいい導きを与えて下さるお方ではないことが分かります。しかし、神の下にあって幸いな人生を送ることができるように、その深い知恵を持って導かれた主を、聖書の歴史を通して学び取ってきたのです。だから自分の願い通りにならなくても、神の深い知恵によって、もっとも良いと思える道を歩ませて下さっていると信じたのです。

* 神を、善なるお方だと本気で信じているならば、神が良しと思われる道を教え示し、良しと思われることを実現して下さると信じて安心しておれるのです。もちろん、時も神のお心によって良しと定められた時になるのは言うまでもありません。詩人は、自分の状態をすべて知っておられるお方として神を信頼していたのです。

* 第2のご性質は、正しくいらせられるお方だと言っています。この正しいと訳された言葉は、わずかのゆがみもなく、真っ直ぐであること。本来なら、わずかの汚れも許さない潔癖さ、不潔、不正を断じて許されない義なるお方であるという意味であることが分かります。

* すなわち、完全な義なるお方であるから、義なるものしか受け付けないご性質だと言うのです。ということは、罪人は絶対受け入れられないが、ただ神は、罪人であっても、信仰によって義人となる道をあわれみによって残して下さったのです。

* 詩人は、聖書に記されている救済史をよく学んでいた人であったから、アブラハムが、信じるだけで義と認められたことをよく知っていたのです。(創世記15:6 旧16)そして、その信仰に立っていたのです。自分がいかに罪深く、汚れた者であっても、主を信じることによって義と認めて下さっていると確信していたのです。

* それ故、神が正しいお方であると信じていたということは、罪人である全人類は、汚れた存在として排除されるという厳しい一面を持っておられるお方であることを示し、ただあわれみにより、信じる者を汚れの範疇から外して、義に分類し、恵みの中に置いて下さっていることを喜んでいたのです。

* この意味で詩人は,神の優しい一面だけを見ようとしていた人ではなかったのです。人間を御許に引き寄せ、良いと言える者にしたいと道を教え示し、養い育てて下さるお方である面を示すと共に、その反面、わずかの汚れもゆがみも許そうとされない義なるお方としての一面を受けとめており、神の相反するご性質が表裏一体になっていることを信じていた人であったのです。

* それ故、信じて義として頂いている位置をわずかでもずれれば、排除され、見捨てられる怖さをも受けとめていたので、甘えた信仰に立つことはありませんでした。


  (2)神のあわれみから外れないための大事な姿

* 神のあわれみ深い方の一面は、不信と肉の汚れをにじませ、神のお心を悲しませる者でしかない、こんな私さえも、義にふさわしくないにもかかわらず、愛で包み、魂を上に挙げているという一点だけを見て、神は道を示し、救い上げて下さるお方だと示していました。

* その反面、そのあわれみの領域から外れる姿を現すならば、義のご性質が発揮され、排除されるという恐ろしいもう一面を、詩人は受けとめていました。

* この、神のあわれみから外れないための大事な姿とは、第1にへりくだる姿勢を失わないこと、第2は、示された契約とあかしとを守る姿を現すことだと示しています。これが詩人の受けとめた信仰であったのです。

* それでは、第1の大事な姿について考えて見ましょう。へりくだる者というこの言葉は、乏しい者、貧しい者、弱い者という意味を持った言葉で、これは、人の目からではなく、神の目から見てへりくだった姿を現している者のことで、それは自分を低く見せて謙遜さを現すことではなく、自分の低さ、貧しさ、弱さを知って、主の前にぬかずく者の事を指しています。

* なぜ神は、ご自身のあわれみから外れない者が、へりくだった者のことだと考えておられると信じていたのでしょうか。自分の魂を上に挙げた者とは、神と同等の位置に立つことができる者のことではなく、神の前に自分の存在がどのようなものであるかを悟り、主のあわれみを求めてただひれ伏すべき存在であることを知った者として立つことなのです。

* それをこの詩人は、主の前に自分がいかに人間性の乏しい者、貧しい者、弱い者に過ぎず、罪に惹かれやすく、無力で、くだらない者であるかを認識し、主のあわれみなくして立つことのできない者だと知って、主の御前にひれ伏したのです。

* 自分の魂を神の御許に挙げることによって、神のお心が見えるようになるだけではなく、自分の真の姿が見えてくるようにされるのです。神のお心が見えず、自分の真の姿も見えない人は、自分の思いの位置に自分の魂を置いたままにし、霊的盲人として歩むしかないのです。

* イエス様も、神のお心が見えず、自分の真の姿も見えないそのような自分の思いの位置に自分の魂を置き続けている人の状態を見て、次のように言われたのです。「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたに罪がある」と。(ヨハネ9:41)

* 主の前に自分の魂を挙げることによって、自分の真の姿が見えるようになり、迷いやすい者、知恵のない者、無力な者だと知った時、神は義の道を教え導いて下さるのが分かるのです。すなわち、どのように判断し、対処することが信仰によって判断し、対処することか、霊のひらめきを与えて教え導いて下さるのです。

* 自分の真の姿を見ようとしない者は、自分の魂を神の下に挙げることができず、神が教え導いて下さるという働きかけを受けとめることができず、神のお心を知らない者として、神のあわれみの領域から外れてしまうのです。

* 私たちは、自分の貧しさをどこまで見ていると言えるでしょうか。自分の魂を挙げるということは、神の御前に自分をさらけ出すことであり、神のあわれみの中に置いて頂くことなのです。


  (3)契約とあかしとを守ろうとする者

* 神のあわれみから外れないための大事な姿の第2は、示された契約とあかしとを守る姿を現すことでした。この契約とあかしとは、律法において示された神のお心を、2つの面から表現している言葉だと分かります。

* 詩人にとって律法とは、神が私と結んで下さった契約だと受けとめていたのです。律法の中心は、以前にも学びましたが、申命記28章だと言えるでしょう。そこでは『もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。しかし、主の声に聞き従わないならば、もろもろののろいがあなたに臨む』と言われています。(28:2,15)

* もちろん、欠けある人間に、完璧な従い方ができるわけではありません。神もそれを要求しておられるわけではありません。ここは、神との関係を契約関係として受けとめ、忠実に聞き従う姿勢を現すことが求められているのです。

* 自分の人生にとってなくてはならない契約として受けとめて向かうならば、主は祝福の一つとして28:7にあるように、「敵が起こってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち破らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めてくるが、あなたの前で7つの道から逃げ去るであろう」と言われています。

* 信仰をつぶそうとやってくる敵に対して打ち勝つ力を主は与えて下さり、信仰によってその戦いを乗り越え、主の御力による鮮やかな勝利を見させて下さると約束されているのを思い起こしていたのでしょう。

* 契約を大事にする信仰に立ってさえいるなら、神は、契約者に対する保護と援護、助言と助力、信仰によって歩み出すための判別力と決断など、敵に対して打ち勝つためのあらゆる力を注いで、つぶされないようにして下さいます。このように神は、契約者を大事にして下さり、愛の働きかけを惜しまれないのです。

* 律法において示された第2の面を、詩人はあかしと表現しました。これはモーセがシナイ山で神から授けられた十戒を刻んだ2枚の石板を、あかしの板と呼んでいるところからきているのでしょう。(出エジ31:18他 旧121)

* それは、神のお心をあかしするものとの意と考えられますが、詩人が律法の一面をあかしと呼んだのは、神のお心がそこに明確に示されており、それは、私たちの人生を幸いに導く内容であることを表現しているのでしょう。

* 新約時代においては、神のお心は律法から福音に替わり、完成された神の真理のお心をあかしするものとして示されるようになるのです。

* その契約とあかしを、神のお心として守ろうとする者にとって、主が教え導いて下さる道を歩むと、そこには神のいつくしみがあふれており、そこに神の真実を見ることができると歌っているのです。

* これは詩人が、これまで神のお心に生きる者として味わってきた、信仰体験として告白している内容であることが分かるのです。8節の所で歌っていたように、神は善であられ、かつ正しいお方、この神観に対する信仰を持って、自分の置かれている状況を見ていた詩人は、そこに、神は契約者を大事に思って下さっているという思いが伝わってきて、ご自身のお心を明らかにし、その道に歩む者を、神のいつくしみと真実の中に置いて下さっていると感じられたのです。

* どうして詩人は、そこまでの信仰に立つことができたのでしょうか。その理由がすべて分かるわけではありませんが、律法の中に記されている神観を、肉の目や感覚で確認できなくても、間違いのない御言葉に対する動かない信頼があったから疑わなかったのです。

* 今日においても、私たちが、御言葉を守っていこうとする姿を現しているならば、御言葉を通して示されている神観をしっかりと受けとめることができるようになり、肉の目や感覚で確認できなくても、うそ偽りのない神、私を捉えて離さず、神が良いと見られる人生へと導いて下さることを確信することができ、その信仰は揺らぐことはありません。これが、神のあわれみから外れることのない姿だと言えるのです。


  (まとめ)揺らぐことのない神観

* 詩人は、このような揺らぐことのない神観を抱いていたのですが、自分がいかに問題児信者であるか自覚していました。神に忠実に従いたいと願っているにもかかわらず、肉の思いが出てきて、不信と肉の汚れとをにじませるような罪人でしかないことを自覚していたのです。

* しかし、そんな者さえも、神は御名のゆえに、すなわち、あわれみのお心といつくしみのお心を持って下さっているお方ですから、ご自身の善であり義であるという、相反するご性質のゆえに、そのご性質を貫き通して罪を赦し、正しい道に導いて下さると詩人は確信していたのです。

* 自分の魂を神の下に挙げたことによって、神のお心が見えるようになり、自分の真の姿も見えるようになったのです。それによって神観が確立するようになり、揺らぐことのない信仰になり、神のあわれみから外れることのない信仰者として歩むことができるようになったのです。

* この詩人の信仰が示しているものは非常に重要なものです。単なる甘え信仰にならず、かと言って形式的、律法的信仰にならず、神の驚くべき命が流れている生き生きとした信仰に生きており、その神観は生きた力として信仰体験となり、神のいつくしみと真実の中に置かれている幸いを感じ取っていたのです。

* このことは、新約時代に生きる私たちにおいても大事な信仰であり、旧約の律法よりもさらに優れた完成した福音として示されている御言葉の中に生きることができるようにされているのです。その確かさ、すごさを味わうことができるようにされている幸いをしっかり味わう信仰に立ち続けたいと思うのです。



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