聖日礼拝メッセージ
2013年2月18日 更新

聖 書 詩篇25:12〜14   (第4講)
   題 「主を畏れる信仰に立っているとの確信と告白」


  (序)見える結果に左右される思い

* これまで学んできたことを土台にして、今日の内容を理解していく必要がありますから、簡単に要約し、詩人がどのような状況の中で、どのような思いを持って歌っているかを考えて見ましょう。

* 詩人は最初に、自分が今立っている信仰は、自分の魂を神の下に挙げるという、そのような信仰的生き方を重んじていることを第1に告白してきたのです。

* この比喩的表現が理解しにくいので具体的に解説しますと、神を思う時を持ち、御言葉を読んで黙想し、祈り、礼拝をささげ、霊の交わりするなど、雑念を持たず、人目を気にせず神と向き合うすべての状態は、自分の魂を神の下に挙げていることになるのです。

* この向かい方をしているならば、勝利者であられる神が、信仰者を大事な子として責任を持って教え、助け、導いて下さると心底信頼し切って歌っていたのです。

* もちろん、信仰を持っているがゆえに、大事な子として見て下さっているのですが、しかし現実の自分は、救われても肉の思いになお振り回され、肉の汚れを見せ付けられ、お世辞にも神の子と言えるような者とは思えない姿を見せられていたのです。

* にもかかわらず、御言葉に信頼を置いて学び続けてさえいるならば、神の教えと導きと働きかけを受けることができ、あわれみといつくしみのお心を持って、育てて下さると確信していることができたのです。

* それは、詩人の抱いていた神観が、現状がどうであろうと、全く揺るぎないものとなっていたから、今の置かれている状況を嘆かず、信仰によって判断し、信仰によって対処することにより、戦いを乗り越えようとしたのです。すなわち、神は「良い」を実現なさるお方、神の深い知恵を持って、神のお心に沿った最も良い導きを与え、それを実現して下さるお方であることを疑わなかったのです。

* こうして詩人は、神のあわれみの領域から外れない姿を現そうと心を傾け、神との契約関係の中に置いて頂いている幸いを見失わなかったのです。

* このようにして見てみると、詩人の信仰は、完璧な信仰のように見えるのですが、心の中に全く惑いがなかったというわけでもなかったようです。

* 主に信頼して喜び、主が勝利を与えて下さることを確信していたにもかかわらず、時には、肉の思いが自分に語りかけ、本当にそれで大丈夫なのか、とささやく声を聞いて、フッと迷いの心が出ていたように見受けられるのです。

* それは、現状がばら色で、何の問題もなく、無事平穏で、何の心配事も、心乱されることもない状態に置いてもらっているわけではなかったからです。敵の攻撃も、「お前の神に対する信仰が正しいと受け入れられているなら、もっと幸いな人生を送ることができるはずだ。お前の状態を見れば、お前の信仰はまやかしで、自分の都合のいいように思っている信仰に過ぎない」と責め続けていたのでしょう。

* 人間は、見える結果によって思いを左右される存在です。世的繁栄、世的安泰、世的平穏などが十分に与えられている人生に見えない時、それでは神によって祝されているとは言えないのではないか、その信仰にどこか問題があるのではないか、と外の声、内の声がささやき、心をゆすぶられるのです。時にはその震度がマグネチュード7か8位の時もあるのです。

* もし見える結果に思いを左右されない、耐震強度の方がはるかに上回っているなら、ゆすぶられることはないのですが、人間は、心のどこかにその思いが見え隠れして、完全に消すことができないので、フッと心に迷いが起きるのです。詩人はこれをどのように乗り越えたのか、ご一緒に考えてみることにしましょう。


  (1)誰が主を畏れる信仰に立つ者か

* 詩人は12節になって、突然疑問を投げ掛けています。「主を恐れる人はだれか」。この恐れとは、怖がることではなく、畏れ敬う意味の言葉ですから、畏れるという字を当てはめる方がいいでしょう。

* なぜ突然、このように疑問を投げ掛けたのか、その理由を考えてみる必要があります。考えられる背景は、詩人の信仰を非難していた敵がいたことが、3節の表現から分かります。具体的には分かりませんが、恐らく、「あなたの信仰はおかしい、もしあなたの信仰を神が正しいと受けとめておられたなら、もっと幸いにされるだろうし、人が離れていくはずがない」と言って、神に祝されているとは言えない、目に見える結果の伴わない詩人の状態を見て、その信仰を非難していたのでしょう。

* 詩人の思いの中に、そのような見える結果に対して、わずかの迷いもなかったとしたら、そのような非難に対して、心揺さぶられるようなことはなかったでしょう。しかし、心のどこかに、「神様はもっとこうして下されば、ほっとできるのに、どうして助けて下さらないのか」と思う思いが潜んでいたのだと考えられます。

* これは、信仰を持っても、肉の思いを完全に処理し切れない人間の大きな欠陥部分だと言えるでしょう。神も意地悪な所があって、そのような、見える良い結果を求める肉の思いを揺さぶる状態にあえて置かれることがあるのです。どこまで耐えることができるか、様子を見ながら、信仰の思いが勝るように導かれるのです。

* この詩人も、敵の攻撃がなければ、そこまでの迷いの心が引き出されなかったと思われますが、彼の内側に潜んでいたわずかな迷いが、敵の攻撃をきっかけに引き出されたのでしょう。

* そこで詩人は、その肉の思いを断ち切るかのようにして、叫ぶように疑問を投げ掛けたのです。「神を畏れる信仰に立っているのは、私を非難する彼らの方か、それとも孤立している私の方か、人間の目ではなく、神の目によって正しい判定を下して下さるように願ったのです。

* 敵は、多数であることを根拠にして、自分たちの方が神の祝福を受けていると言って正当性を主張し、人間に受け入れやすい方が神の知恵にふさわしいと考え、これは、神が正しいと認めておられるから、このような良い結果が出ていると言うのです。

* しかし、詩人の思いは、人間が良いと判断することイコール神が良いと判断されたこととは考えなかったのです。すなわち、良い結果イコール神が承認して下さったことだとは思わなかったのです。

* 詩人の方が正しい信仰か、そうでないかの見分ける基準を、神を畏れる信仰かどうかという点において、神は判定なさると言ったのです。神を畏れるとは、神の偉大さを認め、その威光の前にぬかずくことでありますから、これは信仰の基本であり、中心であると言えるでしょう。

* 詩篇において、神を畏るべきお方であることが多く歌われています。たとえば139:14では、「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく(畏るべく)くすしき方だからです」と歌っています。その偉大さ、神のすごさの前に、自分の小ささを思わされ、深い畏れの念に捉えられている信仰者の姿が、この言葉の中によく言い表されています。

* そして、この告白の中には、神だけを畏れ、人を恐れないという思いが含まれていたと感じられます。その代表例として申命記7:21に、「あなたは彼らを恐れてはならない。あなたの神、主である大いなる恐るべき(畏るべき)神があなたのうちにおられるからである」と語られています。

* すなわち詩人は、この私こそ主を畏れる者、人を恐れず、状況を恐れず、主だけを畏れる者であることを、神が判定して下さる、そう確信して訴えたのだと考えられます。


  (2)主を畏れる信仰に約束されている4つの点

* なぜ詩人は、自分の方が正しい信仰に立ち、主を畏れる信仰に立っていると確信できたのでしょうか。それは、主を畏れる信仰に立っている者に、神から与えられると約束されている4つの点に目を留め、それらのものは、自分に与えられているからと確信できたのでしょう。


(その1)善の中に宿っている

* その第1は13節の前半です。「彼はみずからさいわいに住まわっている」と言いました.原文をそのまま訳すと、「彼の魂は、善の中に宿っている」となります。口語訳でさいわいと訳しているこの言葉は、その意味もあるのですが、8節にも使われていた善という言葉で、神は善なるお方、神は「良い」を実現なさるお方だという意味であったことを学びました。

* この13節では、神を畏れる信仰に立っている人は、「良い」を実現なさる神のお心を信頼し、その神のお心の中に宿っている人、そこが居場所だと受けとめ、神が「良い」を実現して下さることを信じ切って安住していると言っているのです。

* この信仰の難点は、今が、自分にとって良いと思える状態とは限らないという点です。時には厳しく、時にはつらい状況の中で、先に光が見えない状態の中で、それでも神が、ご自身のお心に沿って「良い」を実現して下さると信じ続けることができるのか、求められるものだからです。

* 詩人は、主を畏れる信仰に立っていました。すなわち、神の偉大さ、その知恵の深さ、すべての点におけるすごさの前に、何の文句を言える立場ではなく、要求できる立場でもないことを十分認識していたので、神が、ただあわれみといつくしみのお心を持って、「良い」を実現して下さるお方だと信じていたのです。

* 主を畏れる信仰のない人は、いつも主に不平不満を漏らし、要求するばかりで、恵みを十分だと受けとめて感謝することもしません。それは、自分の肉の思いが中心だからです。自分の魂を自分の思いの位置に置いたまま歩んでいるから、自分の立場が見えず、神の偉大さの前にぬかずくことをしないから、神に要求するのです。

* どうして詩人は、自分は「良い」を実現して下さる神のお心の中に宿っていると言えたのでしょうか。見える形の宿る場所があったわけではありません。しかし詩人は、信仰によって、神がお心に沿って「良い」を実現して下さるお方であると信じることによって平安を頂き、神の御手の中に置いて頂いている安心感を得ることができたのです。これが善の中に宿ることなのです。


(その2)約束の御国を受け継ぐ

* 第2は、13節後半です。「そのすえは地を受け継ぐであろう」と言いました。これは、神を畏れる信仰に立つ者の子孫は、神が約束して下さっている地を受け継ぐことになると言っているのです。

* もちろんこれは、子孫のことですから、本人のことではなく、その信仰が後の子孫に大きな影響を及ぼし、受け継がれて行って、子孫も約束の地を受け継ぐようになると言っているのです。

* 地を受け継ぐとは、神によって約束された賜物を頂くことで、この当時において、直接的には約束の地カナンのことでありましたが、その内容は、時代が進むにつれ精神化され、拡大化され、最終的には約束された御国の相続者とされることが語られるようになるのです。(ヤコブ2:5)

* 受け継ぐという動詞は、繰り返し行われる行為を表す動詞が用いられており、神を畏れる信仰に立つ者はもちろんのこと、その信仰を受け継ぐ子孫一人一人も同様に約束の地を受け継いでいく者として神に承認され、最終的には、みな約束されている御国を受け継ぐ者として受け入れられていると言うのです。

* この詩人にとって、子孫が約束の地を受け継ぐかどうか分かるわけではありません。ただ御言葉を通して、聖書の歴史を通して働かれた神の働きかけを見て彼が学んできたことは、神を畏れる信仰に立つ者が、この地上にあって神の国に生きている者のように生かされ、終わりの日には完成された御国に入れて頂けるという保証を頂いて歩んでいる御言葉を通して、神は、神を畏れる者に対して間違いなく約束の賜物を与えて下さると確信していたのです。

* これは、神を畏れる信仰に立っている者は、必ず御国へ迎え入れて頂けることが、聖書の歴史を通して受けとめることができるので、神の御言葉に信頼を置く者にとっては、御国を受け継ぐという約束は、間違いない事実として保証を頂いていることになり、すでにその味見をしている者として、希望に生き続けることができることを述べているのです。


(その3)奥深い神のお心と結びつく

* 第3は、14節の前半で、「主の親しみは主をおそれる者のためにある」と言っています。主の親しみとは、別訳で、主との親しき交わりと訳されているように、神を畏れる信仰に立つ者を、神は、ご自身と深い交わりを持つ存在として迎え入れて下さるので、その交わりを喜び、その交わりによって上から流れてくる神の御力を頂き、その交わりに育てられながら、地上にあって歩むことができると言っているのです。

* しかし、この言葉は、交わりという意味だけではなく、もう一方では「計画、秘密」という意味を持ち、主を畏れる信仰に立つ者は、御心の奥深い秘密を受け取ることができると理解することもでき、どちらであるか決め難いと言えます。

* もし、御心の奥深い秘密のことを意味しているとしたら、主を畏れる信仰に立つならば、神は人間の知恵では理解できない神のお心を見えるようにして下さり、今生かされている信仰人生のさいわい、素晴らしさと共に、終わりの日の後に用意されている人生のさいわい、素晴らしさを見ることができる霊の目が与えられ、現状に振り回されることなく、神が与えて下さっている永遠につながる祝福の人生を、確信して生きるようにされると言っているのです。

* どちらの意味であれ、主を畏れる信仰に立つことによって、奥深い神のお心と結びつき、そこに信頼を置いて歩むようにされ、自分の思い、自分の知恵に結びついていた自分の魂が、自分の思いから解放され、神の御思いを大事にし、神の御思いによって守られ、導かれている向かい方をするようになったと詩人は確信できたのです。

(その4)私の神となって下さる契約

* 第4は14節の後半で、「主はその契約を彼らに知らせられる」と言いました。これは、神が、神を畏れる信仰に立つ者との間に結んで下さった契約が、どれほど素晴らしいものであり、恵みに満ちたものであるかを教えて下さると言っているのです。

* 神が結んで下さった契約、それは一方的なあわれみといつくしみのお心によって結ばれた約束型契約と、人間の側に義務履行が条件付けられている律法型契約と2種類あることが聖書に記されています。

* 前回学んだ10節の所では、契約とあかしを守るとの表現で,律法型契約のことが考えられていたのでしょう。これは、モーセと結ばれた律法による契約のことですが、それよりも430年も前に立てられたアブラハムとの間に立てられた契約があって、これが約束型契約であって、この契約は、後にできた律法型契約によって破棄されることはなく、神はこの契約を貫き通されたとパウロは断言しています。(ガラテヤ3:17,18)

* 詩人も14節の所では、約束型の契約をイメージして歌ったものだと考えられます。これは、13節後半で「そのすえが地を受け継ぐ」と言い、14節前半で主との親しい交わり、あるいは御心の奥深い秘密などを教えられるとの表現から、創世記17:7で立てられた契約を念頭に置いていたことが感じられます。

* 神はアブラハムに対して、「私はあなた及び後の世々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし,あなたと後の子孫との神となるであろう」と言われました。その後定められた割礼は、守るべき義務としてではなく、契約のしるしとして受けさせられたものです。

* それ故、詩人が思い描いていた契約とは、私の神となって下さるための契約のことであって、これを明確にして下さると言ったのです。詩人は、主を畏れる信仰を大事にしていたので、主の大いなる威光の前にぬかずき、そんなお方が、私の神となって下さっているというすごい事実に、心を躍らせていたのでしょう。

* 契約対象として、私の神となって下さり、外側の敵から守り支えて下さるだけではなく、内側の敵にも惑わされたり、引き落とされたりしないために、神は驚くべき知恵を持って教え、導き、御手の中に置いて育てて下さると信じて、心穏やかでいたのです。


(まとめ)4つの約束を自分のものとしているか

* 詩人は、敵が、私の持っている信仰が正しくないと言って攻撃してきた時、私の信仰は果たしてこれで正しいのか、自分の思いで作り上げたものではないと言えるのか、そのような思いが湧き出て、敵の言葉に少し動揺させられる所があったのかもしれません。

* 確かに多数派ではないし、人間的に納得しやすい内容ではないし、神の働きかけによる結果が、見える形でないことも確かだから、信仰が正しくなく、神に受け入れられていない証拠だと責めてきた言葉に、強く反論できない思いが起きたのかもしれません。

* しかしその一方、そのような結果で、人間的感覚によって判定するべきではなく、神がご自身の基準によって判定なさるという信仰の思いが勝って、神を見上げたのです。

* 神が導かれた信仰は、神を畏れる信仰でありますが、その信仰に立っているかどうかは、神から約束された4つの点を自分のものとして受けとめ、確信できているかどうかにかかっているとの思いが起こされてきたのです。

* 第1は、「良い」を実現なさる神を信頼し、その神のお心の中に宿っているという事実を喜び、その信仰の力にあふれているか。第2は、自分だけではなく、その信仰を受け継ぐ者はみな、約束された御国の相続者とされているという希望に喜び踊り、その信仰で今の歩みが支えられ、感謝の歩みになっているか。

* 第3は、奥深い神の御心と結びつき、そこに信頼を置いて歩み、自分の思いから解放され、神の御思いに沿って導かれていると確信しているか。第4は、私の神となって下さるために結んで下さった契約の素晴らしさを喜び、神の御手の中に置いて導き、育てて下さっていると信じているか。

* 主を畏れる信仰に立っているならば、神の側で用意して下さったこれらの4つの約束を自分のものとして受けとめ、確信でき、平安を頂くことができる。詩人はそうはっきりと言い切ることができたのです。自分の思いを守るためではなく、神の御思いを守るために、御言葉に忠実に向かってきたこの私の信仰は正しいと断言したのです。

* 今日においても、私たちの持っている信仰を非難しようとする敵の存在は、外側にあり、福音から外れたキリスト教が無数にあって、真理の福音を非難します。また私たちの内側にも敵があります。信仰に確信が持てず、この正しい信仰に生きるという強い思いを持てないならば、神を畏れている信仰とは言えず、内側の敵にやられている状態だと言えるでしょう。

* 私は、この信仰に立たせて頂いている。信仰に立つことによって、約束されている賜物を受け取っている喜びと確信に満ち、もはや偽キリストとその配下の言葉に惑わされることはありません、と言い切る大胆な信仰告白に立つことができるのです。

* このような告白をすることは、人間的に傲慢になることではありません。神の偉大さと真実な知恵を信頼していることであり、神の奥深い秘密を崩されないように守ろうとする、神を畏れる信仰に立つことだと言えるのです。



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