(序)信仰者は主に訴える必要はないのか
* 詩人は、自分の内側に湧き出てきた迷いの思いから、完全に吹っ切れるようにするために、「主を畏れる信仰に立っているのは、私を攻撃している彼らの方ではない。神が約束して下さった4つの事柄を受け取って歩んでいるこの私の方だ」と自分に言い聞かせたのです。
* この、神が約束して下さった4つの事柄は、敵たちが主張する多数派や、人間の知恵で納得しやすい内容や、見える形の良い結果などではなく、神のお心の中に宿っている確信、御国の相続権取得、神のお心との結合、私専属の神となって下さった契約の実現などで、これらの4つの事柄は、すべて霊的な事柄でありました。
* 主を畏れる者としての信仰に立ち、神の御前に立つのにふさわしくない自分の姿を自覚しつつも、主のあわれみにすがり、神の御許で、神をいつも見上げていた詩人でありました。
* その詩人が見ていた自分自身の2面は、一面は霊的にはあなたの下に置いて頂いて、こんなにも平安を頂いていると喜んでいました。しかしもう一面は、この私の魂(心と身体)は、地上にあって敵の手に押しつぶされそうになっていて、苦しみもがいている状態であったのです。
* 神は、この私の状態をすべてご存知であると詩人は信じていたのでしょう。けれども、神の導きと助けとの中にあると信じつつも、先が全く見通せないこの現状が、心と身体を押しつぶさんばかりに迫ってくるので、耐え難く、絡みついた敵の網から助け出して下さるようにと願わずにはおれなかったのです。
* ここに、信仰者の信仰の葛藤があったと言えるでしょう。一方では、神はすべてを知って下さっていると思いながら、もう一方では、お願いしなければ主は、私の状態に目を向けては下さらず、助けて下さらないと考えて訴えています。これは矛盾ではないかと思わされるのです。
* それでは、神がすべてをご存知なのだから、信仰者は何も訴える必要はないのでしょうか。また、訴えてはならないのでしょうか。これは、祈りにおいても同様のことが言えます。神は、私たちが祈らなくても、私たちの心の中にあるすべての思いをご存知であるから、本来なら祈る必要がなくなってきます。にもかかわらず、たえず祈るようにと勧められているのです。矛盾と言えば矛盾です。
* 確かに、神はすべてをご存知でありますが、信仰者は、大事な信仰的行為として、神に向かって祈る必要があるのです。すべてのことを口に言い表せなくても、真剣に神に向かって心を注ぎ出す必要があるのです。
* この受けとめ方から考えると、神に向かって訴えると言うことは、神が何もご存知ないから、言わなければ分かってもらえないと思って訴えるのではありません。神がすべてをご存知であっても、信仰者は、大事な信仰的行為として、主のあわれみと助けとを求めて訴える必要があるのです。
* それでは、何でもかんでも少し苦しめれば、これ以上苦しむことがないようにして下さいと願うべきなのでしょうか。このことについて、詩人がどのような思いと信仰によって願い求めているのか、私たちの信仰に関係する事柄として共に考えてみることにしましょう。
(1)すべては信仰を育てるための働きかけ
* たえず神の御許に立ち返ることが、この詩人の大事にしていた信仰的歩みでありました。1節の所では、自分の魂を神の下に挙げますと言い、2節では、主に信頼しますと言い、主が私に必要なことを教え、導き、助けて下さるお方だと信じて主の前にぬかずいていたのです。
* これは、神の偉大さとその威光の前に畏敬の念を抱き、このお方から離れるなら、私の人生は敵の手の中で振り回されるしかない、神の手を離れた風船のようになってしまうと分かっていたからでしょう。
* だから15節で詩人は、「私の目は常に主に向かっている」と言いました。これは、目をあなたから逸らすことはありませんと言って、私の人生は、自分に、あるいは自分の思いに目を向けてはいません。いつもあなたにだけ向けているのですと言っています。
* もちろん、地上における人生を生きているのですから、肉の目によって四六時中主に目を向けていることができるわけではありません。これは、信仰の目、あるいは霊の目によってあなたに向かい、あなたから目を逸らすことはありませんと言っていることが分かります。
* 人間は、目を向ける方向に関心を寄せます。詩人は、神がこの私のために何をして下さるのか、大きな期待を寄せて目をそこに向けていたのです。それは、今の私の状態は、主があわれみによって助けの手を伸べて下さっている状態だと確信していました。それ故、信仰を持って、助けを求めることが大事だと考えたのです。
* それでは、この詩人の信仰の目は、自分自身の状態をどのように見ていたのでしょうか、どこまでが与えられた状態を受け入れるべき状態であって、どこからが神の助けによって苦しみを軽減させて下さるように、あわれみを注いで下さいと願い求める状態だと判断していたのでしょうか。
* 人間は、人によって、自分が耐えられる限界を手前の方に線引きする人もいれば、つぶれる限界いっぱいいっぱいの所で線引きする人もあります。パウロも、「神は真実である。あなたがたを耐えられない試練に会わせることはない」と言っています。(Tコリント10:13)
* この詩人の場合、足が網に(敵の策略に)絡まって抜き差しならない所までになっていたのでしょう。言わばつぶれる限界いっぱいいっぱいの所で線引きしていた人のようだと分かります。
* 慎重に、早めに線引きする方がいいのか、それともぎりぎりまで耐える方が信仰的なのか、どちらでしょうか。このことを考えるには、すべてをご覧になっておられる神の御思いを考えてみる必要があります。
* 神は、ご自身に信頼を置いて歩んでいる者のためには、もっとも良い道を歩ませようとして下さるという神信仰の土台を基本に置いて考えなければならないでしょう。(サムエル下7;28 旧442)
* と言うことは、厳しい戦いがあるということを考えてみると、神は信仰者の上に戦いが起きてこないように、すべて保護されるというのではなく、戦いが与えられていると言うことは、それを受け入れると言うことが、信仰者にとって、信仰が育てられるための重要な道として通されていることであると考えられるのです。
* 信仰が育てられるために置かれた、人間に耐えることのできる限界が一人一人異なっているので、人間の側ではどこが限界か見分けることはできないと分かります。
* それでは、私たち自身が自分の限界をどのように判断して、それより前だったら主の助けを願わないで忍耐し、それより後の耐え難い状態になったら、主のあわれみにすがって願い求めるべきだと言うのでしょうか。限度を正しく判断できる人は一人もいません。神が判断され、忍耐させられる時と,助ける時とを決定されるのです。
* それ故信仰者は、自分の限度が見えないが故に、判断は主にお任せし、必ずしも正しいとは言えないが、自分の信仰的判断で、主に助けを願い求めればいいのです。そして信仰者は、導かれた結果から神のご判断を受けとめ、これが、私の信仰を育てるために置かれている状態だと受けとめればいいのです。
* 結論を分かりやすく言えば、信仰者はどのようなことでも神に願い求めてもいいのです。しかし、自分の願った通りに神がして下さらない時、神に対して失望するのではなく、その時に示された神のご判断を信仰によって受けとめ、助けがないからと言って、神に不平不満を漏らさず、助けがあった時には、これが私の限度だと神が判断されたから助けて下さったというあわれみのお心を喜んで受けとめ、主に感謝の心を表せばいいのです。
* 見える形の主の助けを頂くことだけが、信仰を育てて下さる主のみわざなのではありません。たとえば、子供のためにと思って、何でもかんでも手を出しすぎる親は、子供を育てているのではなく、自分が、待つことができないから、手を出してしまうのです。子供を育てるためには手を出す時、出してはならない時、手だけではなく、口もそうですが、それを見分けることができない親は、子供が育たないばかりか、親も育ちません。
* 主の助けが見えず、忍耐しなければならない状態に置かれることも、信仰を育てて下さる主のみわざなのです。と言うのは、主も簡単に助けの手を伸ばす方が楽なのです。しかし、それでは信仰が育たないと分かっておられるから、簡単に助けられないのです。時折助ける方が、ありがたみがあるからそうなさっているのではありません。
* 勘違いしてはならないことは、見える形で主の助けを頂いた時だけを、主の働きかけによるものだと思わないことです。そうでない時も、信仰を育てるために手を出されない働きかけをして下さっているのです。信仰を育てるためにもっともいい時、言い働きかけをなして下さるのが神様なのだということを知らなければなりません。
(2)主のあわれみのお心に期待する
* 主のあわれみを求めて願う詩人の期待の仕方が、ここにはよく表れています。期待するとは、自分の願っている結果、自分の願っている時を、神に押し付けて要求し、要求通りの結果や時でないとすぐに失望するという向かい方をすることではないのです。
* 主のあわれみを願い求めるとは、神の深い考え方と慈愛に満ちた神のお心に沿って事を進めて下さいと神のお心に、自分のすべてをお任せすることであって、大事なことは、願い求める内容が神のお心にかなっているかどうかではなく、主が、ご自身のお心に沿って働いて下さることへの期待を表す信仰的向かい方が求められているのです。それは信仰を育てるための働きかけなのですから。
* 人間はどうしても、神のお心通りになるようにと期待するよりも、自分の願い通りになることを期待し、はっきり分かる形で神の働きかけがあって、助けられ、守られ、強くされる経験をしたいと願う心に縛られているものです。
* この心が強いと、神に期待するのではなく、神に要求する思いの方が強くなってしまいます。神がご自身の御心に沿って事を行われるのは、信仰者の信仰を育てるためであるという事実を決して忘れてはならないのです。
* しかし、ここに理解しがたい聖書の記事があることも思わされるのです。神がお決めになり、それが最も良いと考えて出された答えを、ヒゼキヤ王が必死になって泣いて祈った所、彼の生涯の終わりを15年延ばされたというのは、どう理解すればいいのでしょうか。(列王記下20:1〜11 旧553)
* 人間の側が必死になって願い求めたならば、神は深いお考えを持って定められたご計画も、いとも簡単に変えて下さるということでしょうか。これは難しい問題です。
* 考えられる一つの受けとめ方は、神の定められたご計画が、人間にとって運命のようにして定められたものではないと言うことです。すなわち、神のご決定には幅があって、ヒゼキヤ王に、預言者を通して彼の終わりの時を教えられたと言うことは、それによって彼がどのような信仰的反応を示すか見ようとされたと考えられることです。
* ヒゼキヤ王が、泣いて主のあわれみを求めて祈った姿を見られて、もう一つの御心を示されたと考えることができます。すなわち神のご決定は、動かせない定めのように、人間に押し付けられるようなものではなく、その人の信仰状態に応じて判断なさるという、幅の広いものだと受けとめるべきでしょう。
* この理解からいくと、苦しみや悩みを受ける経験というのも、すべての人が必ず通るべきものとして定められているというのではなく、神のなさるすべてのことは、信仰者の信仰を育てるためになして下さっていることですから、信仰者のその時々の信仰による反応を見て、苦しみを時には和らげたり、避けることができるようにされたり、その状態に応じた幅の広い決定を下され、そこを通されると言っていいでしょう。
* それでは詩篇に戻りますが、この詩人は、どのような思いで神に願い求めたのでしょうか。詩人の思いを理解するヒントは18節にあると言えるでしょう。
* 彼は、私が今受けている悩みと苦しみとがどれほどのものか、主よごらん下さいと、自分の現状がいかに大変なものであるかを訴えているのです。その後、「わたしのすべての罪をおゆるしください」と付け加えています。この言葉には、罪を取り上げて下さい、あるいは取り除いて下さいという意味も込められている言葉です。
* 前後の内容から考えてみて、ここは自分自身の中に、どろどろとしたどす黒いものがあって、そんな私が、苦しみを和らげて下さるように主にお願いできる立場にはないという、罪の深い自覚があったのだと考えられます。
* それは、自分の心の中に、主に全面的に信頼できない心が潜んでいて、疑い、不信、汚れた心などが見え隠れしているのに気づかされており、主にその罪を取り除いて頂くことによって、罪のない者の願いを聞くかのようにして私の願いを聞いて下さいと願っているのでしょう。
* 自分の中にある罪の心を、自分自身で処理できないもどかしさ、肉の思いの汚れ、主に信頼し切れない弱さ、これらは主によって、私の魂の中から罪を取り上げて、罪のない者のように見て頂くしか方法がないことを、詩人は認識していたのです。
* それ故、この詩人が願い求めているのは、主のあわれみにすがり、一方的な愛によって私に目を留めて下さり、少しでも、より信仰によってあなたに向かうことができるように、私の状態に目を留めて下さり、私の信仰を育てる働きかけをして下さいという、あわれみの神への期待を表していると言うことが分かります。
* 神への期待、それは本来自分が、期待を表すことができる立場にないことを認識しながらも、私の人生を大事に思って下さり、信仰を育てようと心を傾けて下さっている神のあわれみに対して期待することだと言うことを、しっかりと受けとめていなければならないのです。
(3)神の手の中に置かれている確信
* 詩人は、神のあわれみに期待して、(15節)敵の網から助け出して下さることを願い求め、(16節)私のつらい現状を見て下さることを願い求め、(16,17節)助けてくれる友がなく、一人で悩み苦しんでいるその戦いを和らげて下さることを願い求め、(20節)敵の手によって辱められないようになどと、願い求めたのです。
* その上で、21節において、「誠実と潔白とがわたしを守ってくれるように・・・待ち望んだ」のです。もちろん、詩人が、この私は主に対して誠実で、欠けがなく、潔白に生きています。その生き方が私を守ってくれるように、と自分を過信して語っているのではありません。
* 主を信じるだけで、神はこの私を神のものとして、(誠実な者)完全な者だと判定して下さり、(潔白な者)正しい者だと判定して下さる、それが私の武具となり、守りとなると言ったのです。
* すなわち、神から完全な者、正しい者と見て頂いているということは、神に受け入れられ、神のものとされているという信仰が、外からの攻撃から守られる盾となり、内側からの攻撃による動揺、不安、疑いなどからも守られると言うのです。
* なぜそう言えるかと言いますと、神に受け入れられたことによって、神の手の中にある歩みが始まり、神の手の中に置かれているとの確信が、神の力に満たされる原動力となり、あらゆる状況を乗り越える保証となるからです
* 詩人は、神の手の中に置かれているとの確信を持つことができたので、見える形で助けがあってもなくても、神の助けと守りの働きかけを頂いている状態だと思うことができたし、安心しておることができたのです。すなわち、魂においては戦っていましたが、霊においては平安を頂いていたのです。
(まとめ)戦いの地における信仰者の歩み
* この詩人の苦しみ、悩み、戦いは、非常に厳しいものだったことが伺われます。信仰を持ち、神の偉大さの前に畏敬の念を持って歩んでおり、たえず自分の魂を神の下に挙げ、いつも主を見上げて歩んでいたにもかかわらず、神の守りと助けがないかのように、どうしてここまで苦しみの中にあえがなければならなかったのか、不思議に思わされるのです。
* と言うより、信仰を持ったことによって、信仰の敵が出てくることになり、苦しみを受けるようになったと見られ、そんなに苦しまなければならないのであれば、信仰を持たなかった方が楽だったのではないかと思う心が起きてくるのです。
* 神には、信仰者を助ける力も、守る力もないのでしょうか。勘違いしてはならないことは、神は信仰者を世から取り上げて、無菌状態に置こうとされたのではなく、汚れた世から救い上げた上で、再び世に遣わされるのです。
* それ故、そこは戦いの地であり、信仰をつぶそうと働きかけてくる悪の巣窟であるのです。神は信仰者を悪の巣窟の中に放り投げられるのではなく、見えないご自身の御手の中に置いた上で、世に遣わされ、世と接し、世の働きかけを乗り越え、神の御手の中にあるさいわいをあかしすることによって、神の御手の中に、他の人をも招くように世に置かれたのです。
* そのために、信仰者を強くしようと、あらゆる状況を用いて、信仰を育てながら導いておられるのです。
* それは、時には厳しい戦いの伴うものであったり、つらい経験をさせられるものであったり、一人一人の受けるものは異なっていますが、比較できるものではありませんから、その人が受けるように導かれている戦いにおいて、時には耐え、時にはその戦いを逃れさせて下さるように願い求めるようにされているのです。
* 信仰が育てられていかない人は、神の働きかけを無駄にしている人だと言えるでしょう。あわれみ深い主の働きかけを願い求め、すべての事柄に対して、信仰によって反応していくように自分を明け渡していくなら、神は取り扱って下さり、信仰を育てて下さるのです。